Aufklarung :ギルベルト×菊
「んじゃ、またねえ」
ひらひら、と手を振ってフランシスは帰って行った。菊は下げていた頭をゆっくりと戻し、門扉を閉めた。玄関に戻って、花台に添えた繭玉の向きをちょいちょいと直しながら、やはり、と思う。
もう一月も半ばを過ぎたというのにそろそろ可笑しいだろうか。さきほどフランシスはその紅白の鮮やかさを褒めてくれたが、それは季節感とは別の、純粋で普遍的な――いくらかのオリエンタリズムを含んだ美意識なのだろう。だが、自分にとってこの意匠は正月という特別な時期に特化した粋で、もうすっかり日常に帰った空間には不似合いに感じられる。
しかし、正月気分というものは、昔はこれくらいまでは続いていたのではなかったか。松の内まで、いや鏡開きをやっていた二十日頃までは、温泉につかった後のようなふわふわした暖気があった気がする。関東が七草がゆまでを松の内と言い出したのは江戸の頃だったか。今では元日営業さえ普通のこととなり、それも新春特売ではない平常営業になっている業種もある。
「……」
何やら凝った気がして、小さく首を回しながら、居間のこたつに足を入れる。畳敷きに縁側と日本家屋の雰囲気を保っている菊の家だが、実は家電業界の地道なアップデートをフォローしている。足広々のフラットヒーターは遠赤外線で、本来こたつ布団がなくても使える優れものだが、来客――逗留客?――の強固な主張により伝統的な分厚い綿布団がかけられている。曰く、ただ温かいだけでは空調と同じ。あのもふっと体を迎え入れる感じがなければこたつの名に値しねえ!MAMONO!MAMONO!とコールまでされて、菊はお掃除簡単のスマートな生活を諦めたのだった。
確かに、この口までを暖かさに包み込むような触感があってこそ、冬のこたつという気がする。菓子盆にはみかん、冷蔵庫にはアイスクリーム。しばらくすればぽちくんの散歩に行ってくれていたギルベルト君も戻るだろう。平年に比べれば温かいとは言えやはり冬、また鼻を赤くして帰ってくるかもしれない。思うそばから玄関の開く音がした。
「お帰りなさい」
出迎えようと立ち上がった菊が廊下を出る前に、ギルベルトが突撃してくる。そのまま手足をこたつにつっこみ、「さみい!」とさすっている。
思った通り、と菊は笑い、こたつ越しに手を伸ばしてギルベルトの鼻をさすった。
「ぬくう!」「冷たい」
言葉が重なって、次に苦笑が重なった。温かいのなら、と菊は掌をギルベルトの頬にあてた。それに顔を寄せるように一瞬目を閉じて、ぱちりと開く。
「そういえば、角のとこでフランシスに会った」
「ああ、先ほどいらしていたんです。もう少し待てば会えるかなと仰っていたんですが、そうですか、良かった」
どの辺りが「そういえば」なのかと思いつつ手を戻す。
「それがさ、あいつ、顔見るなり『お前、デブった?』だと!」
「え……」
「このスタイリッシュかっこいい俺様を捕まえて、言うにことかいてデブだと!いや、確かに正月、ひたすら食っちゃ寝してたからちょっとは、ちょーっとは肉がついたかもしれねえけど……」
ぶつぶついう言葉は半分も耳に入らなかった。
菊はもう一度手を伸ばし、ギルベルトの頬をもにゅっと掴んだ。
「なっ、なんだ!?何をする!?」
確かに、もにゅ、と表現していい手触りだった。菊は自分の手を眺めながら呟いた。
「……そんなことも、あるんですね……」
「何が!?わけわかんねーけど、結構痛かったんですけど!?」
菊はぎゅっと手を握った。ずっと、細い細いと思っていた。菊に覆い被さる胸板を見ても、背中から回される腕を見ても。かつては違った、もっとみっちりと筋肉が張り詰めていた、前に立たれるだけで気圧されるほどの存在感があった。再会以来ずっとそう思ってきた。
「いえ」
「いえじゃねーし」
「いえいえ」
「なんだよ」
口を尖らせながらもギルベルトは引き下がった。
「スーパーのとこで、天津甘栗売ってた」
「売ってた、じゃなくて、買ってきた、なんですね?」
香りをつれてきていたのだ。手に提げていたビニル袋を取り出すと、それは一層甘くなる。
菊はいそいそと大判のちらしを持ってきて机の上に広げた。ウェットティッシュも用意。
「久しぶりです。最近は剥き栗がパックで売られているのでついそっちを買っちゃうんですけどやっぱり甘みやほっくり感は焼きたてなんですよねえ」
親指の爪で腹に大きく一文字を入れ、ぱかり。さすが中国産、渋皮までが綺麗にとれる。
無心で食べていると、「ん」とギルベルトが顔をあげた。
「ちょっと翳ってきたな」
