ギルベルト×菊(消失普追憶/「桜前線兄さん」)
足先からといえば誰しも親指か小指を思うだろうに、薬指から春は来る。
男のとはいえ足の爪、まして薬指のそれはあまりにも小さく、手の指一つ重ねれば全て覆い隠せてしまう。まだ冷たい縁側に腰を下ろし一方の膝を立ててその上に顎を乗せ、もう一方の足は折ってだらしなく投げだし、私はその薄紅色に染まった爪をそっと撫でる。
「きるちゅ、ぶるうて……」
桜花は、一度冷やされてからしか開かない。その低温に達しないため、沖縄に植林されたソメイヨシノはしかし花をつけず、葉も茂らせない。かの地で一瞬だけ降ったと語り継がれる、証拠も記録もない雪が再び降る日がもし来たならば、そのソメイヨシノも花咲くのかもしれない。……そんなことを、一体どこで聞いてきたのか、過日の彼は淡々と語った。寒緋桜の並木の中に植えられたそれは、ただひとり冬を待っているのだと、そう言って笑った。
その後の気温の高まりをではなく低温自体を受けて咲く寒緋桜は、だから、沖縄本島の北から咲き始める。ぽってりとしたその花は、梅か、いや紫木蓮かというほどに色が濃い。まるで鳳仙花の汁で染めたようにそこだけ華やいだ薬指の爪を、そっと、そっと撫でる。そこに多分、彼がいる。
初めて着た舶来の服は袖も裾も余った。靴は足の幅に合わず小指を痛めつけた。五線譜の歌を歌えば音階がずれた。焦燥にまみれて洋書に埋もれていた時代、襟首を引っ張るような強引さで軍事訓練に駆り出されたことが度々あった。この国の軍装は裾が長く身の丈に合わないと言えば、詰めりゃいいと着ている服を躊躇いなく切ってみせて、手触りも上等そうなそれをぽいと渡された。
大将格であるなら馬に乗ればいいのに、走れ走れと叱咤するとき彼も隣の地を踏みしめていて、それなのに息も切らさず指揮を執る。翻る外套は深く鮮やかな紺で、白い襟とくっきりとした対比を見せ、何より強い意志力を示す赤い目が映えた。彼が軍を率いる様はまるで雲を操る疾風のよう、信号喇叭は空間を裂いて彼を讃えた。
常在戦場という日本語を聞いて、まるで俺だなと彼は笑った。彼は常に前線に在る将だった。
爪が全て染まれば、徐々に肌が赤らんでくる。踵、踝、脹ら脛。湯に入った後のように、または、掌で撫で上げられるように。桜色は私の表面を侵食しながら少しずつ中心に迫ってくる。脳では無く肌が彼の指を覚えている。筋の一つ一つが記憶と同じくなぞられる。
近代を象徴する花・ソメイヨシノは、一斉に咲き、一斉に散る。蕾は確かに紅を有しているのに、開けば開くほど白んでいくその花は、葉に先んじるために、見上げる者の視界を一色に染める。体幹を侵すその紅は、火照りのようなもので下半身を包む。膝の裏の窪みから、筋肉に沿って腰骨へ、そして脇腹へ。彼の手は私の体を隅々まで染め上げて、心臓に迫る。樹下で浮かれ騒ぐ人々の酩酊につられたように、体はしびれ、呼吸は浅くなる。まぶたの裏に映るのは五弁の花、その中央の紅の色のみ。耳の奥で響くのは信号喇叭か、フルートか。脳は子供のように詮無い願いを繰り返す。
抱きしめたい。そして、抱きしめられたい。
洋書に埋もれていたある夜、息抜きにとガラス窓を開けると、夜想曲がかすかに聞こえた。横笛を能くした上司は多いし、私も龍笛は嗜みとしている。西洋のものは長さがある分それより音が柔らかいのだなと、目を閉じて聞きながら考えていた。冬のことで、星が冴えていた。寒い街、城内はどこも窓を閉ざしていて、星空の下、ただ音だけが私の周りにあった。
突然音が止んで顔を上げると、聴衆を想定していなかったらしい彼は、中庭を挟んだ向こうの窓辺で目を丸くしてこちらを見ていた。驚かせたらしい詫びにぺこりと頭を下げ、ついで賞賛を献上すべく手を叩くまねをすると、通じたのだろう、やがて彼はふうわりと笑った。
まるで、夜空に花の咲いたような。
文学の師には朱をいれられそうな比喩を思った。
その頃、彼の手は、顔は、息は、確かにこの地に在った。
「しゅてるねん、ひん、める……」
声は星空に吸い込まれて消える。体を倒せば、頬は縁側に冷やされる。家の庭にも桜木はあり、この地まで来た桜前線は、月光をうけて輝く花靄を創り出している。そして、足先では、既に白い霞さえ砕かれつつある。割れた裾からのぞく足の甲を見ていられなくて、目だけをあげて桜木を見る。
今ここに、彼は来ている。いるからこそ、ここに桜花の景色がある。
その筈なのに、私はひとり、自分の熱をもてあましたまま冷たい床に横たわっている。満開の桜花の冷え冷えとした白さは、私の手に心臓を掴ませる。この色は、熱は、じきに北に移り、私は舞い散る花吹雪の中に取り残される。
予兆はあったのだという。ともに暮らす家族にも、しかし後になってやっと思い当たる程度だったというそれは、そして別れの言葉は、私にはもたらされなかった。彼はいつも、私が見た一番最後の瞬間にも笑っていた。ひとりさびしすぎるぜと決まり文句を口にしながら、饅頭だのなんだのをぱくぱく食べた。凝った肩を叩いていると、暇だからつきあえと遊びだの掃除だのをせがまれて、汗をかかされた。俺様の歌を聴けと始めたひとりコンサートでいつの間にか一緒に歌わされた。音程も何もない、ただ叫ぶだけのような歌。
……何もかもが、後になってから気づくことだ。
俺はいつも前線にいる。
その言葉を儚いよすがに、桜の季節は彼を思う。彼は私の体を駆け抜けていく、そうに違いない。別れを言わなかったのは別れではないからだ。去る日があってもまた来るから、季節は巡るから、星も桜も変わらずここにあるから、だから。
しどけなく投げ出された腕が肩から次第に染まっていくのを見ながら、そして掌の熱が喪われていく頬を感じながら、「Kirschblute」と呟いた。
音量も発音もまだまだだったのだろう、けせ、と笑ったような風がやわらかく吹いて、指先に花弁を届けた。
冬について語らぬままに春の来てまた目が眩むのだ、花吹雪(穂崎円)