Vergissmeinnicht

Vergissmeinnicht APHその他(非CP)

氷の情熱と一瞬の永遠:ルードルフ・ウィルヒョウ+ギルベルト(プロイセン)

Rudolf Ludwig Karl Virchow:医師、病理学者、先史学者、人類学者、政治家。
「すべての細胞は細胞から(omnis cellula e cellula)」の原則を確立。

/1821 ポメラニアのシーフェルバインにて出生
 1839 フリードリッヒ・ヴィルヘルム研究所入学
 1843 シャリテ病院客員外科医に
 1847 無給講師に就任。「白血病」発見
 1848 上部シュレジエンの流行病調査、医学改革運動等
 1849 ヴュルツブルク大学教授に
 1858 ベルリン大学教授に
 1861 ドイツ進歩党から出馬、プロシア議会議員に(~1902)
 1882 ベルリン医学会長に
 1893 ベルリン大学学長に
 1902 死去


 ――この男を知っている。

 こちらに顔を向けた瞬間すいと揺らいだ男の髪が日を受けて銀の線を作った。瞬きの中でそれを見ながら、脳の裏側で思った。この男を知っている。
 逆光で男の表情は見えづらくなっていて、窓の外の緑と相対する男の釣り気味の赤い瞳が突き刺さるように見えた。襟元の白いスカーフ、そして腹のラインで切れて背面にだけ長く伸びていく上着。貴族階級の格好だ。前に見た時には、こんな見た目ではなかった。
 口に出したのは別の言葉だった。
「どなたですか」
「よう、やっぱり来たな」
 空いた方の片手を挙げてにっかりと笑っている。腰掛けているのは外に向けて大きく開いた窓で、桟に乗り切れなかった足は長く投げ出されている。質の良さそうな服装とは対照的なその所作は、行儀が宜しいとは言えない。知らず、眉が寄った。
「来たも何も。ここは僕の医務室です」
「あー、まあ、そうなんだけどな。……やっぱり聞いてなかったか」
 男は「よっ」と窓枠から降り近寄ってきた。それにつれて顔を上げていかざるをえない。
特に背が高いということはない。この国の平均というところだろう。今のプロイセン――いやドイツ人は平均をとれば余所より長身かもしれないが、自分の周りの医者や学生、活動家たちをしょっちゅう見上げている身からすればさほどでかい訳ではないと言える。均整の取れた体格でしっかりと筋肉が付いていることは服の上からでも見て取れるとはいえ格闘家のような体格でもない。それなのに何故圧倒されるような心持ちになるのだろう。厳つい顔でも態度でもないというのに。
 カツンカツン、カツン。想像よりさらに一歩距離を詰められて、ついのけぞってしまう。
「……何者ですか、貴方は」
 観察者の目でこちらを見ていた男は、突然にかっと笑って手を差し出した。
「俺は、ギルベルト・バイルシュミット。宜しくな」
 不審者として名乗れと言われたシチュエーションを考えれば邪気のなさ過ぎるその笑顔に、拍子が崩される。そもそも名前を聞いたわけではない。しかし名乗られたからには返礼が要る。
「僕は、ルードルフ・ウィルヒョウ。この医務室の――」
「知ってる」と男は言葉を遮って手を掴んだ。強引に握手をしながら、続ける。男の力は強い。手加減を知らない少年のそれだ。
「フリードリッヒ・ヴィルヘルム研究所出身、シャリテ病院客員外科医にして無給講師。白血病という疾病の概念を作り上げた新進気鋭の研究者。但し、昨年の暴動――」
「――『暴動』?」
 眼鏡を押し上げながら言うと、男は片眉を上げて一拍分こちらを見つめ、言い直した。
「――一八四八年革命運動並びに医学改革運動の中心的活動家として先月停職命令」
「命令は本日付で撤回されました」
 有り難いことに。自分の復職のためにたくさんの先輩医師や同僚が手を尽くしてくれたことを知っている。
 窓の向こうで鳥が囀った。こうして開け放していても寒くはない。春になったのだと改めて思う。冬が重い分、この国の春は喜びに満ちている。
 男は肩をすくめた。
「そうなんだけど、この部屋の使用禁止はそのままなんだ」
「―そうだったんですか」
 額を手の甲でとんと押しながらため息をついた。
 想像できないことではなかった、と自分に言い聞かせるように考えた。
 医学改革運動では勤務先である病院に要求をつきつける次第になったから、恩師からも非難をされた。まして病院経営陣は自発的な退職を期待しているに違いない。医務室を使うなと言うならその分給料も下げるだろう。
 もともと医者の給料なんて鉄道労働者の三十分の一という安さだ。どこか地方大学が呼んでくれるならそこに行くのも吝かではない。この病院にしがみつくつもりはない、それでも、自分を求めてくれる同僚がいて、患者がいる。
「……分かりました。では病室の方に行きます」
 運動は敗れた。しかしそれは膝を屈することと同義ではない。
 踵を返そうとしたところで男の声が引き止めた。
「まあ、待てって。今日一日はここを使えるよう交渉した。座れよ」
 男は勝手に椅子を引き出して腰を下ろした。従う義理はなかったが、また部屋に置くつもりで持ってきていた重い資料を置きがてら、椅子に座る。
「それで、貴方は何者ですか。病院の関係者なのかと思っていましたが、そうでもないようですし」
 男は面白そうな顔になった。
「『思っていた』? 前からってことか」
「一昨年僕が講師になった時に、いたでしょう。同期のレマク……ロベルト・レマクと話していたのを見かけました」
 ああ、と男は手を打った。
「そっか、その頃病院に来たな。別になんてこともないけど、『頑張れ』って言いに」
