運命は斯くの如く扉を叩く

ギル菊

ギルベルト×本田菊(続「救済者に救済を」

街頭テレビの人だかりの中に頭一つ飛び出た人影を見つけ、菊はうろうろとさまよわせていた眼をほころばせた。身長も顔立ちも、髪の色さえ違うのに、なぜ馴染んでいるんだ、あの人は。
ギルベルトさん、との呼びかけの代わりに、横に並んでついと袖を引っ張る。「おう」と眉をあげたギルベルトは、しかし「ちょっと待て」と片手で示してすぐに目線を白黒テレビの中に戻した。アメリカ人じゃあるまいし、野球なんて興味ないだろうに、周りの興奮につられているらしい。テレビの中では日本シリーズ第五戦が後楽園球場を舞台に繰り広げられている。先攻の西鉄ライオンズがランニングホームランで6点とし、よもやこれまでと思われた、そこに川上哲が本塁打を打ちさらに広岡達朗のタイムリーで1点差にまで追いついた、ちょうどその劇的瞬間だったらしい。
菊自身は特に贔屓チームを持たないが、周りは地元東京を応援するムード一色だ。もちろん九州の街頭テレビ前では(明らかに巨人軍贔屓の放送にも負けず)逃げ切りを祈って人波が揺れているに違いない。結局リリーフ投手が危機を逃げ切り、西鉄ライオンズは4勝0敗で二年連続の優勝を飾った。落胆のため息とともに人々が街に散っていく。小さく肩をすくめたギルベルトは菊に向き直った。
「残念だったな、あのチーム」
「そうですね…来年はいけるかもしれませんけど。六大学野球で8本塁打記録を打ち立てた長嶋という選手が入ることになったみたいですからね」
「ふーん」
速攻で飽きたらしいギルベルトは、11月の風にふるりと体を震わせた。
「おい、オンセンは予約できたんだろうな」
「ええ、もちろん。いい宿にご案内いたしますよ。でも…ほんとにいいんですか?」
念のため帝国ホテルも仮押さえしている。つい最近できた別館の方だ。本館の方は完成の直後、それこそ震災の見舞いに来た際に泊まってもらった。気に入ったようだったので訪日の際にはそこを予約するようにしていたが、占領期にはGHQに接収されていて使えなかった。晴れて占領もあけ、さらには今年、国際社会にも復帰した菊は、「行くぜ!」との国際電話を受けるや電話帳の「テ」の頁に指をかけたものだったが、送話器からの声はそれを止めた。和風旅館に案内しろという。
「聞いて驚け。俺様はだな」
「なんでしょう」
「レンズ豆をハシで掴めるようになったぜ!」
「……は?」
聞けば、箸さばきを特訓していたのだという。
「……なんでまた」
ストレートに疑問を呈すると、ギルベルトはむっとしたように返事をした。
「素直に称えろ」
「あ、いえ、はい。すごいです。すごいと思いますが……なんでまた、そんなこと」
彼の日常において全く不要な技術に違いない。敢えて特訓する意味がわからない。眉根を寄せる菊に、けせせ、という笑い声が届いた。
「お前にできて俺様にできないことはねーんだよ」
「いやいやいや。それはさすがに、あるでしょういろいろ」
居合抜きとか巴投げとか。そういいかけて、口をとめる。柔道も先年世界選手権が行われた。銅メダルを取ったオランダのヘーシンクはただ強いだけではなく、柔道における礼の精神もよく体得している。いずれ日本人が敗れる日も来るかもしれない。国際化とはそういうことだ。一方、日本に入ってきて恐ろしく変容した文化もある。最近よく食されるようになった「スパゲッティ・ナポリタン」は絶対にフェリシアーノの目に触れさせまいと決意している。あれはことの最初からトマト味洋風焼きうどんなのだ。
「とにかく、俺様の華麗な箸さばきを見せてやるから、カイセキ料理でも用意してろよ」
またそんなハードルの高いものを。菊は苦笑し、「ゴ」の頁をめくった。

列車に揺られて数時間。せっかくここに来るならゆったりと数日滞在してほしいものだったがと思いつつ、菊は五年ほど前に作られた旅館に案内した。敷地面積に対して部屋数が少ない贅沢な作りになっているので、落ち着いて過ごせるに違いない。部屋付き露天風呂もあるし…と胸の内に思って、菊はちらりとご機嫌のギルベルトを横目で眺め、小さくため息をついた。


