ギルベルト×本田菊(現代パラレル ※菊に特殊設定あり)
緯度を十七度も下るから当然暑くなる、加えて、太平洋高気圧からくるモンスーンのせいでイタリアのような爽やかな日光浴はできない。知っている、よく知っている。住民である弟も毎年数値つきで東京の夏の「うんざり」を伝えてきていたし、検索すれば旅行期間中の温度湿度不快指数まで知ることができる。
それでも知っていることと体験することは全然違う。言い換えれば、舐めてた。
「あーーーーづうううーー……」
うめき声さえ掠れて消える。鼻の先、顎の先からぱたぱたと汗が落ち、手に持った紙に吸い込まれていった。やべえ、と思うがレーザープリンターでの打ち出しだから滲むこともない。弟がメールでよこした「仕事場」の住所、それがアパートの住所と並べて書いてある。
――万が一、本当に万が一の時にはここに連絡してくれ。
なぜ二度繰り返したかは知らないが、そのメールを貰ったときには億にも兆にもそんなことはないだろうと思っていた。日本での漫画描きという摩訶不思議な「仕事」だからではない。ギルベルトには選択肢に浮かびあがりもしない仕事でもルートヴィッヒがやりたくてやってるのなら文句があるはずもない。文句はないが、仕事である以上それはルートヴィッヒが持つ別の世界で、ギルベルトがそこに含まれる世界とは在るタナが違う。と、思っていた。
けれども、今は間違いなく「万が一」の事態だ。何せ乾きかけている。
******
仕事を辞めてぽっかり時間が空いて、突然思いついた日本行きだった。堅物の弟をちょっと驚かそうとは思った。それで、黙ってチケットをとり、飛行機に乗った。一切合切をつめた登山用のナップザックを担ぎ直し、かっこいい登場ポーズを頭の中で復習して、気合いを込めて押したドアチャイムは、しかし、何度押してもむなしく鳴り響くだけだった。
日本のアパートは驚くほど小さい。ドアからドアまでの間がどんな風に仕切られていても、これだけしつこく鳴らして気づかない筈はない。隣の住民がしかめ面をドアの隙間から覗かせたのを機に、連打はやめた。認めるしかない、出かけているのだ。携帯を取り出したが、いやここで待ち構えてやるのも面白い、と思い直しドアの前に腰を下ろした。
――ここだ、このポイントが決定的ミスだったと、朦朧とした頭でギルベルトは思い返す。
あのとき電話をかけておけば、「おかけになった電話は電源が切られているか……」というアナウンスが流れてきて、「ここは(駅前カフェあたりに)一時撤退、作戦練り直し」と判断できた。現実にそれを聞いたのは、既に太陽が向きを変えて扉に直射日光を当て始めた頃だった。「やべえ」とナップザックの底を探って手帳に挟んでおいた「万が一」の紙を取り出した時には相当焼かれてしまっていた。
携帯でみた地図で言うと、このアパート、その最寄り駅、「仕事場」の最寄り駅、そして「仕事場」はちょうど長方形を成していた。駅まで駅からの二辺を足せば乗車区間を上回る、てことは歩いた方が早くねえかと思った。――ここもミスポイントだ。多分、既に判断力が低下していたのだろう。
歩いているうちにTシャツは汗を吸って肌に張り付いた。犬のように自然に口が開いた。エネルギーは全て「歩く」に注ぎ込んで、脳のスイッチを切るようにして住宅街を進んだ。だから、ナビが示したゴールのインターフォンを押した後でやっと、しかし微かに「あれ?」と思った。「仕事場」に来たはずなのに、ただの一軒家だ。
「はい」
男の声がした。
「あー、あの。ルートヴィッヒの兄なんだけど」
あ、英語大丈夫だろうかと思う間もなく、軽い驚きの乗った声が返ってきた。
「ルートヴィッヒさんの? ああ、はい、……?」
そこで砂袋のひもが緩むように限界を迎えた。さらさらと流れ出していく砂のような声で「助けて」と呟いて、そのまま座り込んだ。
「え! え、えええ!?」
******
何やらわめく声で目が覚めた。そちらに顔を傾けると、額からタオルがずり落ちた。手に取ってみると、中に保冷剤が挟んである。顔を戻すと天井が見え、床に寝転がっていることが分かった。タタミとか言っただろうか、柔らかい床に肘を突いて肩から起こすとドアの先、廊下に出たままの靴が見えた。クーラーの効いた部屋に引きずり込もうとして途中で力尽きたという感じだ。
口元を隠すように両手を携帯電話にあてて、男は、多分日本語で何かを言い募っている。
「あの……?」
ここは、そして自分は一体。
その声に男はぱっと振り返り、「あああー」と空気が抜けていくような声を出した。
「気がついたんですね、良かったです」
その声に被さるように、携帯から声が聞こえてきて、男はそちらに顔を戻して、応答しつつ頭をぺこぺこ下げる。よく分からないながら、とりあえず足を折ってあぐらになる。この部屋だけ冷房をかけてあるのに、足のせいでドアを閉められなかったらしい。やがてぱちんと携帯を閉じて、そのまま重ねた両掌をぐっと重ねるようにして息をつき、テーブルに携帯を置きながらこちらを見て、フライト・アテンダントがしていたような笑みを浮かべた。
「初めまして、本田菊と言います。ルートヴィッヒさんにはいつもお世話になってます。……あの、まだしばらくそのまま横になっていてくださいね。今年の熱中症は本当にひどくて、死人も出ているレベルですから」
「お、おう……」
そこではたと気づく。
「もしかしてさっきの電話、救急車呼んでくれてたのか」
「あ、いえ、そのものではなくて、救急車を呼んだ方がいいかどうか詳しそうな人にかけました。熱いから冷やせ、くらいのことしか自分では思いつかなかったので。会話ができているなら大丈夫だそうです。でもしばらくは絶対安静。いまお水持ってきます」
