海的女儿・1987 (前)

 

※ご注意
1980年代の歴史に触れます。ただし事実関係は正確ではありません。わざと変えているところもあります。
人魚姫パロディで、菊が女装します(ずーっと女装してるんですが、それが全然いかされてない感あり)。
大雑把に言って「アル←菊」。菊がカユい反応をするなど別人度高いです。
あくまで恋愛もの、少女漫画ののりでお読み頂けると有り難いです。


 

 

菊の声は、見た目からは意外に思える程度には、低い。
だから――しゃべってはだめ。

その代わり、彼、金髪の青年のそばへ歩いていく足を得る。

 

「他ならぬ菊さんの頼みですし、美容系は得意でもありますし」
苛々とした様子を隠さずに彼女はコンパクトをぱちんとしめた。挿した牡丹が揺れるのも構わず髪を払って、紅筆に含ませた朱を思い切りよく菊の唇に乗せる。
「正直、作業自体は楽しいですけどね!」
赤すぎないですか。そう訴えたいが、唇を動かせない。
「うーん、肌が白いから映えますね!日本でもこのくらいくっきり赤!っていうのが流行ってるでしょう」
流行を追う必要はないのですよ、単に、彼の目を誤魔化せればいいんです。私だと分からないまま近づくことができれば、それで。
菊の心の声など聞く耳を持たず、彼女は満足そうに紅筆を引いた。
「――あの坊やにはもったいないわ」
外見年齢で言えばアルフレッドと彼女はおっつかっつの筈だが、彼女には流れる血に対する自負がある。私的レベルでのつきあいは今でも深いとはいえ、過日いきなり手を振り払われた恨みが坊や呼ばわりをさせるらしい。
最後に大きな筆で頬をはいて、「かんっぺき」と呟き、菊の首に手を回してケープを外した。
菊は首を左右に回しつつ鏡を見てみる。確かにそこに映る自分はどこからみても女性だ。髪は既に伸ばしてあって肩に届かんとしているし、似合う服も用意して貰っている。完璧。 …口をきかなければ。
「ありがとうございます。―――このこと、王さんには」
「言うわけないじゃないですか、それでなくても」
菊が彼女と会うことにすら神経をとがらせる王。もとよりこの二人には公的レベルで会話のチャンネルが用意されていないのだ。
「…すみません」
「…いやまあそれはいいんですけど。ねえ菊さん、このままここで百合写真とって終わりにしましょうよ」
「写真は要りません」
「私のですよ?」
「だめですって」
顔をほころばせた菊に、頬をふくらませて見せて、彼女は指をつきつけた。
「いいですね、声を出しちゃだめですよ。そして―――海の泡になりそうだったらその前に心臓刺すんですよ」
「童話じゃないんですから」
菊は笑ってみせた、そのつもりだったが、彼女の目は揺れたままだった。

 

流石に長期間自宅をあけるわけにはいかない。期限は一週間、既に二日は張り込みに消費した。残り5日で全くの他人として接近するとなれば、少々強引な手を使わないわけにはいかない。
その日菊は、アルフレッドが地下鉄に乗り込んだのを見て、別の車両から乗り込んだ。小さなキャラクターのついたキーホルダーをたくさんいれた籠をもう一度握り直す。
――さあ。
連結器の扉を開け、菊はその車両に足を踏み入れた。乗客はざっと20人。その膝元にキーホルダーを配って廻る。付せられた紙片には、 「私に寄附してくれるならキーホルダーの代金として5ドルを」という英文。慣れているらしく乗客は反応を返さない。アルフレッドの膝の上にそれをぽとりと落とした時も、彼は操作中のウォークマンに落とした目をあげなかった。大丈夫、ばれてない。
一通り配り終えて一息、今度は回収してまわる。そのときにドル札を差し出すようならキーホルダーはそのままだ。良心が邪魔をして、5ドルで売ったとしても詐欺ではないというレベルの商品を用意してしまったが、日本人にはおなじみの猫のキャラクターもこちらの人の関心を引かないらしい。まあ、女の子向けキャラクターですからね、と思いつつ、次々と口を持たない猫を拾っては籠に戻していく。
アルフレッドの膝元に手を伸ばしたところで、

