海的女儿・1987 (後)

 

 

 

三度目は必然。「二度目の偶然」が菊の手に寄らず成ってしまったため、次の機会は練る必要がある。そして、可能であれば、色々な嘘を曖昧にぼかす薄闇の中で会話をしたい。飲酒解禁が21歳という州法が憎い、アルコールの力を借りれば自分でももっと自然に笑いかけられるかもしれないのに。
思惑の全てを隠し通して、いくつかの質問ができればいいのだ、 ただ、知り合いになれればいい。彼を誘惑しようなど思っていない。そんなのは無理だと初日に悟った。海千山千の世界会議では若造扱いされるアルフレッドだが、この国では立派な有権者で、しかも男ぶりもいい。もてるのも当然で、張り込んで作ったリストには複数人のガールフレンドの名があがっていた。特別な関係にある人はいない ようだけれども、そもそも彼に好まれるようには、この顔体はできていない。この顔に高い鼻がついても不似合いだし、このぺらい体に胸を盛っても不格好だし。
――どう姿を変えようと、もともと不釣り合いなのだ。
考えながらのスケッチはタッチがざらついて気にいらず、斜めの線を引いて昼食を買いに出ることにした。
スタンドのいいところは、商品を指させば英語を話さずともものがかえるということだ。無愛想の詫びに可能な限り笑みを作る。手を振るおじさんに振り返し、向き直ったところで壁にあたった。
とっさに「すみません」と言いそうになる。

「わーお、これはもうロマンティックではないね、ロマンだね」

<Alfred…>
指文字で示せば、Yesと笑顔が返る。
「一緒に食べよう、ちょっと待ってて」
言い置いてスタンドに向かったアルフレッドに、菊は困惑の目を向けた。近づきたいとは思っていた。だけど、第一幕から菊の脚本を離れた舞台はどこに転がっていくのか全く見えない。何より――密偵の心情が、こうも冷静さを欠くものではなかった筈なのに。
「お待たせ」と戻ってきたアルフレッドはさも当然というように菊の手を掴んで歩き出した。だから!今、表情がト書きと違うと思ったばかりなのに!
池の前の芝生で足を投げ出す。大丈夫、スカートは長い。
「君は一つだけなの?足りる?」
頷く。まあ確かに少ないと思ったから昨日は間食にも食べたわけだが。そこで今日はプレーンではなくトッピングをつけた。足りる?と言いながら菊の紙袋をのぞき込んだアルフレッドは体を戻しながら「やーさーいーーー」と言った。
思わず笑う。こどもか。
「なんでわざわざ?チーズとかチリソースとか美味しいのが他にもあったのに」
野菜は「わざわざ」食べるものなのかとまたおかしくなる。
食べて見せて
<美味しいですよ>
と言えば疑わしそうな目で見られる。
ほら、と突き出せば、また手首を掴まれて一口。なぜこの展開が想像できなかった自分、と脳裏で自分を責めるがあとのまつり。手首から熱が伝わって頬に達する。
「う、うーん……、まあ、前食べたときより断然美味しい気はするけど……こっちの方が美味しいって!食べてみなよ」
口元にチーズがけのものを突き出され、受け取ろうとしても手が離れる気配はなく、仕方なく軽く手を添えて、一口食べた。
確かに美味しい。日本でのチーズは工業製品のプロセスチーズが主体で、生やメルトのものはあまり流通していない。
「旨いだろ?」
こく、こくと頷くとアルフレッドは満足そうに残りにかぶりついた。

「間接キス」は「キス」自体が若干誤解されて輸入された結果の副産物だ。「キス」は「行為」であり「意図」なのだから、その意図のないところに何を見いだす必要もない。一味神水というように杯を共有して結束を強める習慣があったことを思えば、これは生まれた言葉が意識を規定する典型的な例で――つまり、何も気にすることなどないのだ。

そう自分に言い聞かせて、ホットドッグを食べる。これだけタンパク質の取り方が違えば体格が違うのも当たり前だ。しかし「わざわざ」でなければ野菜を食べないのは問題だろう。来日された折には野菜を美味しく食べられる割烹にご案内するよう取り計らいましょう。本当は牛丼の玉ねぎとか白ご飯の漬け物とかのように何気なく食べる野菜というのがむしろ美味しいんですけどね。まさかアルフレッドさんを牛丼屋さんにご招待するわけにもいきませんし。……いや、ホットドッグを召し上がる方ならむしろざっかけない雰囲気を好まれるでしょうか。しかし国賓の体面というものが