そういって足の脇をすり抜けて廊下に出る。ぱたぱた、という足音が、体躯に見合って軽い。菊と言ったか、そういえばいくつだろうと思いながらも言いつけに従って体を倒す。夏でへばるなど情けないが、このぶわぶわまとまらない思考っぷりは回復していない証拠だ。いいつけに従ってタオルを目の上にのせ直し、目を閉じる。
こん、と音がした。見ると、男がテーブルの上にコップとバスタオルを置いていた。
手を伸ばしてそれを取り、口に含むとかすかに塩の味がした。
「ダンケ」
「いえ。あと、服を脱いだ方がいいらしいです……上だけでも。あと、靴もお願いします。こちらに」
足下に新聞紙を敷かれたので、その上に脱いだ靴を置く。服はさすがに躊躇したが、男しかいないのだしとTシャツを脱いだ。顔色を見たが特に動じた様子もないので、続けて汗まみれのパンツも脱いでバスタオルを腹にかけ、また横になった。菊は顔をすっと逸らすように携帯を取り上げた。
「ルートヴィッヒさん……捕まるでしょうか……」
「あ?」
「今日からフェリシアーノ君と――ああ、私たち三人で仕事してるんですけど――北海道旅行なんです」
小首を傾げて携帯を耳に当てていたが、やはりと首を振る。
「あー……」
それですれ違ったのか。滅多にしない旅行の初日が同じになるなんて、さすが兄弟というか何というか。
「お前、あいつのアパートの鍵預かってたりしねえの」
菊は首を振った。
「ルートさんはここの鍵持っていますけど、逆は必要ないですから。それに……」
言いづらそうに目を伏せて、声を落とす。
「貴方が本当にルートさんのお身内かどうかは、私には分からないので」
「えっ」
そこがクリアされていなかったとは思わなかったので変な声が出た。
「えええー、あいつから聞いてねえか、ギルベルトって名前。顔もほら、似てんだろ?」
思わず体を起こし顔を指さしながらぐいと寄ると、菊は困ったように、微妙な角度に首を傾けた。
「そう見えますけれども……」
「ん?」
「え?」
変な間ができてしまった。同意をもらったのに問い返したのだから菊が変な顔になるのは仕方がない。けれども、「兄弟似てる」という主張は持ちネタのようなもので、あまり同意されたことがない。少なくとも顔のレベルでは。
「いや……ていうか、ならなんで家に入れたんだよ」
「だって、誰であれ家の前で倒れている人をそのままにしておけないじゃないですか」
とりあえずナップザックからパスポートやら手紙やらをあるだけ取り出して菊に突きだした。
「ほら名前、つうか、名字。書いてあるだろ」
けれども菊は眉を下げた顔をこちらに一瞬向けて、また戻す。そしてリダイアルしてはため息をつく。確かに、電話が通じれば証明がたつ。けれどもまだ飛行機の中らしい。
「んあーーーー……ん?」
頭を掻いていた手が止まる。
「ここで、三人で漫画描いてんのか」
「ええと、私は原案だけなのですが、まあ、はい。ここは自室で、隣が作業室です」
もともと菊の生家で、両親を早くに亡くして空間も空いていたので、机を入れたのだという。
「なんで三人で?」
「大学時代からのユニットなのです。その頃は同人誌でしたが」
「あー、コミックなんとか」
はい、と菊は気まずそうに笑った。少しだけルッツに聞いている「税関を通らなさそうな本」のことだろう。
「『大学時代からの仲良し三人組』?」
「はい」
「――で、なんでお前は留守番してんだ?」
菊はうっと突かれたような表情になった。目玉を横にずらしながら、「引きこもりのたちで」などという。そのまま見ていると、目を斜め下に逸らしてため息をつく。ぱか、とまた携帯を開け閉めする。
「あ、そうだ。着てらっしゃったものを洗います。この天気ですからすぐ乾くでしょう」
明らかに誤魔化そうとする台詞だったが、何より内容に面食らう。
「え。いや、わりーし。ていうか別に……くっせ!」
平気だと言うために臭いをかいだのに思わず叫んでしまった。菊が噴き出して手を差し出す。どこに仲間意識感じたんだ?と思いながら握手したら菊は「ぎゃ!」と「うわ!」の混ざったような声を上げた。
「え!? 違ったか?」
「ふふふふ服をくださいと……!」
「あ、そか、そっちか!」
あわててTシャツを取り上げて渡すと菊はあたふたと何回か手を滑らせてやっと受け取った。
「あ、あの、これ普通の綿ですよね? 特別な洗剤とかいらないですよね」
「お、おう」
菊の手から垂れる裾をひっくり返してタグを見せたが、菊は要領を得ない顔をしている。考えて見ればドイツ語だ。
ぱたぱた、と菊は廊下を駆けていき――ごん、と何かにぶつかったような音もさせたが、その先から、洗濯機だろう電子音と水の音がし始めた。普通に考えて三十分、乾くのを考えたらプラス一時間。アイデンティファイできなくてもその間ここにいていいということなんだろうが、可能なら早めに身元保証をうけて「友人の兄」というステータスで居させてほしい。
三度目の正直、と携帯を取り出しリダイヤルを押すと、コール音がした。
「あ!」
ほどなくしてルッツの声が聞こえた。
「兄さんか。電源を入れた途端にかかってきたからびっくりした」
「ルッツー! あああ通じて良かった!!」
喜びで「寝てろ」と言われたこともふっとんで、携帯を持ったまま音のする方へ駆けた。幸い脱衣所のドアは開いていて、戻ってこようとしていた菊は驚いた顔で立ち止まっている。その眼前に携帯を突き出した。
「ほら! これ、ルッツ!」
「ああ、電話が通じたんですね」
ほっとしたように笑って、菊は予想外のことをした。突き出された携帯を受け取るのではなく、腕から滑らすように手をはわせ、手ごと携帯を耳元まで引き寄せた。その動きに湿度は無かったが、どきりとする。手が触れていった跡がみみず腫れのように熱を持っている気がした。