 中庭の向こうに見かけたという程度だから、話の中身までは分からなかった。ただ、大きく腕を叩いている様子から激励しているのだろうと想像はついた。後でレマクに誰だったのかと聞いたが、いつもの誠実そうな顔を僅かな困惑などに傾げさせて、よく分からないと言っていた。だから「何者なのか」はその頃からの謎だ。別のことを聞いた
「何故、わざわざ?」
「ん?いや別に――」
 笑って流そうとしていた男は、少し考えて、真面目な顔になって心持ち体を寄せた。
「この国は変わるのかもしれないと思ったからだ」
「……」
 眉根を押すようにして眼鏡を直した。
「それは、彼には特に研究者としての天才が見込めるという意味ですか」
「えっ、いや」
 予想外の言葉を聞いたというように男はふるふると首を振って見せて、誤魔化すように笑った。
「なんだよ、お前も励まして欲しかったっていうんなら今からでも背中叩いてやるぜ? そういうことじゃなくて――」
 冗談のつもりだろう言葉に、腹の底がかっと熱くなるのが分かった。ちらりと見ただけの光景を覚えていたのは、確かに、小さな胸の痛みがそこにあったからだ。どこの誰とも分からないのに、声を掛けられているレマクが羨ましかった。少し年長で人柄も良い同僚かつ同志は、けれども同時に、研究上の好敵手だ。「何故、わざわざ、彼だけに」。「自分にはしなかったのに」。それが本当に聞きたかったことだ。そう思う理由が分からない、つまり合理性のないこの嫉妬心は伏せなければならない。小さく奥歯を噛んだところに、男は続けた。
「――多分やつは、この国で初めて『ユダヤ人で教授』になる」
「…………はあ」
 虚を突かれて、間の抜けた返事をしてしまった。
「それは勿論、いつかは教授にだってなるでしょうけれども。それが?」
「それが、じゃねーよ。今までなれなかったっつう話だ」
「この国の医学界がおかしいのは分かってますよ。だから改革が必要なんでしょう。国はやたらと監視干渉してくるくせに統括的な省を作るでもない、教授任命を公平な試験で決めるでもない。フランスに出来ていることがなぜできないのか」
 痛いところを突かれた、とでもいうように、男は薄い笑みを見せた。
「教授試験制度を導入したら才能のある人間が直ぐにでも教授になるでしょう。ユダヤ人だろうがポーランド人だろうが――下級階級出身だろうが」
 零れ落ちたような付け足しに、男は瞬きをした。「知ってる」というなら、分かっているだろう。フリードリッヒ・ヴィルヘルム研究所――すなわち軍医学校の出身ということは、大学で学べるほどの財産が家に無かったということだ。
 男は「あー」とくぐもった声を出した。
「レマクにしても、お前にしても、他の奴にしても、だ。人材は力だ。『国を強くできる能力の前で民族だの階級だのどーでもいい』と断言できる、そんな風に今盛り上がってるってことだ。お前にとっちゃ当たり前でも、そう思わない奴もたくさんいる。でも思う奴が増えている、その潮の変わり目の切っ先にレマクがいたってのが『わざわざ』の理由だ」
「なるほど」
 理屈は分かった。一方で、生まれた疑念もある。
「フォン・バイルシュミットは、変化を歓迎するのですか」
 一瞬何を言われたか分からなかったようで男は口をあけた。
「俺は貴族じゃねえぞ。そんな名乗りしてねえだろ」
「違うのですか。服装といい仰りようといい、権力側の反動勢力なのかと」
 うーん、と腕を組み、背を逸らして男は天井を見上げる。ゆう、らり、と体を戻して、またにやりと笑った。
「政府の側にいるっていやあ、そうなんだろうなあ。でも、どっちかっつうと新しもん好きだと思う。んでもって、さっき言った変化は大歓迎だ。俺は強いのが好きだからな。けど――お前の要求は新しすぎてついていけねえ、と思っている」
「そうですか」
 肩をすくめるしかない。同じ表情をされるだけだろうから口にはしないが、自由も民主主義も、フランスでは当然の主張なのに、という話だ。この国の後進性は、その分の急成長、すなわち無理としてバネに負荷をかけている。
「ついていけねえ、の前に、正直言ってよく分かんねえんだ。だから、教えて貰おうと思って今日は来た。――なんで飢餓熱対策のレポートで『民主主義』なんだ?」
 男は持っていた紙束を掲げて見せた。
「それは――」
 昨年、チフスが大流行した上部シュレジエンへの調査委員会に招聘されて、提出した報告書だった。バリケードの中に飛び込む十数日前、でも思想傾向など隠していなかったのだから、こんなマスコミ対策の調査に呼んだって政府の気に入る作文ができないだろうことくらい想像できていいはずだった。出した後で文句を言われても知ったことかである。その時の不満が思い出されて、知らず声に剣呑さが混じってしまう。
「……貴方は、シュレジエンに行ったことがありますか」
「ああ、まあ」
「ゆったりとした美しい川が流れ、交通の要衝として、産炭の街として古くから発展してきました。―主にポーランド人の手によって」
「……」
「ハプスブルク支配下となっても実際の統治はシロンスク・ピャスト家が行っていました。けれども百年前にオーストリア継承戦争が起こり、」
「歴史の復習は要らねえぞ。知ってるし」
 男は肘をついた手をふらふらと振った。その態度に、声に呆れが混ざってしまう。
「貴方が話せと言ったのでしょう。人口の七割がポーランド語を話すという土地で高圧的なドイツ化政策がとられ、その結果百五十万の貧困者を出したのがチフス流行の原因であったということを。あの地で流行ったチフスはベルリンで時々流行するような腸チフスじゃない。伝染よりは気候条件と社会的要因を疑うべき発疹チフスでした」