「あき?」

目の前で手を振られる。
<はい?>
「やさい落ちてる」
あわてて下を見れば確かにこぼれ落ちた細切りキャベツがスカートに散っていた。つまんで紙袋に捨てる。日本でなら「自然に返れ」と払い落とすが、余所様でそんな不作法は働けない。にしても、やさいって。名前を呼んであげましょうよ。
「目が離せないなあ、君って」
油断していたところにそんなことを言われて、またキャベツがひらひらと落ちてしまう。
<…>
残りを食べてしまって、スケッチブックを取り出した。
<私が障害者――弱者だからですか?>
それを見てアルフレッドは驚いたように肩をすくめた。
「俺は君をハンディキャップドだと思って接してはいない。単に、興味を持っただけだよ。君が、どんな人なのか。何を見て、何を描いて、何を思っているのか――すごく、知りたい」
言われて、困る。偽のプロフィールは用意してある。何を見て何を描いて――なんて、見せなくても勝手にスケッチブックは見られている。でも。
何を、思っているのか。ペンは無意識に動いた。不釣り合いは承知、でも

<お近づきになりたいです>

書いた後で思う、計算してでもここはこう書いたはずだ。近づくために変装までしてここにいる。もう少し本音を聞き出せる関係になりたい。
だけど、無意識にそう書いてしまったことに菊は静かな衝撃を受けていた。
アルフレッドは、その字をしばらく見つめ、いきなりびりびりとその紙をはぎ取った。
「俺、これまでの人生でラブレターってもらったことなくて」
菊の疑わしそうな顔を見てアルフレッドは笑った。
「アメリカ人はみんな直接言うからね」
そうでしょうとも。
「だから、これもらうね」
こく、こくと頷いていた菊はその後で目を見張った。ラブ、レター?
取り返そうと手を伸ばした菊をやすやすと封じて、アルフレッドは陽気に笑った。
「分かってる、そんな意味じゃないんだろ。でも、うん、――君への第一歩の記念、と思って?」
問題はないだろうかと瞬時に計算する。公式文書ではない、サインもない、どちらの名前も書いていない。ただ、まぎれもなく菊の筆跡だというだけだ。
とはいえここで無理をおすのも難しく、不承不承頷く。
「じゃあ、記念イベントだ。ご飯でも食べよう。明日の夜はあいてる?」
話の展開が早すぎて、頷くのも誰かが操っているようだ。

「ねえ、あき。これまでのロマンは、神が作った。これからのストーリーは、俺たちが作るんだよ」

この軟派!と思うが、意外に真剣な目に気圧される。

ストーリー、とアルフレッドは言った。フィクションであっても、ストーリーはストーリー。ごめんなさい、と菊は思う。
ごめんなさい、ごめんなさい。
砂の楼閣を造らせて。
せめて砂を崩す波は優しく、そして静かに。
――自分が始めた茶番だから、目的さえ達したら、傷が浅いうちに引かなければ。
記念、と言ったアルフレッドの傷のことを考えていた筈なのに、菊の手はいつか心臓をおさえていた。

 