「こんにちは、ルートさん、菊です。ええ、はい。そうなんです、お留守だったからこちらにいらして。ええ。あ、いえいえ、大丈夫です、ご本人なら――ルートさんのお兄様ですもの。信頼して良いでしょう?」
ルッツは請け負ってくれたらしい。菊はにこりと笑った。それなのに、突然「え」と声を上げる。
「いえ、そんな、大丈夫だと思いますよ? 折角の旅行ですのに――フェリシアーノ君もすごく楽しみにしてらしたんですから」
なんだか雲行きが怪しい。果たして、菊は送話口に手を当ててこちらを見上げる。携帯を持つ手ごととられていて、その上になので、菊の手に包まれる形になって、妙にどきりとする。
「旅行を中断して東京に戻ると仰ってるんですけど……」
「え!?」
驚いて、菊の手ごと携帯を取り返す。
「旅行やめる必要はねえよ! 俺はまだしばらく日本にいるから、今日明日は」
しまった。何も考えていなかった。アパートに転がり込むつもりだったし、街中はルッツに案内して貰おうと思っていた。
「どっか適当にホテルとるし! じゃ! 旅行満喫しろよ!!」
まだ言い募るルッツを無視して携帯をびしっと切る。菊がするりと手を抜いた。こちらを見上げてにこりと笑う。
「お電話通じて良かったです」
「ああ。な、怪しい奴じゃなかったろ?」
「ええ、そんなに怪しんではいなかったですけれども、確証とれる前に言うとルートさんに怒られちゃいますから」
「……『言うと』?」
「ええ」
促されるまま先ほどの和室に戻って、腰を下ろすと、菊は例の照れ笑いのような顔で言った。
「あの、私、一般的に言うと、目が見えていないんです」
「……………は?」
「これまでも色々不自然だったと思うんですけど、悪い人かもしれない他人に、しかも家に上げた後で言うわけにもいかなくて」
自分が犯罪誘発因子になっちゃいますから、と菊は肩をすくめた。あ、なるほど。そう思う一方で「いやいやいや!」と手を振ってしまう。
「いや、見えてんだろ。普通に動いてるじゃねえか」
「家の中は覚えてますから。中途失明なんですけど、それ以前と家具配置をほとんど変えていないんです」
何事もないように言う、その瞳が正しくこちらを見ていて、やはり信じられない。視覚障害にも色々あって、眼球自体が欠損している人もいればど近眼というレベルの人もいる。だから、皆が目を閉じているわけでも、サングラスをしているわけでもない。それは知っていたが。
「あー、じゃあ、声の方向とか音量とかで想像して、俺の顔にフォーカスしてるってことか?」
菊はうーんと唸った。
「結局はそういうことになるんですけど。意識してそうやってる訳ではなくて……」
もう一度唸って、菊は腕組みをした。そして、「あ」と声を上げる。
「ギルベルトさんの携帯は、Siriたん使えます?」
「お? おお」
なんで「たん」だと思いつつ言われるがまま起動させると、菊は明瞭な発音で言った。
「『アントン症候群』について、教えて」
******
電子合成音が教えてくれたところによると、それは後頭葉の損傷による視角野と視覚イメージの混乱現象のことを言うらしい。機能としては、目は外部を映していない。にもかかわらず、患者の主観では世界は変わらぬ姿を見せる。家の中での移動がスムーズなのは、正しくはその空間イメージを記憶しているからだが、菊に言わせれば「だって見えているから」となる。床も壁も、以前と同じように見える。見えたとおりに歩けば――以前そうした通りの歩幅歩数で進めば、当たり前のように行きたい部屋にいける。
「助けて」との声を残して男が玄関前に倒れていれば、聞いた声や抱き起こした時の重さ、そしてルートヴィッヒの兄という情報からそれらしいイメージを描く。だから「似て見えた」。
「じゃあ、今お前が見てる俺はどんななんだ」
「え、ですから、金髪で」
「ブー」
「……碧眼で」
「ブ、ブー」
「……。理知的な顔立ちでいらして」
これにはどう反応するか迷った。友人たちが親指を下に向けながらブーブー言ってるイメージ画像が脳裏をよぎる。
ブーブー攻撃にむっとしたのだろうか、菊はつんとした顔で言った。
「今は上半身裸であぐらかいてらっしゃいます」
「……なるほど。本当に見えてないんだな」
だからそう言ったでしょう、という顔を菊はした。しかし、前半は「ルートヴィッヒの容姿」を適当に言ったのだとしても、後半は、実際の姿が見えていればそうは言うまい。
「上半身つうか、俺、今、ぱんいちだし」
菊は「はあ!?」と目をむいた。
「だって、お前が脱げって言ったんじゃねえか」
「や、そうですけど! 上だけでもと言いましたし、普通他人の家でそんな無防備な姿にならないでしょう!? バスタオル置きませんでした?」
早くそれをかけてくださいと目を逸らしていう。その顔が赤い。
「え、今お前の視界どうなってんの」
ちょっと奥歯を噛みあわせるような顔をした後、菊は言った。
「そう聞いた瞬間に、貴方がしゅっとトランクス姿になったんです!」
なるほど、補正するのか。それも、割と勝手に。ボクサーパンツを見下ろしながら納得する。それを告げて再補正させる必要はないだろう。バスタオルを肩から掛け、そうしたと言うと、やっと菊はこちらに向き直った。そして微妙に目を眇める。
「これはこれで、ギリシャ彫刻みたいで腹立ちますね」
いや彫刻にこんなだらしねえ姿ねえだろと思うと同時にその妄想力に奇妙な感動を覚える。この脳は、一つ一つの情報をくっきりとした視覚イメージとして瞬時再構成するらしい。
「……あ、なんかに似てるって思ったけど、あれだ。小説読んでる時に想像するイメージみたいなんだな。後からキャラの外見情報出てきたらそのタイミングで上書き修正されてく感じ」
