■フランシス
カフェからの帰り道、方向が同じだったのでお互いのことをあれこれ話した。菊はホテル清掃のバイトをしているという。もっと割のいいバイトにすればいいのにと思ったが、接客バイトの「東洋人単価」とは変わらないと受け流す。くたばれ人種主義者、とフランシスは心の中で悪態をついた。パリ大学では入学時に「勉強か恋愛か選びなさい」と訓示される。つまり、勉強以外のことは、フランス人にとって生活の中心と言える恋愛さえする暇がないのが普通なのだ。留学生は更にハンデがある、にもかかわらずバイトをするのは大変なことだろう。
夜かなり遅くまで働いて帰るというその道が繁華街をかすめていることも気になった。こんな華奢な東洋人が夜道を歩くなんて強盗して下さいと言わんばかりだという、――――認識としては多分間違っていないことをレイシズムに陥らずにどう言えばいいのかとフランシスが眉を寄せていると、「私黒帯なんですよ」と菊はさらっと言った。
「え? ジュードーの?」
「はい。父の道場に通わされまして。何せ実家ですから、さぼることもできなくて仕方なく」
「……それはやっぱり護身用に?」
「は? まさか。日本でそんなこと考える人、滅多にいないですよ。まあ、あれです、父は私を自分のような筋骨隆々とした男にしたかったんでしょう」
無茶ってもんですよね、と菊は笑い飛ばした。
フランシスはまた内心頭を抱える。最初に会ったとき、「男らしくしろ」と言ってしまった。それは「男」というマークを表示してほしかったという意味だったのだが、世間一般では「筋骨隆々とした男たれ」という意味だ。フランシスの言葉は「仕方なく」「無茶」な鍛錬を続けたらしい菊にどう響いただろう。
複雑な顔をしたフランシスに、菊はにこ、と笑顔を見せた。
「だから、護身という意味の心配ならご無用です。フランシスさんこそ気をつけて」
では私のアパートはこの通りなので、と菊は頭を下げて路地へ消えていった。
その次の日の夜、フランシスは菊がバイトをしているというホテルの前にいた。偶然を装って会えないかと目論んだのだが、既に帰宅したという。今日は早くあがっていいって言われたんだって、と応対してくれたバイトの子は言った。
何をやっているんだろう俺は、と独りごちつつフランシスは帰ることにしたのだが、その途中で目を丸くすることになった。
「菊?」
「あれぇ、フランスさん?」
ふやあ、と橋の欄干にもたれていた人物は笑い顔を向けた。顔がほの赤い。
「なん……もしかして、飲んでる?」
「えへ、ばれましたか。でも少しだけですよ? ちょっと気分がよくなって、月見に来ちゃいました」
「月……?」
どこということもない三日月である。ただセーヌに照り映えて美しいと言えば美しい。それよりも、生真面目そうという第一印象が書き換えられるほどほわほわと笑っている。「護身」を考えもしないという日本人特有の甘さなのか、「黒帯」の過信なのかしらないが、強盗に狙ってくれと言わんばかりだ。
「送るよ」
子供がぐずるように、彼は肩をよじった。
「いやですよ、折角フランスさんにまた会えたのに」
「フラン、シ、ス」
「あ、はい」
かくっと頭を下げる。
「月を、見ましょう? 綺麗ですよ」
そういって月よりも綺麗に笑うので、フランシスは頷くしかなかった。喧嘩に強いとはお世辞にも言えないフランシスは、もしこの場で強盗団にあったら守ってやれるだろうかと甚だ不安になりはした……が、だから帰れなどと、もったいなくて言えない。
「貴方は知らないでしょうけど――」
川面に映る月を見ながら笑顔のままでぽつりと言った。
「私は、ずっと貴方に憧れていました」
「……? 俺のこと、知ってたの?」
「え? もちろん。そして、貴方の眼中に私がいないことも、分かってました。たかだか、遠い東洋の小さな私ですから、仕方ないと……分かってはいましたけど……寂しかった。だから、すごく、嬉しかったです。貴方とたくさんお話できて」
そして、フランシスに向き直る。
「貴方のその綺麗な髪が、青い眼が、触れるほどの場所にあるなんて、嬉しくて」
すっと伸ばした手が髪に届きそうになって、フランシスは驚きに身をよじった。しかしそのせいでバランスを崩した手は、拠り所を求めてフランシスのシャツを掴み―――そのまま体が落ちてきた。
良質な恋愛経験がないとはいえ、こうした時の対処くらいはフランスに生まれた男として、できる。フランシスは柔らかく胸の中に飛び込んできた体を抱き留め、何気なさを作り出すことに尽力しながら声を出した。
「ちょっと、大丈夫?菊サン」
「ふふ」
ことん、と胸にこめかみを当てられて、フランシスは狼狽した。
心臓の音を、聞くな。
「……やっぱりだめなんですか?男である私では」
「き……」
柘植のような色の手がフランシスの頬に伸び―――触れた瞬間、電気が走ったように、いきなり腕の中の体が強ばった。
「えっ…………」
「え?」
黒い瞳がこれ以上はないほどに見開かれている。
「ふっっ……フラン、シス、……ボヌフォアさん?」
「な、なに? どうしたの、本田菊さん?」
「う、うそっ……え、ちょっと、どういう? ――ってそういう?」
訳の分からないことを言い出したその様子にもはや酔いの色はない。むしろ青ざめて、どどど、どっぺる、とドイツ語を呟いている。
「2?」
「いえ、なんでも」