「うー」
 男の手が銀髪の間に差し込まれ、ぐしゃぐしゃとそれをかき回した。
「だとしても、だったらなぜ食糧の配給や無料診療じゃなく、『教育と自由と繁栄』ってことになるんだ?」
「近代以前、あんなにも人類を苦しめた流行病の多くが今落ち着いているのは何故だと思いますか? 人々が衛生という概念を手にいれ、幾多の社会階層がより健康的な栄養状態を保てるようになったからです。その分、社会構造の矛盾は弱い層に集中する。自らの母語で教育を受けることができない層は、人類が手に入れた真理から遠ざけられたままです。課税対象を富裕層に移せばより広い層で病に陥らないだけの栄養状態を保てるでしょうし、予算を投下して道路建設や先進的な農工業の普及に尽力すれば、地方は更に豊かになる」
「それでポーランド語の公用語化と自治か……」
「もちろん医療を改善すれば人を多く救えるようになるでしょう。けれども社会を改善することでもっと多くの人をより素早く救えるようになる、それは明白なのです」
「うーーーーん」
 男はまた首を大きく反らした。
「理屈は、分かった。けど、やっぱ、なあ。近代国家で標準語統一しようとしない国なんてねえだろ」
 こちらをちらりと見る。言いたいことは分かる。「それこそフランスだって」。そんな風に言われなければならないほどフランス贔屓なわけではないい。肩をすくめたが、男は見もせず腕組みのまま続ける。
「税もなー。合理的に言って金持ちから取った方が楽だし多くできるって思うんだけどさ、ぶっちゃけ、シュレジエンだけの話じゃなくて、この国の官僚制は地方貴族ユンカーで成立してっから、そんな風に制度改革していくはずがねえだろうなっていう……」
 そっか、だから革命なんだよな。男はそう言って首を大きく揺り動かした。
「理解はしたけど、納得はできねえなあ。実現の道筋が見えねえし、そんなところに国力割いてて周辺国と渡り合っていける気がしない。正直なところ、お前の理想主義は俺にとってブレーキにしか思えねえ」
 その発言は、意外なほどの衝撃を以て体を貫いた。思わず腹に手を当てる。重いものがここに溜まった気がする。
「……国力とは、割くものではなく高めるものです。シュレジエンが奪い取った土地だからこそ、そこに自由と繁栄をもたらせられれば、統一後の劣位と圧政を予見していた周辺諸邦がプロイセンを見る目は変わる。確かにこの国は後進国ですが、だからといって先を進む国と同じ階梯を駆け上がらなければならないわけじゃない、違う道筋もあるはずなんです。軍事力じゃない、絶対的君主権でもない、民主主義こそが国力となり、真の意味でプロイセンは大国になる。私はそれが可能だと信じている」
「…………」
「その魅力が求心力となり、宿願のドイツ統一が成る――そんな絵は、妄想に過ぎないと言いますか」
 今度は声に出さず、男は腕組みを深くした。眉を寄せ、どこか一点を見つめてじっくりと考えている。デフォルトのように張り付いていた笑いも影を潜め、彫りの深い顔は一層シャープさを増している。その顔を見つめながら、思う。どうしてか目が離せない、むしろ奪われるという言葉が近い、これほどの魅力を発散するこの男は、本当に何者なのだろう。
 問いは、しれず口に出ていたらしい。男はふっと緊張を解いた。
「よっぽど気になるらしいな、それが。別に大した答えでもねえんだが、面白いから黙ってる。当ててみろ」
 もう今日だけで二回も外している。答えず、ただ肩をすくめた。男はにっと口角を引き上げた。
「見事当てられたら、何でもいい、何か俺に出来る範囲で、一つだけ要求に応える」
「何でも?」
「おう。シュレジエンに道路引くくらいならできんじゃね?」
 それはまた――大きく出たものだ。本当に何者なのだ。予算を動かせるほどの肩書きがあるのだろうか。
「どうせ今更叶うことではないですが……革命運動に加わって欲しい、という要求でもアリなんですか」
「う、ぐ、ぐ」
 分かりやすく男は顔をゆがめた。できないらしい。そういう立場の人間だということだ。そもそもの成り行きからして、この男が体制側だというのは分かっていたことなのだから、さもありなんというところだ。当然と思う一方で――自分でも驚くほど気落ちした。運動は敗北し、民主化要求は潰された。プロシア議会は解散させられ、欺瞞に満ちた新憲法が押しつけられた。フランクフルト国民議会も解散となり、ドイツ統一の夢さえ消えた。言葉通り、今更だ。それでも、理解して欲しかった。
 今度は口に出さなかったのに、男には見抜かれたようだった。真面目な声で彼は言った。
「俺はこの国を強くしたのはホーエンツォレルン的な何かだと思ってるし、この路線で突っ走るのがドイツ統一の近道じゃないかと考えている。路線が真逆だから、お前は俺にとって倒すなり越えるなりしなきゃいけねえハードルになってる。多分、昔ならなぎ倒してた、けど――」
 続きを待ったが、男は口を噤んだままだった。ややあって、顔を上げ、こちらを向いてふっと笑った。
「お前、口調は冷てえし、喧嘩腰になるとき眼鏡押し上げるからすげえアレな印象あるけど、」
 アレとは。思わずむっとする。
「氷のような情熱ってやつだな」
「……はあ」
 熱いのだか冷たいのだか。
「もしかして詩人なんですか」
「ちげーよ」
 笑って立ち上がり、ドアに向かおうとして、男は立ち止まった。