「あ、言われてみればそうですね! 私は職業柄ライトノベルを読むことが多くて、そうすると外見情報は大体まとめて最初に書いてあるんですが――隠されていた性質が露わになった時に表情がすっと変わるのには近いです」
うん、と菊は満足げに頷いて微笑んだ。
「なるほど。すごく、すっとしました」
「……」
一瞬黙ったせいで菊が不思議そうな顔になる。
「いや! こっちもすっきりした! 納得」
ですね、と再び菊がにっこりしたところで廊下の向こうで、ぴー、ぴーと、電子音が鳴った。菊が立ち上がり、廊下に去る。
「あー……」
そのまま後ろに倒れ込むと固く冷たい床が背中を迎えた。
目のことを聞く前でも、赤の他人にするよりはもう少し親しみを感じさせる笑顔を浮かべてはいた。言うまでもなく親切だったし、有り難さからこちら側の好意は全開放状態だった。でも、今背骨を貫いたのはそんなレベルのものではない、電磁石のスイッチが入ったようにがちっと引きつけられてしまった。
途中で力尽きたとはいえ、この体を玄関からここまで運んでくる程度には、はっきり男だ。声も、端正な造りとはいえ顔も、それを当たり前のように立証している。当たり前のその事実が全くの無意味に思えるような、笑みだった。
携帯が震え着信を知らせた。とるとルッツからで、開口一番「本田に迷惑をかけるな」と言われた。その戒めは、一時間以上遅かった。既にかけまくりだ。
事情を話すと大きくため息をつきつつ、「何はともあれ兄さんが無事で良かった」と言ってくれる。軍曹じみているが優しい弟なのだ。
今日はホテルをとったらそこでおとなしくしていると約束し、戻りの予定時刻などをいくらか話した後、ルッツは小さくため息をついた。
「兄さんの写真を見せたことがあれば良かったんだけどな。兄弟で集まった時に兄さんが撮ったやつなら見せたことがあったんだが」
「あ、あー、なるほど」
それで菊は金髪碧眼と言ったのか。そして、最初から「(兄という存在を)聞いてはいる」という反応だった理由も分かった。ルッツの気遣いも分かる。
「……や、別に俺の顔があいつに分からなくても、別に困りはしねえし」
ルッツはしばらく黙った。
「迷惑をかけるな、と言っているのであって、関わるなと言っているわけじゃない。俺にとっては仕事仲間である前に親友なのだから、もし機会があって二人の方もOKなら会ってもらいたいと思ってはいたんだ。しかし、本田は外に出ないし、兄さんが日本に来るなんて思いもしなかったから」
その辺りの話は東京戻ってから、と幾分ドスのきいた声でルッツは言って、通話を終えた。
「怖ぇー」
ちょうどそう言ったタイミングで菊が戻ってきた。
「何がですか?」
そう言いつつ卓袱台に置いた盆にはペットボトルと菓子がのっている。
「や、ルッツがさ。親父かよって。……あいつ、お前に対してもこんな?」
「こんなと言われても、どんな会話をなさったのか分かりませんが。――でも、そうですね。以前は必要のあるときに誰かの家に集まって仕事していたんですが、私が失明してからはここを仕事場ということにして毎日来てくださいます。家の中にいれば大概のことはできるとはいえ、どうしても手に余る部分もありますが、あの大きな手で受け止めてくださる。そうした意味で、慈父のようだと常々思います」
「……」
でも、と菊は小さく笑った。
「今回ご旅行を勧めたのには、親離れしていかなければという気持ちも幾分かあったのに、危機意識が足りないと怒られるかもしれないなあと思うと、私もちょっと『怖』っとなります」
肩をすくめて、「あ、どうぞ」と盆に掌を向ける。
コップもあったが断り、ペットボトルに口をつける。麦で出した日本のお茶なのだという。初めての味だったがさっぱりと喉を通る。オマンジュウという菓子も、菊が「外国の方は苦手かもしれません」などと躊躇した理由が分からないほど美味しかった。
「うめえ!」と言いながら二口で食べてしまったら、菊が「こちらもどうぞ」ともう一個を押して寄越す。
「台所にはまだ幾つもあるんです。ルートさんやフェリ君はあまり食べないので」
遠慮無く手を伸ばし「貰う」と言うと、菊は「はい」と微笑んだ。
ばくばく食べる様をにこにこと見ている――ように見える――いや、やっぱり見ている、菊を、見る。ルッツがああ言う以上、菊の目に映っている外見は、実物とは全然違うのだろう。それは自分と比べてどうなのだろうと思いもするが、考えが及ばない。
「なあ……」
「はい?」
口ごもっていると、菊は、心得たという顔で立ち上がり、箱ごと饅頭を持ってきた。
「や、うん、さんきゅ」
どうぞというのは嘘ではないようで、菊はにこにこと食べるさまを見ている。言おうとしたことはまるで違ったが、どうせうまく言葉にできない。
緊急対応なら他人でも親切にする、客といえるほど距離が近いなら茶菓子を出してもてなす。ペットボトルをそのまま持ってくるのも、盆をテーブルに置いてこちらにとらせるのも、労力と結果の釣り合いが最適だからだ。ルッツに怒られるかもと菊は言ったが、適切に状況をコントロールできている。本当に『家の中でのことは大概できる』のだ。こいつ、すごいな。茶を飲みながらもその顔から目が離せない。
視線を感じたのだろうか、菊はふとこちらを向いて、何度か瞬きした。
「そういえばギルベルトさん、どこか適当にホテル、とのことでしたけど、都心まで出ます?ここの駅辺りにはあまり宿泊施設無かったと思うんですよ。都心と言っても、二、三駅ですけど」
「あー、ま、そうだな。この線のターミナル辺りで五万くらいのとこあるか?」
「ご!? え、もっと安いのもありますけど……」
えーと、と菊は上を向いて、ユーロ換算値を言った。頷くと、分かった上でならと手を頬に当てる。
「ホテル代にいくらが妥当かって人によって感じ方いろいろですねえ。でも、二万三万がアリならその方がいいかもしれません。英語通じますし」
