■フランシス
衝立の向こうからぶっと吹き出す声が聞こえて、意識が奥のテーブルの二人連れに向かっていたのかもしれない。その二人がそそくさと店を出ていくのを何となく追いかけた眼は驚愕に見開かれた。
「女の子になった菊」がそこにいた。
優しい柘植色の肌、黒いショートボブに慎ましい胸。
恋愛をできるだろうと予感出来る、唯一の女性が、そこにはいた。
「……っ」
カラン、とドアベルがなって、仲むつまじそうな二人はフランシスの世界の外に出た。
「……どうかしましたか?」
菊も半身振り返ったが、既にドアは閉じられていた。フランシスは意識的に首を戻した。
「う、ん。ちょっと、素敵な女性を見かけたものだから」
少し目を見張って、それから菊は眼を細めた。
「フランスの男性って、ほんとに、みなさん『そう』なんですね」
「いや、そんなことはないけどさ。素敵な女性には声を掛けるのが礼儀だという雰囲気はあるね」
「声をかけにいきますか?」
「いや、男連れだったから」
「残念でしたね」
「……ていうか、いかないよ? 菊と話してるのに」
「そういうものなのですか? そちらの流儀に合わせてかまいませんよ」
「流儀はともかく、俺は菊を優先したいから」
菊はにこりと笑った。
「友情に厚い方ですね」
「でしょ。菊ちゃんの方は、素敵な女性を見つけたなら、俺を後回しに彼女を追いかけても気にしないぜ、っていうくらい、厚い」
フランシスは何気なさを装ってそう言い、菊の反応を伺った。表面には出さずに緊張していたフランシスに、菊ののんびりした声が届く。
「それこそ、難易度が高いです。日本の男性は、素敵だと思った女性にも容易に声がかけられないものなんですよ」
「ふーん、そうなんだ。菊ちゃんも」
「ええ」
へー。
忘れろという依頼は現在「いってこいでチャラ」になっている。だからあの夜の菊の言動をもって不機嫌になるなどルール違反というものだ。そうだけれども、いくら酔っていたからとはいえ、あの『冗談』の『たちの悪さ』はかなりのものだ。
「そういえば、日本でも飲酒可能年齢は十六なの?」
「いいえ?二十歳ですよ」
「え、そんなに遅いの? ……いや、その前に、だったら菊ちゃん、飲んだら駄目なんじゃない」
酔っぱらってたくせに。若干ふてくされて言えば、菊は瞬きをした。
「私、二十三ですけど……」
「えーっ!?」
「……幼く見られるのは慣れてますけど、……慣れてしまいましたけど、そんなに驚かないで下さい」
「ほとんど年違わないってこと……?」
「はあ。私は向こうの大学出てから来ましたから」
「そっか……官費留学生なんだったっけ」
「はい。絶対留学するって決めてましたから語学は死にものぐるいでやりました。日本人の舌にはフランス語はかなり難しいんですけど」
へえ。それで流暢だったのか。フランス国民の例に漏れず母語を愛するフランシスはそれをがんばって習得したということで菊の評価を更に上げた。
「菊ちゃんのフランス語はとても綺麗だけど。声が好みだからかな、それでヴェルレーヌなんて朗読されたらうっとりするだろうな」
「巷に雨の降るごとく……ですね」
うっすらと頬を染めて、菊は言った。
「フランシスさんの言葉こそ、私の耳にとても美しく響きます。……あの、変な風に思わないで下さいね、そういう意味ではないのですけど」
断りを入れても菊はなお逡巡し、ややあって言葉を継いだ。
「フランス語は愛の言語だと、聞く度思うんです」
忘れて下さい、という依頼を守るつもりのフランシスは、にっと笑って受け流した。
受け流したけれども、心の中でため息をついた。本当に、たちが悪い。
「……じゃあ、お互い飲めるわけなんだし、今度部屋飲みでもしない? ワイン片手に、一晩中愛の言葉を囁いてあげるよ?」
冗談めかして言うと、菊もくすりと笑って同じノリで返した。
「えぇー? 女性ならフランシスさんの声だけで妊娠してしまいそうですね」
菊は悪戯っぽく付け加えた。
「酔いすぎないで下さいね?」
「いや、それ俺の台詞」
