フランシス×本田菊、悪友×菊(近未来パラレル、大学生)
―― 辺りは暗く、月明かりしか見えなくても。
友人を見つけてしまって気まずい場所ナンバーワンってどこだろう、なんて、徒然のままにした会話を思い出した。
そりゃ本屋とかビデオ屋の18禁コーナーだろ?とか、それよりコーコーセーの頃は親と一緒の外出見られる方がいややったわーとか、逆に親には女の子といるところ見られるのヤでしたね、とか。回想の中の会話はどんどん違うところにそれていったがそれはさておき、老眼鏡専門店とかどうなんだろうなぁいや俺らはともかく中年男性って、と考えてしまったのは、ドラッグストアにいた友人が白髪染めを手にとって見ていたからだ。待ち合わせ時間にはまだ時間がある、これはどうするかと迷っている間に、いつの間にやってきたのか、アントーニョが後ろから声を掛けてきた。
「おー、ぷーちゃん、俺らの仲間入りすんのー?」
「げ」
ギルベルトは慌ててボトルを棚に戻してこちらを向いた。俺らの「ら」、アントーニョと同じく黒髪の菊は列向こうの入浴剤コーナーにいる。肩凝りで冷え性でと風呂にかける期待は大きいらしいからあれこれと悩んでいるに違いない。
「ぷーちゃんの場合、就活用黒髪戻しと白髪染めのどっちが効くんやろ」
「知らね」
ギルベルトの髪は銀髪と言うべきか白髪と言うべきか迷うほどに色味が薄い。どちらであっても染まりにくそうだ。まして黒には。
「ギルは目も目立つから、髪染めただけじゃ意味ねーんじゃん?サングラスでもかける?」
言いながら想像して、柄の悪さに吹いた。それでオールバックにでもされた日には未成年には見えない。少なくとも堅気には。笑いながらギルベルトの肩に手をかけた。
「や、やめて。今のままのギルちゃんでいて」
「ちょっと見てただけだろーが」
ふん、とギルベルトは踵を返し、しゃがみこんでカモミールとラベンダーの瓶を見比べていた菊の背中に膝を乗せた。ぐえ、と変な音を立てた菊に手を貸して立ち上がるのを見守ってやると、ありがとうございますフランシスさん、と菊はにっこり笑った。
「いつまでも迷ってんならどっちも買え」
「この店のクナイプは瓶が大きすぎるんですよ…」
「ネットで買えよ。日本人好みのバスタブレットアソートも売ってんだろ」
「うう…通販同人誌を買いすぎたのでカード自主封印してるんです……」
「ばっかで」
棚を眺めていたアントーニョは話の流れをぶった切って、ひょええと言った。
「トマトの入浴剤なんてあんねんな…!」
「あ、野菜風呂ですね!さっぱり系らしいですよ」
「へえ、買うてみよ」
一つ手にとってレジに進む、その勢いにつられたのか、菊も手にしていた瓶を戻して個包装の袋を掴んでアントーニョの後を追いかけた。
ゆっくりと追いかけながら、所々隙間のできた商品棚を眺める。フランストップブランドの入浴剤を見つけたが、お勧めするには若干高価だ。プレゼントすると言っても、別に菊は美容に興味があるわけでもないだろう。興味があるなら、美容以前に身体に悪そうな締め切り前連続徹夜はやめるべきだ。または、優等生の看板を捨てるべきなのだが、生真面目な性格が幸いして、または災いして、課題でも何でもやれと言われたらやらずには済ませられない。菊は昔から変わらない。
「自分のこととなると王道ネタでもさっぱり萌えませんね」と菊がばっさり言っていたことがあるが、俺たち4人は幼なじみだ。今の日本で1クラスに2人くらいの「外人」は珍しくないが、その小6のクラスには3人集まった。そこにオーストラリアから一家で引き上げてきた菊が転入してきた。日本語が流暢に話せない菊になんとなく構っているうちに4人でいるのが自然になり、自然と見なされもした。実のところ、3人のうち誰も英語ネイティブだった訳ではないので、他のクラスメートと条件は変わらなかったのだが、あれは要するに、「外国組」という扱いだったのだろうと思う。
ずっと一緒だった訳じゃない。アントーニョは中学時代大阪に転校していったし、ギルベルトとは高校がわかれた。俺と菊も部活が違ったせいで話す回数はぐっと減った。それぞれに彼女ができるともっと減った。