そう言ってターミナル駅にあるホテルをいくつか挙げたので、名前を知っていた一つを調べて、予約を取った。通話を切ったあと検索画面を閉じていると、菊が「あの」と声を掛けた。
「宜しければ番号教えてください」
「え」
「おかけして、こちらの番号をお伝えしておいた方がよいかと思いまして。明日もルートさんたちは電話が通じないタイミングがあるでしょうから……もちろん何も無ければいいんですけど、念のため」
「え……」
「あ、お嫌なら」
「全然全然全然! ちょー嬉しい、ダンケ!」
慌てて言い募り、番号を早口で告げると、待って待ってと苦笑された。ぽちぽち押していく様を見て気づく。物理キーがあれば、菊にはそれが使える、いや、見えるのだ。指に迷いはない。ほどなくコールがあり、受け取ると「本田菊です」と一メートル先で言う。
小さく咳をして、踊り出しそうな心を鎮める。
「こちら、ギルベルト・バイルシュミット。今後とも宜しく、な」
「はい」
小芝居共演した後の照れ笑いを浮かべて、菊は通話を切った。
番号をアドレス帳に登録しながら、盛大に笑み崩れるのを押さえられなかった。メアドなり番号なりというのは事務連絡の必要事項と思っていて、友人がそのゲットのために労力を払ったりそれを喜んだりする感覚がずっと分からないでいた。けれども、今、当人が目の前にいるのにどうかと思うレベルで顔がにやけてしまう。たかが十ちょっとの数字の集まりだけれども、それが意味するのは繋がりを持つことへのOKサインだ。その接点が、今という点でなく今から未来への線になる可能性でもある。
日が落ちる頃にはTシャツも綺麗に乾いた。むわっとする空気はまだ残っていたけれども、来た時とは段違いの足取りの軽さで、本田家をあとにした。
******
朝食の後テレビを付けっぱなしにしてベッドでだらだら過ごしていたら、フロントから電話があった。客が来ているという。まさか、と一瞬黙ると、フロントは続けた。
「本田様と仰る、……白杖を持った方です」
「!!!」
確かに、自分がここに宿泊しているのを知っているのは菊と、昨日メールで知らせたルッツだけ、けれどもそのどちらもここに来るとは思っていなかった。
急いで降りると、フロント係がロビーの一角に案内してくれた。果たして、柔らかいソファに体をすっぽり沈ませて、本田菊は座っていた。言葉通り、隣に白杖が立てかけてある。
「びっくりした! どした?」
菊は目をパチパチとさせた。
「……そのご様子だと、大した問題は無かったのですね」
「俺にか? 今のところ、別に……。どうかしたか」
いえいえ、と手を振って、若干恥ずかしそうにそれで口元を覆う。
「お帰りになった後掃除をしていて、テーブルの下に何か落ちているのに気づきました。その中に小冊子めいたものがあって、パスポートに見えたものですから……」
バッグから取り出したのは、確かにパスポートに形や手触りの似た――それを模したジョーク商品の、手帳だった。一ページ目にはわざわざラミネート加工に見せかけた処理がしてあって、写真に当たる場所にはドイツで有名なキャラクターが片目をつぶっている。
この頁を見れば、一発で分かる。重要性も緊急性もないことも。よりによって、菊の目にはそう映らないものを落としてしまった。
「パスポートじゃねえけど、ちょー助かった。仕事先とか知り合いとかの連絡先書いてある手帳だから」
実のところ、ばっさりと仕事をやめて旅行に出たのだから、必要は無い。けれども、無くしたら問題なのは確かで、だから紛失に気づいたら焦りながら探していただろうものだ。嘘ではない、と自分に言い聞かせるようにして言葉に力を込めた。
「見つかって良かったぜー!」
わざとらしさが隠せていなかったらしい。菊は目を伏せた。
「ああ……そうですよね、パスポート無くしたならそちらからお問い合わせがありそうなものです」
というより、外国人はチェックイン時にコピーを取られるから、無ければそこで気づく。けれども滅多に出歩かないという菊がそれを知らなくても仕方が無い。そして多分、菊の方からは電話で聞くことができなかった。リダイアルにしろアドレス帳呼び出しにしろ、実際の視力が必要になるからだ。
「……。ちょっと隣行くぞ」
表情では何も伝わらない。
ソファの隣に腰を掛けて、膝に置いていた方の手を掴んで、力を込める。
「持ってきてくれて、ほんとに、嬉しかった。これ自体は緊急じゃ無かったけど、俺のためにわざわざ来てくれたことが、むちゃくちゃ嬉しい。けど、同じくらい申し訳なくも思ってる。……お前、あんまり外に出たくないんじゃなかったか」
人間に様々タイプがあるのだから、同じ視覚障害者といっても外界との関わりは色々だ。毎日出勤する人も、軽やかにあちこち旅する人もいるだろう。けれども、菊は家をカスタマイズして外に出なくてすむ生活を作り上げてしまっている。引きこもりのたちと言っていたが、「家の中が快適」なのは、性質というより「目に見える事実」だ。家の中では全て見える菊も知らない場所に行けば、その瞬間視覚障害者になる。
「あ、いえ……」
菊は口に当てていた手を頬に移した。
「外に出たくないというより、家の中で一日中ごろごろしていて苦にならない、なんです。外に出れば出たで楽しいことも美味しいものもたくさんあるのが分かってるんですが、白杖の面倒を考えると面倒だなあと……それも、下手なままだからなんですけど」
見かけたことしか無いが、こんこんと左右に振るだけで地面の凹凸やゆくべき方向を探り当てるのには確かに技術がいるだろう。「ああ」とも「うん」とも言いづらく、手に力を込めた。伝わったようで、菊は苦笑を向ける。
