五月余話

フラ菊
五月_1982:後日譚/人+国

■フランシス


「ただいま帰りました」
 夏休みだというのに図書館に行っていた菊の声がした。書き物の手を休めて、入り口へ向かう。
「お帰り」
 頬にキスをすれば、わずかの躊躇の後、返してくれる。十年以上続く習慣なのにまだ恥ずかしさが抜けないらしい。三つ子の魂百までというべきか、骨の髄から日本人と言うべきか。
「どうして夏にまで働こうと思うかな。南へ行こうよ。ギリシャとかさ」
「どうして暑い時に南に行こうと思うのかいまだに理解できないです」
「だって日差し浴びたいじゃない?」
「昨年、日本でうんざりするほど浴びたでしょう」
「あー……、うん」
 菊の生まれ故郷だと思えば何もかもが愛しい……とは言い切れないくらい「日本の夏」は暴力的だった。サウナのようなあの気候はヨーロッパの夏に慣れた者には体力消耗甚だしい。
 それでも、菊と民宿・浴衣・団扇の取り合わせには絵心をそそるものがあった。
「今度は他の季節がいいなあ」
「そうですね……学事暦に合わせて貰えるなら…イースターの休暇はどうでしょう。桜に間に合うかもしれませんよ」
 日本の春は、それはもう綺麗ですから。菊はその光景を思い浮かべたようにうっとりとした眼をした。
 家も国も捨ててきた。そう言い切り、事実、未だに家族とは断絶状態であるらしい菊が、それでももう一度日本に足を踏み入れてもいいと思うようになった――そんな、時の経過の優しさが、フランシスにはこの上なく嬉しい。

「ところで、フランシスさん」
 冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出してテーブルに着いた菊は、悪戯めいた顔をした。
「懐かしい顔を見ました」
「ん?ギルベルトとか? …… って、やつなら、懐かしいってほどじゃないか」
 あの男はこの家を料理付き無料ホテルと勘違いしている。
「ええ、別の方です」
「誰だろう、俺の知ってる人?」
「ん……どうなんでしょう、ドッペルゲンガーを見た人は死ぬというのですから、フランシスさんはご存じないかも」
「どっぺる?」
「げんがー、……というのは冗談ですけど。フランシスさんにそっくりな方だったんです」
「へ、え」
「それも、初めてお会いした頃の、フランシスさんに」
「へぇ」

 あれから、十五年近くが過ぎた。それでもまだ記憶は鮮明で、草いきれの匂いと一緒に様々な思い出がわき上がってくる。五月。喧噪と混乱、希望と夢想の季節。

 菊はすっと手を伸ばし、目元を撫でてきた。
「あの頃の貴方、そういえば、あんなに若かったんですね」
 来年には大台に乗る。目尻の皺も、髪の色あせも、時の優しさの代償だ。
「……若い男に目移りした?」
「まさか! 貴方のような渋みのない人に、今更手を重ねようとは思いません」
「ふうん……?」
「ほんとです。ただ、目映かった季節と、眩しかった貴方を思い出しただけです」
「でも、別人でしょ」
 菊は小首を傾げた。
「そうなんですけどね。絶対に貴方ではないのですから、他人の空似に決まっているんですが、その方と眼が合ったように思うんです」
「そういうこともあるんじゃない?」
「そうなんですけど……ウィンク、されたような」
「やっぱり菊ちゃんは若い男に走るんだ……!」
 わざと布巾を噛んでみせると、もう……、と、菊は軽く腰を浮かし、なだめるように目元に唇を寄せた。
「私みたいなおじさんを誰が相手にするもんですか。貴方だけですよ、そんな奇特な人」
 分かってない……! 確かに、時は菊の肌から多少の潤いと柔らかさを盗んでいった。しかしその分落ち着きと品格を与えた。様々なハンデを乗り越えて、菊は今母校で教えている(俺の方はフリーの雑文書きで、最近は菊にサポートされながら日本紹介の記事なども書いている)。人気が高く抽選にもなるという菊のゼミには、何割か、テーマより菊のことを考えている不埒者がいるのじゃないかと疑っている。
「信じさせて?」
 退こうとする頭を捕まえて耳元で囁くと、菊はほんのり頬を染めて、それでも手の檻から逃れ出た。
「じゃあ、愛する人の為にご飯でも作ります。もう遅いので焼き魚と青菜のおひたしと、おすましくらいになりますけど」
「品数は問題ないけど、……随分健康的だね……」
 言葉を選んだつもりだったが、菊はにっこりと頷いた。
「ええ、貴方の健康と美しさの維持のためですから」
 苦笑。確かに、この年だというのに腹も出ずにすんでいるけど。
「どうせだったら、カロリー消費して維持しようよ」
「……」
 意味するところが伝わったのか、冷蔵庫へ向かいかけていた菊は肩越しに笑いかけた。
「お手柔らかに」