シカゴ風のピザの店は賑わっていたが、隅の二人がけテーブルが運良く空いていて、それを覆い尽くさんばかりのサイズのピザを二人でわけた。サラダも食べましょう、と菊が主張して、アルフレッドは盛大に文句を言ったが菊は押し通した。こんな量のタンパク質と炭水化物、それだけが送り込まれたら胃が可哀想だ。貴方も食べるんですよと促せば「母親みたいだ」としぶしぶ従う。その台詞に、菊はイギリスのレストランで食べた野菜の煮物を思い出し、あああれが「やさい」かと、思わず吹き出した。理由も言わず笑う菊にアルフレッドは不満そうな顔をしていたが、やがて菊の笑顔につられたように頬をゆるめ、自分から話題を提供し始めた。
会話は常になく楽しいものとなった。
常々アメリカン・ジョークは笑いどころが分からないと思っていた菊だったが、読唇出来なかったことにして流せばいいと思えば気が楽になった。時々は悪魔の沈黙におそわれたが、それを恐れる余りいつも感じていた強ばりがない分、可笑しいときには気持ちよく笑えた。アルフレッドもいつもと違って見える。こどものように笑い、笑わせ、大人のように笑む。首をかしげて微笑のわけを問えば、「いいなと思って」とまた大人の顔を見せる。
<何がですか?>
ペンを手にとって、気づく。色んな選択肢があった中でこの店を選んだのは、ナイフとフォークの取り回しで筆談が妨げられるのを避けるためだったかもしれない。アルフレッドは話すとき必ず菊に正対する。横向きでは読唇ができないからだ。そして、センテンスを短く切って、明快に話す。副詞句を重ねて文をつなげることが多い菊にはなかなかできないことだけど、ワンセンテンスが長いと聴覚障害者には辛いのだと文献にあった。
「君が、今、心の底からこの場を楽しんでいる――と思える、のが」
<楽しいですよ>
「うん」
<美味しいし>
「うん。ところで君は、筆談の方が楽なんだね?」
そんな単語まで「書いて」いたからか、話が変わる。菊は頷く。「読み書き聞き話し」、後になるほど苦手になるのは大多数の国民と同じだ。言語能力の問題というより性格の問題かもしれない。もっとも、今の質問はライティングとスピーキングの差ではない。
<ええ。私の知っている手話はアメリカ手話と違うところも多くて>
「あー、まあ、そうだよね。手話は地域性が高い言語だし」
向かい合う範囲で流通する言葉だから当然そうなる。「私は東京から来ました」という手話が関西の一地方では「私は便所から来ました」という意味だったという話を聞いたことがある。
<アメリカ手話はフランス系なんですよね>
「そうだってね。――実は俺もそんなには知らないんだ。だから読唇できてくれて助かる」
返事のかわりににこりとする。唇を凝視して会話するなんてしたことがないから知らなかった。唇の動きだけではなかなか音は確定しない。「卵」と「煙草」は唇の上ではほとんど変わらない。音に反応してしまうことを避けるために補聴器に見せた耳栓をしているから、「実は」と言うほど聞こえてもいない。いつもの早口でまくしたてられたら理解できていないだろうことに自信がある。会話が成立しているのは、ひとえに彼の「あき」に対する気遣いによる。

「でも、これは知ってる」
アルフレッドは握った右手を突き出し、親指・人差し指・小指をのばした。
<アキノ大統領の?>
つい先日のフィリピン大統領選挙で彼女を支持した人々が似たようなハンズサインを示していた。
「あれはLだよ」
とアルフレッドは小指を折りたたんだ。
「Libertyだと思っていたけど、タガログ語のlabanだとも聞いた。闘うという意味だね」
流石に旧植民地だからか、さらりと答える。I shall returnの約束の地、しかし共産主義の新人民軍やイスラム系少数民族との諍いが未だ絶えず、アメリカはてこ入れを続けている。そんな中で、独裁政治を続けていた前政権に引導を渡したのも民衆暴動を恐れ国外脱出の手引きをしたのも、彼である。そうしたときに発揮される冷徹な合理性はとても真似できない、と菊は思った。そんな思いを知らぬ顔でアルフレッドは続けた。
「こっちは」

小指だけを伸ばす。
「I――」

また親指と人差し指で「L」を作って
「Love――」

親指と小指を延ばして
「You……」

目を、あわせたままだった。視線の鎖に縛られて、ただ顔を赤くするしかできなかった。

「バイバイ、の時なんかに気軽に使うんだよ」
だったら軽く言って欲しかった。菊はテーブルの下でスカートを掴んだ。布の下の足が痛い。

「――こういう『近さ』が嫌なら、そう言って」

菊は泣きそうになり、眉間に手を当てる。

嫌ならそう言って。―――それをこそ貴方に言いたかった。

声には出さず、しかし唇がそう動いたらしかった。
「あき」
手を掴まれる、その寸前に立ち上がり、<今日は帰ります>と手話で示す。
「明日もあの公園で会える?」
菊は目を泳がせて、それでも最後に頷いた。

 

 

次の日、約束の時間までセントラルパークに行かず、菊は街歩きをした。ニュースに映ったあの角、このストリート。人で溢れた州の職業安定所にも行った。
自動車会社のレイオフが続き、この街でも失業率は10%を越えている。高くはないが男物より狭いヒールが心許ない。菊はスカートの下にしこんだ懐刀の存在を確かめた。

身分制を否定して生まれたはずのこの国は階級による棲み分けが進んでいる。住宅街全体を塀で囲ったゲーテッド・コミュニティがあちこちに出現し、貧困層を視界から排除して日々を過ごす富裕層を産んでいる。子供の安全を守るためにその中に小学校を作ろうという計画が立ち、教師という低所得者層をゲートの中に入れるのが嫌だと中途に終わったという話も聞く。――こういうのも「合理性」と言えるのだろうかと菊は暗く苦笑する。そして、政治や芸能の面で黒人の活躍が目立ってきたとはいえ、ゲーテッド・コミュニティの人種構成ははっきりとWASPに偏重している。
日本でもだいぶ前に「絶望」をタイトルに持つ期間工のルポルタージュが出たが、「機会の平等」がうたわれたこの国で、つまり結果の不平等は個人の責に帰される空気の中で、未来さえゲル的に固まった今を生きるには、どれだけの強度がいるのだろうと考えて、胸が詰まる。
それだけの強さを以て、―――私は嫌われているのだ。