「あ、でも今回は馴染みのタクシー呼んだので全然白杖使ってないんです。高級ホテルだから、きっと車寄せで降りたところから気を遣ってくださるだろうと見越してましたし」
遠慮無く手を引いて頂きました、と菊はにっこりする。
「だから、来るのは全然大変じゃ無かったですよ」
「あー」
その笑顔は、さっきの自分の「助かる」くらいには真実だと告げている。
「ほんと、さんきゅ。すげえ、嬉しい」
「……」
菊は瞬きをした。その顔がじんわりと赤くなる。
「あの、ちょっと、手の力が強いというか、顔、近くないですか…?」
「わり!」
慌てて体ごと退くと、菊は捕まれていた手をもう片方の手で包むようにしてそっと目を逸らした。
「い、痛かったか?」
「いえ」
短く言って、そのまま黙る。
何とも言えない空気を揺らすようにして、突然携帯が震えた。見ると元「仕事先」からだ。
「あー…。わり、ちょっと電話でる」
どうぞ、というように菊は頷いた。ソファの端によって通話を押すと、低温の怒りを湛えた声が聞こえてきた。一方的解雇ならぬ一方的停職宣言だから文句を言われるのは仕方ないが、もともと苦手なこの女に怒られると血から凍っていきそうな気になる。しかしどれだけ耳が冷えようが、物理的距離はいかんともしがたい。日本旅行中と言えば一瞬の沈黙の後またえげつない呪詛を吐かれた。ある程度は神妙に聞いて、「そういうわけで! じゃ!」とぶつ切りし、電源も落とした。
会話を終えた気配を察したのだろう、菊が、横目で伺うようにして言う。
「……あんまり女性を泣かせるものじゃないですよ」
「ちっ、ちげーし! あいつはマ」
言いかけて頭をかきむしる。
「……辞めて来た仕事のことで文句言われただけ。彼女とかいねえし」
はあ、などと頷いて、菊は居住まいを正した。
「では、そろそろ失礼しますね」
「あ、待て」
思わず手を掴む。
「来た時の、タクシー代。財布とってくるからここで待ってろ」
「そんな」
菊は手を振った。
「一人で勘違いして来ただけなのに、頂けません」
「俺のために来たんだから俺が出すの当たり前だろ」
押し問答を続けた末に、菊が冗談を思いついた顔になって、打開案を出してきた。
「じゃあ、帰り送るついでに……デートしません?」
******
急いで身支度を調えてロビーに戻った。菊曰く、白杖は持ったままにして、肘を掴んで細かく指示を聞いた方が歩きやすいという。涼やかなシャツ姿の菊に合わせて落ち着いた色味で揃えたから、図らずもエスコートのような立ち位置になって、若干どきどきする。食事の希望は特に無いというので、ホテル付設のレストランですますことにした。
「……あのう」
席に通されたあともしばらく落ち着かない様子を見せていた菊がおずおずと口を開いた。
「どした。違うとこが良かったか?」
「ある意味では。ここ、本当のデートで来るようなところじゃないですか」
本当のってなんだと突っ込もうか迷って、やめた。最初から軽口、せいぜい比喩のつもりなのは分かっている。
「俺、この辺の店とか知んねーから」
「私も知りませんけど。それに、歩く距離を減らすために選んで下さったことも分かってるんですが、絶対、お高いでしょう?」
「日本の普通がどんなもんか知んねえからなあ」
「私が一瞬頭に浮かべた候補の十倍くらいする気がします。近所のラーメン屋さんなんですけど」
「言えよ! 今からそこ行くか?」
「いやですよ! 滅多に無い機会なんですから。絶対美味しいでしょうし!」
そう言って、テーブルを掴む仕草をする。死守、ということだろう。
「……でも、お手数おかけしてしまうんですけど、右側に来て頂けますか。最初だけでいいんですけど、皿とか箸とかに手を導いて欲しくて」
席を移っている間に、本日のランチ弁当なるものが運ばれてきた。ウェイターは料理の説明をして置いていったのだが、日本語だったので分からない。
「なんか、布に包んであるんだけど。外すか?」
「えっ、それは自分でやりたいです」
そう言って、手さぐりでテーブルの上の箱に行き着き、「縮緬?」と言いながらひもで窄められた口を開いていく。
「さすがに小洒落てますねえ」
「布の色とか、言った方がいいのか?」
菊は笑顔を返した。
「どちらでもいいですよ。私、もうこの状態を楽しむことにしているので、今赤いこの布が、聞いて早変わりしたってしなくったっていいんです」
「へえ。ちなみに、赤。裏側は渋い金」
「おお。素敵ですね」
そう言いながら、箱から外した布をしげしげと見る。
「手、掴むぞ」
「あ、はい。お願いします」
「ここに、箸な。んで、このラインが一段目の箱の外周で、この奥に長四角の皿で、多分ピクルス。カブみたいなのと、菜っ葉。んで手前左、この辺に、米に小エビ?かなんか混ぜて炊いたのを花形に型押しして上に青い豆のせてある。そんで右側が……ああああああ、もう、悪かった、ラーメンにすりゃ良かったな?」
がくっと頭を下げたら、菊は驚いたように目を見張った。
「え、なんでです……? あ、面倒ですか?」
「ちげえ、食べたこと無いもんばっかりで、説明ができねえんだ。素直にフレンチにしときゃ良かったか? あーでも、俺そっちも名前とかよく分かんねえからなー!」
「私だってフレンチの料理名言われても分からないですよ。さっきのウェイターさんの説明でも右から左に聴きながしちゃいました。でも和食器な分、こちらが断然ありがたいです。そして、さっきも言いましたけど、半分はロシアンルーレットだくらいに楽しんでいるので、見た目が完全に分からなくてもいいんです。粗相の可能性を減らしたいな、くらいで」
「……」
「それに、大枠から説明して頂いたので、自分としてはだいぶ見えてきました。もちろん、これは思い込みなので、零したり音を立てたりはするかもしれません、すみません」
「いや」
