■フランス
ロンドンの夏は過ごしやすい。それなりの温度にはなるが、乾燥しているので風が吹けば肌寒いくらいだ。ニットカーディガンを小脇に抱えて陸上競技場で空席を探していて、ぎょっと目を見張った。
「……おっさん」
「んあ?」
見上げた顔にはサングラス。流石に仮面では目立つと思ったのかもしれない。
「おー、フ……ーん、久しぶり。座るか?」
「あ、じゃあちょっとだけ」
なんちゅう誤魔化し方だと思いながら、開けてもらった隣に腰を下ろす。首を曲げて顔色をうかがうが、トラックを見下ろすトルコの顔にはさしたる変化も無い。
「……キツくないの」
「ああ? んー、まあ、多少」
胃を軽く撫でて、小さく苦笑する。
「でも、やっと来られたんだからなあ。この目で見てやりてえじゃねえか」
だからこの競技が終わるまでは見届けるという。
オスマントルコの選手がオリンピック参加を初めて認められたのがこの第五回オリンピックだ。オリンピックは世界大会、とはいえ、ヨーロッパ以外からの参加は数えるほどだ。前回のセントルイス大会は、アメリカまで行くのも大変だと参加国数が激減した。やはり大西洋は大きなハードルで、ましてインド洋・太平洋の向こうから来るのは……そこまで考えて、ふと思う。もしかしたら日本は次あたりから来るつもりだろうか。
今大会では国旗を掲げての入場行進となった。このスタイルは時代に合っている。今後も踏襲されていくだろう。そういう国威発揚のイベントには無理を押してでも来ようとするんじゃないかなあ、あの島国は。しかし流石に体格差・体力差がもろに出そうだけども……並んでたつと胸あたりに顔が来たよなあとそのちんまりとした姿を思い出す。
「……選手、がんばってる?」
「そりゃ、がんばってるさ。まだまだ全然だけどな。ほら、あいつのとこの司教が言ってたじゃねーか、『参加することに意味がある』って」
「違いない」
あいつ、ことアメリカは頬を膨らませながらその言葉を聞いていた。新興国としての自負もあってだろう、イギリスとのメダル競争は熾烈で、四百メートル走では審判の判定に抗議しての選手団ボイコットまでやらかした。国として、経済力では元宗主国と鎬を削るに至ったという自意識と、それなのにNo.1として扱われない、どころか「欧州外」扱いされるという不満が、体の中で収まり切れていないのが見て取れる。若いねえ、と思う。言うとキレられるから言わないが。
と、フィールドの動きに関係なく、トルコが顔をしかめた。
「……」
今彼の中では革命が起こっている。憲法を停止して絶対権力を回復しようとしていたスルタンに対し、青年トルコ人を名乗る近代化グループが武装蜂起したのだ。鎮圧部隊の中には革命に呼応するものも出始めたというが、情報は錯綜している。この規模の革命を、眉をしかめる程度で受け止められるとは、やっぱり老大国だと感じ入る。
憲政復活は大いに結構だ、近代化――諸慣行のグローバル化も助かる。ただ、バルカン情勢の重しの一つであったトルコがガタつくのは望ましくない。中近東におけるドイツの介入の余地も大きくなるだろう、それはイギリスの権益への脅威になりかねず、つまりは世界全体が流動化してしまう。
そういう打算的な不安もあるけれども、それを脇において、やはり同じ国としてその痛みを想像もしてしまう。武装蜂起とその弾圧ともなると、腹痛程度ではすまない。痛ましい顔になってしまったのか、トルコは苦笑して軽く拳で肩をついてきた。
「革命のセンパイが、んな顔すんな」
「ん? いや……うん。だな」
「死ぬこたねぇんだ。乗り越えられるさ」
そう言って、トルコは長くほそい息を吐いた。
夕方にはドーヴァーを越える予定だったが、何となく飲みたくなった。パブに行って一杯引っかけて帰ろう、そう思っていたのに、気づくと数軒はしごしていた。
