■フランシス
一説によると、この夜使われた催涙弾やガス弾は五千発を越えたという。
そのガス弾の中にはヴェトナム戦争でも使われた有毒ガス、CBガスが含まれていた。
また、警官隊の攻撃はデモ隊のみならず住民にも及んだが、特にアラブ系住民に被害が多かったとも伝えられる。
バリケードの夜が終わり、全てが明るみにさらけ出された。警察の苛烈な弾圧はフランス中の批判を浴び、それまで「若者達の暴走」に批判的だった左翼諸政党や労働組合も学生への連帯を表明した。フランスの「五月」が始まった。
五月十三日、ソルボンヌは学生達により占拠された。この日、各労働組合が合流して行われた同日統一ストはパリだけで八十万と言われる規模となった。
神学寮を出自とする白亜の建物は、今や張り紙と落書きの土台だった。
「ソルボンヌから君を解放せよ」
「人はバカか利口かじゃない。人は自由かそうじゃないかだ」
「走れ同志、古い世界は君の後ろだ」
中には、心ゆくまでフランス人、という類の落書きもあってフランシスを苦笑させた。
十四日にはオデオン座も学生らが占拠し、一帯は時ならぬ祝祭の空気を作り出した。大学と劇場は民衆自律集会場と呼ばれ、各種討論会が行われ、ジャズの演奏会が開かれ、ポスターが作られた。
運動は労働現場へ波及し、(フランスの労働組合は産業別組合で労組幹部の指導性が強いという伝統があったのだが)飛行機工場、自動車工場など企業単位でのものを含め広範囲に広がり、郵便・電気・ガス・銀行・炭坑など多くの産業がストによる操業停止に至った。公共交通機関がとまり、ガソリンがなくなったせいで自動車も消えたパリの街は、明らかな異常事態にも関わらず、不思議な落ち着きを見せ始めていた。
人々は互いをvous(あなた)ではなくtu(キミ)と呼び合った。
タイムスケジュールもカレンダーも、自分で決めたもの以外は無効になった。
まるで白昼夢のような不思議な時間がそこには流れていた。
* * *
「フランスは美しい国だと思ってましたけど」
憮然としたような低い声を背後に聞いて、フランシスは慌てて振り返った。
「ゴミと、犬の落とし物に関する感覚だけは頂けません」
「菊」
「確かに、ゴミ収集のルーティンがなくなったから大変だと思いますけどね、どうしてそれを通りに放り出すんですか」
確かに、今パリの街は一言で言えば「ゴミだらけ」だ。
「……出さなかったら家の中にたまるんじゃない?」
「そう思って出しちゃう感性が分かりません。どうして、それこそ自発的に、ゴミ処理のルールを自分たちで作ろうとなさらないんです?」
「他にしなきゃいけないことが色々あるんでしょ」
「したいことが、ね」
菊は腰に手を当てて息を吐いた。その手を片方だけ下ろして。
「お久しぶりです」
「うん……」
「ご無事で何より」
「ん? うん」
「まさか、火炎瓶と燃焼弾が飛び交う中に突っ込んで行かれるとは思いませんでした」
「……なんで知ってんの」
肩をすくめて。
「追いかけたからですよ? 全く、東洋人のコンパスに対する嫌がらせかと思いましたね、あの全力疾走は」
「え……なんで」
「……あんな絶望一色みたいな顔されたら、責任感じちゃうじゃないですか」
「……え?」
「だから――謝ろうと思って」
フランシスは狼狽した。
「謝るなんて! 酔って寝ぼけて変なことしたのは俺の方で、菊にはなんの手落ちもない」
「とも、思うんですけど……」
菊は、東洋的な、複雑な笑みを浮かべた。
「それより、無事だった、んだね?」
「ええ、まあ。通り沿いのアパートの方が窓からハンカチを落として下さって、催涙弾はそれで多少なりとも防げました。結局、貴方は見つからなくてほんのわずかで引き上げたんですけど」
「ほんと、無事でよかったよ……」
救護活動しかしなかったフランシスにも容赦なく攻撃は加えられた。そして、攻防が続いていた夜よりもある意味では暴力的な朝があったのだ。バリケードが陥落したあと、午前六時頃に開始された「残党狩り」は苛烈を極めた。
「……座りませんか」
大学前の花壇の縁に並んで腰を下ろした。
「ああ、いい風」
軽く目を閉じて、それから菊はゆっくり開いた。
「花の色にも孤独を感じ、自由の歌にも疎外を感じる――そんな人にも、若葉の鮮やさは届くと思いませんか」
「……どういうこと?」
「美しさがあるから美しいのではなくて、ただその命が美しい、そんな気持ちになります」
「詩人だね」
「というか、日本の詩人がそううたったんですけどね」
軽く首をすくめて、菊は隣に置き忘れられていたトランジスタラジオを手に取った。スイッチを入れては首を傾げ、上下に振ったり裏蓋を開いたりしている。
返答を考える時間を作ってくれていることは分かっていた。それでも語るべき言葉を探しあぐねて、フランシスは、その若葉を見上げた。木漏れ日が緑を縁取って地上を暖めている。菊はただ待ってくれている。
「……菊には色んな顔があるんだな。本当に同一人物なのか分からなくなる」
「そうですか?」
「ああ。とても小さくて華奢に見えるのに強くて、あどけなく純朴に見えるのに大人で、クリームのように柔らかそうで、でもタルトのようにしっかりもしていて、プラリネのような意外性があって……」