思いがけず大学で4人再会し――ギルベルトの受験は知っていたがアントーニョの上京は知らなかった――勢いでサークル申請しラウンジに居座る権利を得て週に一度は飲みに集まるようになった。サークル名を「視覚文化研究会」という。もちろん菊の命名だが、オタク文化万歳の俺に異存はない。残り2人は、名前などどうでもいいというメンタリティの持ち主だ。ちなみに、名前をつけるにあたって、「現代」はつけないのかと聞いたら、菊はこぶしを握った。「私はのらくろだって鳥獣戯画だって愛してます!」
その視覚文化研究会の初合宿である。もともとは菊の家で某名作アニメ一挙上映耐久12時間をしようと二人で話していただけだったのだが、「抜け駆けはあかんでー」と言いながらアントーニョが加わり、「だったら旅行しようぜ旅行」とギルベルトが言い出し、ゴールデンウィークに合宿と決まった。「大学生ならバックパッカーでユースホステルだろ」と真顔で言うギルベルトに「目的を見失わないでください!」と菊が目をつり上げ、俺が親父に頼み込んで車を借り、菊の親戚の持ち物だという別荘に行くことになった。子供の頃よく集まっていたのはちょうど各家の中心に位置していたアントーニョの家で、だから俺は菊の家に行ったことはない。少しだけ心が浮いていた「お泊まり」を…いや、寝る予定がなくても夜を過ごすという計画が、無しになってしまったことを、残念に思う気持ちと安堵する気持ちが入り交じっている。
「要するにごろ寝でビデオが見られれば良かったわけですから…」
助手席に収まった菊がぼそりと呟く。この席は「寝てはいけない」そして「運転手を眠くさせてはいけない」という重責を負うことになるので残り3人でじゃんけんをして席決めをしたのだ。勝者たる2人は後部座席で早くも体を弛緩させている。水だの食料だのをトランクに運び込んだだけで仕事を終えた気になっているらしい。もっとも、このあたりは高速をただ走るだけだからこちらにも疲れはない。
「ラブホテルでもよかったんですよねえ」
「ぶっ!」
目が覚めることを言ってくれる。
「……入れてくれないんじゃない?」
「2人じゃないとってことですか?」
「人数のこともあるけど……男だけってどうなんだろ」
流石にそれだけで断るホテルは絶滅したかもしれないが。
「えー、でも」
そこで菊は高校時代の彼女の名前を口に出した。
「…は、女の子3人で入ったって言ってましたよ」
「まじで!?」
言われた言葉に驚いて、それから話のおかしさに気づく。その子、キミの彼女だったよね?
「いや、純粋に、娯楽施設として。カラオケもあるし、テレビもゲームもあるから、各自お母さんにお弁当作ってもらってフリータイムの間中だらだらしてたらしいですよ」
「えー。健全なんだか不健全なんだかわかんないな、それ」
だって、テレビもあると言ったってチャンネルを回せばAVが大画面に展開される場所だ。天井鏡張りで枕元にはコンドームが置いてある大ベッドに女子高生が転がってきゃっきゃうふふとか…間違ってる、すごく間違ってる。なまじ顔を知っているだけに百合妄想で笑い飛ばすこともできず、俺はぶつぶつと文句を言った。
「若い娘が、けしからん」
「フランスは高校生の性交渉って合法なんじゃなかったでしたっけ」
そんな余所の国の話、知るか。
「ここは日本です」
「ごもっとも。………にしては、ホテルの中身について詳しいですね、まだ18歳のはずのフランシスさん?」
「ごほっ!」
ちょうどコーヒーを口に含んでいたところに思わぬ攻撃をくらい、むせた。その瞬間大きく車は揺れて、後ろからごちという音に続き激しいブーイングが聞こえてきた。真後ろのギルベルトは運転席を蹴ろうとして危うく思いとどまってくれたらしい。代わりに拳をくれた。
「てめえ、俺様の眠りを妨げるんじゃねーぜ」
何様だてめえ、と思うが、俺様だと返すに決まっている。
「どしたん?何の話?」
菊は笑顔のまま後部座席を向く。
「フランシスさんがとても大人びているというお話です」
「単に髭面だってだけだろ。似合わねーのに何ではやしてんのお前」
「似合うじゃん!この渋さ、分かんない?」
