五月余話

フラ菊
Floreal:前日譚(1907)/国

■フランス


 花の話をした。
 ここに来る前に滞在していたというイギリスの薔薇園の話を、おそらくは「当たり障りのない雑談」と思いなした日本が持ち出したからだ。イギリスの薔薇作りのうまさは世界が認めるもので、その賞賛にも異論があるわけではない。そして数年前に英仏協商を結んだイギリスと俺を「仲良し」と思ってのことだろうから、表だってむっとするわけにもいかない。それにしても、やっぱりその辺の鈍さというか分かってなさは、欧州から遠く離れた島国だけに仕方ないのかな、と思いながらふんふんと聞いていたら、聞き捨てならない言葉が耳に飛び込んできた。
「――そこで、あの日二人でお伺いした後、鈴蘭を買って頂いたのです」
「……ちょっと待った」
 日本は手にコーヒーカップを持ったまま、はい? と顔を上げた。
「ミュゲの日ってこと?」
「あ、フランス語ではそう言うんでしたっけ」

 様子伺いと称して二人が来たのは先月頭、「ほうら、こいつ家にいたろ?」と引き連れた日本を振り返ったイギリスの頬は、軽く拳を打ち込むのに最適な位置にあった。
「休日なんだよ、お前も休めよ」
 Fete de Travail、いわゆるメーデーだ。労使間対立の矛を一時おさめて、新緑と花の季節を楽しむ日。もっとも、最近の五月一日は労働者が戦闘意欲を高める国際連帯の日になりつつある。
昨今の労働組合運動は社会主義運動と結びついて既存のレジュームを壊しかねない主張をしている。第二インターナショナルは「労働者は自国の宣戦布告にさいして反乱とゼネ・ストで応じるべきである」なんて言っていて、おいおいフランス革命でやっと国民国家概念を作り上げたのに簡単に無化してくれんなよと思ったものだった。
 そういえば、と思ってイギリスの斜め下を見る。その「おいおい」を実際にやってのけたのがプレハーノフと片山潜だ。日露戦争の最中に握手して、日露双方の帝国主義に反対すると宣言した。
「日本でも休みじゃないんだっけ」
「は、はい……。メーデー、輸入の動きはありますが、まだ知る人ぞ知る存在です。秋祭り――新嘗祭の方は旗日ですが」
 ま、同じ労働関係とはいえ国家祝日とメーデーとは方向性が違うわな。ずれた話を戻し、顔も戻す。
「んで、お前何しに来たわけ」
「休日のお前んとこ来りゃ菓子の一つでも作ってるだろうと思ってな」
 ほうら、と鼻をひくつかせたイギリスに、今度は腹にぐーをお見舞いして、俺は日本を応接間に案内した。

