五月

フラ菊

■フランシス

 最悪だ。
 猫っ毛で絡まりやすい金髪をぐしゃぐしゃにしながら、フランシスは広場を抜け、学生街カルチェ・ラタンに向かった。

 どんなに正しいことでも、「多数」はそれだけで力だ。法律で、またはコモンセンスで、社会は個人にのしかかる。
 非西欧社会には成人儀礼として刺青を施す民族もある。針の痛みに耐えた証が一人前の印というそれは、理屈の上では分かりやすいが、そもそも「針の痛みに耐えること」や「刺青」に対して肯定感情を持たない人間がその集団の中に居たならば、それは文化の名を借りた圧力に違いない。
愛の国に生まれた人の宿命は、にもかかわらず「シングル」でいるならデメリットを甘受するしかないということだ。「度を超さない不倫」を伝統の中に持つために、婚姻という法的拘束の圧力はそう強くはない。しかし、「パートナーがいない」と言うと「なぜ?」と聞かれてしまう。それは、フランシスにとってずっと有形無形の圧力だった。
 顔はいい、と自分でも思う。スカウトされたことも一度や二度ではない。もちろん言い寄られたことも。それを幸い、圧力から逃れる為に「おつきあい」をしたことも指で数えては両手両足で足りやしない。
 けれども一方が「これは逃避だ」と思っている恋愛が続くはずもない。その虚しさに、「こちらから声を掛けたいと思う相手が見つかるまで恋愛はしない」と心に決めた。それが、一生にわたる恋愛の断念かもしれなくても。

 見つけてしまった。
それが最初の感想だった。黒目黒髪、明らかな有色人種。かつてのようにスペースが分けられているわけでもないのに、なんとなく座る席が分かれている、その「あちら側」にその子はいた。子、というのも失礼、ここにいるのだから同年代なのだろうけど、アフリカ系やアジア系の留学生に混じってさえがくんと小さいその背丈には「子」と呼んで包み込んであげたいような可愛らしさがあった。
 自分から声をかけた経験などない。フランシスは食堂入り口の手洗い場に寄り、鏡を見て小さく頬を叩いた。うん、男前。フリーなら、きっと大丈夫。フリーじゃないなら諦めればいい。……諦める理由ができる。

「こんにちは、ここ、座っても?」
 タイミング悪く、ちょうどコーヒーを含んだところだったらしく、その子は瞬きをしてからこくんと頷いた。慌てて飲み干そうとしたのだろう、熱い液体に喉をやられて少しむせている。そうして、軽く立ち上がって、がくっと首を下げた。一体何だ、と思ったが、とりあえず椅子に座る。
「突然悪いね、一目見た瞬間から、どうしても声を掛けたくなってしまって。人は自分に無いものに焦がれるというけど、君のさらさらの黒髪や、滑らかな頬や柔らかそうな唇が先刻から僕の目をひきつけて離さないんだ――」
 映画の台詞を真似てみたけれどもうまくいかない。相手の目は丸く見開かれて、そこに「なにごと?」と大書されている。焦りでフランシスは無理矢理に言葉を継いだ。
「君の黒曜石のような瞳に僕が映ることを考えたらいてもたってもいられなくなって――」
 やっとのどが落ち着いたらしいその子は、小さな手をブッダの左手のように差し出した。
「あのう」
 青天の霹靂、という言葉が東洋にはあるという。いや、晴れてもいなかった場の雰囲気だが、いきなり氷雪に見舞われたかのようにフランシスには感じられた。
「……男?」
 間違いない、今の声の低さは。よく見れば喉仏も見える。何より――そうだ、「子」と無意識に思った理由の一つはこれだ――平坦な胸。
 がたん、気がつくと立ち上がっていた。
「なんっっ! ちょっと、待てよ。どういう陰謀だよこれ!」
「あの」
「話かけないでくれ、混乱する! 何だよ、男ならもっと男らしくしろよ!」
 フランシスは乱暴に椅子を戻し、吐き捨てるように言ってその場を去った。