イギリスのパブは軽く飲むのに向いている。手軽さと賑やかな空気が売りで、まあ確かにビールはうまい。立ち飲みだったから足がだるくなったところで店を出て、なんとなく飲み足りない気がして道の向こうに見えたパブに入る。それを繰り返して、だからその店に入った段階でワイン一本分くらいには酔っていた。
「あー!」
入ってすぐに気づいた、あちこちはねた銀髪。声にめんどくさそうに振り返る、その顔にはまる赤目。
「ぷーちゃあああんっ」
「ぷーって言うな!」
プロイセンが腰掛けているソファ席に突進し、そのまま抱きつく。
「なっ、何すんだてめぇっ!」
向こうはそう酔っていなかったらしい。容赦なく顔をつかまれ、引きはがされそうになる。
「ひどいぷーちゃんっ、アタシから逃げないでっ」
「やめろっつーに!」
「ひどいっ、でも酷くされても裏切られてもアナタが好き……っ」
プロイセンは一瞬動きをとめ、それから思いっきり顔をしかめ、本気の拳骨を脳天にくらわしてきた。
「ごっ……!!」
流石に頭を抑えてうずくまる。その隙にプロイセンは俺の腕から逃れ、ソファの端に逃げた。
「いってえ……」
「自業自得だ、馬鹿! 次やったら、刺す」
本気で怒っているらしい。珍しい、昔は尻だって触らせてくれたのに。そんな顔で頭をさすっていたら、「どうぞ」とミネラルウォーターの瓶が差し出された。顔を上げると、向かいの席に微苦笑をたたえて日本が座っていた。
「わああん、優しい……!」
飛びつこうとしたのを隣がラリアートでとめる。両手を伸ばした姿勢のまま喉を直撃され、うめき声さえ出ない。
「やめろって言ってんだろうが!」
声に怒気を感じて、まじまじとプロイセンを見る。いつもとさして変わらないやりとりなのに、対応がずいぶん違う。
「……ごめん、なんか真面目な話してたとこだった?」
苦い顔でしばらく黙り、ややあってプロイセンは呟くように言った。
「そういうこっちゃねえよ」
日本も薄く笑みを浮かべた顔で取りなしてきた。
「ええ、偶然競技場で行きあって、軽く近況報告がてら飲んでいただけです」
だから、もしお邪魔なら失礼しますよ、と立ち上がりかけたのを二人で阻止する。
「オリンピック見に行ったんだ?」
「はい。次こそは参加したいと思いまして」
「そっかー。うん、がんばんなよ。そう言えばさ……」
「はい?」
「……いや、なんでもない」
頂くね、と瓶を軽く掲げて、水を含む。
そう言えばさ、トルコに会ったよ。それを言いやめた理由は自分でもうまく説明できない。胃の中で飛び回る激痛をやり過ごして長く細い息を吐き、目を中空に浮かせて、トルコは言った。「日本も、あのちっこい体でやり遂げたんだからよ」。そしてこちらを振り返り、「知ってっか。俺とあの人はもとは同じだったんだ。分かれてあの人は東に行って太陽になり、俺は西に来て月になった」と微笑んだ。
なんてな、と付け加えたトルコだが、その伝説だか与太話だかを大切にしていることが表情で分かった。日露戦争の「勝利」がアジアに与えた衝撃は大きく、その余波は東南アジアから中近東にまで至っている。革命勢力「青年トルコ人」の動機付けにもなったはずだ。
「愛されてるねぇ」
ぽろりと漏れた言葉に、プロイセンは片眉をあげ、日本は首をかしげた。
「あの? すみません、聞き取れなくて」
「いやいや、独り言」
だから何、ということもない。昨年日露協約も成り、日本は完全に協商国側に立った。敵対関係に無く、さりとて義務を負う関係でも無い。欧州情勢に関わってくるような立ち位置ではないのだから、ましてプライベートに誰から思われようが誰を思おうが、こちらにとってはお構いなし。そうなのだけど、この前の会談の時のような、なんとなく面白くない気になる。俺こいつに含むところあったっけ? と我ながら不思議になる。