立ち上がって、灯りを付ける。ちなみに、部分的にはLED照明人感センサー付きにアップデートされている照明だが、この部屋は昔ながらの紐式のままだ。これにとりつけた「いつもは短いけれども寝るとき用に長く伸ばせる紐」がなぜかこの家を訪れる欧米人のつぼにはまり、かつその摘まみ部分が卵の殻状になっていて伸ばすと中からひよこが表れるギミックが愛されて、リモコン式に取り替えられずにいる。
「……そういえば」
座りながら「うん?」とギルベルトが相づちをうつ。
「先ほどフランシスさんとお話している時、会話の流れで『啓蒙して頂きありがとうございます』と言ったんです」
どこが「そういえば」なのだろう?という顔で、けれどもギルベルトは頷いた。
「そしたら、その言い回しに違和感があると仰いました。『主体はだれ?』って」
漢字の蒙は無知蒙昧の蒙。愚かでものの道理の分からない状態を言う。啓蒙とはその状態を啓くことだ。必然的に、それを行う主体は「ものの道理が分かっている先進的な人」となる。
――フランス語でそれは「Lumieres」って言って、光って意味なんだけど。誰かが光を照らすことじゃないし、誰かに照らしてもらうことでもない。自分で松明を掲げることだよ。ルイ・パストゥールが「科学には国境はない。知識は人類が所有するものであり、世界を照らす松明である」って言ったようにね。
『照らされる』のではなく『照らす』。『教えられる』のではなく『学ぶ』。啓発という言葉に置き換わりつつある現在に対してその言葉が頻々とかわされていた近代の入り口、果たして自分は――他に対してというより自分の中に対して――その姿勢を保てただろうかと胸に手を当ててしまった。
ギルベルトは「ああ」と頷いた。
「ドイツ語でもそうだな。Aufklarung――」
そして、目を細くして中空を見る。遠くの人を眺めるように黙ってから、ぽつりと呟いた。
「……その言葉、続きあるよな」
「ええ」
むしろ日本ではセットになっている。「科学には国境はない、しかし科学者には祖国がある」。普仏戦争に怒りドイツ連邦諸国から与えられていた栄誉の称号を全て返したと愛国者パストゥールらしい言葉として流布している。
そうとも言えるし、そうではないとも言える――科学者が国境を越えて協力し合い成果を上げることも多くなってきたし、パンデミックのように繋がった世界を思えば科学者も国益ではなく人類益を志すのは当然のことだ。一方で、人が地の上に生きる「実在」である以上、どこに生きたか生きるかがその人に影響しない筈はない。研究者の手を離れた研究成果はもしかしたら自国の、または自国に仇なすどこかの国の毒となるかもしれない。
最後に残った二つをそれぞれ食べて、ちらしごと片付けようと立ち上がり、ついでに手を洗うことにした。ギルベルトもついてきて、せまい洗面所で順番にあらう。
手を拭き終わったギルベルトが、突然「なあ」と言った。
「お前んとこのお遊戯にあるじゃん。『大きな栗のー木の下で』」
突然なんだろうと思いながらも勢いに釣られて手をとんとんと頭から肩、そして下へとおろす。
「『あーなあたーとわーたーし、なーかー良ーく』
「ストップ!」
狭いなあと思いながら続けていた手遊びを突然止められて、菊は両腕を胸の前で交差させた状態のまま目を瞬かせた。
「そのまま、ぎゅーって」
「ぎゅ、ぎゅう?」
「ああ」
何をさせられているのか分からないながら、菊は手に力を込めて、自分を抱きしめた。
「……よし」
いや、何がよしなんだか。文句を言おうとしたが、見上げたギルベルトの顔にその気が削がれた。まるで慈しむような、安堵するような――それでいいのだとでも言うような。
「……?」
「いや」
「いやじゃなくて。なんなんです」
「いやいや」
先ほどしたようなやりとりの後、ギルベルトはその手の上からふわりと菊を抱きしめた。
「……!」
腕の中で目を見開いた菊の背を、ギルベルトがやさしく叩く。こうかもしれないああかもしれないと迷っては足が鈍る菊を励ますように。この道しかないと思い込んで無闇に走る菊を宥めるように――。
「あったかいな」
「ええ……」
こたつに温められた体同士をくっつけているのだから、勿論それなりに温かい。でもそれだけではなく、抱きしめた指の下から、腕の中から、皮膚が、皮下細胞が、内臓組織がじんわりと温かくなっているような気がする。
しばらくそうしていたが、外側のギルベルトには洗面所の冷気が立ち上ってきたのだろう、小さなくしゃみをきっかけに笑って腕をといた。そして菊の頭に手を置いてかき回す。
「――ちょっと、昔話でもしねえか。お茶でも飲みながら」
先に立つギルベルトについて廊下を戻りながら、菊は「ええ」と微笑んだ。