―――最悪だ。

 人生で初めて恋愛できる人に会えたと思ったのに、男だったなんて。
 高揚していた気分は一気に地を這うレベルに落ちていた。
――――――本当に最悪な、自分。

 流石に二十五年も生きていれば、自分の言動を客観視できる。
 第三者視点で先ほどのシーンを回想し、フランシスはため息をついた。擁護もできなくはない、だがやはり、黒髪の彼にとってさっきの遣り取りは一方的な難癖だと、もう一人の自分はフランシスを断罪した。別に彼は女性のフリをしていたわけではないのだ。並より低い身長、薄い胸板。骨格が違う彼のそれを詰るなど、
「人種差別の域だろ……」
 深々とため息をつきながら、目についたカフェに入った。カラン、とドアベルが慎ましやかに鳴る。こぢんまりとした空間に落ち着いた調度品が配置されていて、フランシス好みだった。心が落ち着くのを感じて、周囲に配る眼を取り戻したフランシスは小さく目を見張った。さっきの彼がいる。じぐざぐに歩き回ったから先周りされたのは不思議はないとして――ここで再会するとは、天の導きに違いない。
 大きく深呼吸して、彼の座るテーブルに向かった。
「……ごめん。ここ、いいかな?」
 冷たくあしらわれたら潔く謝ってこの場を去ろうと思っていた。しかし黒髪の彼はそれが癖なのか眼をぱちぱちとさせてこくんと頷いた。あ、と思う。睫が長い。
「さっきはごめん。――虫のいいことを言うようだけど、忘れてくれないか。ちょっと、混乱してたんだ」
 図々しい、と思いながらも、同性にも効きますようにと祈りつつモデル笑顔を作って頼み込む。彼は苦笑のような優しい笑顔を向けてきた。
「いえ、そんな、謝っていただくほどのことでは」
「……日本人? そういう優しさは君の文化なのかな」
「ええ、日本人ですけど……どうなんでしょう、優しいと言えるんでしょうか。私は本当に欧州の流儀というのがよく分からなくて」
「留学生?」
「はい、今年度から文学部に在籍しています」
「俺はフランシス・ボヌフォア。院で歴史やってる」
「あ、では改めまして、本田菊です」
「……バイクの会社の名前だっけ。ベルギーに工場のある」
「ええ、そうです。……ちなみに、日本でも百番目くらいには多い名字ですよ」
「ふうん」
 留学一年弱にしては、かなり流暢だ。会話も淀みないし、雑談をする余裕もある。若干スローリーなその発音は、しかし、低い声にのせられて耳に心地よく響く。悪友たちとの間にはない暖かいものを感じて、フランシスはこれを今だけのものにはしたくないと強く思った。
「あの、さ」
「はい、なんでしょう」
「もしよかったら」
「はい」
「……友達になってくれない?」
 菊はまたぱちぱちと瞬きをした。そして、破顔一笑。
「そんなに遠慮がちに言わなくても!」
 すみません、と、笑ったことをなのか付け加えて、菊はまた笑った。それまでの表情変化が小さかったせいで、その「一変」はフランシスを強く揺さぶった。
 地震のS波のように、踏みとどまったフランシスをさらなる揺れが襲う。
 テーブルの上に置いていた右手に、ひんやりとした滑らかなものが重なった。
「光栄です、喜んで」
 手が。乗せられている。
 それを見るフランシスの顔のこわばりに気づいたのか、菊は怯んだように手をどけた。
「……すみません、欧州の流儀に合わせたつもりだったのですが、……間違ってしまったのですね」
 表情が硬くなっている。これは自分のこわばりの比例なのだろうと察して、まずは顔をほぐした。菊もそれを見てわずかに緊張を解いた。けれども明らかに作った笑顔だ。申し訳なく思いつつも、心臓の揺れが収まらない。
「ええと、こっちの流儀って?」
「身体接触が多いといいますか……こういう風に親しみを表現するものなのかと」
「あー……、うん。そっか、握手とか東洋ではしないんだったっけ。うん」
 フランシスはひらひら、と手を振った。空気を払いたかった。
「じゃあ仕方ないけどね、さっきのは、男同士では、しないな。君が女性なら間違いなく及第点の仕草だけど……そんなこと男相手に不用意にやったら、――同性愛者だって思われちゃうぜ?」
 ひらひら。風を送って、言葉を軽くしたい。
「あ……。そうなのですね。気をつけます」
 引いたまま宙に浮いていた手を胸にとんとつけて、菊は微笑んだ。
 自然さを装えばかえって不自然になる。分かってはいたけれども、その微笑みのぎごちなさがフランシスを慌てさせた。
「……気にするなよ、君はまだフランスには不慣れなんだし、俺は気にしない。ただ、他の人にはしない方がいいんじゃない?ってだけで」
 ふふ、と息を漏らすように菊は笑った。
「……じゃあ、しばらくフランシスさんにくっついてます。何かやらかしたら、教えて下さい」
 そういってがくっと首を折った。言葉の意味を反芻していたフランシスはぎょっとして手を浮かした。
「……まずは、その日本流挨拶を握手に変えるっていうのはどう?」
「あー…。それ、難易度が高そうです。ついやってしまう」
 そう言いつつ、菊は手を差し出した。
「宜しくお願いします、フランシスさん」
「こちらこそ、キク」
 手をきゅっと握り替えすと、身体接触になれないという日本人は顔を赤く染めて、優しく笑った。

 この後の付き合いで、この可愛らしい日本人が、フランス人であったならと思う日は来ないだろう、けれども、女性だったらとは何十回と無く思うに違いない。フランシスはそのほろ苦い予感ごと、この出会いを心の中の特等席にしまった。