Je suis ici.

フラ菊

フランシス×本田菊 (19世紀後半~20世紀後半)

1 「ちげーよ。日本が好きなのは、俺様なんだよ」

さっき聞いたガムランの銅鑼の音が耳の奥に蘇った。
「おう!来てたのか髭」
「お久しぶりです」
手を挙げる旧友の横で、切りそろえた髪を垂らして深々とお辞儀をした日本が顔を上げた頃、やっとフランスは手を挙げ返すことができた。
「来てたのかはこっちのセリフ。お前は来ないかと思ってたよ――ていうかなんで一緒にいんの」
文句のような口調になった。いや、来てくれたことは嬉しいんだけど。ちょっと驚いただけなんだけど。自分に弁解していると、日本が微笑混じりに答えた。
「ご案内して、案内返ししていただいていたのです。私は日本列品場を、プロイセン君には機械館を」
「いやいや!俺に案内させてよ!俺が主催なんだから!!」
両手を広げて見せる、その背後にはぴかぴかのエッフェル塔がそびえ立つ。第四回パリ万国博覧会、五月に始まったそれは順調に来場者を重ねている。
プロイセンが口を尖らせた。
「俺が案内しろっつったら勝手に見ろっつったじゃねーか」
「あったり前でしょ、お前『大革命百年』に興味も敬意もないでしょーが」
わざとらしくつんと横を向くプロイセンの頬に軽く拳をあてて、フランスは再度日本に向き直った。
「日本は正式なお客様だから、言ってくれればちゃんと時間とるよ」
フランス革命百年記念、の言葉に周辺諸国は眉をひそめた。……眉といえば、抗議を突きつけてきた国さえあった。君主制の国にとってはちっともめでたい記憶ではないからだ。更にナポレオン旋風をもろに受けた国も多く、正式に招待を受理した国は三十に満たない。日本はその貴重な国の一つ。同じく招待国のアメリカほどには革命理念へ共感していないだろうけれども、欧州諸国とは受け取り方が全然違う。そして、ジャポニズム只中のパリで、日本の出展は物産だけでなく興行も大きく賞賛されている。二重の意味で賓客なのだ。手を取らんばかりの勢いで「もー!」と言うと、日本はふわりと表情を崩した。小さく笑っただけなのに、鈴が澄んだ音で鳴ったような気がした。
「ありがとうございます、でも、案内と言ってもただ一緒に回ったという程度です。師匠のところにお礼に出向いたついでに、こちらに足を伸ばして」
「……ああ、憲法の」
今年の初めにお披露目をやっていた。その理論を学びに留学に来ていたのは、もう十年近く前になるのか。ふらりと遊びに行った時に本の山に埋もれて自習していた姿を見たことがある。聞けば答える、けれども俺様に聞くしか答えは得られないというまで勉強してからにしろ。そんな厳しい言われようにも負けず、時間を惜しんで本を読んでいた。そんなことを、師弟二人も思い出したのか、目を合わせて微かに笑った。
「……あの、さ」
窓を開けて部屋に風を入れる時のような気持ちで、フランシスは口を開いた。その実、言わんとする何かを持っていたわけではないので、「さ」の後数秒の沈黙が続いた。
「なんだよ」
「あー…、うん、そうね。この後、予定ある?」
プロイセンは一瞬口をつぐみ、その横で日本は「はい」と頷いた。
「コンサートのチケットを取ってあるのです。プロイセン君をお誘いしたのですが、断られてしまって」
「コンサート?」
「ええ、ショパンの。今年は没後四十年だそうで」
「……ああ、だ、ね……」
「でも今日はお二人でコミック・オペラをご覧になるのですってね。予定がぶつかってしまって残念です」
え、そんな約束はと言おうとしたところ、日本の見えないところで足をがんと踏まれた。遠慮の無いその勢いに思わず悲鳴を上げそうになる。前々から思っていたが、やることに愛がない。黙っていろと言いたければスマートにやる方法はいくらでもあるだろうに。
「だな!ま、楽しく聞いてこい」
はいでは、と日本はまた小さく微笑んで頭を下げ、踵を返した。
「……んで、どーする。エスクラルモンド、ほんとに見る?」
この万博に合わせて作られた恋愛歌劇で、魔法あり妖精あり、裏切りありからのお約束的大団円あり。プロイセンがこれに興味があるとは思わなかった。目線にその意を込めて見やると、プロイセンは「あー」と濁った声を出した。
「アメリカが好きそうだよな。荒唐無稽で」
軽く驚きつつ見たのかと突っ込むと、うんと頷く。
「筋書きは置いといて、三点Gはすげえ」
第三幕のアリアの話だ。モーツァルトのハイFの更に上。
「ああ。シビル・サンダーソンありきの旋律だからね。普通は出ないよあんな高音」
「だよな。後世の人間が再演できないようなものよく作るなってある意味感心した」
プロイセンは尖った顎に手を当てた。いつもの奇声や粗暴な振る舞いからは想像しがたいが、列強の一角を占めるだけあって、ハイカルチャーも知悉している。鑑賞眼も、滅多に人前には出さないが演奏技量も、かなりのものだ。
「それ言っちゃったら、超絶技巧はリストだってショパンだってさ……」
「あー」
話が戻った。顔を見合わせて、どちらともなしに言った。
「飲むか」

