五月

フラ菊
                      悲しめるもののために
                      みどりかがやく
                           ――室生犀星
五月_1968:本編/人+国

■フランス

 「男の子だっていいじゃない」――に類する言葉をフランスが言うようになったのは、実はかなり最近のことになる。
 彼はこんな台詞を言うとき、好色そうな笑みに見せかけて、ほんの少しだけ懐旧に唇が緩む。そしてたまたまその場に日本が居合わせた時、二人は他の誰にも分からないようにそっと目を見合わせて微笑むのだ。あの季節はもう数十年の彼方、しかし若葉の輝きに縁取られた苦くも熱い思い出はいつまでも二人の中にある。

* * *

「……に…………ホンダ?」
 まさか、と思いながら声を掛けた。地球の四分の一周ほども離れている彼がこんなところにいる筈がない。ましてこのざわついた騒擾の空気の中に。
「……あ」
 しかし、黒縁眼鏡をちょっと直して、フランスを見上げた日本は軽く腰を浮かしてお辞儀をした。学生食堂の喧噪の中、その丁寧な仕草はあまりに周囲と不釣り合いだった。
「こんにちは、フラン……シスさん」
「え、やっぱり……ホンダ?」
「はい、見つかってしまいました」
 隣の椅子に置いていたバッグをどかして膝の上に置く。その無言の勧めに従って、フランスは日本の隣に腰掛けた。安物の椅子は軋み音をたてつつフランスを受け止めた。
「どうやってここに入ったの」
「学生のフリして、すっと」
「うっわ。何歳サバ読んだわけ」
「誰にも見咎められませんでしたよ。ボヌフォアさんこそ、どうやって」
 まさか学生のフリはできまい、と顔に書いてある。失礼なと言うべきか、大人の魅力が分かっているなと受け流すべきか。フランスは言外の意味を無視することにした。
「俺は顔パス」
「ああ、そりゃそうですよね」
 ここはフランスの誇る大学、パリ・ソルボンヌである。
「というか、どうしてここに?」
 こちらも、フランスの側には不思議はない。確かに今フランスは多忙で、だから若干やつれてもいるし、それがまた顔に陰影を足している。ああこんな俺もちょっとかっこいいかも、などと鏡に向かって呟いて、……口の中の苦みを忘れようと努力している。
 日本は言葉を探して視線をさまよわせた。
「……ええと……『後学のため』?」
「へえ、おにいさんの二の舞にならないように、ぼこられてる様を調査に来たわけ?」
 うっわ。直後、フランスは口を押さえて、ごめん、と言った。こういうのは、趣味じゃない。確かに、今の日本の言い様は、皮肉を言ってもいいくらいのものだったと思うけれども、あんな直截な言葉をそのまま口にしてしまうなんて、箍が外れすぎだ。
 日本はきゅ、っと眉を寄せた。
「すみません、ご不快にさせてしまいました」
「いや、ほんとごめん。そうだよな、ホンダも大変なんだよな」
 日本はふっと笑った。

 八年前、国会包囲デモに内閣総辞職と大騒動をして強行採決で結ばれた日米安全保障条約。その改定が二年後に迫っている。強行採決により闘争はなし崩しに終わったが、ベトナム反戦あたりから新しいスタイルの運動が日本にも及んだと聞く。
 学生を中心にした運動の盛り上がりは全世界的な潮流で、「スチューデント・パワー」と呼ばれている。
 その噴火口がここ、パリである。
 三月には、パリ大学ナンテール分校で、学生による封鎖と警官隊の突入、逮捕が起きた。四月にもヴェトナム反戦デモやその討論集会が各地で行われ、右翼系学生との乱闘事件も起こっている。
 急に痛み出した脇腹を押さえるようにしてフランスは騒擾が飛び火しそうなここにやってきた。

「宜しければキクとお呼び下さい。本当に、そんなつもりではなかったのです。あの……大変、差し出がましいのですが、お体が心配で来てしまって……でもお見舞いに伺うような間柄でもないので物陰からご様子を窺おうと思っていたのです。とはいえ、この学生運動の動きは明日の自分にも直結しますから、そうした計算がないとも言えず……あのような言い方をしてしまいました。申し訳ありません」
 立ち上がり、深々と礼をされる。
「いいよ、座って。……目立つし」
「あ。すみません……」
 腰を下ろして、眼鏡を直す。黒縁の…いや、よく見ると深い紺だ…それは変装用なのだろうが、妙にマニッシュで可愛らしい。
「似合うね」
「はい?」
「眼鏡。服も雰囲気に合ってる」
 ただのざっくりとしたシャツとジャケットなのだが、色の合わせ方がいい。若葉に映える蒼。
「ふ、フラン……シスさんにそう言っていただけるとは、光栄です……!」
「いや、そんなことも……あるけどさ」
 ぱち、とウィンクをかますとやっと日本は眉間の皺を解いて笑った。
「そういえばそういう格好、初めて見る気がするな」
「いつもはスーツですから」
 そしてその前は軍服だったね、いつも。
 口には出さずそう考え、つまり、私的なつきあいが全然なかったわけか、と思いついて、フランスはしばし呆然とした。