「あ、そうだ。俺、あれ取り寄せた」
どちらに向けて、ということもなく、ぽんと手を打つ。
「あれって?」
「ほら、前くれたじゃん。日本のおもちゃ」
きょとんとしたままの日本に対し、プロイセンは額に手を当てた。
「なんのことでしょう」
「こいつがくれたの。水に入れると花になる、紙の」
「……ああ、水中花ですか」
思い当たった顔になった日本は、ちらりとプロイセンを見、顔を戻して恥ずかしそうに笑った。
「文字通り、子供だましで」
「んなことないない。仕掛は単純そうだけど、ぱっと見面白いし、出来上がった後のも鑑賞に堪えるいい出来だし。日本、ほんと美的感覚あるよね」
「いえ、お恥ずかしい」
目を伏せたその顔は、本当に恥ずかしそうにも、ただ照れているだけにも見える。いずれにしても、どうして褒められて顔を下げるのか分からない。嘘っぽく聞こえたのかなと反省し、少し身を乗り出した。
「いや、まじで。サロンに行ってお披露目したら、みんな喜んでね。ちょうだいちょうだいってご婦人方に大もて」
行きつけのサロンには作家や音楽家もよく出入りしている。彼も芸術家なのだろう男の一人が、その小さなショーに「ああ…」と声を漏らした。「これ、知ってます。昔もらって、けれども忘れていた。そうだ、確か日本のおもちゃだ」。頷くと、男は続けた。「この、なんだか分からない紙切れは、花に『なる』ように見えて、実は花の姿を取り戻している――花は紙の中に最初から『ある』んだ」。昔プロイセンがこれをくれた時の禅問答にどこか似ている、と思いながらサロンを去ったものだった。
「お前がもてる話は聞き飽きた」
ぼそりと隣で呟き声がする。日本には聞こえないほどの音量のそれは、こちらにだけ向けた小さな棘のようで、思わず笑ってしまう。先ほどのきつい鉄拳制裁を忘れて思わずふざけかかった。
「いやあん、ぷーちゃんったら拗ねないで。いつだってお兄さんはぷーちゃんをあい……!!」
ぎ、と音がするほどの勢いで、頬が左右にひかれた。
「や・め・ろ、と言った」
分かった、と言おうとするが指の力が強くて舌を動かすこともできない。ギブ、ギブ、と腕を叩いてようやく手を離され、膨らんだ頬を急いでさすった。馬鹿力すぎる。
「もお……この美形に何てことすんの」
「大丈夫ですか?」
心配そうな声の日本に笑って応えて、それからプロイセンに向けて口をとがらせる。
「ちょっと、ひどすぎないー?」
ち、と舌打ちをして、プロイセンは声を低める。
「うちは今、その辺のことにすっげーぴりぴりしてんだよ」
「ん……?」
一瞬考え、それから手を打った。
「ああ! あれか、」
「口にすんな!」
言うなと言われたので、黙り、ミネラルウォーターの瓶を頬にあてる。
今、ドイツを揺るがすスキャンダルが司法の場で繰り広げられている。外交官だった大公フィリップ・フォン・オイレンブルクなど皇帝側近を含む数百人が同性愛者であると新聞屋がすっぱ抜いたのだ。既に昨年、同時に俎上にあげられたモルトケ伯爵は同性愛者であると判定されたが、その判決は覆り、いったん新聞側の名誉毀損という有罪判決で片がついた。しかし、さらなる証拠と記事が出たとして、オイレンブルクは今年五月、偽証罪と同性愛の罪で逮捕されたのだ。
ドイツでは、というより、大抵の国で、同性愛は違法である。つい十年ほど前、イギリスではオスカー・ワイルドが「恥ずべき愛」を理由に監獄に送られた。イギリス軍のマクドナルド将軍がセイロン島で少年相手にいろいろやらかしたのを『ヘラルド』にすっぱ抜かれて自殺したのは五年前、ドイツ兵器産業の雄クルップがカプリ島で青年といちゃついていて法王庁からイタリア退去を命じられ自決したのもその頃だ。