「音楽は国境を越える、だってよ」
「へー」
胡乱な目で相づちを打ったプロイセンはこちらも見ずにグラスを傾けた。
「生まれたときから国境があった世代のセリフだな、そりゃ」
「だよねー。いや、勿論、前からあったけどさ」
彼我の隔ては勿論あった。風土も違えば言葉も違う。それでも音楽に関して言えば、それを享受できる特権階級とそうでないものの差の方が大きかった。各国の宮廷文化は横の繋がりを持っていて、音楽家は活躍する場を変えることも多かった。国境など、生け垣ほどにでも感じられてはいなかったろう。
「むしろ最近になって音楽の世界に『国』がしみ出てきた感じだなあ」
音楽にとどまらず、全ての側面でそうなのだろう。一人の人間を生きる上でどの国に所属するかということの重みが、ナポレオン旋風とそれに基づく国民国家意識によって格段に増したのだ。お前のせいだとテーブルの下で足を蹴ってきて、プロイセンは小さな声で呟いた。
「その最たるものが……」
ショパンだ。ポーランド革命の最中にあって、亡命者としての人生を半ば自分で選んだショパンは、祖国への愛を音楽で表現した。彼はパリで活躍したが、徹頭徹尾ポーランド人だった。
「俺、はっきりあいつには嫌われてたからなー」
「俺だって、日記で名指しで呪われたんだけど。なんで助けないんだって」
「へー…」
沈黙が落ち、二人は同時に酒を呷った。やがてプロイセンはととんととん、と空いた手でテーブルの鍵盤を叩いた。「革命」のリズムだとフランスは思ったが、口には出さなかった。
「つっても、『越える』ってのもまさにショパンで分かるっつーか」
「うん、名曲だってのに異論はないね」
「ああ。俺も弾くことあるし、お坊ちゃんが弾くのを聞くこともある」
そう言いながら日本の誘いを断ったプロイセンの気持ちは、分からないでもない。時に火のような激しさを見せる彼の音楽を第三者顔では聴けない、かといってそんな葛藤を顔に出して鑑賞の邪魔をしたくないのだろう。フランスやプロイセンと違って、日本は純粋にその調べを楽しみうる立場にある。人で言えば同僚のような関係でしかないフランスでも、その空間を守ってやりたいと思う。まして、師匠と呼ばれる立場なら。
そう言うと、プロイセンは更に複雑な顔になった。
「……あいつの言葉で音楽ってのは音を楽しむって書くんだけどよ」
「へえ」
よく知ってるねーと呟くとプロイセンは軽く眉をあげて、続けた。
「楽しむどころじゃねーんだよな。眦つりあげてオベンキョウ!!ってつもりでコンサートに行ってる」
「そうなの?」
「俺んとこ来てたときはな」
長いため息をついて、プロイセンは言った。
「息抜きのつもりであちこちのオペラ見せて回ったんだけど、余計に肩こらせたみたいだ」