「あ、そうだ。折角だから医学博士の意見を聞きたい。なあ、『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』って小説を知ってるか? イギリスで、ちょっと前に改訂版が出た――」
「あ、はい――いえ、読んでいないのですが、学生時代に友達から聞いて、内容は知っています」
「あれが小説だってのは勿論分かってる。けど、どうなんだ。あれは医学的に絶対有り得ないのか」
「有り得ないですね――少なくとも私の知る限り、絶対に」
「なぜ有り得ない?」
「フランケンシュタインは、墓を暴いて死体を掘り起こし、それをつなぎ合わせて怪物を作ろうとしたでしょう。墓を暴く、ということはその前に埋めている、普通その前に葬送を行う。人がこれだけの行動を起こす間に、完全に全細胞が死滅するからです」
「さいぼう……?」
 首を傾げている男に、小さく笑う。これは初歩の初歩から説明しなければいけないらしい。
「学者では――ないんですね」
「当てる気ねえな?」
 男も笑って、腰を掛け直した。
 細胞、それは「生物」が普遍的に持つ小さな部屋。壁や膜で外と内を区切り、自己再生と複製を行う生命体。そして、まだそうと結論づけられた訳ではないが、多分これこそが――腺(繊維)ではなく、体液でもなく――「生物」の基本単位だ。
 素人向けの初歩的説明から――とはいえ、まだ広く共有されている知識ではないことも分かっている。ロバート・フックがコルクの細胞構造を指摘したのはもう二百年近く前のことだが、これが生命現象に関係するとは思われていなかった。シュワン及びシュライデンの両博士が植物・動物ともにあらゆる生物は細胞から成り立つのだと確信したのはごく最近のことだ。
その辺りを説明しながら、つい脱線した。コルクや細菌の細胞構造についてはその存在が知られていたのだから、「植物の構成要素が細胞であること」には、証明の感動はあっても、驚きは少ない。けれども、動物については違う。なぜなら、聖書の示す鉱物界・植物界・動物界という見取り図に従って動物と植物は全く違う存在と思われていたからだ。これからは、科学の光の下、その二つが「生物」という言葉に括られるようになる。世界の線引きが変わるのだ。聖書は絶対真理の椅子から降り、代わりに真理のカンテラが神様から石ころまでを照らす。無知蒙昧の闇に隠れていた姿が光にさらされる。――その感動を一通り語って、はっと脱線に気づく。無駄話に付き合わされた男は、しかし、存外楽しそうな顔で聞いていた。楽しそうな――いや、慈しむような、目映いものを見るような。
「――Aufklarung」
 突然、男が呟いた。
「『啓蒙アウフクレールング』?」
「自らの悟性を用いる勇気をもって、『光で』『明るくする』。お前の生き方は啓蒙という言葉そのままだなって」
 カントを引用したその言は胸をじわりと熱くした。だが、敢えて首を横に振った。
「僕が、ではない。現代に生きる国民はすべからく――民族や階級に関わらず――そのように在ることが許されるし、そう生きるべきなのだと思います」
 頷きはせず、しかし理解の証に男はゆっくりと瞬きをした。
 そして、思い出したように指を振った。
「あー、そんで死体と生命体の話だけど。つまり、完全に死んでしまったらどんだけ新鮮な体液流し込んでも何か吹き込んでも生き返らないってことなんだな」
「そうです。かつては、人は死んだら魂が抜けるからその分軽くなるなんて言われていましたけど、そんなことはない。アリストテレスのいう『生命の胚種』なんてものも無いのです。全ての生物は細胞からなり、その細胞は全て細胞からしか生まれない――」
 口に出してみると、そのフレーズはすとんと胸に落ちた。実証のない今の段階ではただの予見に過ぎないが、真実が手の中で光った、そのきらめきを確かに見た。
 握りしめた拳を眺めていると、独り言のように男が呟いた。
「――逆に言えば、今生きているんなら、死んでなかったってことだ」
 何の話かが掴めずただ瞬きをしていると、男は苦く笑った。
「お前も医者だから経験あるだろうけど、ひょいと抱えられるくらいの小さな子が、血の混じった咳をしながら死ぬにも死ねず、ただ横たわってるのを延々眺めるのは――やりきれねえよな」
「あ、ああ……」
 幼い子でも腫瘍に蝕まれ入院する子はいる。確かにやりきれない。病気の「座」が分かっても、助けるすべはまだこの世にない。
「まるで、その死にかけた子を蘇らせたかのような口ぶりですね」
 男は「いや」と言ったが、表情の消えた顔からは事実も感情も読み取れなかった。
 男から顔を戻し、握った拳に目を落とす。人材は力だと男は言った。国家にとってそうだろう、しかし総和として語られる前に、一人一人にとって、そしてその人が立つ個別具体の場において、才能は力だ。医師としての力、そして究理の光は、直接に人を救う。光を掴んでいかなければ。倦まず、弛まず。どんな場であっても。
 気づけば窓から差し込む光の角度が変わっていた。それを見やっていると、男はゆっくり立ち上がった。彼が帰るのならば、この男の特権だかで部屋に入れて貰った自分も出なければなるまい。
 ドアを閉めたところで思いつき、振り返る。
「まさかと思いますが――錬金術師でしたか?」
 あまり得意ではない冗談は効いたようで、沈み込んでいた男の顔は弾けた。
「ちっげーよ!」

***

「よう、久しぶり」
 手を挙げて返しながら、本当に!と胸の中で指を折った。この男が突然シャリテ病院に尋ねてきた春の日から、もう――十五年になるのか。
 男――ギルベルトはもたれていた柱から背を離し、ひらひらと振っていた手をポケットに突っ込んだ。相変わらず行儀が宜しくない。苦笑しつつ、歩を進める。