いきなり電気が落ち、強烈な軋み音をたてて列車が急停車した。

息をのみ、しかし奥歯を噛んで悲鳴をとめる。
何が起きた。
何も分からないまま、暗闇の中、周りは銘々に叫び、立ち上がる。あまりの喧噪で菊には聞き取れない。アルフレッドも舌打ちをしてスラングを吐いた。
「…そこに誰かいたよね?」
自分のことだ。かくかくと頷くが、当然彼には見えない。
「ねえ」
声が苛立ちを含む。ああ、どうしたらいいんだ。確かに、変装のまま彼に近づこうと思ってこの場に来た。水筒をこぼしてウォークマンを壊してやればきっかけになるだろうかくらいの物騒なことは考えていた。しかし、こんな先の見えない展開は予想していなかった。
そこでアルフレッドが「あれ」と呟いた。ちゃり、とキーホルダーの金属音がする。気づいたらしい。
「きみ―――」

闇の中、菊の両手はアルフレッドに掴まれた。そのまま、右手は彼の唇に、左手は彼の耳に寄せられる。
<耳が、聞こえないの?>

聾唖を示す手話は日米共通だ。
アルフレッドがそれを知っているとは思わなかった。思わず頷き、それでは伝わらないことを思い出す。キーホルダーに付された紙片の先頭には「I AM DEAF.」。よわきをたすけつよきをくじく彼の性格に期待しつつ設定したペルソナだったが、その文字は今役に立っていない。
掴まれていた左手を逆に掴み、顔に引き寄せて頬にあて、頷いてみせる。彼の手は大きいから、指先はきっと補聴器にあたっている。
「そう」
アルフレッドは頬の手を滑らして菊の頭をつかみ、そっと引いた。逆らわず、隣の席に座る。
「大丈夫だよ、恐くない」
言いながら、ゆっくり頭を撫でる。人より狭い情報の入り口を突然闇に塞がれた、ことになっている菊は、先にその心持ちに思い至ったアルフレッドのことを見直した。そういえば、この人は「空気を読むなんてめんどくさい」と言っていた。敢えてしない、ことは、時と場合によっては自然にできることでもあるのだろうか。本当はこの人の手はこんなふうに大きくて、優しくて――。菊は居心地の悪い思いをす る。
闇はまだ開けず、アルフレッドの手は菊から去らない。
肩を掴まれたことはある。後ろから抱きつかれたことも。だけどそれは欧米的スキンシップで、運動部員が肩を組むような手荒いものだった。まして彼の唇に指が触れたことなどない。しかし、あれはただの手話。何にも動揺するところなどないはずの展開に、なぜこうも心落 ち着かないのだろう。
「綺麗な髪―」
小さな呟きがこぼれ、菊の髪は一掬い奪われた。くんと引かれ、すぐにさらさらと戻ってくる。
しゃべってはだめだと胸を掴む。謝ってはだめ。ごめんなさい、騙すようなことをして。
そのとき、やっと電気が戻った。「ふう」というような声があちこちであがり、早口のアナウンスが流れ、ゆっくりと電車は日常へ再出発した。菊はまぶしさに数度まばたきをする。どうしよう。思ったより―――予定よりずっと近くにアルフレッドがいる。
「Oh……。そんなに恐かったかい?」
最後にはちょっと笑いを含んで、アルフレッドは手の甲で菊の頬を軽くたたいた。顔が赤いのも、目が揺らいでいるのも、突然の停電のせいではない。
<事故による停電だったって。もう問題ないって言ってたよ>
もう一度<大丈夫>という手話をして見せて、にっこり笑う。菊は頷いて静かに深呼吸を繰り返した。無味乾燥な法律でも思い出せば心が落ち着くだろうか。菊は頭の引き出しの一番手前にある条文を思い返す。
unjustifiable。discriminatory。unreasonable。―――action。
すっと頭が冷えるのが分かった。もう声を捨て足を得、ここに来たのだ。引き返すことはできない。
顔を上げ、手刀を切ろうとして、手を止める。この手話は、日米共通ではない。しかたなく、向き直ってひきつった笑顔のままキスを投げる。
「!………あ、あ。『ありがとう』、ね。うん、いや」
ひらひらと手をふっている。若干顔が赤いのは、突然初対面の女性に投げキッスをされたと思ったからだろうか。……かわいい。思わず顔が緩む。
アルフレッドはすぼめた右手で左肩から右肩、そして脇腹へと直角を書いた。これは日米同じ。
<チャイニーズ?>
どうしようかというように目をうろうろとさせて、首を振り、バッグからスケッチブックを取り出した。
ビデオにかじりついてアメリカ手話を勉強してはきたが、ネイティブのように流暢に操れはしない。早々に筆談に移してしまいたかったの で、少し込み入ったことを言いたいかのように演技をしたのだ。
<チャイニーズというか…チャイニーズタイペイにいる少数民族の一人です>
台湾島の中に日本民族は少数なりともいる。菊自身がそこに住んでいるとは言っていない。こじつけなのは間違いないが、こじつけもできない全くの嘘をつくのは菊の苦手とするところなのだ。
アルフレッドは左右二本ずつ延ばした指をとんとんと交差させ眉を寄せた。菊はスケッチブックに書く。
<私のことは、あきと呼んで下さい>
ふうん、というような音を出して、彼はペンとスケッチブックを取り、アルフレッド、と名前を書きつけ、胸を指した。
A-l-f-r-e-dと指文字を示せばわかったのかどうなのか、Yes!と笑い、ぱらりとスケッチブックをめくった。
「うまいね!セントラルパークかい」
言った後で「あ」という顔をするアルフレッドに、菊はかぶりをふった。
<簡単な言葉で、ゆっくりなら、読唇できます。残存聴力も少しはあるので。…私はNYで絵の勉強をしています>
「そうか。とても――爽やかだ。描き込んでないのにくっきりしている。水墨画みたいだ」
唇を読み取るために――その名目で――菊はアルフレッドの口元を凝視した。
日本人同士では「ネクタイの結び目」に視線をやるのが貴人と話すときのマナーとされる。そうでなくとも目を合わせて会話をするのはなんだか恐い。だから菊は特に目力の強いこの青年と目を合わせたことがあまりなかった。黒い目は焦点が見えにくいらしく、眉間の辺りを ぼんやりとみたまま彼が言うことに頷きさえすれば「意思疎通」ははかれたことになる。
Yes,yes。いつもyes.
彼が始めた戦争にいち早くyesを叫んだ菊の元上司はノーベル平和賞を受賞した。
開戦をとめることなど出来るはずもなかったけれど、あのとき目を合わせないままyesと言った自分を疎んじる気持ちはとめられなかった。
ちらりと腕時計を見て、スケッチブックを返しながらアルフレッドは聞いてきた。
「今からどこに行くんだい?」
<セントラルパークです。最近は一日中そこで絵を描いています>
「へえ、俺もよく行くよ」
駅の光が近づいてきて、彼もジャケットを羽織り立ち上がる。bye、と手を振りながら、
「また会うかもしれないね」
<あんな広い公園で偶然再会できたら――>
菊は少しペンをとめた。
<ロマンティックですね>

