五月

フラ菊

■フランス

「おーい、ホンダさん。まだ撮るの?」
「は、はい! すみません、お待たせして」
「いや、そういうこと言ってるんじゃないけどさ。初めてじゃなかろうに」
 ばしゃばしゃと撮りまくる日本に小首を傾げる。確かにベルサイユ宮殿は壮麗だ。それはもう、世界の誰にも文句を言わせないことだけれども、日本がここに複数回来たことがあるのも確かだ。何せ第一次世界大戦の講和条約は(ドイツ帝国への仕返しに)ここの鏡の間で調印されたのだ。
 あの頃の日本は白い軍服できっちりと身を覆い、軍刀を提げていた。そういえばその頃日本の笑った顔ってほとんど見たことがなかったなとフランシスは思った。

 無表情にも見える引き締まった顔に、一度、疲労の色を見たことがある。それこそ講和会議中の春の日だった。廊下の扉が閉まりきっておらず、控え室にいた日本の姿がたまたま見えたのだ。人がいないと安心していたからか、軍服を脱いで薄いシャツ一枚になっていた日本は、一人がけのソファに背を預けてぎっとこめかみを押していた。音が聞こえるほど指に力を掛けているのがドアの細陰からでも見て取れた。あんなに押して、その痛みで誤魔化そうとするほどの頭痛。あばら骨がシャツの上からでも見えそうなほど細い彼を何がそんなに苦しめているのか、フランスには見当もつかなかった。
 誰も彼も、体の中に破裂しそうな病根を抱えて、それでも走る。食われないように走る。食われないうちに食う。食われたから食い返す。まったく俺たちは何をやってるんだろうな、と静かに立ち去りながらフランスは独りごちた。

 ま、そう言いつつ、恨みに食われて次の恨みを呼んじゃったんだけどなあの条約は、とフランスは自嘲した。首から重そうなカメラを提げた日本が、あの頃は見せなかった緩い笑顔で駆け寄ってくる。
「お待たせしました! 本当に何度来ても綺麗です、フランス……という国は!」
「ありがとう」
 褒められるのが好きで、慣れてもいるフランスは笑って応えたが、しかし先ほどの回想のせいでつい付け加えてしまった。
「何度来ても、ってことは、最初に来た時からそう思ってた?」
 今みたいなきらきらの眼で仰がれていたなら戦前の印象も違っていただろうに。
「もちろんです! ……ただ、あの頃は、そういうことは口にしないもの、とされていましたから」
「誰にそう『された』の?」
「えぇ? んー、……自分に?」
「ふうん」
 まあ、そうとしか言いようがないかもしれない。くにがらというのは誰か個人が――デザインし、誘導することはあるだろうが――作るものではない。作り上げようとする空気と作り上げられた空気の総体が自分たち国なのだから、原因も結果も自分で引き受けるしかない。
「じゃ、いい変化、だ」
 俺にとってね。そう言おうとして、気づく。彼の変化の原因は、あの大けがだ。
 しかし日本はにこ、と笑った。
「ええ。何せ――」
 じゃーん、と擬音語附きでカメラを持ち上げてみせる。
「新製品なんです。軍用に特化されていた技術が全部民間需要に振り向けられましたからね。キカイ大好きなので開発していても楽しいし、それが人を傷つけもしないし、評価されてお金も貰えるなんて嬉しいスパイラルですよね。これなんて、自動露出付きの一眼レフなんですよ! もう、今から現像するのが楽しみで」
「ああ……それでばしゃばしゃ撮ってたんだ……」
「ふふふ、見てて下さい。今はまだやっぱりカメラと言えばドイツさん、時計と言えばスイスさんですけどね、私、きっとやりますよ! だってこういうちまちましたもの組み立てるの大好きですから」
「ああ、そういえば東京オリンピックの公式計時は日本のメーカーだったっけ」
「そうなんですよ、あの厳密な計時が求められる国際競技大会で……! なんと晴れがましい……! ああ、やっぱり私、こういう達成感の方が性に合ってます」
 だからドイツと気が合うんだろうなあ、としみじみフランスは思い、ついでに、だから逆説的にイタリアが可愛かったりしたんだろうなあ、とも思った。
「そうかぁ、日本はこれから経済でのし上がってくんだー、じゃあ、やっぱりイギリスも入れて欧州ブロック作んなきゃなー」
 上司は断固イギリスのEC加盟を拒み続けている。仏英関係を大きく変えるだろう機会が流れそうなのはちょっと惜しい気もするし、同時に変わるのが少しだけ怖い気もしている。いずれにしても、日本へのこの台詞はただの「おふざけ」だ。
「え、う、あ? あの、ええと、関税攻撃だけは、なにとぞー」
 予想通り、日本は肩をぴくりとさせ、とフランスの両腕にしがみついてきた。
「資源のない小国ががんばってんですから、大国の余裕を見せて下さいよう」
「どの口がそれを言う」
 世界を向こうに回して戦争したくせに。これか? この口か? と頬を引っ張ってやると、みーっと泣いた。猫か。おかしくて引っぱり続けていたフランスだが、ふっと周りの目線に気づいて離した。しかし日本の腕の方は離れない。こら、そっちが問題だっちゅうに。
「あのね、ホンダさん、ホモに見られるから抱きつくのやめなさい」
「は?……え、あ、すみません」
「いや、見られてない可能性もあるけどね、まあどっちにしてもちょっと、移動」
 二人、こそこそと庭に出る。
「すみません、騒いでしまって」
「いや、まあ、俺のせいもあるし」
 がりがり、と頭をかいて。
「でもほら、日本はちょっと、あれじゃん? 華奢っちゅうか童顔っちゅうか…だから、まあ、そっちに見られやすいんだよね」
「そっち、とは」
「だから……気を悪くすんなよ、同性愛者に、さ」
「うーん」
 日本はこめかみに人差し指をあてて俯いた。しばし考えて、やおら顔を上げる。
「同性愛者だと言われたら、気を悪くする、ものですか」
「え、だって、そうじゃない?」
「同性愛者の方は、『気を悪くするな』の方に気を悪くしそうだと思ったのですが……」
「……」
言葉に詰まる。
「こちらでは、イギリスさんと比べて同性愛者に寛容なのかと思っていたのですが、違うのですか? 確か、あちらでは同性愛者であることを理由に絞首刑になることもあるとか」
「いや、あいつも処刑は前世紀でやめてたはずだけど。ついでに言うと、うちでもアンシャンレジュームでは火あぶりだったんだけど。まあ……なんつうか、あれだな、うちのポリシーは大革命以来『個人の自由』だから、こっそり私生活でやる分には問題ないって感じ? でもほら、公の場では、ね。男女の仲じゃないんだから」
 日本は苦笑した。
「私の感覚では、男女の仲も公の場に出すものではないのですが」
「なーに、日本では人前で男女がキスしたら問題になるの?」
 冗談のつもりが、まじめに頷かれてしまった。
「不純異性交遊は補導の対象になりますよ。田舎だったら町中から後ろ指指されます」
「…おかたーい」
 日本は苦笑しつつ、手を振った。
「いえ、ですから、感覚の枠組みが違うということなのだろうと思います。私にしてみれば、フランスさんの感覚の方がお堅いですよ、こと同性愛に関しては」
「へえ」
「まあ、とはいえ、私もここ百年で随分欧化されたんで、昔ほど受け入れられてはいないんですけど。同性愛者として生きることを許されなくて家を出る人もたくさんいますしね。女装で有名なシャンソン歌手も、その友人が、同性愛を家族に非難され自殺したと言っていました」
 私には近代以前の記憶があっても、彼らにはいっかいきりで五十年強の人生しかないんですから。
 日本はそう続けた。
 フランスは空を見上げた。
 フランスが物心ついたとき、既にキリスト教はあった。獣姦と並んで鶏姦は最初から禁止されていた。それでも、確かに、歴史を通じて一定数そういう人はいた。
 日本にはあるという「彼らを社会として受け入れた記憶」がフランスにはない。フランス文学の一流をなす同性愛というモチーフは、常に罪の意識に彩られたものだった。
「男だっていい――なんて考えられるものかな」
「考えられないですか?」
「……日本が女だったら口説いてたなあ、とは、今思った」
 日本は笑った。
「正直ですね、今まで思わなかったって言っちゃうところも含めて」
「あ、いや。……うん。ごめん?」
「いえ、謝るようなことでは。……でも、そんな風に考えられた方が、自由だ――とか、思いません?」
「うーん」
 『フランス革命以来のポリシー』を持ち出されて、フランスは唸った。
「いい変化、だと思いますよ」
 日本は五月の風のように笑った。