「何故でしょう、ここに来れば貴方に会えるような気がしました」
 変なことを言った筈なのに、男はただにっと笑って、また手を出し、門の柱に掌をあてた。
「どこにだっているんだけどな。でも、俺自身、この場所に一番所縁がある気はする」
 ブランデンブルグ門は沈みゆく太陽を背に受けてまるで内から光っているように見える。男はその残光を掌から受けようとしているように見えた。十五年の月日が自分の身に与えたような変化――失われた髪の艶や肌の張りのようなものは、男には全く浴びせられていないようだった。そう思う一方で、確かに増しているものもある。初めて見たときに感じたあの圧倒されるような感じ。内側から力が迸っているようだ。この男は強い。生物にそう思わせるような何かがある。
 気押されているこちらには頓着せず、男は呟いた。
「平和門として作られたのにな。髭野郎の何とかサマに踏み荒らされたり、取られた像取り返したり結構血生臭い場所だ。なんて言うか――すげえ、俺に似合いだなって」
 その言い回しに、ふむと首を捻る。
「貴方、軍人だったのですか」
 そういえば、濃紺の軍服を着ている。軍隊の制服になど詳しくないがどこか違うような気もして、言葉には不確かさが混ざる。
 案の定、男は「マルはあげられねえな」と十五年前と同じ顔で笑った。笑い返す。
「欲深になってきたので、願いを叶えて欲しかったのですけどね」
 へえ? 笑い顔のまま眉をあげてきた男に、真面目な顔で返す。
「――この国に、立憲主義への尊敬を回復させたい」
 ぐ、と苦いものを飲んだような顔で男は黙った。
「……俺にできる範囲でっつったろ」
「欲深ではあるんですが、人事は尽くしているので後はもう神頼みの範囲なんですよ。でも神ではないんですよね」
 人事は、尽くしている。
 プロシア議会議員になって五年。議員としての歩みが即ちあの冷酷非情の無法者との戦いだった。四十八年革命の時にはただの超保守的代議士に過ぎなかったオットー・フォン・ビスマルクは、こちらが遠くヴュルツブルクの大学で研究に精勤している間に、それまで誰も想像しなかった「反動的革命家」に変貌していた。神聖王権に固執し強大な軍隊を渇望する老王の宰相として、弾圧・制約・買収と、あらゆる手を使って議会の力を削いできた。拡大する軍事予算を議決は否認し続けたが、「重要課題は演説と多数決ではなく鉄と血によって決着がつけられよう」と言い放ち、正規予算の外の予算、憲法に反する法令で軍事改革を推し進めてきた。王の軍隊は倍増した徴兵者の出所も、その軍隊を支える税の出所も平民層だけで、地方貴族はただ将校の地位を独占し、あまつさえその矛先は飢饉に耐えかねた国民に向けられた。いや――向けられていると思わされてきた。王でさえ騙されていた。国内の反対勢力と牽制する周辺諸国を黙らせる大博打として宰相は対デンマーク戦争を仕掛け、それに勝った。
 五歳ほどしか年長でないくせに老獪さを見せる宰相は、飴を与えることを知っている。国の勝利はその一つで、人を酔わせる甘味滋味を持っている。それが「愛国心の調達」であると分かっていてさえ、喜びに心が震えるのを感じた。――そんな自分が腹立たしい。
 何より腹立たしいのは、四十八年の夢を簒奪されたことだ。
 ドイツ統一とは暴力で実現される筈の夢ではなかった。自由と繁栄、そして相互尊敬の上に、統一ドイツは登場するはずだったのだ。
 ため息が重なった。驚いて見上げると、男は小さく首を振った。
「神じゃない。――だから、決闘で勝たせてもやれない」
 おや、と苦笑が漏れた。
「お耳が早いことですね」
「俺様にできないことは……」
 笑ってみせようとしたらしい顔が、そのまま苦笑に変わる。
「……ありまくるって言ったばっかりだった」
 自分で言うのも何だけれども、事実上、この憲法闘争のもう一方の主役は自分だった。審議冒頭演説もやったし、審議中に何度も追及を行った。これだけの引き剥がしに負けず、毎年議会は予算の否決を主たる武器として政権に対抗してきた。その分個人攻撃も情報操作も集中して受けることになった。そして今日、あの宰相は発言の揚げ足をとって誹謗と罵ったのみならず、決闘を宣言してきたのだ。
「受けませんよ」
「あ?」
「決闘です。罠なのですから」
 受ければ身分知らずと誹られ、受けなくてもその怯懦が嘲笑される。
「それはそうだけどよ」
 男は口ごもった。
 この国には、英仏辺りでは前世紀に置いてきたようなロマン主義の空気がある。決闘は、単に当事者の勇気と自尊心を示すものではなく、その勝敗が神判と見なされる。だからこそその身に疚しいことがないのならば決闘を受けるのが自然だと思う風土がある。ここで受け流すのは自分の評価が下げられることを覚悟しないではいられない。
 しかし、そんな旧弊に惑わされるべきではない。本来なら議会政治に決闘などという手段を持ち込む彼こそが立憲主義に泥をかける者として嘲笑されるべきなのだ。
「どうしても避けられないとなったら、ソーセージでも選ばせますよ。一本は加熱殺菌済み、一本は旋毛虫入り。トリパノソーマ原虫でも入れてやれば、腹と陰嚢が膨れて発熱と衰弱の中で死ねるでしょう。蛮勇を示したければ宰相が一人でやればいい」
「えぐいこと思いつくな、お前……」
「医者ですからね。死というものを軍人のように名誉や気高さの隣にではなく、下痢や潰瘍の隣に置いているんです」