「お前さ」
「……んー?」
「上の空じゃね?」
「……えー、そーお?」
そういいつつも、眼が通りを彷徨っている。
「そうだろうがよ、窓の外ばっかり見てんじゃねーか。誰か探してんのか?」
「……んー……」
ギルベルトに言われるまでもない。通りで、市場で、カフェで。気づけばあの女性を探している。
さらさらの黒髪が肩に触れ、その下のすらりとした体はふんわりとしたワンピースに覆われていた。今時流行らないくらいの「女の子服」。今、街を歩く女性の多くはユニセックスでシックな格好を好む。
格好はどうでもいい。とにかく好みそのままの顔をした彼女が、恋愛の対象となりうる女性であることが重要だった。独り身の楽しさを謳歌している、と涙目で主張するギルベルトには殴られるかもしれないが、言い寄られて始まったこれまでの恋愛など全部引き替えにしてもいいから、「彼女」と恋ができないものかと思っていた。
「なあ…」
相変わらず頬杖を突いたままカフェの外を見るフランシスに、ギルベルトは手帳から眼をあげずに「あんだよ」と返事した。彼にとって今一番重要なのは、ここまで騒動が大きくなったにも関わらず実施が発表された学年末試験への対策を練ることである。
学校閉鎖が発表されていたことを、フランシスは土曜日になって同じアパートの学生から聞いた。彼は六日月曜に予定されている抗議デモに参加するのだと強い口調で語った。誘われているのは分かったが、フランシスは曖昧な微笑で断った。
このムーブメントに乗り切れない自分に気づいている。多分、初発の印象のせい―――ナンテール校の運動が「異性寮を訪問する自由の獲得」として新聞にとりあげられたためだ。新聞が揶揄したように「若造のわがまま」と思った、わけではない。「異性を訪問すること」は「大人として自立的に行動すること」の象徴だというくらいフランシスにも理解できた。彼らの主張には頷きながら、しかしフランシスは彼らと行動を共にするだけの熱を持てなかった。それがなぜなのかを考えることも放棄していた。
それなのに月曜日にカルチェ・ラタンに向かったのは彼女と会えるかもしれないという淡い期待による。
しかし、一帯はそんな暢気な期待を打ち砕く緊張状態だった。警察の厳重な警戒のもと集まり始めた学生達には催涙弾が打ち込まれた。フランシスはしばらくその騒擾を眺め、いくつかの街頭集会の議論を立ち聞きして、帰宅した。
デモは、「無統制」をこそ根本原理としていた。組織の長や知識人によって組織されるのではない、運動家から指導されるのでもない、自律的に参加していく運動形態を彼らは模索していた。
あらゆる管理からの解放。
誰かの台詞がフランシスの耳に残った。
最終的に一万五千にも及んだと言う学生集団は、平穏裡にデモをしていたというのに、夕方から夜にかけて、警官隊に激しい攻撃を受けたという。デモ側・警察側合わせて負傷者八百五人という「カルチェ・ラタンの虐殺」は学生の側に世論の風を呼びつつあった。
「だから、なんだっつーに」
ギルベルトはこの運動には全くの没交渉だ。適性のある分野で高等知識を身につけるのが大学。「知識は壇上から授けられるもの」であって一向に構わないから左翼学生等の批判が心に届かない。「大学は免状のための工場、教授は生産要員、学生は製品でしかない」といわれても、「たりめーじゃねぇか」くらいは言いそうだ。
仲は良くても感性は違うから、フランシスにはソルボンヌの中世的権威主義は鼻につくし、それを批判する大学改革要求は賛同できる。一つ一つの言葉には――とはいえ、何せ「無統制」運動なので言葉は余りにも雑多なのだが――頷けても、共に行動しようと踏み切れない。まあ、こんな非常時に恋愛に惚けるのもフランス人らしいと自分で思う。
「もしさあ、ルートヴィッヒとさ……」
少し考えて、言葉を足す。外見が、という想像はあまり美味しくない。
「印象とか内面がすっごい似てる女がいたら、お前、惚れる?」
ギルベルトは飲もうとしていた炭酸水を、コントのようにぶーっっと吹き出した。