実際、食べ始めた菊は、多分日本料理のマナーからは若干外れているのだろう、というようなぶれを幾つか見せた。「ここにある、見えている」と思うから迷い無く箸を出す、その先が皿だったりするから、箸を取り落としたこともあった。何度かは、頼まれて箸を手に戻したり、味噌汁の椀に手を導いたりした。頼まれるまでは手を出さない。どこに手助けが必要なのかがこちらからはほとんど分からないのだ。そして、こちらも箸という道具を使いこなすのに手一杯だ。その様子は見えていた筈が無いのだが、やらかす度に小さく悪態をはいていたせいか、菊はちらりと顔を見てきた。そして、手を挙げてウェイターを呼び、フォークを二本頼んだ。
「美味しく食べるのが最優先です。周囲の目は、気にしないことにしましょう。ご飯の山が崩れて、掴みづらくなったので私も切り替えます。ここのご飯本当に美味しいので、残さず食べたい」
そう言って、にこりと笑う。
「お……、おお」
食い意地がはっているとも言える。けれども、できないことを諦めるでもなく、卑下するでもなく、さらりと楽しみを優先させるその態度には夏の夕暮れに吹く風のような涼やかさがある。
あー、こいつのこういうとこ、すげえ好きだ、などと思う。
「ちなみに、周りのテーブル空いてるから、誰も見てねえぞ」
言われて菊は周りを見回し、ほっと笑った。
「良かった、ちくちく感じていたおばさま目線が消えました。まさに疑心暗鬼を生ずですね」
正確には、目線がない訳では無い。三つ向こうのテーブルからちらちらと送られてくるものがある。けれども、菊の背中から来るそれが菊のマナー違反を責めるものではないことは確実だ。つまりそれは、菊の視界から消えたままでいい。
デザートのプレートを持ってきたウェイターはこちらの四苦八苦と菊の白杖に気づいたらしい。先ほどよりはゆっくりと、そして位置も細かく言葉を添えて、何がどこに盛ってあってどんな色か食感かを説明した。菊もそれに応えてだろう、「ありがとうございます」と頭を下げ、実際その効果もあってだろう、美味しそうに食べる。きっちり食べきった菊がアイスコーヒーのストローを回している間に、ウェイターにカードを渡して会計を済ませた。
エレベーターで降りながら菊はそのことを不満げに言った。
「レジで自分の分出すつもりだったのに……テーブルチェックなんて想定になかったです」
「あ? もしかして会計の仕方間違ったか?」
「いえ、あのお店では問題ないかと思います。私が行ったことのあるような店では違いますけど」
その声に小さなトゲを感じて向き直る。
「俺だって国じゃこういう店ばっかり来てるわけじゃねえぞ?」
「そうなんですか? 石油王の息子なのかと思いましたよ」
「ルッツと同じ親だっつうの!」
軽やかな音が、一階への到着を告げた。
エレベーターホールには客が待っていた。真正面からの視線から菊をかばうように背中を見せて脇をすり抜ける。
タクシーに乗り込んだ後、菊がぽつりと言った。
「ごめんなさい。嫌な言い方しました。気遣って下さったのに」
「あ、いや」
そういうことでもない。楽そうな方を選んだだけだ。
「何より美味しかったし、リードの案配もよくて粗相も少なかったし、お話も楽しかったしで、感謝しきれないくらいなんです。ただ」
「ただ?」
「……こういう世界の人なんじゃ、行きつけだったラーメン屋なんて案内できないと思って」
「なんだそれ。サラリーマン家庭で育った庶民の子だっつうの。屋台のブルストも缶詰のパスタも食う……」
言っているうちに、気づいた。
菊とは、昨日知り合ったばっかりだ。明日にはルートヴィッヒが東京に戻る。今後は忘れ物のようなことがあってもルッツに託せば話が終わる。今日ホテルまで来てくれたこともだから礼にと昼食を奢ったことも、「非日常」、明日以降はないはずのものと思ってもいいはずだ。
食事の後になってラーメン屋に案内「できない」と思うのは、「次」を考えたときだけだ。
「――っ」
白杖を持っていた手を掴むと、菊は驚いたようにこちらを見た。
「白状する」
「はい?」
「さっき、ちょっとお前を利用した。すまない」
小首を傾げて、菊は先を促す。
「エレベーターホールで、俺の顔に気づかれた。でかいホテルはセキュリティがいいと思ったんだけど、考えて見りゃ外国人多いから、俺に気づかれる可能性は高くなるんだった。――俺が辞めて来たって言ってるのはモデルで、アジアでは知られてないと思うけど、大陸じゃ割と仕事ある。……つうか、追いかけられたりする」
「……ああ!」
なるほど、という顔で菊が頷いた。
「著名人だから、ルートさんは、お兄さんのこと黙ってらっしゃったんですね」
「多分。――そんで、さっき、声を掛けられそうな気配を感じた。で、とっさに『んなことしてるヒマねえよ、こっちは忙しいんだ』ってカオした」
「まあ」
また小首を傾げる。
「でも、実際私は人のいるところを歩くの苦手ですし、そちらも歩行介助初めてだったんですから、『忙しかった』のは嘘じゃないんじゃないです?」
「あー……」
そうか、白杖を手に持っている以上、向こうの目にもそれは「介助で」忙しく見えただろう。こちらとしては『デートで』忙しいと見せようとしたつもりだった。
「そうか、でも有名モデルさんだったんですね。確かに、ルートさんも、立派な体格の方に目が行きがちですけど、整った顔していらっしゃいます」
「……」
ルッツの顔とは、本人達が主張するほどには似ていないと誰からも言われる。言葉では表現しづらい相似や差異があるのだろうと思うから、菊の脳内イメージに対して何を言えばいいか分からない。
そもそも、今は、自分がどんな顔なのか、上手く言えない。
モデルの仕事は、悪友が勝手に出した雑誌のなんだかコンテストで受賞してから始まった。