思わず後ろを振り返りそうになり、菊ににらまれる。はい。前を向いて安全運転。両手は10時十分。
「菊ちゃんは、似合うって言ってくれるよね?オトナの魅力、感じるだろ?」
ちらりと横目で見て、菊は肩をすくめた。
「………折角美形なのに、って思います」
「ひどい!だめってことじゃんそれ!」
がばっと前のシートに抱きついてきて、アントーニョが菊に話しかける。
「しゃーないんよ、フランシーヌちゃんからの脱皮はフランシスの悲願やから」
「てめ!」
今度は自制せず振り返ってしまい、横から伸びた手にぐいと顔を戻された。手の主、菊は俺の顔を前向きに固定したままアントーニョに尋ねる。
「フランシーヌちゃんってなんですか。フランシーヌ・ルコント?」
「あんなあ…」
「言うなよ!絶対言うなよ!」
「何十年前のネタですか…」
「いやネタじゃなくて!」
車はまた大きく揺れ、後続車にクラクションを鳴らされる羽目になった。
パーキングエリアに車を止め、トイレの後大きく体を伸ばしたところで思いついて、携帯のアプリを起動する。菊は古いこと、変なことをよく知っている。謎発言には慣れているが、今回は全く分からなかった。「Francine Lecomte」で検索すると、日本語のサイトがたくさんつれた。ベトナム戦争への抗議で焼身自殺をしたフランス人の名前らしい。フランス語ではなく日本語のサイトがかかるのは、その話が日本のフォークソングになってヒットしたからのようだ。1969年。百年も前の話だ。なんで知ってるんだ、菊。
動画サイトに飛んで、その歌を聴いてみる。時代を感じさせる歌だ。反戦の歌がヒットした時代、そして学生が運動に身を投じた時代。
「…ふうん」
俺は動画をとめて、もう一度背伸びをし、車に向かった。
高速を降りたところでガソリンスタンドを探した。しばらく下道を走って見つけたその看板に「高!」と叫んで思わずやり過ごし、その後それがこの地方の平均価格なのだと知った。もともとここ数年石油ものの値段は高止まりしているが、それにしても東京より数円高い。流石内陸。比較的安いセルフスタンドを見つけ、定位置に止めるとギルベルトが手を挙げた。
「俺がやる」
「どぞ」
こういう機械動かすの、オトコノコ好きよねーとぬるく笑って掌を向ける。任せている間にガラスでも拭こうと外に出たら、菊が「運転手さんは休んでてください」と率先してタオルをとりに行った。合宿費を入れた財布から一万円札を取り出して機械に入れると、満タン入りそうな気配だった。操作をしてギルベルトに合図するとガンのような引き金を引いて給油を開始した。戻ってきた菊はフロントガラスを拭いている。アントーニョは入れ替わりにゴミ箱代わりのポリ袋を捨てに行ってきた。と、がくんと音がして機械がとまる。ギルベルトはちらりと機械を見た。4951円。あ、と思うまもなく、ギルベルトは継ぎ足し給油を始めていた。ガソリンが溢れてしまうと引火の大惨事を招くのでスタンド側は許容したくない行為の筈だが……しかし確かに、この数字は、人の挑戦を誘う。ここで辞めてしまうと49円のお釣りとなる。一円玉四枚は嬉しくない。困るわけではないが、嬉しくはないのだ。一瞬引き金に力を入れれば数円分継ぎ足される。そしてお釣りの一円玉は減る。うまく加減すれば一円玉ゼロにだってできる。デジタルの数字を睨みながらギルベルトは小刻みに給油を続ける。4984円になったところで「その辺でどうですか」と菊が声を掛けた。紙幣一枚、硬貨が三種各一枚、上等上等。が、ギルベルトは「見てろ」と菊を指さし、引き金に手を掛けた。思わず全員で見守ると、数字は5001円で落ち着いた。三人の爆笑が重なった。
何度かこの別荘は使ったことがあるからと菊は手慣れた様子で水道の栓を開き、窓を開けて空気を入れ換えた。車から運び込んだ食料を菊と冷蔵庫に運び入れる、その間に残りの二人は指示された通り布団を干している。さて、と落ち着いたところで菊が隣に挨拶に行くと言い出した。そこにも人が来ている気配なのだという。
「多少は賑やかにしてしまうでしょうから。面識はありますし、一人で大丈夫ですよ」