 ベルリン大学に招聘されてからの自分は医者というよりは細菌学者、または人類学者と呼ばれる方がふさわしいかもしれないが、原点はやはり医者だ。弱い者、貧しい者、幼い者こそが死んでいくのを見てきた。
 ――そこで思い出した。
「以前、フランケンシュタインの怪物の話をしていましたね。あのとき言っていたのは、誰か身内がですか」
「ああ……」
 男は目を伏せ、拳で胸を掴んだ。
「ちゃんと成長している。すぐに美しい青年になる。金髪、碧眼、長身の美丈夫。我等ライヒが憧れ、求める、そして象徴するような青年に」
 がばりと上げた顔は夕闇の中で赤い光を放っていた。
「もう生きている。俺が作った靴で俺が敷いた道を、もう歩いている。それこそ、細胞が全身で呼吸している。育っている。――産み直すことなどできない」
「……」
 戸惑いに、返す言葉が見つからない。幼くして死んだ誰かの話を振ったつもりだった。けれども、そういえば生きている誰かの話もしていたように思う。考えているうちに、しばらく黙っていた男が突然語り出した。
「……四年前、日本っていう極東の国と通商条約が結ばれた。オイレンブルクはプロイセンの代表であると同時に『北ドイツ』の代表として条約を結ぼうと交渉した。向こうは向こうの事情があって、どこ相手だろうと新規の通商条約自体が嫌だと言い張るのを、なだめすかして、先に条約を結んだ諸国をも巻き込んで何とか締結に持って行くことができた。でも、『北ドイツ』という『まとまり』を、日本はとうとう認めようとしなかった。いや、本当に『北ドイツ』が『まとまり』であるなら締結もやむなしと譲歩してきたんだが、実情そうではないから、そんな条約は諸邦からの突き上げで無効にされてしまう。調印された『日普』通商修好条約を見ながら、これは『統一ドイツ』が今はまだ幻に過ぎないとの神託だと思って、悔しさに歯が鳴るほど震えた。――そこに、あの髭が登場した」
 話の展開に戸惑いつつ聞いていたが、髭という言葉にはっとした。あるもの、ないもの、求めるもの。そして、求める者。
 今から、多分自分は、絶望に似た悲しみを与えられるに違いない。
あの男ビスマルクは、確かに誠実ということばから遙か遠い冷血ゲス野郎だが、目標を実現する力がある。そしてその目標は、穿たれた心の穴を埋めるものだった。この道を突っ走れば、統一が実現する。それは確信だ。だからこそ――予算議決権を持ち否認を続けるお前ら議会が、ブレーキとしか思えない」
「……」
 ぐ、と奥歯を噛んだ。思った通りだった。何故かは知らない、けれども自分は、この男の毀誉褒貶に心が引きずられてしまう。同じことは前にも言われたというのに、胸がえぐられた。
 同じく統一を宿願としているのに。いや、だからこそ。自分は邪魔者なのだ。
「それが、何故こんなにも痛いのでしょうか……」
 答えを求めない独り言だったのに男は顔をゆがめた。
「……最初から会わなきゃ良かったな。そしたら、俺もお前も、互いをただ敵と思えば良かった」
 そうなのだろうか。自問自答して、首を振った。
「私が貴方にとって敵であっても、私にとって貴方が敵なのではない。そんな気がします。理屈ではありませんが」
「………………」
「いや、敵でもあり得るのかもしれない。敵としか思えなくなる瞬間もあるのかもしれない。けれども……そもそも、貴方が何者なのか、まだ教えて貰っていませんから」
 答えを寄越せ、と目で言ったのに、男は答えなかった。
 夕焼けの赤さえ黒に飲み込まれつつあった。しがみつくように残っていた最後の光は、力つきたように消えた。

***

 解剖室は冷たい清潔さの中にあった。
 メスも鉗子も正しく定められた場所にあり、自分の仕事を待っていた。まだ五十六歳の体は乾くでもなく粘つくでもなく、従順に金属を受け容れ、病の座までを開いた。
「……」
 病の座は確かに喉にあった。醜く変形した細胞は彼の死をもたらしたものを喉頭癌だと語っていた。定められた手順通りに剖検を終え、助手達を部屋から送り出した後、椅子に座り込んだ。自然に頭が垂れ、腕で支えざるを得なくなる。六十七歳の手は、まだ力を失ってはいないものの、今日は流石に萎れを感じる。
 亡くなったのは、フリードリヒ三世だった。当時皇太子だった彼に病変が表れたとき、その腫瘍が悪性なのか良性なのかの判断を求められた。自分に回された試料の中には悪性腫瘍の兆候は無かった、だからそう報告した。そして――それは順接でも逆説でもなく、ただの経緯として、彼は皇帝即位後百日に満たずして亡くなった。
 誤診ではない。だからといって辛くないわけがない。
「我等がフリッツ……」
 悲しみは、生前の交友によっていや増しされていた。夫婦揃っての交流があり、地道な一人医学改革――小児病院を作ったり、労働組合を作ったり――でも助けてくれた。何より、あの王家では唯一、自由主義的傾向を持っていた。この人が王となるのなら、国家を私物化し国民を所有物と見なした歴代の王とは異なる治世が実現するのではないか。そんな期待も、潰えた。代わりに即位したヴィルヘルム二世は一層その傾向が顕著で、期待値はゼロどころかマイナスだ。
 ドイツ帝国成立へ至る中で行われた対墺・対仏の戦争の後、ヨーロッパに緊張をはらんだ均衡による平和がもたらされた。この事態を作り上げた鉄血宰相の手腕は、確かに刮目に値する。平和だけではなく、繁栄ももたらされた。国民所得はこの六十年の間に倍に増えた。革命運動では引き出せなかった成果が豊かさからもたらされた。公衆衛生は、それこそが民主主義であるとして一貫して求めてきたが、結局下水道なり食肉検査なりを実現できたのはその方が採算性がよいのだと官僚に理解させ得たからだ。叫んできたこと、闘ってきたことを恥じる気持ちは毛頭無いが、違う道筋もあったのだということはしみじみ思う。