19世紀の半ば、太平の眠りを覚まさせやがった欧米諸国はすでにどこも大国で、そのように扱われることに慣れ、昂然とそれを享受する国ばかりだった。そんな中で「近所の悪ガキ」としか評しようのない悪戯をしさえする(何せ菊は、靴の中に蛙を入れられたことがある)ギルベルトは、欧州の誰もが「そう」なのではないと思わせてくれた。喧嘩好きで俺様で、だけど妙に公正でフラットなその態度に後進国として感謝と尊敬を寄せているうちに、「あれ?」と思えばもうどっぷりと恋に染まっていた。
だけど、言えるはずがない。ギルベルトは、「男同士の恋愛など認めない」、ではない。あるとすら思っていない。早々にそれに気づいた菊は、いつか気持ちも変わる、こんな気持ちは忘れられると念じ続け、自分に言い聞かせ続けて―――もう八十年近くたってしまった。


ホテルではなく旅館だから、部屋を別にとるのはおかしいし、もったいない。だけど、こういう感情を抱えたままで温泉に一緒に入るだの床を並べるだのは心臓に負担がかかりすぎる。もっとも、温泉は人と入るもの、なんて知識を持たないだろうギルベルトには先に湯をすすめればいい。ホテルの風呂と同じ感覚で使ってくれるだろう。
ギルベルトは名物の回廊や部屋の外に広がる和風庭園に「ほー」だの「へー」だのきょろきょろ見回しながら感嘆している。
「木のにおいがする」
「香りと言ってください」
そう言いつつ、菊もくんとにおいをかぐ。よく磨かれた柱に趣味のいい一輪挿し。頑強な石造りの帝国ホテルももちろん菊の誇りだが、贅沢な和風旅館の落ち着きはまた格別である。
「おい、ウェルカムの湯はどうなった」
「は?」
全く意味がわからず、菊はぽかんと口を開けた。迎え湯?入浴の最初に浴びる掛け湯のことだろうか?
「……ええと……そうですね、まずはお風呂になさいますか。暖まりますし」
「お?あ――ああ」
目線を泳がせたギルベルトに首をかしげ、菊は部屋にあった浴衣と手ぬぐいを渡し、風呂を指した。
「どうぞ、お先に」
「あ。…ああ、うん」
首の角度がさらに傾きかけた菊に、ギルベルトは「何でもない」と手で制した。
「アイアンクロー…!」
その手を顔面に受けた菊は海外ニュースで聞き知っていた新技の名を呟いたが、ギルベルトはプロレスには興味がなかったらしく「あ?」と眉を寄せて、浴衣を奪い取るように受け取った。
菊は座敷に戻り、自分も浴衣に着替えて、お茶を入れた。濃い緑茶にほっと息をつく。
落ち着くような、落ち着かないような。うれしいような、胸が痛いような。
それもこれも、あの、鈍感師匠のためだ。
嫌がらせくらい許されるだろうと独り決めし、菊は風呂の手前まで歩み寄って、声を張った。
「お湯、熱くないですかー」
ぱしゃ、と湯がはねる音がして、声が返る。
「あ!?………ああ、おう」
返事になっているようでなっていない。
「お背中、流しましょーかー?」