三人、顔を見合わせた。一瞬迷った二人を尻目に俺は口を開いた。
「…ちなみに、お隣さんにマダムかマドモワゼルはいる?」
「ええと、両方いらっしゃいますね、確か」
「じゃ、俺も行く。とっときの魅惑ボイスで好感ゲットしてやるよ。さ、さ」
背中を押して促すと、お土産を手にした菊は戸惑いながら先にたった。結果から言えば、俺の笑顔はマダムには有効だったようだ。愛想笑いの範疇よりはもう少し生き生きとした照れを返された。ほかにも男手はありますので御用の際にはおよびくださいとお辞儀をして、幼いマドモワゼルにも手を振って、きびすを返す。道すがら、菊は感心したような呆れたような声で呟いた。
「誰にでもそうなんですね」
「んー?」
「フランス人のDNA恐るべし…!」
DNA、という言い方をしたのは、俺が日本生まれ日本育ち、母語=日本語の「日本人」だからだ。両親は生粋のフランス人だが、移住後出会って結婚、日本国籍をとった。だから俺の血には菊と同様、アニメと漫画とゲームが流れている。
「女性がいるからっていうのは、ただの訪問の理由付けだよ。んで、女性がいたら言葉をかけるっていうのは、誰だってすることだろ。鳩に餌やるくらいのことでさ」
「別に意識してタラしてるわけじゃないってことですか?」
「当たり前でしょー。菊ちゃんの前でそんなことしないよ」
なんだそりゃ、と肩をすくめて菊は呟く。
「じゃあ、それで誑かされちゃったなら、その方が悪いっていうんですね?ああ、この人自分のこと好きなんだ…と思って心が揺れたとしても、そんな気なかったよって言っちゃうんですね」
菊の言葉が過敏に思えて、首を傾げる。フェミニストたれ、とは両親からきつく教えられたが、同時に「おんなとしゃべるなんておとこのすることじゃないぜー」な学校文化にも染まってきた。菊がいうほどのタラシにはなれてない自信がある。
「どんな気?ってことでしょ。さっきのは人類愛。隣の男どもは無害ですよ、むしろ愛に溢れてますよっていうアピール」
「ふうん」
明らかに機嫌を低下させている菊に、頭を掻いた。なんだろ。ちゃんと挨拶しておいた方がかえっていいと思ったんだけど。
「あのー。菊ちゃんは、このカオ、隣に見せてくれるなって思ってたってこと?」
ばっと勢いよく振り向き、菊は俺の頬を両手で挟んで顔を寄せてきた。近い、近い。
「そういうことじゃ、ないです」
「それならよかった」
よかった。こういうことの判断は、完全に「日本人」であるはずの俺と途中から日本人になった菊で、時々食い違う。
バーベキューだというのに菊は塩鮭なんか持ち込んで、時々その焼け具合を箸でつついている。その間にも隣のギルベルトからじゃがいもだの肉だのが菊の皿に載せられる。
「食え食え」
「や、頂きますけど!おかまいなくどうぞ」
「んなこと言ってるからいつまでも細っこいんだろうが」
皿の上に山を作った牛肉に、菊は眉をハの字にした。
「わたし、もう少し焼いたのが好みなんですが…網に戻すのってありですか」
「あ、それやったらこっち焼けとるで。はい、あーん」
アントーニョの保育士のような声につられたのか、菊は素直に口を開いた。口にものが入ったところで今更ながらに顔を赤くした。
「や、ありがとうございます……でも、ほんと、おかまいなく……」
まだ五月、高原の夜は涼しい。火のそばはそれなりに熱いが、体の表と裏の温度差が心地よい。
構うなと言われながらもギルベルトは食え食え攻撃をやめない。
気になることがあると食事がおろそかになるのは昔からの菊の悪癖だ。それを知っているギルベルトはことあるごとに菊の食事に口を出す。それも昔から変わらない。
中学の一時期、俺たちはもてた。背も群を抜いて高かったし、何しろこの肌、この髪、この目で目立つ。「黙っていればモデル並」のギルベルトも含めて、かなりの女の子から声をかけられた。女性には優しくするものと家庭でしつけられていた俺たちはそれなりの対応をした。したけれども、結局「一日デート」以上の相手を作らなかった。理由は単純、それよりは四人でいた方が楽しかったからだ。