「ちょっ……おまっ!」
慌ててハンカチを出し顔をぬぐう。よだれのように口から水を垂らしたギルベルトに既に吸水力の落ちたハンカチを投げてやると、無言で口周りをぬぐった。
「……謝んねーぞ。そのふざけた脳は一回セーヌで洗ってこい。ていうかいっそ手術受けろ。開いて、妄想の根源を抜いて貰って来い」
「……」
フランシスは苦笑した。
「……そこまで言われると、考えたことあったのかとか思っちゃうよ?」
「ふ、ざ、け、ん、な。俺のルートを妄想で汚すな」
「いやだから、そういう言い方が、さ……」
へらへらと笑ってやると、ギルベルトの眼の険が少し落ちた。
「家族に求めるものと女に求めるものは別だ。当たり前だろうが」
「……デスヨネー」
「……ま、ルートが持っている美質を兼ね備えた女がいたら、一目置くのは確かだな。けどよ」
「うん?」
「お前が聞きたいのはそういうことか?」
「んー?」
「よく分かんねーけど、ルートに似た女と付き合うくらいならルートを構った方がいい」
「あー……。うん」
「あんだよ」
「いや。ダヨネーって」
わけわかんねぇこいつ。そう言い捨ててギルベルトは手帳に目線を戻した。
ギルベルトがただの冗談で口にした「脳の手術」。フランシスはそのイメージを振り払おうとひらひら、と手を振った。
菊の部屋は、謙遜ではなく、事実、狭かった。
夜道の危険を慮ってフランシスが訪問したのだが、かえって悪かっただろうかと思ってしまうほど、そこは薄暗い屋根裏部屋だった。
二度目の握手から一週間。勉強にバイトにと忙しいだろう菊を思って約束の日取りを先にしたが、その自分の読みの甘さを何度となく罵った。しかし、大学が閉鎖されるなんて思ってもいなかったのだ。授業がなくなるからもっと早く会ってもいいなんて想像がつくはずがない。とにかく、主観的にはとてもとても久しぶりに会った菊は、たいそう恥ずかしそうに自室に招き入れた。
「えっと」
焦るけれども、二の句が継げない。どこに座ればいいんだ?床か?
「すみません、私は椅子にかけますので、フランシスさんはベッドに座ってもらえますか」
「あ……うん」
狭い部屋なのに、本棚が三棟もたててある。それに圧迫されて、生活スペースと言えば机と椅子、あとはベッドしかなかった。
「あの、本当は下の部屋を借りていたんです。でも、こちらの仕切り壁ってとても薄くて、その…」
「……ああ……フランス人は愛の営みに躊躇ないからねー」
フランシスの隣人も週に何度かは起承転結がはっきり分かるほどの声を聞かせてくる。お互い様というか、そういうものだと思っていたが、菊はそれで部屋移りをしたらしい。
「寮は?」
「考えはしたんですが、あまり共同生活が得意ではなくて」
恥ずかしそうに肩をすくめている。学生寮の安さは破格だ。もしそこで暮らせるならアルバイトも減らせるに違いない。不器用な生き方がより生き方を大変にしているように思えたが、フランシスが口出しするような――できるようなことではない。
「――あの、これ」
「うわあ、ありがとうございます」
台所も共同だと言うから、簡単にマリネやキッシュを作ってきた。ギルベルトが嫌がらせかと思うほどくれたザワークラウトも入っている。
「一応私も少し作ったんです」
蝿帳からフリッターのようなものを出してくる。
「もとはポルトガル料理なんでしょうか? よく知らないのですが……今では日本料理の代名詞みたいになってますんで」
「あ、テンプラ!」
フジヤマ・ゲイシャと並んで知られる日本語だ。
「ええ」
共同炊事場でこんな綺麗なものを。
「本当は揚げたてが美味しいんですけど、片付けしないわけにはいきませんので…本当の腕前はこれより上だと思って下さいね」
言いながら他にも小皿を数品出してベッド脇に配置された机に並べる。見たことのない調理法ばかりだが、眼に鮮やかで食欲をそそる。これはなかなかの手練れらしい。
学生の身にしては奮発したワインで乾杯をし、しばし料理談義にふけった。