最初は「かっこいい俺様!」と得意になっていたが、そのうちつまらなくなっていった。マネージャーが事細かに指示を出したからだ。モデルは自分で表情を作れないとやっていけないのが常識、けれども、自分で考えたかっこいいポーズは、一切採用されなかった。言われた通りに仕方なく、だから若干ふてくされて写った顔が、なぜか人には気に入られた。仕事だと割り切っていたから、腹を見せろと言われても花びらを噛めと言われても言われる通りやってきたが、撮られたものを見るのは耐えがたいストレスだった。
これは自分じゃない。これは俺の顔じゃない。
ファンだ好きだと言われても違う違うと思い続け、だからどんどん無愛想になって、その姿がまた定着して――キれた。一方的に辞めると宣言して、それまでに受けてた仕事が終わるやいなや日本に来た。
人が知っている「自分」から逃れたくて、誰も自分を知らないところに行けば、本当の「自分」を見て貰えるのではと思っていた。そんな青臭い葛藤を吹き飛ばすほどに、菊はあっけらかんと「本当の顔」を無視した。自分に見える世界が世界だと言い切った。
その上で、これまでの常識ではさっぱり理解できないようなその現象について、言葉の世界で理解を作り上げて、にっこり笑った。
人は、顔じゃなく心でもなく脳に惚れることができる、雷に打たれるようにそう思った。
「雑誌とかにも出てらっしゃいます?――ああ、でもその本が日本に入っていないかもしれませんね」
「文字読めるのか? ……ああ、点字とか」
「あ、いえ。私は成人してからの中途失明なので余計にですが、全盲でも点字読めない人が今増えているんです。あれ、それなりのペースで読み取るにはそうとう指先が敏感でないとだめなんですけど、それを訓練する大変さとそれで得られる情報量を天秤にかけて、私は心折れちゃいました。もっぱら電子図書と読み上げソフトです」
そちらはそちらで、時々噴いちゃう変換あるんですけどね! と菊は笑った。
「え、でもよ」
思わず言い募ってしまう。
「目が見えないと指先つうか触感鋭くなるって言うじゃん」
「あー、それは都市伝説ですよ。そうしないと上手いこと現実こなしていけないと思った人が頑張っただけです。上手く出来た人の話が世間に伝わってみんなそうだと思われちゃったんです」
「じゃ、お前は、指ではあんまり分かんねえの?」
「人並みにしか。例えば――」
菊の家の前に止まった車で、カードの受け渡しをしていたのを指さして菊は言った。
「カードのエンボスも、何が書いてあるかを当てるのにかかる時間は、君とそう変わらないと思います」
「へえ……」
タクシーを降ると、昨日と変わらない温度と湿気でくらりとする。玄関のドア前まで送ったところで、菊は不思議そうに聞いてきた。
「触感の話、なんでちょっと声大きくなってたんです?」
「なってたか?」
なってましたと菊は頷く。
「あー、その。ちょっと、考えたことがあって。でも、それはいいっちゅうか」
「なんですか?」
言い淀んでることには気づいているだろうに、まだ聞いてくる。好奇心猫をも殺すって言うだろうと言いたくなる。いつだって菊は、惹きつけられたものにはまっすぐだ。
「顔を触ったらどんなか分かるものなのかなと思ったんだ」
「顔?」
「俺の。お前、結局俺の顔知らねーじゃん。ドラマとかであるように手で触ったら、本当の姿が伝わるものなのかなって」
「顔を……」
「や、でも、結局お前と話してると、『本当』ってなんだよっていうか、お前に見えてるのが『本当』でもういいかってい……」
言葉を切ったのは、突然顔に手が伸びてきたからだ。
両手で頬を包まれ、親指で眉間をなぞられる。そのまま眼下の窪みに、そして瞼に睫に、指が滑っていく。相変わらず晴眼にしか見えない菊の瞳はすぐそこできっちりとこちらを向いている。身長差から菊の手には背伸びのような緊張が走っていて、それを緩和しようと身をかがめれば、もう菊の目は、唇は、すぐそこだ。
三十五度は絶対超している、四十度だってあるんじゃないかという温度で、体の軸にある何かが溶かされていく。だめだ、おかしくなると思った時、菊が手を離した。
そこでやっと我に返った。
「……あ、っと、じゃ俺はここで」
踵を返しかけたのを、菊が腕を掴んで引き止める。
「あの。ごめんなさい、やっぱり触っても造形は掴めなかったんですけど」
「お、おう。そう言ってたもんな、うん」
「――けど、分かったことがあります。貴方、熱い」
「……っ!」
思わず頬に手をあてて体をひく。けれども、菊は腕を放さなかった。
「君、熱中症です」
「――――は?」
「涼しいところで休まなきゃだめです。昨日の今日なんですから、安静にしないと」
そう言って菊はくるりと体を返して鍵を取り出し、がちゃがちゃとあけた。
何を言っているんだと思っていたが、そうして後ろから見下ろす体勢になって、「ん?」と気づく。寄ってみると、やはり、耳が真っ赤だ。
「なるほど、熱中症」
「……!」
ドアを大きく開けながら、菊は耳を手で覆って、怒ったように「何ですか」と言う。だめだ、笑う。
「オジャマシマス」
「ドウゾ」
今度はちゃんと靴を脱いで、あがる。
月に降りたアームストロング船長のような気持ちで、慎重に、そして感慨深く小さな一歩を踏み出す。これは始まりの一歩。そして、「本当」と「表層」を越えた新しい概念への一歩だと思う。多分そこでは、「障害」と「健常」も対義語ではなくなる。
目を取り戻した菊は、さっさと中に入り、クーラーをつけて、台所からスポーツドリンクを持ってくる。
昨日言われた熱中症応急処置を言ったらどんな顔をするだろうと考えて耐えられず噴き出したら、菊は「なんですか、もう」とクッションらしきものを投げ、正確に顔面にぶつけた。