 正直、この東洋の小国にたいした関心はなかった。先の大戦は、フランスにとってはあくまで「ドイツとの戦争」だったし、戦後の日本に対する認識は「アメリカのツレ」だ。もっと昔、日本が鎖国を解いた頃には幕府顧問の地位も得たし政体変更後も軍事指南を行った。しかし「泣き面に蜂」のことわざの通り普仏戦争後、その地位をドイツに奪われた。それ以来なんとなく疎遠な日本への印象は、頑固で融通が利かず、古くさいものに固執する堅物というものだった。
 旧知の知り合いだった筈なのに、今までは「中国の隣」「イギリスの友人」「ドイツの味方」「アメリカのツレ」――と、日本単体でみたことがなかったことに改めて思い至った。なんだか、もったいないことをしてしまった。
 まじまじと見つめる視線に照れたのか、日本は顔を赤らめてごまかしの笑みを浮かべた。
 かーわいーの。
 微笑むと、日本は更に顔を赤くして俯いた。
「いつまでこっちにいるの?」
「二週間ほどですね。そんなに家を開けてもいられませんし」
「今は落ち着いているみたいだし、観光する? 案内するけど」
「ほんとですか! うわ、すごく嬉しいです。パリには、見たいところがたくさんあるんです」
 かあぁぁわいぃぃの!
 好かれることが大好きなフランスの気分は一気に上昇した。
「じゃあ、明日またここで待ち合わせしようか」
「はいっ」

 隣の島国の天気のような鬱々とした気分でここ二ヶ月ほどを過ごしていた。そこに陽光が差したような気になって、フランスはうきうきと服を選び、香水をつけて待ち合わせの場所に向かった。待ち合わせの十分前、あと五分で待ち合わせ場所に着くというタイミングで、フランスは目指す顔を見つけた。
「あれ?おーい、に……キク!」
 食堂に向かおうとする黒髪の彼はしかしそのまま通り過ぎていく。聞こえなかったのかもしれない、そう思って、フランスは大股に近寄って肘を掴んだ。
「ひっ?」
「……やだな、反応大きすぎるって、キクちゃん」
「は……ぁ、すみません」
 ガクっとお辞儀をする。昨日とは違う色のジャケットだが、これもまた似合っている。
「あの、なんでしょう」
「なんでしょうって、そんな意地悪言わないでよキクちゃん」
 黒眼がぱちぱちとしばたく。へえ、遠目に見て思ってたより睫長いんだなとフランスは思った。
「私をご存じなんですね」
「そりゃもちろん」
「申し訳ないのですが、私は貴方を存じません」
 これは「おふざけ」なんだろうかとフランスはまじまじと黒い瞳をのぞき込んだが、その眼には困惑だけが浮かんでいる。
「……記憶喪失?」
「は? ええと、私がですか? ……いえ、特に記憶に欠損はないと思いますが」
「そんな!俺とキクちゃんの中でそれはないでしょー。一戦交えたことだってあるでしょうに」
「いっ……!?」
 がち、と音が聞こえるほど表情が固まって、フランスは慌てた。
「ご、ごめん! 日本ってこういうジョークだめだったんだっけ。こっちではそういうのも割と言っちゃうんだけど」
 もちろん先の大戦全てをジョークにできるわけではない。人の記憶は簡単には消えないし、絶対に会話で踏み込まないタブー領域もある。それでも、何せ仏印進駐をめぐる日本とのいざこざはフランスにとってそうシリアスな記憶でなかったもので、つい「また百年やっかゴルァ」のノリで言ってしまった。
「あ……!」
 やっと顔がほころんだ。
「すみません、そうなのですね。いや、こちらに来たばかりなので世慣れなくて申し訳ないです」
「あ、……うん?」
「あの、老婆心ながら付け加えますと、キクというのは日本のポピュラーな花ですが、それを名前にするというのは女性でも少なくなってきてますので、そういうお声かけは成功率高くないと思いますよ」
「う、うん?」
「それでは、ごきげんよう」
「うん?」
 話の展開について行けていなかったフランスは一人その場に残され、首を掻いた。あれ、結局どうなったんだっけ。ごきげんよく、何をしたらいいんだっけ?
 呆然と回らない頭で考えていたら、後ろからとんとんと肩を叩かれた。
「あの」
 振り返ると、そこには先ほど向こうに去った筈の日本がいた。
「……瞬間移動?」
「は?ええと、私がですか? ……いえ、食堂から歩いてきただけですが……フランスさん、ずっとここにいらっしゃいました?」
「え、うん、だって、うん」
「先ほど食堂で再現できないような美麗な口説き文句を私に仰って、『あのぅ』と答えた瞬間何やら早口で聞き取れない悪罵を残して去って行かれたのは、フランスさんではない?」
 ぽこ、と小さな蒸気が浮かんだ。冷静に話しているつもりでも思い出し怒りがこみあげてきたらしい。顔が赤いから、これは恥をかかされた怒りなのだろう。
「違う! 違いますほんと! 神掛けて! というか、さっきここで声を掛けたら『貴方を存じません』なんて冷たい言葉をかけて最後はナンパ指南して去っていったのは、じゃあ、日本じゃないの?」
「はい?」
 今日はフィクション小説の単語をよく使う、と思いながら、フランスは言った。
「……ドッペルゲンガー?」

* * *

 この日五月二日、パリ大学ナンテール校は翌日からの講義停止を決め、事実上の学部閉鎖となった。三月以来ナンテール校で活動してきた学生運動家たちは翌日からソルボンヌで抗議行動を行うことを決定する。