 

もちろん、偶然などに頼るつもりはない。彼が通る道は既に把握している。それでも次の日にばったり、ではわざとらしすぎるだろうかと迷いながら、菊は次の日の昼間を絵を描いて過ごした。
新学期の始まったこのシーズン、日中の公園はのどかで、絵心を誘う光にあふれている。絵はがきのように完成された景色の中、白いワンピースにカーディガンを羽織った姿は我ながら野暮ったい。体型が既にディスプレイであるかのような街の人に比べて子供にみえるのも仕方がないかもしれない。もっとも、最近は日本に居てさえそうだ 。女性の眉はくっきりと黒く、肩はパッドで盛り上がり、男性も外国製の高いスーツを着こなしている。
――あまり気張られると私の肩が凝るのですが。
イソップ童話の蛙を思い出しながらも、菊は国民にかける言葉を持たない。
昼食と同じく夕方にもホットドッグとコーヒーをスタンドで買ってベンチで食べる。こうしたものも作りたてはそれなりに美味しいのだと知った。というより日本ではこの食物が誤解されたまま流通しているような気がしてならない。最初に魚肉ソーセージを挟んだのは誰だろ う?
あまり食べては口紅がおちると思いつつ、こぼれそうなマスタードを掬うように顔を上げて、――その笑顔に気づいた。