 いろいろなものが変わった。革新系政党が政権を取り、公約だった様々な改革を推し進めようとしている。その一つに差別法の撤廃があった。異性間なら十五歳以下で罪になる肉体交渉が同性間なら十八歳以下で罪になる。この法律の撤廃を否認した上院を、同性愛者団体は「同性愛への人種差別」として糾弾している。

 ちなみに、この件の報道を最初に聞いた時、菊は妙な顔をした。
「逆に、異性間の肉体交渉年齢制限を十八歳に引き上げようとは思わないのですか?」
「え? ――誰一人そんなこと思ってないと思うけど」
 ある政党が出したビラには「ひとりの人間が別の人間を愛するというときに、それを許可する『合法的年齢』などという滑稽な概念を維持したいなら」とさえある。
「……中等教育年齢の同性間肉体交渉の何割かは合意の無いもののような気がするんですが」
 しばし、宙を睨んで、その遠回しな言葉の意味を考える。
「……無かったの?」
「……はあ……。というか、何が何だか分からないままそういうことに。体育会って、上下関係厳しくて逆らえないものでしたですし」
 眉根が寄ってしまう。
「……何なのその軍隊みたいな組織……」
「あ、いえ、その……私個人に関して言うなら、……今にして思えば、問題はなかったというか。ただ、もしかしたら一生気づかなかったかもしれない性癖に無理矢理目覚めさせられちゃったかな、というくらいで」
 あわてたように手を振る、その手を握る。その出来事が無ければこの人と出会えなかったかもしれない、それでも、痛ましい。
「目覚めてよかった、って思えるくらい、愛するからね」
「もう思ってますって」
 菊は手を握り返して囁いた。
「貴方と出会えて、私は生きるという言葉の内実を知ったんです」

 菊と出会って十五年弱。最初の冬には、零下十六度の寒さを(菊の部屋には暖房がなかったので)抱き合ってやり過ごした日もあった。店子の少ない菊のアパートの、あの屋根裏部屋で睦み合いもした。そのうちに大家に白眼視されるようになり、アパートを変え、マンションに変え、同棲に変えた。流儀の違いだと言い張ってしなかったことをしてくれるようになったし、照れで秘されていた気持ちも少しならのぞかせてくれるようになった。
 同性愛に関する著作や小説、論評は、今、当たり前のようにパブリックビューに晒されるようになった。この動きは不可逆的で、さらに進行していくだろう。

「……菊さん」
「はい、なんでしょう?」
 菜箸を持ったまま菊が振り返る。
「とっときのワインあけようか」
「ええ、いいですけど…?」
 法律にどう書かれていようが、人が別の人を愛するのは自由のはずで、相手の意志以外に束縛をうけるいわれなどない。実際、有名無実化していた法律でもあった。けれども、それを「撤廃した」というその行動自体に意味がある。これは、フランス社会の意思の表明だ。「私達」の枠を広げようという。