「――それでも、私は、自分がブレーキだったとは認めない」
「……ああ」
 ある筈のない返事に驚いて顔を上げると、ギルベルトがいた。この部屋には誰も入れない。関係者以外は勿論、病院のものなら余計に退室を命じた自分に逆らう筈がない。
「ああ、やっぱり貴方はそうなんですね」
 弔意を表してだろうか、黒服をまとったギルベルトの顔に、手に、全く老いは訪れていなかった。初めて会った日から四十年。自分だけが時を歩いてきたかのようだ。記憶と同じ若々しい声で、彼は言った。
「俺が何者か、答え出たか」
「ええ。変な答えですが、国……なのだろうと思っています。この国。そして、神聖ローマ帝国の消えた土地でドイツを作り上げた国」
「プロイセン?」
「ええ。でももちろん、国が人の姿を取って話すなど、非科学的な話です。ですから、本当の結論はこちらです。つまり、私の内なる国家像――こうあって欲しいと思い、その有り様と自分とをともに照らし見るために作り上げた一つの偶像、対話のための幻影なのだと」
「……」
「実現させるために主張してきたし、闘ってきた。為にする活動ではなかった。けれども、この前『敵』という言葉を聞いたとき、これは自分の客観なのだろうと思いました」
 ギルベルトは黙って見つめ返してくる。
「前回も、その前も、私は国に対して思うところがあった。一方で、対話から糸口を導き出したい課題もあった。だから想定問答の相手として貴方が現れた」
「……」
 黙ったままのギルベルトをしばらく見つめ、それから口を開いた。
「前回の宿題があります。引っかかっていて、返事としてまとめなければならないと思っていた。――貴方は金髪碧眼・長頭長身をドイツ人の象徴と言いましたが、それはただの神話です。――ああ、勿論アルマン・ド・カルファージの『プロシアの人種』は全くの世迷い言です。プロイセン人がフィン人で戦争犯罪の下手人だなどと、科学の名に値するものではない。そうではなくて、頭蓋骨の数量的調査から結論づけるに、古代ゲルマン人以外にも長身者はいたし、古代ゲルマン人にもそれなりに短頭はいる、ということです。そして全ドイツ六七六万人について調べた結果、金髪碧眼は三割程度に過ぎない。経験的に知られているように子供の頃金髪でも大人になれば暗色に変わる者も多いのですから、成人で言えば二割くらいでしょう。そして、ユダヤ人にも一割以上金髪の子はいる」
 突然の講釈に瞬きをしていたギルベルトだったが、その言葉に目を見開いた。
「ドイツ人に黒髪が多いことなど、本当は『見れば分かる』事実だった筈です。目に映っているのに見ようとしなかった。だから、数字を白日の下にさらしました。こうした定量観察を積み重ねて言えるのは、つまりこういうことです。『私たちドイツ人』は、人種によってその『まとまり』が保証されているわけではない」
「え。……そうなのか」
「はい。私たちは決して単一民族ではない」
「あ、ああ……」
「大事なことです。どこの国民でも、人種などを拠り所に『まとまり』を考えるべきではない。出自がどうあろうとドイツの構成員であると自負するならドイツ人。それが『国民』という新しい『線引き』です。存在ではなく当為によって私たちは私たちになる。貴方が前に言ったように、『私たち』の中の人材は、みな、そのままで国の力です。国と人は互いに力を与えあうことができる。……それを可能にする道さえ作れれば」
 ギルベルトは頷いた。
 その了解をこそ求めていたのだと、噛みしめるように思う。学問の世界では確実に成果を上げてきた。政治の世界でも実現させたことはそれなりにある。それでもやはり、議員としての年月は蟷螂の斧を思わせられる無力感が常につきまとっていた。伝わらない言葉。裏切りや離反。幼稚な偏見、軽率な熱狂。そうした中で、国の進む先と自分の望む有り様がどうしようもなく離れているのを自覚したとき、私は胸にギルベルトを産みだしたのだ。
 せめて、分かる、とだけ言ってほしくて。
 ギルベルトは片膝を落とし、目線を合わせてきた。
「俺の顔、変わったか?」
「はい?」
「ウィーン大学のシュタインっていう法学者が言っていたんだ。国を人体に喩えるなら、国民は両足、軍隊は両手、そして顔は皇帝だって」
「……ああ」
 比喩の意味は分かった。けれども、『私の幻影』が私以外の比喩で形作られる筈がない。
「私も人体を国家に、医学を政治に喩えたことがあります。ただし、私が思うに、細胞こそが国民です。全体で組織を形成すると同時に、個が既に自律的な生命体でもある。かつての体液病理学は心臓を小宇宙である人体の中心器官ととらえ、皇帝になぞらえた。細胞病理学はそうではない。平等な個体の自由な連合、それが有機的に影響し合って国家を作る」
 だから、とその顔を眺める。
「少なくとも私の目には、顔は変わって見えません。勿論比喩は現実を咀嚼するための歯のようなものですから、理解の道筋に従ってどう喩えてもいい。そのオーストリア人の説を以て見れば貴方の顔に変化を読み取ってしまうのかもしれない」
「ああ」
 ギルベルトは頷いた。その比喩話が持ち出されたということは、当たりなのだろうかと見つめていると、ギルベルトは少し笑った。
「はなまるってわけじゃねえけど。おまけで約束を果たしてやる。願いはなんだ」
 表情からも声音からも、真剣に言っているのは分かる。けれども、自身の中の幻に現実の力を求めても仕方がない。現実の問題ならこの後もまた一つ一つ取り組んでいけばいい。首を振りかけて、止めた。望みはなくても、願いならある。