そんな会話をした、十年ほど後。十九世紀最後の万国博覧会が再びパリで行われたその場で、またプロイセンと飲んだ。来仏している川上貞奴の興行を見に行ったら顔を真っ赤にして追い返されたという。
ぷっぷくぷーと頬を鳴らして、けれどもプロイセンは文句を言わずに黙り込んだ。
「うーん?俺はすんなり入れたけど。面白かったよ」
「その時日本がいなかったからだろ。いたら同じ目にあってる」
見たくて行ったのだし、十分にその劇を楽しんだのだから、『同じ目にあ』わなくて、良かった。勿論。そうなのだけど、「恥ずかしいから、見ないで」とこいつが追い出されたのは、日本にとって『この人には立派だと思われたい相手』だからだろうとも思う。
「そーうかなー」
その声に何の響きを聞き取ったのか、プロイセンは片眉をあげた。
「んだよ」
「お前はさ、日本にとって特別じゃん?」
「あ?」
「だって、音楽に関して、完全に『先生』だろ」
「あー」
憲法発布に先立つこと二年、やっと作られた国立の音楽学校は、紆余曲折を経て、音楽家育成学校としての体裁を整えた。講師陣はドイツ系で固められ、講義内容も教える奏法も完全にドイツ式だという。
「日本で、知ってる作曲家挙げろって言ったら絶対全部ドイツ人だよ。ベートーヴェンにバッハ。しかも、大抵の日本人がそれを知ってる」
「あー…」
「知ってるだけじゃなくて、崇拝してるっていうか?熱愛って言ってもいい」
声に変な勢いがついているのは感じていた。それがどことなく尖っているのも。プロイセンは五月蠅そうに手を払った。
「ちげーよ。日本が好きなのは、俺様なんだよ」
「え」
自分が言っていたことことを言い換えたような言葉に、けれども、息が止まった。
「え、ってなんだ……って」
目を開いたプロイセンがぽかんと口を開けている。なんでこんな顔をしているんだろうと思ったら、まさにその台詞を言われた。
「おま……なんつう顔してんだよ……」
「え?」
言われて思わず手を顔に当てる。
「え、どんな顔」
別に泣いても笑ってもいないのに変なことをいう。更に変な言葉をプロイセンは続けた。
「そういう意味じゃねーよ……心配すんな」
「心配?」
「無自覚かよ!」
わしわしとプロイセンは頭を掻いた。短い髪の毛がぴんぴんと跳ねる。それを意にも介さない体で横を向き上を向きしていたプロイセンだが、やがて口を開いた。
「……日本語っつうか中国語っつうかに、『耳食』って言葉がある」
「うん?」
話の急展開に思わず瞬きをしてしまう。
「食い物の味を人から聞いただけで判断するってことから、人の判断を鵜呑みにするって意味らしい。それをもじるなら、あいつは『目聞』してんだ」
「目で、聞く?」
「今の日本人で、オペラを実際に聴いたことがある人間なんて、海外渡航経験者のほんの数パーセントに過ぎない。それなのに新聞やら雑誌やらで歌劇についてあーだこーだ言ってるのは、筋立てや劇評を翻訳で見知っているからだ。管弦楽の演奏だって、東京音楽学校がやってる演奏会くらいでしか聞く機会が無い。それなのにそこらの学生までベートーヴェンを知ってるのは、その伝記が有名だからだ。あいつはドイツの音楽が好きなんじゃない。つうか、それをまともに聞いてない。聞いて理解しなきゃと焦ってはいるけど耳が追いついてない。それなのにドイツ音楽を褒め称えているのは、実の所、音楽家にまつわる英雄譚に感動しているからだ。あいつは、刻苦勉励とその結果の大成というストーリーが大好きだしな」
「……ああ、そういう意味……」
ん?と首を傾げる。
「それ、ベートーヴェン個人が好きなのであって、お前が好きなんじゃないよね?」
「だっからそういう意味じゃねーっつったろ。俺個人をあいつ個人がどうこうじゃねえ、けど、これは断言するけど、日本人はドイツが好きだ。質実剛健だからな!」
威張ったように高い声で笑い出す。その響きは「質実剛健」のどの言葉からも遠くて、フランスは思わずふへっと笑った。
ひとしきり笑いあったところで杯を干して、プロイセンはがしりとフランスの肩を掴んだ。
「つーわけで、宜しく頼むぜ」
「へ?」
「固いのが固いの真似してちゃ肩も耳も凝る。ちっと溶かせ」

――――「日本人はベートーヴェンの音楽を聴く前にベートーヴェンを偉人として、大芸術家として頭へ刻み込んでしまったのである」(堀内敬三)