五月余話

フラ菊

■プロイセン


 言う甲斐の無い言葉というのがある。返される言葉は決まっているから、質問としても呼びかけとしても意味が無い。それが分かっていても、聞いてしまう。
「おい。大丈夫かよ」
 この言葉がもたらすのは、苦痛の中でも微笑を作り出そうという無理だけだとまで分かっている。ああやっぱり、とは顔を出さずに手をひらひら振って、長いすから立ち上がろうとしたのを押しとどめた。
 留学に来ていた頃からそうだった。ヨーロッパが何世紀もかけて体得してきた科学を、法倫理を、数十年で吸収するために、限界まで気を張り詰めていた。国内騒擾はほぼ落ち着いたとはいえ、足下がいかにも脆く、いつ倒れてしまうだろうかと見ているこちらが不安に思うほどだった。
 そのくせ、笑う。敵対する者ではないというアピールなのかなんなのか、とにかく常にうっすらと微笑んでいる。前に法隆寺だとかに案内されて見たブッダ像がまさにそんな顔で、思わず指さしながら「あれ、お前がモデルか?」と叫んで周囲の人間に妙な顔をされた。
 常に微笑してみせて、内外のなににも動揺せず、弱みを見せず、この乱世を渡りきろうとする日本の覚悟は堅い。だから、「大丈夫か?」と問いかけて「いいえ」の答えが返るはずはない。まして国際会議の控え室という半ばオフィシャルな場では。
「あちーな」
「え?」
 二の腕をもう片方の手で掴むようにして体を縮めていた菊は、思いがけないことを言われたというように顔を上げた。実際、まだ七月にもなっていないオランダで、暑いってことはない。
不審の声を封じて、軍服を脱ぎ、頭からかぶせると、予想外だったのだろう、日本はぷぎゃっというような変な声を上げた。もがいて顔を出そうとするのを両手で押しとどめ、そのまま長いすのクッションに押し倒す。
 もが、と日本は抗議の声を上げた。
「何するんです、プロイセン君……!」
「べっつにー、暑いから上着脱ぎ捨てただけでー。そこにたまたまお前がいただけでー」
「服を脱ぎ捨てないのはお掃除の基本ですよ……っ」
 混乱しているのか、言うことが何かずれている。
「俺様はこれから扉の向こうで警備員やってくる。この部屋はお前しかいない。しかも、上着を被ってるから万が一人が入ってきてもすぐに顔を見られたりはしない。――いいから目閉じてろ、歯ぁくいしばるほど辛いのまで隠そうとすんな」
「……」
 上着の下の小山は静かになった。
 国である自分たちに、体調不良として感知される異常はいくつかある。経済危機、軍事的警戒、治安の乱れ。そして、反抗勢力。イギリスはしょっちゅうインドの民族運動で眉間を揉んでいるし、フランスもベトナムでの動きがある度に肩を叩いている。今日本は一つの国を飲み込もうとしている。ヨーロッパがアジアやアフリカに対してするのとは様々な感覚が違うだろうその併呑は、当然ながら、激しい反発を招いている。大韓帝国と名乗りを変えたかの国の皇帝は日本との協約に抗告するとの書状を発行した。書状を携えた密使が列強代表を訪ねたのが今日。まだ「彼」は「日本」ではないが、その強い反発は日本の内蔵を痛めているはずだ。もっとも、それ以前に、腕がもがれるほどの痛みを「彼」自身が受けているだろうけど。
「……ありがとうございました」
 もぞ、と上着がひかれ、日本はクッションに頭を押しつけた。寝られるものかどうかは分からないが、少しでも楽な姿勢になれるならその方がいい。
「なんのことかわかんねーなー」
 ぷっぷくぷー、と言うと、くすりと笑った気配がした。別にそんなふりをしたわけじゃない。イギリスの言いぐさじゃないが、本当に「日本のためではない」のだ、上司たちが密使との会見を拒否したのは。