食後、デザートにと持参したマドレーヌをうっとりと眺めながら菊は言った。
「お貴族様のお菓子ですね」
「フランス人はみな心の貴族です」
ふふ、と笑って、菊は立ち上がった。
「お腹いっぱいではあるんですが、いただいちゃいますね。紅茶か何か、要ります?」
「俺はワインのままでいいけど」
「じゃあ、私もこのままで」
おっと、と言いながら片手を机について姿勢を戻す。足に回ってきたらしい。
「マドレーヌと言えば……」
フランシスは先周りして答えた。
「プルースト?」
菊は嬉しそうに頷いた。何のことはない、書棚に揃っているのを見ただけだ。しかし、名刺に「私は『失われた時を求めて』を読んだ」と書けば人となりが分かる、と言ったシンガーソング・ライターがいる―――つまり通読していない人の方が圧倒的に多いこの大河小説を外国人の菊は読んだのかと少なからずフランシスは圧倒された。
菊が渡してくれた一つを小さくちぎり、口にいれようとしたところで菊が続けた。
「どうして、せっかくふんわりと焼き上げたマドレーヌを紅茶に浸したりするんですか?」
「……え? そこ問題?」
「だって、びちゃっとなってしまうでしょう?」
「そりゃ、まあ、ね?」
「ふわっと焼く為には色々手間がかかるのに…」
むーと睨んでいる顔がおかしくて、フランシスは、自分のグラスに手の小片を突っ込んだ。
「あ」
赤く染まったマドレーヌを差し出すと、菊は怯んだように口を閉ざした。そりゃそうだ、紅茶でも違和を感じたのに、ワイン漬けだ。それでもフランシスの笑いかける眼に気圧されたように、菊はおずおずと口を開いた。そっと送り込むと、唇が閉じ、静かに咀嚼が始まる。
「どうよ?」
「……お酒が強くて味なんか分かりません」
「絶対、次にワイン漬けマドレーヌを食べたら、この記憶を思い出すだろ?」
かの小説では、紅茶にひたしたマドレーヌを食べた瞬間少年の日の記憶が嵐のように吹き上がるというシーンがあるのだ。
「いや、食べませんから!」
ははは、と笑ったところでフランシスはたいそう残念なことに気がついた。ワイングラスに油が浮いてしまっている。
情けない顔で菊を見たら、一矢報いたというように「飲み干すまでお代わり禁止です」と言った。
酔いのせいなのかそうでないのか、自分が浮かれていることには気づいていた。菊の方も、いつもより笑顔率が高い。
プルーストから敷衍して、フランス文学の話に流れた。史学を学ぶ身としてそれなりの文学史上の知識はある。読んでもいるけど、やはり読み込みの深さでは負ける。やるもんだなあと不遜ながらに考えて、ふと思いついて聞いた。
「なあ、ジャン=ルイ・ボリって知ってる? ゴンクール賞もとった作家なんだけど」
「え……すみません、不勉強で。いつ頃の方ですか?」
「賞のは戦争ものなんだから、それこそ一九四五年とかかな。今でも書いてるけど」
「すみません、分からないです。その方が、何か?」
「ん? ……いや、なんだろう、別になんていうこともないんだけど、ついでに思い出したから」
フランシス自身にもなぜ思い出したのかよく分からず、酔いを理由にその話を流した。
用意したボトル二本は簡単に開いてしまった。それこそ自分の身の安全の為に引き上げるべきだと分かっていながら、フランシスはぐずぐずとこの時間を引き延ばそうとしていた。見かねたのか菊は遠慮がちに申し出た。
「あの……泊まっていきますか?」
「いいの?……って無理、だよね…」
横になれるものはベッド一つしかないのだ。
「つめれば、落ちはしないと思うんですけど。柔道の強化合宿の時なんてもっと狭い面積で雑魚寝でしたから……フランシスさんさえ嫌じゃなければ、私は平気です」
「ああ、うん……菊ちゃんがそう言うなら」
もうシャワーを使える時間は終わっている。二人は赤い顔のままベッドに寝転んだ。菊の替えのパジャマを一旦は借りたが窮屈に過ぎて、下着姿を勘弁して貰う。自室で寝るときは脱いでしまうTシャツを着ているのがせめてもの遠慮だ。
かちん、と電気が消える音が聞こえ、フランシスは大きく息をついた。