「あのときのマドレーヌ、本当に美味しかったです……!」
 ほこ、と日本の顔が緩んだ。へえ、と思う。確かにあの日の焼き菓子はどれもこれも上出来だったが、それでガード緩んじゃうんだこの子、と思うとおかしくもかわいい。
「今日も用意しておけばよかったね」
「は? いえ……! いえ。いえいえいえ……」
 目を丸くした後、急に肩を落として小さく何度も手を振っている。言われたことで、その失われた可能性に気づき、急に残念になって、けれどもそう思う自分を浅ましくも感じて身を縮めている……勝手な推測で悪いと思いつつ吹き出してしまった。
「ごめんごめん、今度……来週? 持って行くよ」
「いいいいいえいえ……」
 手を振る速度が速まったので、苦笑しつつ手をかぶせる。
「別に日本のためだけに作るわけじゃないから、遠慮しないで」
「……はあ……」
 流石に上から押さえつけられては手も振れず、日本は少し赤い顔をして頷いた。
 思いつきと誤魔化しだったけれども、それはいいかもしれないと思った。十五日からオランダのハーグで万国平和会議が開かれる。万国といっても外交権のある国だけだから、いつもの世界会議よりメンバーは少ない。覇権国同士での話し合いは――こうした場に混じってしまうナイーブな理想論者を除外すれば――畢竟、戦争リスク低減のための妥協点の探り合いになる。「非人道的」兵器の不使用を取り決めるのも、列強のバランスを崩す民族独立運動を取り締まるのも、同じく「平和」のためだ。戦争は、そろそろ、「ぼこる」という生やさしい表現ではすまないものになりつつある。
 どうしたってぎすぎすしがちな会議で数個ずつ配って、糖分の威力で話し合いが順調に進み、面倒ごとが回避できるならその方がいい。
戦争より音楽と言い切ったお坊ちゃんの顔を思い出し、連想で「パンがなければお菓子」と言ったことになっている元王妃の顔を思いだし、彼女が好んだ香水から連想が花に戻った。
「んで、俺んち出た後、あいつ鈴蘭買ったの?」
「ええ。たまたま市場を通りかかったら、いろんな人が鈴蘭を売っていて。日本種のものより大ぶりで華やかなんですよ。それで思わず見つめていたら、……物欲しそうに見えたのでしょうか、買ってくださって」
 最後は、声のトーンが落ちた。先ほどのマドレーヌといい、乞食根性に見られることを極度に警戒しているらしい。
「あ、いや、全然気にすることない。あいつ言ったんじゃない?『お前のためじゃ無い俺のためだ』って」
「あ、はあ……」
「イギリスにそう言われたら、本気でそう思っていいから」
 ミュゼの日に大切な人に鈴蘭を贈ると、その人に幸せが来る。同盟相手国で、しかも締結の思惑通りロシアの極東方面南下を抑えたから……というだけでなく、イギリスははっきりと日本を厚遇している。たぶん、奴にとって花を贈りたいと思える友人が初めてできたのだ。日本は誤解しているようだけど、たぶん偶然では無い、あの日の来訪はそれを狙ってのことだ。俺の庭で俺んちの習慣だしにして何やってんだ、という気持ちを、不憫な奴、という思いが上回った。
「古今東西、花ってのはね、贈りたいと思って贈るんだから、贈る側がむしろ『贈らせてくれてありがとう』なんだよ」
「……」
 何かを思い出したような遠い目をしていた日本は、「……なるほど」と目線を戻した。
「今度、アメリカさんに桜をお贈りするんです」
「へえ」
「あの方、色々なことを――ええと、直截に仰るでしょう。結構いろんなものについて『無駄だよ』とか『非合理的だよ』とかばっさり言われたのですが、逆に褒めるときには、もう、口を極めて褒めてくださって。その一つが、上野の三月だったんです」
「ああ……」
 そういえば、その季節の日本は、各種の花が咲き賑わう。桜だけでも数種、散っては咲き散ってはまた次が咲きで、一ヶ月ほどは目を楽しませてくれた。
「お兄さんは隅田川がすきだったなあ。あの柳と桜のコントラストは印象派の世界そのものだった」
「『紅紫翠白枝を交えながら錦繍を晒すが如く』ですね」
 名所図会の言葉だという。上野の方はもう少し「花より外に色もなし」に近い。春に包まれる感じがする。
「花弁の一つ一つ、花房の一つ一つは地味なのに、たくさん集まって圧倒的な空間を作る、まるで君みたいだねすごいねって仰って――自分ちにも欲しいと言われてとても嬉しくて。だから、先ほど仰った『贈らせてくれてありがとう』、とても腑に落ちました」
「……なるほど」
 なるほど、この鈍さは天然なのか、と頷いた。もっとも、アメリカの方も、他意は無いだろうけど。あるはずが無い、男同士だ。とはいえ――
「少し、拗ねちゃうなあ」
「え?」
「日本ったら、他の男の話ばっかりするんだもんっ」
 わざとらしくしなを作って、笑いを誘う。生真面目すぎる日本に、礼を失したと思わせると面倒だ。実際無礼という話でも無い。単に、なんだかおもしろくないだけだ。何というほどのこともないけれど――
「えっ、あっ、えー…?」
「お兄さんは花を贈らせてももらえず、贈ってももらえず……」
 きゅ、とハンカチを噛んでみせる。日本は眉をハの字にした。
「インド洋航海は……苗木が耐えられないかと……」
「いやいや、冗談、冗談。いつか贈ったらその時は素直にもらってよ」
「ああ、はい。では、私の方も」
「うん」
 日本はほっとしたように微笑んだ。

 花の話をした。
 その後は、事務的にサインをした。

日本国政府及仏蘭西国政府ハ淸国ノ独立及領土保全並清国ニ於テ各国ノ商業、臣民又ハ人民ニ対スル均等待遇ノ主義ヲ尊重スルコトニ同意ナルニ依リ且両締約国カ主権、保護権又ハ占領権ヲ有スル領域ニ近邇セル清帝国ノ諸地方ニ於テ秩序及平和事態ノ確保セラルルコトヲ特ニ顧念スルニ依リ両締約国ノ亜細亜大陸ニ於ケル相互ノ地位並領土権ヲ保持セムカ為前記諸地方ニ於ケル平和及安寧ヲ確保スルノ目的ニ対シ互ニ相支持スルコトヲ約ス

 清領土の「食い合い」、その認めあいを「秩序と平和」という言葉で表現して、日仏協約は成った。

 どの国の軍靴も花を踏みにじり靴裏をその血で染めていた。