三人に構い倒されていた菊は、まるっきり理不尽な恨みをおった、らしい。自分たちでさえ気づいていなかった菊へのベクトルは周りに感知され、その対象である菊へのマイナス感情が生まれ、しかしそこにいるのは男四人、誰にも構図が見えていなかったせいでそれは「嫉妬」とならず、ねじれた。
引き立て役、ご苦労様。
いじめというほどではないその冷ややかな視線に、菊は少しずつ食欲を失った。
「でもねえ、フランシスさん」。頬杖をついて菊は呟いた、放課後二人きりの教室、窓際の席。今でもあの光景は、泣きたいくらいの切なさを伴って時々脳裏に蘇る。菊は、まっすぐ俺を見て、小さく微笑んだ。「私は、貴方がたの隣をあけわたす気はないんですよ」。
そのとき風が窓から流れ込み、カーテンが煽られて、俺たちを教室から切り取った。そのカーテンで包み込み、二人だけの世界をこの世の全てから切り取ってしまいたいと思った。それが、俺の「気づき」だった。
ギルベルトの食え食え攻撃と、「体力ねーなお前!」の声で唐突に始まる特訓とで菊はメンタルグラフを上方修正した。「黙っていなければ近所の悪ガキ並」のギルベルトに振り回される菊は、余計な一言がつかない「ご苦労様」という生暖かい視線で見られるようになり、中学3年のバレンタインデーにはいくつかのチョコレートをもらったりもしていた。
そして、高校では大和撫子を絵に描いたような子とつきあい始めた。
ラブホテルなんて存在も知りませんって顔してたのになあ…と、俺はその子のことを思い出し、ぶんと首を振った。
「おや、フランシスさん、虫でもいましたか?」
もっもっと肉を咀嚼していた菊が首を傾げる。相変わらずめざとい。
「いや、大丈夫。ちょっと汗払っただけ。…結構食べたね」
「はい、おなかいっぱいです」
うん、と同意する二人。
「困ったな。俺、一品作ろうかと思って用意してたんだけど」
「あ?料理をか?」
「うーん、料理なんだけど、デザートに近い味」
「あ、じゃ食べます」
別腹です、と菊が箸を握りしめる。じゃあ、と持参の青トマトとタッパーを取り出した。網の上にフライパンをのせて油をはる。
「もしかして、フライド・グリーン・トマトですか?」
「お、知ってるんだ」
「なんやの、それ」
「文字そのままのアメリカ南部料理。青トマト揚げ」
「うまいのか?」
「トマトって青いのは渋いで?」
「ただコーンミールつけて揚げるだけでもうまいんだけど、このレシピは蜂蜜いりパン粉をまぶすから割と甘いよ」
昔から、甘い物好きの菊はこういうとき目をきらきらさせる。この顔が見たくて持ってきたようなものだ。じっくり焼いたものをとりわけてやると、異口同音に歓声があがった。
「うま!」
「あまー!」
「サクサクしてて、アップルパイみたいです…!」
よしよし。褒め称えなさい、存分に。
「弟がトマト育て始めたんだけどさ、青いうちに虫食っちゃうと捨てるしかなくてもったいないだろ。それでレシピ検索して作ってやったら喜んじゃってね」
うんうん、と頷いて、そういえばと菊が尋ねた。
「弟さん、おいくつでしたっけ」
「今10歳」
菊も、俺の家に来たことはない。成長につれて、距離だけでない様々な問題が積み重なって、互いの訪問を妨げた。
「めっちゃかわいいでー」
止めるまもなくアントーニョが携帯を操作して菊に見せる。
「ふおおおおおお」
菊は携帯にかじりついた。
「びしょうじょ…!」
「そりゃフランシーヌとも呼ばれるわな」
ギルベルトがしたり顔で頷く。言うなよとあれほど言ったのをまるっきり覚えていないらしい。菊はもちろんその会話を覚えていた。
「ん?弟さんが、じゃなくて、フランシスさんのことですか?」
「うん。これと全く同じ顔でな。学芸会では毎回ひらひらの服着てお姫様役やったんや。もう大喝采」
「言うなっつってんでしょー…」
ヒットポイントをそがれて座り込む。その俺に、菊が追い打ちを掛けてくる。
「どうしてそんなおいしい過去を黙っとくんですか!家に行った日には絶対アルバム見せて貰いますからね!」
うおお、可愛い、可愛すぎる…!と菊は携帯を見たまま興奮している。うなだれた俺に、ギルベルトが小声で言った。