同性愛自体を罪と規定してはいないフランスでも、オイレンブルク事件は詳細に報道されている。他人事のスキャンダルは、しかもそれに秘密と悪徳のにおいがするものだから、それなりに美味しい――新聞と世論の興味関心はそんなレベルだが、フランスにとって、この事件はそれにはとどまらない。
「ぶっちゃけた話、迷惑なんだよね、あれ。どーなのよ、お前んとこの上司」
「~~~~~おーまーえーーーーー!!」
もう一度本気の頬ひっぱりを強行され、パリの地盤が心配になる。石畳の下は砂なのだ、案外もろい。手をばたばたしていると、やんわりとした声が挟まった。
「すみません、何のことかさっぱり分からないのですが――、ともあれそろそろ許して差し上げては」
「…………お前がそう言うなら」
しぶしぶ、と言った風情でプロイセンは手を離し、グラスを一気にあけた。
胃がきりきりしたから飲み直す、という全くもって訳の分からない理由で、次の日プロイセンが急襲してきた。意味は分からないが、飲むのは構わない、とっときのワインもある。そういえば昨日は全然胃を喜ばしてやれなかったからとアペリティフを用意する。どうせこいつも舌の肥えたやつじゃないが……と思い、そういえば、とつまみ食いに台所に来たプロイセンに聞いた。
「日本は? もう帰ったの? まだロンドン?」
「いや、大陸来ていくつか訪問して回るって言ってた。ドイツにもそのうち来るんじゃねーかな」
「一緒に来ればよかったのに」
絶対日本の方が味を分かってくれる。
と、プロイセンは妙な顔をした。
「だったら、お前が誘えばよかったのに」
「んー? いや、俺ら別にそんな仲いいわけじゃないし。イギリスとか、アメリカとか、お前とかと比べたら全然」
「……」
少し首をかしげて、プロイセンは「へえ」と言った。
「なに」
「いや……。主語っつーか、比べる基準点がお前じゃないんだ、と思っただけ」
言っている意味がよく分からず、考えようとしたが、プロイセンのくしゃみで全部吹き飛ばされた。そして、うざいほどの「腹へった」攻撃に負けて、手っ取り早くジャガイモのオーブン焼きでごまかすことにする。こいつは大抵、芋さえ与えておけばご機嫌になる。かのフリードリッヒ大王に感謝感謝だ。――それで思い出す。
「蒸し返すようだけど、ほんとお前の今の上司どうなの」
「……」
苦虫を噛みつぶしてその汁を口中で味わった、というような顔をして、プロイセンは黙った。上司、は、オイレンブルクではない。ヴィルヘルム二世のことだ。
「結局、彼が、『オモセクシュアリテ』なんでしょ? それなのにトカゲのしっぽ切りみたいにしてんの、ひどくね?」
事件の当初、皇帝は、事態沈静化のために新聞にリストアップされた数人に引退を勧めた。オイレンブルクであれ、クルップであれ、その相手が皇帝自身だということは政府中枢では知られた事実だったのに。
「……誰もが分かってて口にしてないことを言うな」
プロイセンは、口の中の苦汁を消すように、ワインを一気にあおる。ああ、当たり年のワインなのに……と残念に思うが口には出さない。
「そりゃね? 政府首脳陣が掘って掘られて喜んでるなんて、そりゃあスキャンダルにもなるだろうよ。けど、裁判とかさあ。公私分離しようぜ」
「……」
はあ、とプロイセンはため息をついた。
真面目な考え事はくしゃみ一つで飽きるこいつには珍しく、眉間のしわが消えない。
「……お前がそう言うのは、オイレンブルクが親フランス派だからだろーが」
「えー、いや、んー?」
少なくとも、この事件が「困る」のはそれが理由だ。有能な政治家で、かつ、血の気の多い皇帝をうまく操って協調主義的政策を採らせている。実際、そのオイレンブルクを追い詰めている新聞屋のハルデンは、はっきりと言っている。同性愛が問題だというより、同性愛によって腑抜けた政策を採らせていることが問題なのだ、と。