 二年前、日露戦争の幕引きは見事だった。あと一年続けていたら話は違っただろう、そもそもロシア陸軍は長期戦を想定して補給路を長く細くさせるための退却作戦をとっていた。だから「日本が勝った」というイメージが成立したのは、まさにあの日本海海戦の直後に戦争を終わらせることができたからだ。正直、若造と思っていたアメリカの政治力を見直したし、イギリスのバックアップも大きかったと思う。とはいえそれも、イギリス・アメリカとの協力関係を築いてきた日本の功績だし、将校も兵卒も、伝説になりそうな奮闘を見せた。さらにはロシア国内での革命勢力への焚き付けというスパイ行為までやった。だから全体として日本は確かによくやったのだ、ヨーロッパ諸列強はそれを快く認めるだろう――それが「日本の」勝利と意識づけられる範囲においてなら。
日本対ロシア、この構図が、アジア対ヨーロッパ、ひいては有色人種対白人種などにスライドさせられてはならない。個別「日本」の勝利でなくてはならない。だから、日本を一等国に仲間入りさせることでこの物語を完結させなければならないのだ。アジアの民族運動を活気づかせないためにも、この体制かたち を崩すわけにはいかない。だから、欧米列強は「自分たちのために」韓国密使の会議参加を拒絶した。もちろん、ドイツ帝国もだ。
 上着の上からぐしゃぐしゃと頭をかき回すと、棘の無い抗議が返った。脂汗は引いたらしい。ほっとして、更にぐしゃぐしゃやっていると、「もう!」と日本は身をよじり、その拍子に何かがころりと床に落ちた。
「ん?」
 拾い上げると、大きめの葉巻ほどの紙筒だった。
「なんだこれ」
「あ……」
 髪を少し乱したまま、日本は顔を出した。
「子供用のおもちゃです。あげますよ」
「おいこら」
 俺様をいくつだと思ってやがる。
「人に贈るつもりで作ったんですが……恥ずかしくなりました」
「おいこら、ほんと待て」
 俺様に渡すのは恥ずかしくないというのか、と、紙筒でぽんと頭を叩くと、「だってプロイセン君はこういうギミック喜びそうですもん」と笑った。その顔は例のアルカイックスマイルではなかったので、もう一つぽんと叩くだけで許してやることにした。
「なあ――」
「はい?」
「今度日本に行ったときにさ、一口饅頭喰わせろ」
「ええ? もっと良いものをご用意しますよ。ええと――」
「俺はあれが好きなんだからあれにしろ。百個くらい用意しとけ」
「ええ―?」
 笑い含みで日本はこちらを見やった。欧米人は喉に詰まらせやすいという饅頭をそんなに食えるのかという顔だ。
「あればあるだけ喰うからな。そんで、一個喰う度に、美味いって言う。美味いんだからな」
「……」
「百回でも二百回でも言うから」
 日本はもぞ、と上着をひっぱり、顔を覆って、布の下から「ありがとうございます」と言った。俺は扉警備の約束を果たすため、部屋を出た。

 会議が終わった後の控え室だから、そうそう人も来ない。しばらくして、もういいか、と思ったところにフランスが来た。
「あれー、なんでお前いんの」
「別に。お前こそ、何か用?」
「いや、通りがかっただけ。お前暇だろ、飲み行かねぇ?」
「あー」
 扉の向こうをちらりと見やって、まあいっか、と思う。上着の予備くらいホテルにはある。「いいぜー、ちょうどいい」
 歩き出すとフランスは「何が?」と首をかしげながらついてきた。
 カウンターに陣取って、フランスが難しい顔でメニューを見ている間に、バーテンダーに交渉をした。ロングカクテルのグラス一杯の水道水。飲むんじゃない、だからミネラルウォーターじゃなくていいんだからただにしろと、ただそれだけのことなのにサービス料をとられそうになる。どうせ隣の美食家が高いの頼むんだからそれのおまけってことにしろよとごねて、やっと望みのものを手に入れた。
 たぶん、何とか食えるのはこれとこれ、と失礼な基準でフランスがオーダーを済ませ、酒も来たところで、紙筒を取り出した。
「見てろ」
 グラスの上で、ところてんの要領で上から中身を押すと、予想通り、中身がするりと紙筒から滑り落ち、着水した。おもりがついていたらしい円筒形の中身はまっすぐ縦に落ち、みるみるうちに姿を変え始めた。
「お、……おおっ?」
 中心に巻き付いていた葉が、花弁が水に触れたことで少しずつ開いていく。水を吸いやすい紙を使っているのだろう。
「すっごい! すごいじゃん、ぷーちゃん!」