私は、あなたの友人ではないのですか。

ずっとYesを言ってきたのに。

通りにはまだ日本車が燃やされた黒い跡が残されていた。暴力には身のすくむ癖のついた菊に、ガラスが砕かれる音は強烈だった。
憎悪を向けられるのは今が初めてではない。戦前、戦中、そして繊維や鉄鋼の貿易摩擦。だけど、衛星中継が一般化した今、彼の国で燃え上がる憎悪の感情は直接に菊の網膜に映る。日章旗が燃やされ、捕鯨文化を罵倒される。人でなし、恥知らず、虐殺をやめろ。―――あの頃を思い出す。Noを叫んだ頃。敵であった頃。

そして今、日本に照準を合わせて、通商上の不正 (unjustifiable) 行為、差別 (discriminatory) 行為、または不合理 (unreasonable) 行為に対する報復措置(action)を義務とした法律の発動が取りざたされている。

私がしたことはそんなに酷いことだったのですか。

―――嫌いなら、そう言ってください。

本音を聞きたくて顔を隠してここまで来た。他者への悪口が聞けるような間柄になればよかった、だから、『そういう近さ』は、要らないのだ。
まして、それに対する高揚感など、あってはならないものだった。

そこまで近づいてはいけなかったのに。

思いながら公園を歩き、あのベンチに近づく。もう、夕闇が迫りつつある。
「あ!」
菊に気づいたアルフレッドは立ち上がり、大股で歩み寄った。
この先の展開くらい読める。本気で嫌なら、振り払うなり逃げるなりしなければ。分かっていたのに、菊は動けなかった。表情を偽ることもできなかった。菊の顔のままでアルフレッドを待った。
一気に革のにおいにつつまれる。

これがフィクションの友情でも……愛情でも、それに浸かっていたかった。菊はごめんなさいと心の中で再度呟きながら腕を彼の背に回した。

だけど、ストーリーは必ずエンドマークを持つ。耳元に寄せられた唇がそれを告げる。
「学芸会は終わりだね、菊」
「……やっぱり、気づいていたんですね」

半ばは確信しながらも、それでも違うと思いたかった。最後に残っていた緊張感がとけて、こんな冷たい声に晒されながら、むしろ菊の力は抜ける。
「最初からね。君は自分の国際的な立ち位置についての認識が甘い。入国の時点でチェックが入る存在なのに変装なんてするから、スパイ行為が疑われて君の行動は逐次報告があがっていたんだ。地下鉄の停電の時だって、同じ電車に乗ったこともすぐそこにいることも通信機で聞いていた」
そしてあの日と同じように髪を掬う。
「鬘でもないようだし、アメリカ手話もまあ見られないほどではないし、そこまでして何をしたいのかだけが分からなかった」

だから――「君が、どんな人なのか。何を見て、何を描いて、何を思っているのか――すごく、知りたい」。
誰なのか、は知っていたから。文字通り、障害者だと思って接していなかったのだ。
「私なんです」と言えなかった。彼を時折苦しめる偏頭痛、「双子の赤字」。全てではない、半ばですらないが、一部は確かに菊に理由がある。彼のような広大な土地も資源も持たない菊は、ただこう生きるしかないのだと思いつつ、それでも眉間をおさえる彼に、虚勢を張る彼に、心痛むのをとめられなかった。
そのとき彼の前にいたのは「あき」だったから、「君のことじゃない」とアルフレッドは言った。「聴覚障害者に向き合う者の役」をこなした。「あき」になりきれない菊に対し、アルフレッドは完璧に切り分けて「学芸会」を演じていた。

アルフレッドの方は、子供のように大人のように振る舞っていたのだ、意図的に。あのホットドッグも、――――ILYのハンズサインも、全てが計算の下だった。

「君はいつ気づいたんだい?」
「昨日宿で、絵の具箱に入れていた懐刀の鯉口に薄くのりがついてるのに気づいたからです。……あれで貴方の心臓を狙ってるとでも思いましたか」
「いや、護身用だと思っていたけどね。ただでさえアジア人には不穏な空気があるところに危険度を増して悪いなと思いはしたけど、万が一こちらに向けられたときに1秒稼げれば違うから」

