「猫の話」

ギル菊

ギルベルト×本田菊 (梅崎春生オマージュ、1947普消失ネタ R15G)

ベネディクト・アンダーソンが「国家は想像の共同体である」と説いたとき、菊ならずとも多くの国は「何を今更」と思ったにちがいない。国は実体を持たない、そんなことは菊たちには自明のことだった。人としての姿を持ち、ものを食べもし字を書きもするが、ふとしたときに自分の姿が透けているのに気づいたりもする。では虚像なのかと言えばそうとも言えない。国民の想像の結果、国家はそこに存在を獲得する。国家は、”在るとされているから、在る”。そこに国を見る人々の意識が彼らの姿を現出させる。顔も形も、性格でさえ、自身の所有物ではなく、その地理的有り様と国民の意識が反映したものとなる。


二人が出会った頃菊が痩せていたのは発展途上の経済力を反映してのことだったろう、そしてギルベルトの細く締まった躯は贅肉を極限までそぎ落とした鉄血政策の現れだったのだろうか。痩せた身と身とを隙間なく重ねて厳しい伯林の冬を越した。
ギルベルトは肉も芋も食べたが、酒を愛した。友人や同胞がいるときは陽気に飲むが、一人の夜は静かに、むしろ悲しそうに酒を飲んだ。そんな夜は、酒杯にうつる月に過ぎた日を蘇らせていたに違いない。長く生きていれば、逝く国を見送る日もある。名前だけを変えてつながっていく国もあれば、新しい世代にその地を譲り、いずこへともなく消えていく国もある。

菊より多くそうした国を見送った耀も、同じような目で酒を飲むことがあった。
そして、菊よりも古くから詩歌の伝統を持っていた耀は、低く歌うようにして詩を諳んじた。

 高堂に置酒し 悲歌してさかづきに臨む 
 人の寿命幾何いくばくぞ 逝くこと朝霜のごとし

幼い頃兄と呼ぶ人の背を見ながらそうしたように、菊は、遠く月を見ながら蒸留酒を口に運ぶギルベルトにも声を掛けられずただじっと後ろに佇んだ。
この人に、私は与える何ものも持たない。
自分こそが薄い胸板を持ちながら、菊はそのギルベルトの細さが寂しかった。

時代という冬から逃走するように二人で駆け抜けて、しかしそれが故に、ウルトラナショナリズムとの名で二人は断罪された。

食糧にも事欠き、ただ病室の窓から世界を見るしかできない菊の前で、まるで車に小動物が撥ねられるようにあっけなく、プロイセン王国はドイツ暴走の元凶として解体されることになった。

アンダーソンが言うように、国家は”最初から在るもの”ではない。連続する時間の中で、今を呼ぶ一つの言葉が国名なのであるから、「死」は瞬間であり、遺骸さえ残さない。だからそれは菊の幻覚である、間違いなく。そうであるにも関わらず、菊は、ギルベルトの身体が、連合国の鉄槌によってぐしゃりと潰される音を、空気の振動を、飛び散るものを、ありありと感じ取った。鉄槌を振り下ろしたその手も、その感触に怯んだ、しかし、正義という言葉を思い出したかのように力を取り戻し、力強く去っていった。北西ヨーロッパの暗い冬の雲の下、ギルベルトはそこに潰れていた。
叫ぶこともできず、菊はただその幻覚を見つめていた。目は開いたまま、涙を流したまま。瞼は固まったように閉じなかった。窓を掴む指は震えていた。

私の目の前で、彼は、死んでしまった。あの高らかに笑うギルベルトが、意地悪い目で菊を翻弄するギルベルトが、そして一人静かに杯を傾けるギルベルトが。

窓の外は次第に暗くなり、やがて雨が降り込み始めた。嵐の時代が近づいていた。冷たい戦争。そのように呼んだのは、火花を他者に押しつけた者だ。菊の目の前で火花は散り始めていた。閉じない瞳の前でいくつもの閃光が落ちては消えた。
三年以上続いた隣国の戦争は、数百万規模の人命を奪う一方で、特需景気という形で菊に体力をもたらした。その分心の何かを売り渡したような気になりながら、菊は窓の外を幻視した。
やはりそこにギルベルトの死骸はあった。菊にしか見えない、実体のない遺骸は、そこに無く、しかし、在る。誰もその影を国の死体だとは思わない。傍目にそれは人の形をしたずだ袋のようで、人はそれを避けて通るけれども、そこに悼む心を置かない。あまつさえ、まるでずだ袋の端が風に煽られて揺れるように、ギルベルトの手足の先はぺらぺらと動いた。


菊の脳は在りし日のギルベルトに支配された。敵を見つけそれに挑みかかっていくとき、眼が燃えるように赤さを増す。菊を抱こうとするときもそうだった。快楽を隠さないギルベルトの眼は見ている菊が灼かれる程の熱さだった。その眼は、もう開かない。その眼の光は、もうない。ギルベルトは、雪解けの道路の上でよごれた紙のようになって広がっている。

それは菊の幻覚であり、だから菊にはどうすることもできない。かれを道路から引きはがし飛び散った内臓の欠片を手で掬って、全てを墓に埋めてやることなどできないのだ。
ただ菊にはそこにいたはずのギルベルトの姿を描出するしかできない。

70年代。軍拡競争は続いていたが、次なる世界大戦の現実性を誰もが感じなくなっていた。第三世界の台頭、多極化、複層構造化する世界。それまでのフレームが役立たなくなっていき、誰もが新しい世界の軸を見定めようと眼を凝らしていた。

そうして、菊は気づく。

ギルベルトの死骸が、小さくなっている。

「………え………」

窓に駆け寄り眼を凝らすが、やはり一回り小さくなっている。

「……っ!」
菊は思わず口を両手で覆った。

人は二度死ぬという。
肉体が死滅した時、そして、誰からも忘れられたとき。

国に実体はない。国民の、在ると思う気持ちがそこに国を在らしめる。
「死」が瞬間であり、死骸を持たない国は、ある意味では人よりも忘れられやすい。

新しい事態。大きな変化。そうしたものが、まるで動物の死体を踏みつけて通り過ぎるトラックのように、ギルベルトの死骸の端を千切っては飛ばしていく。
今こうして千切られていくギルベルトは、つまり、その存在を、現在進行形で忘れられているのだ。

既にギルベルトは、崩れ、乾き、ただの物体と化している。それが少しずつ剥がれ、風に連れ去られていく。

「あ……う……っ」
嗚咽が胃から漏れ出た。高度成長とオイルショック。環境問題にジャパンバッシング。目の前の事態に眼を奪われて、菊の中からもギルベルトの面影は霞みつつなかったか。ギルベルトの踵を、膝を砕いたのは菊ではなかったか。

それからは眼が離せなくなった。幻覚であるが故に人に訴えることも出来ず、しかし忘却が現実であるが故に押しとどめることもできないまま、ギルベルトは菊の目の前でぼろりぼろりと崩れては飛び散り、その本体は小さくなっていった。
菊の頬をなぞったあの白い指はもうとうにない。細かったのにしっかりと菊を受け止めたあの胸板も。最後の肋骨は去年失われた。先月には鎖骨がちぎれ、飛んでいった。
眼を閉じた白い顔だけがまだ残っている。道の上に、既に人とは思えない姿で。しかし菊にはそれがギルベルトであることが分かっている。

あれは私を見つめた眼、あれは私を噛んだ歯。私を慰撫した唇。

「ぐ……っ、ふ……」

膝が自重に耐えられず崩れ、菊は窓にしがみついた。その菊の、目の前で、また風が吹く。