「ぷーって言うな」
「きれー……! サクラソウ……かな?」
 そうかもしれない。こういう「ギミック」は花弁の多い薔薇なんかの方が派手で成功しやすいだろうに、茎を多くする手間をかけて、グラス一杯の花を表現している。
 サクラソウの花は素朴だ。最近日本が国花のようにもり立てている桜もそうだ。たった一輪で他を圧倒する薔薇とは違う。それでも群れて咲くことで空間を春にする。サクラソウは英語・ドイツ語・フランス語に共通して「prim」の接頭辞を持つ。最初の花、一年の始まりを告げる花。何の意味をそれに込めたのかは知らないが、手間をかけたことだけは分かる。
「日本のおもちゃなんだとよ」
「へえ! すっごいね。うわ、欲しい」
「え」
 思わず声が出た。
「えって何」
「いや……」
 ほしがるとは思わなかった。ほしがるのなら、そのまま渡してやればよかった。
 紙筒にはフランス語で「水を入れた器に入れてください」と書いてあった。そうしていそいそと準備しておきながら、渡す段になって引け目を感じるほどの「華」といえば、やはりこの隣国だろう。これだけ長くツラつきあわせていてさえ思う、野の花さえ自分を恥じるという形容がこいつの顔の前ではリアリティを持つ。自然の花でもそうだというなら、ましておもちゃの紙の花を手に、日本がどんな気になったかは想像にたやすい。
日本は、時々過剰に自虐的になる。自分の文化を恥ずかしがるなよと思うが、公的なマナーを欧米式に切り替えようとするし、欧米人の口に合わないものは遠ざけようとする。饅頭だってアポなし訪問してなければ俺はまだ口にしてないだろう。自分のものが、俺たちに認められる・褒められることなどないだろうと思っている。思っているのに、花を贈りたいと思ってしまったのだ。
「可愛いおもちゃだねぇ」
「……」
 薔薇のように強い香りのする花は、自分の魅力を知っていて、だから見られることに慣れている。慣れているから、それに注意を払おうともしない。まして古刹の微笑に隠された表情になど気づきもしない。
 日本は、もうずっと、この男を見ている。男とか女とか、そういうことを超えて、目を奪われてしまったのだ。自分が超えてしまった矩が、しかし超えるべきでないものだと知っているから、それをずっと曖昧な笑みで隠している。フランスはそれを知りもしない。もっとも、知っても態度を変えないだろう。日本のためではなく自分のために――秩序安定のために。
「があ」
 頭をぐしゃぐしゃとかき乱すと、フランスは目を丸くして「もう酔った?」と聞いてきた。酔えるか馬鹿。
「これは『紙』か? それとも『花』か? 答え次第ではくれてやる」
「えー」
 フランスはきょとん、とした。バーテンが「うちのグラス……」という目線を寄越してくる。後で交渉するしかないだろう。
「正・反、なら、合を出すしかないな。これは『美』だね」
「……」
 ずい、とグラスを掴んでフランスの前に滑らせた。
「俺は、こういうのの『美しさ』は分かんねえ。『ギミックの面白さ』は分かる。俺は開く瞬間でそれが堪能できたから、お前はこれをもらって眺めたらいい。三方一両得だ」
 そのコトワザそういう意味だっけ?というか合ってるっけ? ていうか三方っておかしくない?などとフランスは言ってきたが、構わず酒をあおった。
「まー、俺の手出しできることじゃねーし」
「何がー?」
 ほおづえをついて水中花を見ているフランスを横目で見やる。
「お前の、乱れてるくせに変なところで固い性倫理」
「ええ? どこからそんな話が出てきたの?」
 眉を逆ハの字にしたその結節点に軽いデコピンをお見舞いする。ほとんど最初からその話だ、馬鹿め。
 日本は、何も言うつもりがないだろうし、フランスにも聞く気は無い。だから、俺はどうしようもない。礼を言われるようなことはできない、いや、むしろ何の口を挟むのもかえって迷惑だろう。
誰もが幸せになれるといいのに、――幸せになれる形があるといいのに。
 カウンターの端の花瓶の中で、鈴蘭が揺れた。