ギルベルト×本田菊(「風立ちぬ」とのクロスオーバー)
「煙草、如何ですか」
突然隣から声を掛けられ、驚いて振り向くと、すぐ脇でデッキに腰を下ろしていた男がそっと箱を差し出していた。あるはずだった最後の一本が出てこない、出てこないと紙の箱を振って、ようやく諦め握りつぶしたのを見ていたらしい。
がたん、と列車は揺れ、おっと、と小さな声をあげた男はデッキの手すりを握り直して再度箱を差し出した。
「舶来ものですか」
声に逡巡の響きを聞き取ったのか、男はいえ、と手を振った。
「船に乗ってきたのは私です。土産に買ってきて配ったんですが一つ余ってしまって。私も家族も吸わないので、宜しければ箱ごとどうぞ」
遠慮で言っているようではなかったから、有り難く受け取った。葉巻めいた独特の香りを肺一杯に吸いこんで、深々と息を吐いた。「あれ」以来、本数が増えている。良くないことだとは分かっているが、沼に沈んでいきそうな心をせめてもつなぎ止めるのが煙草だった。幸い、自分が後尾側に座っている。吸わないという男に煙が掛かることはないだろう。それでも更に流れ去る景色の側に口を向けて、また煙を吐いた。
「フランスに住んでおられるのですか」
人と関わるのが得意なたちでもなく、特に最近はそうしたい気分でも無かったが、何となく会話を繋いだ。礼代わりというのでもない。この列車に乗っているということは長旅なのだろうが、男も別段人寂しそうにはしていない。何となく――今自分が足を飲まれている沼から男は遠いところにいるような気がして、言葉が転がり出た。
「ええ、ここ十年ほど。それで、ここに」
景色を見たくてデッキに座っているという意味だろう。風は変わらないですね、と男は言った。自分よりはいくらか年上だろうか。凪いだ川のような静かな顔をしているけれども、切りそろえた髪がさらさらと風に揺れる様は、かつて見た少女のそれを思い出させる。
「……もとは東京ですか」
この十年というなら、震災での東京の変わりようは衝撃的かもしれない。そう思って聞き、直後に、それなら横浜港に行くだろうと質問の間抜けさに縮こまる。しかし男は頷いた。
「おおもとはそうなんです。大阪で葬儀があったので帰国したんですが、ちょうど知人が来日しているというので寄って行こうかと」
わざわざ帰国するとは、よっぽど近しい人が亡くなったに違いない。無言で頭を下げると、静かに返礼された。
「……ははが」
「ああ……」
それは辛かろうと声を落とすと、小さく哀しみの笑みを返された。
「駆け落ちのようにして家を飛び出したので……恩知らずの親不孝者とさんざ詰られてきました」
駆け落ち。顔に似合わないその言葉に思わず目を見張る。静かな目をしているが、どんな情熱が十年前の彼を駆り立てたのだろう。驚きが顔に出ていたのか、男は照れたように言った。
「ちゃんと『生きる』ってことをしたかったので」
「……」
わずかな混乱を誤魔化すように、二本目の煙草に火を付けた。
子供の頃の夢に向かってずっと走り続けてきて、そんな思いを「人」に向けることが無かった。親友が妻をめとる際に「仕事に本腰を入れるため」と矛盾を笑った、その言葉を「そんなものだろうな」と思うくらいだったから、例えば柳原白蓮の、例えばイギリス皇太子の熱情はよく分からない。『生きる』とは他人無しではなしえないことなのかとさえ思う。自分もそのうち誰かの斡旋で嫁をもらう日が来るのだろうが、この自分が生き死にを他の「人」と結びつけて考えるとはどうにも思えない。それくらい一心に「もの」をつくって来た。
最初のシャボン玉は、無残に墜ちた。
集められ、並べられた残骸は死体にしか見えなかった。殺したのは、未熟なまま飛ばせた自分だった。
列車はトンネルに入った。温度の低い闇の中で、見えない手のひらを見た。ここにはどす黒い油のような血がこびりついている。
入ったときと同じくらい唐突に、列車は光の中に戻った。視界にうつる掌にはもちろん何もない。
「ははには何通か手紙を出していて――でも返事は無くて。やはり、分かっては貰えなかったのだろうと諦めていました。けれども、形見分けとして渡されたのが、ははが数年前に縫ったという婚礼衣装で、私の名を刺繍してありました。多分、ははに理解しうる形、表現しうる形がそれだったのだと思います。男物の用意もあって」
こみあげるものがあったのか、男は両の手を合わせるようにして口を隠した。
「……ははは、仇とさえ言ったことがあるのに」
目をつむってこらえるようである男の顔をじっと眺める。
列車は緩やかなリズムを刻みながら野を駆け、川を越えた。ややああって、男はすみませんと照れ笑いを見せた。いいえ、と首を振る。不快では無かった。時が溶かしていたらしい母子の確執が、その消滅を知らせたのが死であったのは残念だと思った。
「じゃあ、その花嫁衣装を、着せてあげないといけませんね」
「えっ」
普通に頷かれるだろうと思っていたことに思わぬ反応を返されて、こっちが驚く。
「あ、ああ、そうですね」
表情に慌てた様子で男は笑った。その時ふわりと風が吹いた。帽子が飛ばされそうになり慌てて押さえると、男も膝の上にかけたブランケットを捕まえていた。
男はしばらく黙っていたが、やがてこちらを向いた。
「アメリカで評判になっている詩があるらしいんです。Do not stand at my grave and weep,I am not there, I do not sleep.――と続くんですけど」
ご存じですか?と表情で聞くので首を横に振る。男は続きを暗唱した。
I am in a thousand winds that blow,
I am the softly falling snow.
I am the gentle showers of rain,
I am the fields of ripening grain.
「知り合いのアメリカ人が、訃報を聞いて手紙をくれたんですが、その中に書き写してくれていました。そしたら、それを読んだ家人が、計算を始めて」
「計算?」
「人間の体は、十の二十八乗個の原子から成り立っているそうです」
「はあ……。?」
「日本では火葬にしますから、その原子は風にまじって大気中に拡散していきます。なので、地球上のどこで風が吹いても、その中にはある人を構成していた原子のうち十の三乗個は含まれる計算なのだそうです」
「ああ、千ですね……!」
「ええ。すごいって感嘆してましたけど、可笑しくって……!」
「詩人のあたまには無かった計算でしょう」
「そうですよね。……でも、嬉しかったです」
ええ、と頷く。興ざめだと思う人もいるのかもしれない。けれども、計算が身近にある自分にはその証明は優しい思いやりに満ちているように感じられる。
「失った人も、失ったものも……失わせたものさえ、ここにある」
「これから失っていくものも」
背伸びする国と未熟な自分は、これからもいくつかシャボン玉を飛ばしては弾けさせてしまうだろう。やっと屋根まで飛んだとしても――目をつむってひっそりとその先を想う。
背伸びの余り、つま先立ちになって、この国は首相を殺した。混迷の続く中、失うものはなんだろう。その代わりに得るものとは。
「それでも、全部を風の中に感じながら生きていくのですね……」
男は独り言のように呟いた。
男が付け足した「それでも」の中身は、当然自分と同じでは無いだろう。けれども頷いた。
列車が緩やかにカーブして、また風が吹いた。
男は風に言葉の粒を落としていくように、あの懐かしい言葉を呟いた。
Le vent se leve, il faut tenter de vivre(Ambroise Paul Toussaint Jules Valery)