今度はばしゃ!と派手な音がした。これは浴槽で足を滑らせたかもしれない、やばい。菊は「失礼しました、ごゆっくりー!」と叫んで座卓に戻った。欧州裸事情は複雑怪奇で、百年前の菊には「往来で半裸なんて!」と大騒ぎしたくせに、「これは芸術だから」とはばかり無く全てを表した彫刻を人目にさらしたりする。彼等なりに「ここまでは裸でも平気」「ここからは恥ずかしいこと」というラインがあるのだろうが、菊のそれとは懸隔甚だしく、菊をしばしば悩ませる。ギルベルトも風呂場に踏み込まれると恥ずかしがるのだろうかと「嫌がらせ」をしてみたつもりだったが、毒が効きすぎたらしい。これで転んで頭でも打たれていた日には鉄拳制裁だ。
心を落ち着けるべく、また緑茶をすすり、障子の外を眺める。それにしても美しい庭だ。奥に見える旧宮家の別邸をそのまま生かした洋館も風情をいや増している。お茶を片手にしみじみとそれを見ていると、やがて肌を薄赤く上気させたギルベルトが戻ってきた。眉間の縦皺を見つけ、怒られる!と思った菊は思わず頭を手でかばいながら言い訳する。
「ごめんなさい別に驚かすつもりはなかったんです、うちでは背中を流すというのも風呂におけるサービスの一つで、そういう職業もあるんです!プロじゃなくても、そういう奉仕で親愛を示すことはごくごく普通のことでして!」
「……」
攻撃が降ってこないので閉じていた目を薄くあけた菊は、ギルベルトのなんとも言い難い表情に気がついた。妙に気詰まりなその空気を受け流すべく、菊はへらりと笑顔を作って「私もお湯頂いてきますね」ときびすを返した。
「おい」
後ろからかかった声に、菊は貼り付けた笑顔のまま振り返った。
「じゃー、俺が、ナガしてやろうか?」
何をかよく分かんねえけど。そう言ったギルベルトはまじめな顔だったのだが、菊は目を丸くした。
「と、とんでもない!だめ、絶対だめです、………恐れ多いです!」
手を大きく振って、菊は風呂場に飛び込んだ。恐れ多い…のも確かだが、それより何より、無理、無理。裸をその目に晒すなんて、あまつさえ触れさせるなんて。絶対頭に血が行きすぎて卒倒する。冷静に考えれば明らかに自業自得なのだが、全くもうギルベルトさんたら!あんなこと言うなんて!とぽこぽこ湯気をたてて、菊は湯に沈んだ。
「裸を見られる」、言葉にすれば同じ行為でも、意味が違う。その意味の違いは、二人の間に横たわる認識の違いであり、文化の違いであり、思いの違いである。その「どうしようもなさ」は、八つ当たり気味にぽこぽこするしか解消もしようのないことだ。
「根っからのキリスト教、ですもんねぇ…」
大きく一つため息をつき、菊は頭を振った。仕方のないこと、なのだ。
温泉のすばらしい湯を堪能し座敷に戻ると、ちょうど女将が挨拶と食事の案内をしに部屋を訪ねてきた。注文通り、箸でつまむのにそう不便のない、けれども紛うことなく純和風の懐石料理が運ばれてくる。


先八寸の厚焼き卵を、確かに正しい箸使いでつまんで見せたギルベルトの「どうだ」顔に、菊は苦笑まじりにも拍手を送った。満足げに口に運び、「お、うめ」と顔をほころばせる。よかった、今日の品書きは西洋人の舌に違和感のないものがほとんどで。牛にサーモン、メインは鴨だった筈だ。蟹のほぐし身を堪能した菊は、そえられてきた猪口をギルベルトに渡し、冷や酒を注いだ。夜は冷える高地ゆえに、暖められた体とその中に通っていくひんやり感が心地よい。ギルベルトもその感興をともにしているらしく、しみじみと猪口を眺めては呷っている。
「いい宿だな」
「ええ。本当に、一日だけなんてもったいない」

明日には東京に戻らなければならない。そもそもギルベルトは文化の日に合わせて来日したのだ。


「遠いところをありがとうございます」
「おう」
「と、お伝えくださいね。あ、ファンですって付け加えてください」
「…あいつかよ」
楽壇の帝王と称されるヘルベルト・フォン・カラヤンの来日公演ツアーなのである。公演自体は4日から、3日はNHKが初のコンサート生中継に挑戦する。
「だって、かっこいいじゃないですか…!」
「お前、ほんっと外見に弱ぇな!」
筆頭は貴方ですけどね!思わず突っ込みかけて危うく飲み込む。間違いなく惚れたその最初の一歩は外見だ。

「しかも、ベルリンフィルで、『ニュルンベルクのマイスタージンガー』に『運命』でしょう。もう、聞くしかないですよね」
「あー、あいつ得意なんだよな、こういう重っくるしいの」
「重厚と言ってください。…そういえば、バイロイト音楽祭の指揮者はもうなさらないんですよね」
「だろうな」
ちろ、とギルベルトが探るような目をした。まさか忘れていたとでも思われていたのだろうか?そんなわけはない。
「その節は」
「『は』?」
「…有り難うございました」