深呼吸一つ。
「あの。……大変、厚かましいお願いなのですが、とりあえず今日のことは忘れていただけませんか。さっき申し上げたあれこれは、たちの悪い酔っぱらいの冗談と言うことで是非」
「はぁ? 何よ、それ……」
「あの……貴方が一般的フランス人であるなら多分言うべきなのですよね、『ご不快にさせて、本当に、申し訳ございません』!」
わけが分からない。しかし、ともかく確かめておかなければならないことがある。
「……俺を、そういう風に好きだって言ったのが、『ご不快にさせた』『たちの悪い』『冗談』、ってこと?」
「ほ、本当にすみません! どうお詫びしたらいいのか、というか、どうすればいいのか……!」
おろおろしている。フランシスは、(どう見ても)年下(に見える人)に冷たくできる性格ではない。悪友達の中でも何故かいつもお兄さん役にまわされてきた。
「……わかった、そんなに謝らなくていいさ。……ちょっとびっくりしたけど」
「すみません、すみませんっ」
川に眼を戻せば月に雲がかかり始めていた。
「……もう遅いし、帰ろうぜ? 送るからさ」
「え、あの……結構です、私男ですし」
「黒帯なんだろ、知ってるさ。でもどうせ帰り道なんだから」
「いいいいいいや、あの、そうですがでも」
「……さっきの、蒸し返してもいい?」
「いや困ります、というか、今日はどれだけ責めて下さってもいいので、明日以降は是非……!」
「じゃあ帰ろ」
ほら、と何気ない風に肩を叩くと、やっと強ばった顔ながらついてきた。フランシスは無表情にさえ見える顔で半歩後ろを歩く彼をちらちら眺めた。何かを考えているのか、唇が時々動く。日本語らしいそれは聞き取れず、フランシスは無言のまま十分近くを歩いた。
このままさよならも言わずに帰ってしまうのだろうかと意地悪のつもりで例の路地でも止まらずに歩き続けたら、考え事に夢中になっているのか、そのままついてくる。このまま家まで拉致してやろうかと思ったけども、性分がフランシスの足を止めさせた。
「こら、お前さんのアパートはその路地なんでしょーが」
はっとしたように顔をあげ、辺りを見渡す。
「は! ……い、はい、あの、では失礼しますどうぞ今日の私はお忘れください……!」
脱兎の勢いで路地に駆け込んでいく菊をフランシスは苦笑で見送った。昨日は彼がアパートに入るまで見送ってしまった。今日は通り過ぎたせいでアパートの入り口は見えない。残念なようなほっとしたような気分でフランシスは踵を返した。
専攻が違うから、偶然に会うことはそうそうないだろう。とはいえ顔を合わせたときにどんな風に振る舞えばいいのか、フランシスは思い悩んだ。忘れろ、と言われたのだから、忘れるしかない。何事もなかったように……つまり、カフェで話して一緒に帰ったところ、の続きをやればいい。そう分かってはいたものの、あの『冗談』は『たち悪く』ぐずぐずとフランシスの胸の中に居座った。
「もう、ほんと、なんで女の子じゃないんだろ……」
泣きたいような気持ちで呟けば、後ろからぽこりと丸めたテキストで殴られた。
「何の話をしてるんだこのタラシ」
高校以来の悪友、ギルベルトだった。専攻が違うのだが、学生食堂目当てに遠征してきたらしい。この男はこと友人に対しては暴力という形の親愛表現しか知らない。
「痛い。お兄さん泣いちゃう」
「泣け。泣いてその座を俺に譲れ」
「その座ってどの座? 女の子にもてまくるアイドルの座?」
「自分で言ってんじゃねーよ」
「……なあギルベルト」
いきなり真面目な表情になったのに気づいたか、ギルベルトも声音を変えた。
「あ?」
「一生結婚できなくても、お前平気?」
「てっ……てめえ、いくら俺がもてないからって……っ!」
「ち、違う、そうじゃなくて! できなかったとしてどうかって話をしてるだけで!」
「ざけんな、俺には親父とルートがいるんだ、独身なんて楽しすぎるってもんだぜぇっ」
「あー。家族、ね…」
ドイツ系移民である彼の一家の強固な絆は有名で、フランシスは幾度となく兄を守ろうとする弟に冷たい視線を浴びたものだ。一度など鼻先三寸ストップで拳を切られたことさえある。何で怒らせたのだったか覚えてはいないが、ギルベルトをからかいすぎたのが原因であることは間違いがない。こういう形の対友人親愛表現しかフランシスも持たないのだ。
そんなんじゃない関係を作りたい、菊とは。
それなのに、何がこう曲がってしまったんだか。
金曜日はありがたいことに午前中で正課が終わる。ギルベルトの食事の誘いを断って、例のカフェで壁に頭をこつこつとぶつけていたら、目の前の椅子がひかれる気配がした。相席するほど混んできたかなと目を開けたら、そこにはこの十二時間フランシスの頭を支配していた人物がいた。
「あ……」
「……」
店員にカフェオレを頼んで腰掛け、菊はまっすぐにこちらを見た。そして、すっと手を差し出す。
「……?」
「友達、ですよね、私達」
「あ…………うん」
「色々考えるところはあったのですが、やっぱり、貴方が教えてくれた『ここ』に戻ろうと」
「ここ、って」
「握手、です」
考えるところがあったのは自分の方だ、と主張しても良かったのかもしれない。けれども、それよりフランシスには、この手を取ることの方が重要だった。
思いを込めて握ると、菊はよかった、と言って笑顔で握り返してきた。