時期が悪いのだ。既に同盟対協商の構図はできあがっている、そこに日露戦争により新局面が展開した。ロシアの南下政策が食い止められたとみたイギリスは仮想敵をロシアからドイツにシフトしている。こんな中でヴィルヘルム二世が強硬策に出たなら、英独対立は避けられない。
「少なくとも、それが理由で人を公に処罰するこたないだろって思うけどな。ごくごく一部の男の、ごくごくプライベートな趣味じゃん」
「……」
プロイセンは少し細めた目でじっと見つめてきた。
「なに」
「なんでもねー。ま、他人事なんだろうなって思って」
「徹頭徹尾他人事だもん。ま、がんばって何とかしてよ」
ふー、と深いため息がつかれた。
「なんともならねーよ。オイレンブルクは失脚する。裁判がどうなるかは分かんねーけど、政治的影響力がなくなるのは間違いない」
「えー」
プロイセンはグラスを大きく揺らして黙った。傾けすぎたグラスから赤い液体がこぼれそうで、こぼれない。粗暴な男だが妙にバランス感覚がある。
「……公私分離っていうけどよ。中世はともかく、今は、なんで同性愛を禁止したままにするかって、公私を飛び越えちゃうからじゃねえの。ヒゲだるまが言ってた。『同性愛は国家にとってきわめて重大な脅威となる。社会階級間の柵を取り払ってしまうからだ』って」
「……へー」
「オスカー・ワイルドは下層階級の男をホテルに招いていた。オイレンブルクと関係があったと証言したのは牛乳配達夫だ。普通なら交流の無い、階級で分けられている男同士がつながっちゃうんだろ」
「んでも、それは、恋愛がそもそもそういうものじゃない? 身分違いの恋なんて古今東西恋愛小説のネタじゃん」
「『恋愛』はそうでも、『結婚』は違う。そんだけ乱れてるお前んとこの性倫理でも、それはそうだろうが」
酷い言われようだ。むしろ、この事件以来、ベルリンこそソドムの街と言われているのだが。
ワインの瓶を掴んで、乱暴にグラスに注ぎ、一気に半分ほどあけてから、プロイセンは背を椅子に預けた。
「国の脅威って言われちゃあ、そりゃあ、俺たちみたいな存在は困るってしか言えねーよ。でも、本質的にそうなのか、国が今の仕組みだからそうなのか、分かんねえんだよなあ。共和制のお前んとこだってやっぱりスキャンダルになるし、社会主義者だってクルップの時には資本主義的腐敗とか言ってがんがん責め立ててたし」
「制度の問題じゃないんじゃん?社会がどう変わったって、生物として自然じゃないんだし」
「……」
プロイセンはしかめた顔のまま目を閉じた。あれ、と思う。この話をするな、と先日彼が言ったのは、悪徳の話自体に忌避感があるからかと思っていた。
「え……なんか、やたら肩入れしてるっぽいけど、もしかしてぷーちゃん……」
わざとらしくどん引いてみせると、軽く蹴られた。まあ、こいつが女好きなのは――巨乳好きなのは前から知っている。
「ぷーって言うなっつってんだろ」
微苦笑して、肘掛けについた手にあごを乗せる。黙っていればイケメンの残念な奴は色々いるが、筆頭だなと思う。
「……俺のことじゃねえよ。色々、考えちまっただけだ。帝国成立以来、少しずつ実務は移譲してるから、もうだいたい『ドイツ』なのはヴェストの方だ。だから、この事件に関する反応はヴェストのものの見方や感覚に直結する。こんな風にできあがって、それでイタリアちゃんに会ったらどうなんのかなあ、とか」
「あれ、まだ会わせてないの?」
「そりゃあ、イタリアちゃんには俺が会いたいからさ」
からさ、じゃないだろうに。にやり、と笑ったプロイセンは、しかしまた深い顔に戻った。