「だったら――どうか、覚えていてほしい。一八四八年の春、自由と民主主義のドイツを作ろうとした人たちがいたことを。そこで描かれた夢を。違う未来があり得たことを、どうか、忘れないでほしい。だって――あの夏の閃光は、君も見た光なのだから」
 シャリテ病院の医務室で会ったとき、思い出したのは、思いがけない場所で見かけた記憶だった。彼は、あの春、バリケードの中にいた。自由と統一が叫ばれる中で、赤金黒三色旗の乱舞を熱のこもった目で見上げていた。そんなにも彼は、『統一』を待っていた。
 ギルベルトはしっかりと目を合わせて深く頷いた。が――その目は伏せられ、睫が影を作る。
「フランケンシュタインがトリガーとして怪物に与える雷撃にあたるのが、俺の死なんだろうと思っていた。けれども、お前はそんな形で生命は作れないと言う。実際、ドイツ帝国は成った。それなのに俺はまだ生きている。そういう仕組みになったからだ。けど、これは切り花が花瓶の中でまだ萎れずにいるだけのことなのかもしれない。お前の比喩でいうなら、砂時計を割ってその砂を移すように、俺を形作る細胞をあいつに注ぎ込まなきゃいけないんじゃないか。そうすることで、俺のかっこよさだのなんだのがあいつに受け継がれるんじゃないのか。――俺は、生きているべきじゃないんじゃないのか」
 そういえば、あいつ、即ちドイツの幻影は見たことがない。なぜ当の『ドイツ』ではなく『プロイセン』ばかりを呼び出すのだろうと心の機構を不思議に思い、やがて思い至る。人生をかけた格闘の相手が彼だったからだ。
「そんなにきちんと考えて像を作り上げているわけじゃないので」
 言い訳をすると、ギルベルトは口をへの字にして噤んだ。その顔を眺めていて気づいた。
「……ああ、なるほど。いずれ全てが『ドイツ』になると思ったから、私に会いに来たんですね」
 以前の自分ならハードルはなぎ倒していたと言っていた。会いに来なければ敵でいられたとも。自分の前に立ちはだかる者をなぎ倒すようにして、ひたすら走ってきたのだ、この国は。遅れているから、全速力で走らなければ。森の中をかけるように、腕や足に当たる枝を払いのけて、それでつく傷など意にも介せず。自分の体ならそれでいいと思っていた――けれども、
「守りたいものができて、躊躇いが出てきた」
「……」
「自分のものを全てでも与えたい相手にこの暴走癖まで与えていいのかと思ったのでしょう。自分の中に違う夢が描かれていたことをも伝えるべきではないかとも」
「……知った風に言うなー」
「それは、そうでしょう」
 自分の理解なのだから。せめて、そう思って欲しいのだ。この国の在り方はしっている。けれども、その道しかなかったわけではないはずだと分かってほしい。
「そうであるなら、貴方が、伝えてくれればいい。消えた夢も、足を止めたときに見えた景色も。貴方が大切だと思う記憶なら全て。……私たちの、愛するドイツに」
「一八四八年のことは、必ず伝えておく。もし自分がいなくなっても記憶が受け継がれるように。歩いてきた道だけが事実であっても、それ以外の可能性がなかった訳じゃないってことも。――けど、その何でも分かってますって顔が腹立つから言うけど! ……守りたいものも、与えたい相手も、一つとは限らねえぞ」
「は?」
 それは本当に分からない。突然何を言い出したのか――何故分からないことを言わせようと自分の脳が思ったのか。
 面食らったままでいると、ギルベルトは少し赤くなった顔を誤魔化すように「どうだ!」と威張った。まるで子供のようなその顔に、思わず破顔する。こんな可愛いところがこの国にあると考えていたかと、自分の認識自体に笑ってしまう。
「何のことだか分かりませんが、手の中に抱えるものが幾つもあるのなら幸せじゃないですか。手が空なら簡単に拳を固められるでしょうが、手と手が繋がれているなら隣人を殴ることはできない。ヨーロッパの非武装化ってのは、冗談で提案したわけじゃないんです」
「や、まー、フランスとは、その、今は、どうだろな……」
 ごにょごにょと呟いて頭を掻いている。
「いえ、誰でもいいんですけど」
 誰でもいいのだけれども、その手が温かければいいと思う。互いが今そこにいることを喜べる、そんな手が彼の手に重なればいい。
 解剖台の上の先王に目をうつす。遺体は物語ることをやめ、ひっそりと横たわっている。
「……彼は、身罷られました。決定的に。でも貴方は生きている」
 ギルベルトはあの強い目でこちらを見返した。
「私が貴方を思う限り、貴方は死なない。私の死が貴方の像を消したとしても、他の人々が貴方の姿をこの世にあらしめるでしょう」
「……」
「以前の講義に付言しますとね。細胞は、その母体から離されても、適切な環境を整えてやれば、シャーレの中でしばらくは生きているんです。その時、個々の細胞は、切り離された孤独を感じ、それを補うべく手を伸ばしあいます。細胞同士は伸ばした突起から情報を分かち合い、上皮細胞になる予定のものは外側へ移動しようとします。そうして、『自分たち』のまとまりを作ろうとする。細胞は、それ自体が一つの生命体であり、自立的に呼吸し、動き、生きていく。同時に、『自分たち』でまとまろうとする。人が社会を、国を求める動きのように」
 長く瞑目して、ギルベルトは「分かった」と言った。
 そして、我等がフリッツに向き直り、長い長い祈りを捧げてから立ち上がり、また目をつぶって、両腕をゆっくりと前に回し、自分ごと、数多の細胞たちを抱きしめた。