変装を手伝ってくれた彼女は言った。海の藻屑と消える前に彼の心臓を付けと。
「日本がアメリカを見限る」、それは全くの空想ではない。対米依存してしか生きられない国際情勢は、逆説的だが、日本が対米依存することで成り立っている。最大のイエスマンがノーと言えば世界は変わりうる。ECのアジア版だって作れたかもしれない。白豪主義を捨てたオーストラリアも巻き込んで経済統合を作る。ソ連にも働きかけをして東西対立の危機感を和らげることで在日米軍基地も暫時撤退させていく――そんな選択肢だってありはする。

そうやって背を向けることもできず、自分からとどめを刺されに来た。「嫌い」だと言われなければ嫌うことさえ出来ない。いや………万分の一、億分の一と思いながら微かな期待をつないでいた。嫌われては、いないのではないか、と。

「あき――は、秋津洲から採ったのかな。杜撰な計画の象徴のような分かりやすい名前だったけど」
声は相変わらず冷たいままで、しかし腕に力が加えられた。
「俺はあきのことを割と気に入っていた」
退こうにも体は1ミリも動かない。仕方なく菊は頬を胸板にあてたまま答える。
「…そうなんですか」
「あきのことは好きだったけど、懐刀はすぐに抜けないように細工した。同じ事だよ、菊。それが答えだ。俺は君が弱者なんかじゃないことを知っている。俺が自分に害為す者、そうあるかもしれない者に過剰反応するのは本能のようなもので、好き嫌いの問題じゃないんだ」
「――」
「それでもあきは、かわいかったし、素直だった。可笑しいときに笑って、面白くないときはそういう顔をした。やさいを食べろって迫った。俺の目をまっすぐ見た。―――俺に近づきたいって言った、自分自身の言葉として」
腕が更にしまる。このまま絞め殺されるのだろうかと頭の隅で思う。

「なんで、君、が、そうじゃないんだ……」

絞り出された声は菊の肺と同じくらいに苦しくて、思わず目を見張った。

「アルフレッドさん…」

生きるために仕方がないと、ずっとYesを言ってきた。生き残るために仕方がないと、刀を振り回した日もあった。生存を理由に、菊は誰の目をも見ないままこの50年を過ごしてきた。豊かで大らかな彼に惹かれる心はとめられず、けれどもその気持ちさえ生き残るための擬態だとラベリングした。

――友人でなかったのは菊の方だ。

「菊、この一週間は、永遠に封印しよう。我が国の調査員には適当に理由をつけてごまかしておく。君の方も始末をつけて、忘れるんだ」
忘れられるだろうか、こんな風に心を掴まれて。こんな風に――心臓が破れそうなほど痛い思いをして。
腕の中で俯くと額がジャケットにすれた。
泣くだけはすまいと心に誓う。

アルフレッドが顔を傾け、息が菊の耳にかかった。
「ロマンとストーリーのこと、覚えてるかい?あれだけは、アルフレッドとして言った。『俺』の思いも行動様式も、歴史が作ったものだから簡単には変えられない。君との出会いだって世界システムの中で必然的に発生したことでしかない。だけど、未来の『俺たち』は俺たちの手で作れるはずなんだ」
頷いた菊の耳に小さく口づけ、ゆっくりと腕をはなす。
「目をつぶって100数えて。目を開けたら、本当に幕引きだ。現実に戻ろう」
「はい」
瞼を下ろした菊の前に、しばらく気配はとどまった。そしてほんの一瞬、唇に熱をうつして、それは去っていった。
菊は200を数え、踵を返した。

 

 

 

悪名高いロックフェラー・センターの買収が行われたのはその二年後。日本脅威論がおこり、逆に日本の実業家・政治家も反米路線もあからさまな本を出した。
気の重いまま出た世界会議がはけたあと、「菊!」と呼び止めたアルフレッドは、硬直した菊にでこぴんをくらわした。
覚悟したより痛くなかったそれに拍子抜けして目をあければ、親指、人差し指だけでなく小指も伸びた掌の向こうに苦笑する顔があった。

「――あの」
「ん?」
「私、いつか貴方に和製ファーストフードをご馳走したいと思っていたんです」
「……それってご馳走なのかい?」
「美味しいですよ。貴方に美味しいと言ってもらえたら、きっと牛丼も、漬け物の野菜も喜びます」


 

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