 その日、日本をホテルに送り届けたあと馴染みのバーで一人飲んだフランスはつい酒を過ごした。体調がいまいちだったからだろう、酒量に比べて酔いが深かった。
 今のままではだめなんだろうか。アメリカと牽制し合い、イギリスとは嫌みの応酬。友達とは悪友を意味していたフランスにとって、そして不純?異性交遊大国と自他共に認めるフランスにとって、周りは「男だっていい」という言葉から遠かった。
 帰路を心配するマスターに手で大丈夫と告げて、千鳥足ながら家に向かっていたフランスは、橋のたもとで先ほど分かれたはずの顔を見つけた。
「あれぇ、日本。危ないから、夜そと歩いちゃダメって言ったでしょー?」
「は?……フランシスさん!」
 駆け寄ってきた彼は、ぐらつく体を支えようと手を伸ばした。
 その手を掴んで、引き寄せる。軽い体はなんなくフランスの体の中に入った。
「あの?」
 焦りで細くなった声が胸の中から聞こえたが、無視してそのさらさらの髪を鷲づかみにしてすり寄せる。
 腕の中で、緊張に強ばった体が小さく息づいているのが分かる。かわいい。そうは、思う。しかしそれは多分、猫に感じる愛情と大差ない。
「やっぱ、だめだわ」
「……は?」
「男でもいい、とは思えない。かわいーなーとは思うけど」
「な、ん……」
「なんでお前さん、女じゃないの?」
 もったいない。つくづくそう思って、顔をのぞき込む。街灯の陰影で半分の表情は見えない。けれども、照らされた側の頬の白さには気づいた。
「……離して下さい」
「それもやだ」
 確かにあのとき、風が吹いたのだ。「いい変化、だと思いますよ」。なあ日本、だったらお前が手を引いてくれよ。その五月の風の先にある社会を見せてくれ。混沌の代わりに。
「……酔ってるんですね?」
「うん。ごめん」
 ひどい酔っぱらいだ。迷惑この上ない。分かっているけど。
「なあ、昨日の今日でこういうこというのは変だけどさ」
 何せ、百年近い付き合いなのに、親密に話し始めたのは昨日のことなのだ。どうして今まで正面から向き合って来なかったんだろう。もったいないことをした。
「俺、お前さんのこと、好きだわ。――友達として」
 黒曜石のような瞳が揺れた。
「……男同士の友達は、こんな風に接触するのじゃなくて、握手をするのじゃなかったですか」
「ああ、うん。そうなんだけど、まあ、今、例外。……ずっと、友達でいてほしい」
 俺、何イギリスみたいなこと言ってんだろ、そう思ってフランスは苦笑した。自分にはない懐の広さを持つらしい小さな友人は、少し眼を細めて、微笑みを返した。