「ロマンティックだね」

口をあけたままぽかんと見上げ――慌てて立ち上がって、礼を、しかけて踏みとどまる。それじゃ日本人丸出しだ。
昨日の、とYの字を作りかけて自信を失い、スケッチブックを探す。その間注意がそれた右手の手首が急に掴まれて、ぎょっとして振り返れば垂れそうだったマスタードごとかぷりと食べられていた。
なにするんです!……と叫ぶわけにもいかない、あやういところで声門を抑えて、その分菊は顔に血を上らせた。
「おごちそうさま」
悪びれずに唇をぬぐったアルフレッドを呆然と見つめる。いや、実は分かっている。あの時そのままにしていたら菊の真っ白いスカートには 派手に黄色いシミがついていただろうことは。だったらそう言えばいい、助けてあげたよ!といつもみたいに胸を張ってもいい。どっちにしても――今のように小悪魔然と振る舞われるよりいい。こんな風に、変な拍動を感じるよりは。
右手の処遇に困って、身振りで「あげます」と示してみる。
「いいよ、君の夕食なんだろう?」
<大丈夫です>
「食べたくないの?美味しくない?」
ゆっくりと、という昨日の留保条件を忘れていないらしく、アルフレッドは丁寧に聞いた。その唇を、じっと見つめる。さっき、この唇が、 これを食べた。
<…とても美味しいです>
「だろ?」
にっとそれが横に広がる。
「君が美味しいと食べてくれれば、ホットドッグが喜ぶ」
どういう比喩だろうかと考えていたら、アルフレッドがまた右手をとって、腹話術のような声で「嬉しい!嬉しい!」と叫んだ。
思わず笑みがこぼれる。
では、ともそもそとそれを胃の中に納めていると、さっさと隣に座ったアルフレッドがスケッチブックをめくりだした。軽く口笛なんて吹い ている。
「本当にうまいね!画家になれるぞ……って目指してんのか。うん、がんばって、応援する!」
食べている最中のことで、ペンを握るわけにもいかず、軽く会釈する。それにまたにこりと笑みを返して、アルフレッドは次々とスケッチブックをめくった。時々周りに目をやって「ああ、ここを描いたのか」などと呟く。色づいた葉の色にも感心し、勝手に絵の具箱をあさっては「これとこれを足した…?いや、この翳みぐあいは…」などと分析する。子供のような探求心に傍若無人をとがめる余裕もない。やっとホットドッグを片付けて向き直ると、「しばらくここに居ていい?」と首をかしげられる。
<もちろん>
<ありがとう>
やられて、思い知る。これは照れる。手話ですって!と自分に突っ込みを入れても、動き出すのに一瞬の間があいてしまう。そんな菊の様子を見るアルフレッドの目を前にして、菊は「それが本来は正しいことだと信じて行う非合法・反社会的行為」という意味でこれは「確信犯」なんだろうか、などと論理学的思弁に浸る。無駄なことを考えなければ熱が頬にうつってしまう。
「続き描くなら描いて。見ていたい」
言葉に甘えて下絵に色をおきはじめた。描いているところを見られるのも気恥ずかしいものだが、目を合わせての会話は心拍数があがりすぎる。しばらく絵に集中していた――集中することに専念していた菊は、ふと隣の気配に気づく。アルフレッドは目をつぶり眉間をおさえていた。
<どうしたんですか>
思わず腕をゆさぶってしまう。びくり、と筋肉を強張らせて鋭く戻された視線は、菊の心配顔にようやく緩んだ。

「ああ……、大丈夫だよ、あき。君のことじゃない。ちょっと偏頭痛がしただけ」

かけようにも言葉の見つからない菊に、アルフレッドは笑って見せた。

「大丈夫、俺は強いから」

頷けば、親指を突き出される。はて、と戸惑えば右手をとられ、同じ形を作られる。手首を持ったまま拳をぶつけて、「元気だせよ」ってサインだよと言う。じゃあ、と今度は菊自身の意志で拳を合わせた。

アルフレッドは機嫌良さそうに立ち上がって、「また会えるかもね!」と手を振って歩き出した。嵐のようなできごとに体の向きも戻せないまま固まっていると、視線の先、金髪の女性が彼の名を呼び腕に捕 まるのが見えた。陽気な笑い声をかすかに届かせながら、二人は街の中へ去っていく。

人魚姫は足と引き替えに声を失った。だから言えない。「私なんです」と。その人じゃないんです、私が、私が、貴方の。

――そんなことを思い出すのも、こんな格好をして近づいたからだ、と菊は自嘲する。自分だとばれなければそれでよかった。いっそ性別さえ変えてしまえと思ったのは単にその方が近づきやすくばれにくいのではと思っただけで。……この姿でなら恋が出来る、なんて、そんな期待をしていたわけではない。
右手を左手でそっと押さえる。
手首が熱い。
指先さえ熱い。

菊はかぶりをふって片付けを始めた。日の落ちるのが早くなり始めている。闇はまた余計なことを思い出させそうで、菊は帳がおりる前に宿にひきあげた。

 

 

>>後


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