「生物として自然って、お前言ったけどさ。俺たちはもともと不『自然』……んー、別次元だろ。その自然さってなんだろうなって思わね?」
「いや……考えたことないけど」
「たとえばさ、ハンガリーが『いつかちんこ生えてくる』って思ってた頃に、俺様に惚れたとする。そりゃ、ソドミーか?」
「あり得ない仮定でものを話すなよ」
「うっせ。そんで、俺が、『あー、こいつは本当は女だけど、ずっと男でいてくんねーかな』と思ったとして、そりゃどうなんだ。あいつが、胸とか膨らんで来たときに、『これじゃ好きな人を守れない』って思ったとして――サラシで締め付けておっぱいなんかいらねーって泣いたとして――、それは、異常か?」
「ぷーちゃん……」
サラシで締め付けて、と言うときにまるでそれを見たかのように顔をしかめたプロイセンは、大きく息をついた。
「さっきお前が言った、『オモセクシュアリテ』って言葉な。あれ、ハンガリーが使えって言ってきたんだ。『ソドミー』ははっきりとネガティブタームだろ。状況だけを表すフラットな言葉にしろっつって」
「へえ……」
「んで、刑法の同性愛禁止条項をやめろって。もう四十年も前かな」
「そんなことあったんだ?」
最近のエプロンドレス姿が板につきすぎてうっかり前の姿を忘れそうになっていた。
「……あいつ、『結婚』は純粋に嬉しかったみてえだけど、『恋愛』の前には、自分たちの形についてぐるぐるしてたんじゃねえかなー」
「……」
残り少なくなったワインを等分にグラスにつぐ。軽く回すと、かすかな芳香がよみがえった。
綺麗なお姉さん然としているハンガリーに、そんな葛藤があったかどうか、俺は知らない。彼女が彼「女」であることは、俺が男であることと同じくらい当たり前で、だからオーストリアとくっついたことにさしたる疑問も持たなかった。男と女の組み合わせは「普通」だったから。
口を閉ざしているので残念度が落ちているプロイセンを見つめる。脳みそが筋肉でできているとか一応国の形をしているけれどもまんま軍隊だとか言われるが、本当は色々考えている。言うべきこと、言うべきでないこと。どちらもが分かっていて、それでも言わない言葉がある。
もともと同性愛に対する攻撃は強まっていたが、ハルデンが一気に攻勢をかけたのは、アルヘシラス会議があったからだ。仏西両国下に組み入れられることがほぼ確定していたモロッコに、門戸開放・機会均等を唱えてヴィルヘルム二世が乗り込んだのが一九〇六年。仏独関係は一気に緊張した。諸列強を味方につけることができたので、名目上は譲歩しつつも実利を確保できた。逆に言えば、仕掛けた側のドイツは失点をくらった。
アルヘシラス会議は、三国同盟側の――正確に言えば、ドイツとオーストリア=ハンガリー帝国の孤立をあらわにした。この構図を確定させたのは日露戦争だ。加えて、それが活気づかせた反帝国主義運動、民族運動の熱はバルカンにも共有されている。
日本にとってどうかは知らないが、世界にとってあの戦争は二十世紀という名のドミノ倒しのキーストーンだったのだろう。
酔いに任せて言った言葉の含意を、たぶんこいつは汲みとっている。
――裏切られてもアナタが好き
裏切りなどではない。または、お互い裏切りばかりだ。
戦争は、ぼこりあいという言葉ではすまないレベルになってきたのに、歴史的な因縁はとけそうにもない。同性愛なんかではないが、個人的にはずっと飲んでいたい友達なんだけれども――普仏戦争でアルザス・ロレーヌを奪い、パリを襲い、ヴェルサイユ宮殿で国家イベントを挙行して、国民の対独感情を底辺に突き落としたこいつには、「好き」と言うのにさえ酔いがいる。
残ったワインを一気にあおると、プロイセンは大きなくしゃみをして、それから猛然と芋を食べ始めた。