ぺこり、と頭を下げる。連れて行ってもらったのだ。本場の音楽に直に触れ、いつか我が国でもと思い続けた。しかし、やっと山田耕筰が日本交響楽協会を生み出したのは、1925年。翌年そこから分離した新交響楽団が今のNHK交響楽団につながった。歳末の「第九」はお馴染みになったが、まだクラシック音楽に敷居の高さを感じる国民は多い。しかし前回の来日で知名度の高まったカラヤンが、あのベルリン・フィルハーモニーを連れて来てくれたのだ。これはいいきっかけになるのではないかと菊は期待している。
かつて、バイロイト音楽祭の帰り道、「いつかきっと私も」と誓ったのだ。


―――いつか、きっと私もこんな世界を作ります。私の音楽を聴いてください
―――おう


妙に上の空だったギルベルトは、聞き流し、忘れているかもしれない。いっそそれを幸いと思うほどの進捗だった。
それでも、やっとここまで来た。いつかいつかと思いつつ、しかしそのいつかが来るのは怖いようにも思っていた。余りにもこの人は正直だから、その評価は率直で、遠慮がないはずだ。弟子だからとひいき目に見てくれることも期待できない、むしろいっそう辛辣に言われそうだ。


「おい」
考えに沈んでいた菊はふっとその声に顔を上げた。
「はい」
ギルベルトは薄く醤油色に染まった牡蠣をつまみ上げた。炊き込みご飯だ。
「俺、これダメだった」
「ああ…」
嫌いだったのなら残してくれてかまわなかったのに。そういう顔色を読んだのか、ギルベルトは肩をすくめた。
「料理法が違うからいけるかと思ったんだけどな」
「いえ、お気になさらず。ご飯の方の味がお嫌いでなければ、その辺の皿によけておいてくだ…」


言いかけた菊の口にそれが突っ込まれ、思わず言葉が途切れる。


「お前好きなら食えよ」
「……っ……」
な。何をするんですか、あなた。共箸なんてあり得ない文化圏でしょうに。口の中の大振りの牡蠣に阻まれてそんな言葉も言えない菊だったが、その前でギルベルトはにやりと笑った。


「無理もしないし、もてなしも無駄にしない。――そんなやり方だって、あんだろ」
「―――」
菊はぱちりと瞬きをした。


菊の中に昔日が鮮やかに記憶されているように、ギルベルトの中にももしかしたら映像があるのかもしれない。
七十五年前のベルリン、そして葉山。


まだ菊が恋を諦め切れていなかった頃。恋心を殺すのに慣れてもいなかった頃。


あの頃使えるわけがないと手にも取らなかった箸を器用に操って、ギルベルトはせっせと牡蠣を菊の櫃に移している。
考えてみれば、説明もなしに渡した浴衣を、当たり前のようにギルベルトは着こなしている。


―――お前にできて俺様にできないことはねーんだよ


それは、ただの負けず嫌いではなく、「日本文化の特殊性」という言葉に逃げようとしていた菊に示した態度だったのかもしれない。外人であろうとできるものもあるし、伝わるものもある。同じように日本が国際水準に追いつけるものもあるだろう、と。
石の上にも三年というが、むしろ石を上にのせて八十年。もう押さえ込みに成功したと思っていた心が、小さくうずき出す。
「おいこら、お前も飲め」
銚子を差し出すギルベルトに慌てて杯を受ける。右手に軽くそえた左手の指先も赤く染まっているのが分かる。


「11月22日」
「あ、はいっ」
それは全国ツアーの最終日だ。東京体育館での慈善演奏会となっている。そして、公演の中心、ベートーヴェンの交響曲第五番はN響との協演が予定されている。


「お前の音楽、――お前の言葉だよな」


こくり、と酒をのどに送る。一拍遅れて胃の腑がかっと火照る。覚えていたのだ。そうでなければここでその話が持ち出されるはずがない。
どうしよう、心が、浮き足だってしまう。踊り出してしまう。
「ギルベルトさん……」
「楽しみすぎるぜー」
行儀悪く、箸を指揮棒のように振り、にやり、とギルベルトは笑った。