 日本社会も変わりつつある。サミット構成国として国際的地位も高めたし、今や世界二位の経済大国である。昨年、初めて訪問した日本は、都会の熱気と少々レトロな印象の田舎が混在した不思議な国だった。
 東京に着いてホテルにチェックインした後、まず菊が連れて行ったのは本屋で、それまでまだ幾分か疑っていた「『サファイヤ王子』が実は『リボンの騎士』という日本製アニメであり漫画原作もあること」を証明されたのだった。他にもやたらと漫画・アニメコーナーが充実している本屋で、興味津々に眺めていたら、「ちょっとだけ洋書もののコーナーを見てきますね」と置き去りにされた。
 「ゴールドラック」の本家本元を見つけ思わず小さく口笛を鳴らすと、周囲の日本人達に――我が身を完全に棚上げして言うのだが、漫画・アニメのコーナーなのにいい大人がたくさんいる――奇異の目で見られた。うるさくしてすみません、と首をすくめたらおのおの無言で目線を戻したのだが、強い視線を感じ再度振り返った。そこには若い頃の菊にうり二つの青年がいて、あり得ないものを見るかのような眼でこちらを見ていた。
 ああそうだった、あんな、つやっつやの黒髪で、どこに触れてもぱつんと跳ね返ってきそうなほど瑞々しくて――新緑のように眩しかった。
 お互いを呆然と見つめる時間がどれだけ過ぎただろうか、青年は幻想から覚めたようにはっと表情を変え、がくっと首を落として、コーナーから去っていった。
 どこまでもそれは初めてあった頃の菊と同じで、未だにあれは現実か幻覚か判別がつかない。

 恩師への挨拶や資料収集など東京での菊の用事を済ませ、いくらかの観光もしたあと、一泊だけ、名前も知らないような土地に移動した。どこにも出歩かず、ただぼうっと縁側の椅子にもたれて外を見ていた菊。高台にあった温泉宿で、団扇でゆっくりと仰ぎながら眼下の街を見下ろす浴衣姿の菊は絵のように美しく、霧のように儚げだった。
 フトンに寝転んで、「ゴールドラック」の始祖であるらしい「マジンガーZ」の単行本に夢中になった、ふりをして、菊がこちらの世界に戻ってくるのを待った。
 もちろん、戻ってきてからは、その浴衣という衣装の崩れやすさとフトンの融通性にものを言わせて「日本の夏」の良質な部分を堪能したことは言うまでもない。

 言葉でも、体でも伝えたい。
 菊の積み重ねてきた一瞬一瞬がかけがえ無く、愛おしいこと。
 その菊と、生きるよろこびを、生きていくよろこびを、分かち合いたいこと。

 帰れない家、会えない人。喪われてしまったなにか。その空白の上にしか俺たちの重なりはない。だから仕方ない…とは思えない。ないこと、うしなわれたこと、うしなわれていくことへどう向き合うかが未来を作る。

 出会った瞬間から運命を思わせたひとは、あの頃の優しさと強さを失わず、ますます美しくなった。彼の上に刻まれていく時間は自分と過ごした時間だと思えば、小さな皺さえ愛おしい。

「ご飯できましたよ」
 その声に筆を止めて立ち上がり、テーブルセッティングの手伝いに向かう。シェフと雑用係、その交代を続けてもう十年。出すべき皿も合わせるべきグラスも想像できる。だが、ガステーブルをのぞきこんだら、純和風と思っていたメニューとは色合いが異なるものができあがっていた。グリルではなくソテー、すまし汁ではなくスープ。ワインに合わせてくれたらしいが、ガーリックの香ばしい匂いが少々照れくさい。お手柔らかにって言ったくせに。

「マドレーヌもありますよ」と菊は微笑んだ。

「ただし、そのまま食べさせて下さいね。思い出すまでもなく、あの季節のことは全部心の中にありますから」。