「ストップ!ちょっと!勘弁して下さいフランス人」
真っ赤になって、ブッダのように右手を差し出す。その手を掴んだ。
「……どうして食べちゃいけないんだろう、って、思う」
菊はぎゅっと閉じていた目を開いた。ややあって、言葉がぽつりと落ちる。
「いけない、って、誰が貴方にそう言ったんですか」
「んー。……自分?」
「……どうして」
「怖いから、かな」
「――初めから、分かっていたでしょう、私達、同じだって」
「ああ」
なんとなく、としか言いようがない感覚だ。同類を見れば、あ、と思う。勿論、勘違いにすぎないことも、ままある。だけど菊は、手を重ねてきた。恋ができると思った相手が、恋をしてもいいとメッセージを送ってきた。その歓喜より先に襲ってきたのは、否定し続けたカテゴリの中に自分がいることを看破された衝撃だった。
「私には帰る家もありません。逃げるようにしてこの国に来ました。だから、貴方が怯える気持ちは分かります。貴方は言外に……時には言葉にして、私に『それ、を引き受けるのは無理だ』と伝えてきましたから、私も友達役に甘んじようと思っていたんです。……友達のフリするのには、慣れてますから」
「……そう」
いつだって菊は、言外のメッセージを正しく受け取った。「――同性愛者だって思われちゃうぜ?」「あ……。そうなのですね。気をつけます」。その会話で、二人は「踏み越えないこと」を約束した。そのはずだったのに、月に酔わされたかのごとく菊は胸に飛び込んできた。我に返ったように「たちの悪い冗談」などとごまかしていたが、殻を捨てさえすればこの人と恋ができると改めて思い知らされ、心が焼けた。いっそ、痛かった。
「貴方の言動のあれこれはルール違反じゃないかと時々思いつつ、それでも、流儀の違いだろうと自分を納得させてきました。でも、ずるい、こんなに私を浸食しておいて」
「菊」
手の中の小さな手がきゅっと結ばれる。
「そう思って、ちゃんと、止めることができなかった。貴方の欺瞞を暴いてやりたくなってしまった。――それ以上に、貴方の声と匂いと手とに、もう、溶かされてしまっていて、あなたの指を全身が待っていて」
「菊……フランス人がどうこうって言えないと思うんだけど」
「はあ?」
「すごい、殺し文句……」
苦笑を絵に描いたような顔をしてみせると、本気で眉を寄せていた菊はかっと頬を照らした。
握りあったままだった手を離して、顔を正面に戻す。
「こんなに許されていて、まだ怯むなんてなー」
言外の「無理。」に、菊はまたトランジスタラジオを膝の上に置き、弄りだした。
「……他の誰の許しがいるんですか」
「端的に言えば、社会、なんだろうね」
フランシスをとりまく「社会」は、それを理由に同性愛者を殺しさえしてきた。そのことを知ったときの疎外感と絶望は若いフランシスの心を抉ったのだ。
菊は湖面のような瞳をこちらに向けた。
「貴方が駆け込んでいった硝煙の中は、免罪符を書くペンを自分の手に取り戻す場だったのではないのですか」
自分の管理を人の手に譲り渡さない。例え教授にであれ、工場長にであれ。知識人にであれ、既成政党にであれ。
それが「五月」のほとんど唯一の運動方針だ。
「……」
沈黙を破るように、いきなり菊の手の中のラジオが電波を拾った。
――サルトル、フーコー、モーリス・ブランショ、マルグリット・デュラスなど、既に多くの著名人が「五月革命」への賛意を表している。私は彼らのように絢爛たる言葉を「五月」に捧げることはできないし、しない。ただ私は、この季節の風を吸うように私自身のことを語ろうと思う。
「……ボリだ」
「ああ、この方が……。雑誌で映画評論を読みました」
――すべてが可能な五月革命にあって、どうしてそれが禁じられるだろう?
「なんといいますか……普通のおじさん、という感じの方ですね」
捻ったようなストレートなような表現にフランシスは軽く吹いた。
「うん、ハゲでデブでね。ブルゴーニュあたりに山ほどいそうな」
――私は観念の中に存在する者ではない。私は私の生を生きている。私は、同性愛者である。
空気がとまった。
――黒人という個人がいないように、同性愛者という人はいない。私を知らないリスナーもたくさんいるだろう、けれども、敢えて言う、貴方の知っている私が、同性愛者である。
言われれば、気づく。ジュネやプルーストのように、彼の作品の主題に同性愛が明瞭に登ったことはない。しかし、その空気は作品の中にあった。
フランス文学の一流として、同性愛は扱われてきた。しかし、プルーストは同性愛について「全部物語ることができる、ただし、けっして『私』と言わない条件で」と言った。アンドレ・ジッドの自伝は、実際、作者名を伏せて出版された。
言ってはならないこと、だった。今まで、ずっと。
それは、おそらくフランス史上初めて、同性愛者が、その資格で、公に語りかけた言葉だった。
――今までの私と同じように、自分を語り、自分を認めることを禁じていた苦しめる人へ、五月の風が届くことを祈る。
フランシスは頭上を見上げた。角度の加減か、木漏れ日がきらりと葉の表面を光らせた。