SMの趣味はない、……と思うけれども、自分にはマゾヒズムが隠れていたのかと思ったりもする。なぜ自分から拷問部屋へ飛び込むような真似をするのか。
酔った菊の緩んだ笑顔、赤く染まった頬、少しだけ甘えた口調のフランス語。
二階の窓の花は目で楽しむしかない。しかし、生け垣の花ならふれることもできるのだ。手を、伸ばしさえすれば。
さわれる場所に、菊がいる。だけどさわれない。
「彼は男だ」。
語学の教本でしか意味がないようなこの一文を、菊と知り合って以来、何度となく思い浮かべた。
恋をしたい。他の人と同じように、普通に、恋がしたい。二十五年かけて熟成されたその思いは根深くて、菊にそっくりの幻の女を捜しもした。だけど、ギルベルトがルートについて言ったように、身代わりと恋をするより、当人と向き合っていたい。事実、菊と会っている時に彼女のことを思い出すことはなかったのだから。
フランシスに背中を向ける菊の息づかいを感じて眠れないまま、ぐるぐると考えた。真っ暗な闇に、こんな夜中にそれでも行われている集会のざわめきが遠く響いてくる。
出会って以来、菊の夢を、何度となく、見た。
最後にはいつも、口にできないような展開になる。
華奢な体を抱き留めた感覚はリアルに思い出せるから、いつも夢の中で菊はフランシスの腕の中にいる。黒曜石のような瞳をだんだんに閉じて、口づけを待つこともある。項を見せて、ただ息と体温で熱を示すことも。夢は、現実の制約を離れ、封じていたはずの欲望をあばき、水飴のように甘く柔らかくフランシスをとらえる。
抱きしめる手をすべらせれば、夏の服は簡単に素肌への侵入を許す。滑らかな肌、そして痩せぎすな脇腹。一瞬息を止めたさまが愛おしくて、項に口を付ける。鼻孔に届く体臭に――菊のそれは隣に座る程度では気づかないほど少ない――また酔いを感じ、口づけを繰り返して耳朶を噛む。菊はいつもここで咎めるように、そのくせ促すように、フランシスの名前を呼ぶ。促されているように聞こえるのは自分の耳のせいだと分かっていながら、それに許されたかのようにフランシスはもっと大胆に手を動かす。片手じゃ足りない。全身で菊を感じたい。足の間に太ももを割り込ませ、もう一方の手も無理矢理腰に回して、両方の掌を菊の素肌に触れさせた。電流が通ったかのように、フランシスの脳はしびれ、かぼそい制止の声も媚薬のようにしか響かない。
臍のくぼみと、あばら骨のラインとを存分に楽しんで、フランシスの両手はそれぞれ上下に滑った。平板な胸、そこに飾りのようについた突起、そして柔らかな茂みと、
ああ、今回もそうだ、この段階にくるといつも目の前にうす赤く点滅する三角形が見える。
だんせ
「ふ、フランシスさんっ……」
――現実?
ざっ、と血の気が引く音が聞こえた。
闇の向こうで、ずずっと体が遠のく音がした。荒い息づかいも聞こえてくる。
「よ、よいすぎないでくださいって、いったじゃないですか……っ」
口が乾いて返事ができない。
「無理だって、言ったんじゃないですか……!」
「……俺……今……」
「……」
菊の息だけが聞こえる。
世界は止まったままだった。
「……ごめん、帰る!」
「……え」
「ほんと、ごめん、後でドゲザでも何でもする、何でも言うこと聞くから、今の忘れて!」
ひどい、のは分かっていた。それでも、この場にはいられなかった。セーヌに飛び込みたいとさえ思った。
服をざっと身につけて、そのまま部屋を出る。建物のドアも開いていたのを幸い、フランシスは夜の路地を駆け抜けた。
うす赤い三角形が脳裏に点滅する。
今、菊に触った。ずっと触りたかった。
俺は、菊の肌に触れ、胸を触り、下半身を掴んだ。
彼は紛れもなく男で、俺はそれを分かっていて、そして―――だから、興奮した。
二十五年、何度も否定した、あがきもした。
けど、「それ」は今、明白な事実だった。
受け入れられなかったのは、菊が男であること、ではない。
俺が、男である菊を愛するタイプの人間なのだということ、だった。