「あいつ、全然覚えてねーんだな」
お前、それは覚えてるのか。お前の記憶システムはいったいどうなっているんだ。
近くでは髭をはやしているのも、遠くではひらひらの服を着るのをやめたのも、菊の第一声が「フランシスさんってお姫様みたいですね!」だったからだ。それまで言われて得意になっていた言葉なのにまるっきり嬉しくなかった。可愛いじゃなくかっこいいと言われたい。幼い日に強くそう思った、その理由は分からないままに。
「あー…ついでだから弟に電話する…」
「おお」
一応後ろを向いて、短縮ダイアルを押す。すぐに弟が電話に出た。今日は母親が迎えに来るまで延長保育してもらうことになっていたはずだから、まだ公民館の中だろう。友達が帰ってしまって心寂しかったに違いない。
最近、弟は一人での外出をいやがり始めた。
学校にも学童保育にも友達はいるけれども、行き帰りが怖いという。仕方がないので、できるだけ俺が送り迎えしている。
俺と同じ顔なのにな、とため息をつく。同じ肌、同じ髪、同じ目。それなのに、たった数年で、それを見る目が変わる。
戦争の足音は、もうずっと聞こえている。
菊の一家が引き上げてきたのも、現地での日本バッシングが高まったからだ。その頃はまだ「人種」は他国から日本への攻撃だった。その前に対中国黄禍論が噴出していたこともあって、今更としか言いようのない人種感覚が欧米を席巻した。まだ輸入商品はドラッグストアにも並んでいるが、経済制裁を始めた国もある。圧迫に反作用が生まれるのは物理の法則、高校にあがるころには、この見た目は攻撃の対象になった。もちろん、クラスメートがいきなり差別してきたわけではない。何せ、21世紀前半の大量流入により、日本の中の民族構成はバラエティ豊かになっていた。「外人」に慣れてもい、俺とも付き合いのあったクラスメートの態度は変わらなかった。それでも学校に漂う空気は確実に中学時代とは違っていた。
一般に、近くにいるからこそ生まれる摩擦と、遠くにいるからこそ生まれる摩擦がある。「友人」の輪の外に満ちていたのは、後者だ。よく知らない他人だから、見た目で攻撃対象のフラグがたつ。言葉以上のものが投げつけられたことはないが、数年に及ぶ精神攻撃はじわじわと効く。
たぶん、髪染めを手に取っていたギルベルトは、弟のことを考えていたのだろう。俺様ギルベルトが周りに日和って姿を変えることなど絶対にしないだろうが、俺の弟より更に幼いルートヴィッヒについては、その安全を守る方法をあれこれ考えてしまうのだろう。
この「今」をどうやって乗り切ればいいのか分からない。親はフランスへの引き上げについて検討しているが、俺は断固反対している。母集団に戻ればいいというものじゃない。見た目だけは純血種フランス人の俺も、流暢にはフランス語を話せない。俺は日本にあっては「外人」だが、フランスにあっては「半フランス人」でしかない。そして何より、フランスに戻って「排撃する側」に組み込まれるのはどうしても嫌だった。歴史的に白人に対しては憧れのまなざしが強かった日本でさえこうなのだ。今、世界で、「日本人」はどんな思いをしているだろう。
高校に溶け込んで、大学にも馴染んで、サークルとか課題とか飲み会とか、日常風景を表す言葉に取り囲まれているのに、新聞に踊る「戦争」という言葉がどうにも信じられず、それなのに確かに変わりつつあるものもある。菊は「変わらない顔」を保とうとしてまた食欲を落としている。
まだ選挙権のない俺たちには何もできない。ただ、警戒心を抱かれる前に隣のマダムに笑顔をふりまいて、俺たちがここにいることを認めて貰うしかできないのだ。
重たくなった腹に鞭を当ててバーベキューの片付けをし、順番にシャワーを浴びて、じゃんけん大会。たてたてたてよこと並べた布団はテレビの見やすさが随分違う。対テレビ特等席争奪戦に菊以外の三人は若干違う思惑をのせて、それぞれのふとんを決めた。横向きと縦の一番奥、テレビが見えにくい位置にアントーニョとギルベルトが決まり、特等席は菊が、その隣は俺になった。考えてみれば「合宿の目的」某名作アニメに興味がある順なのだから好都合だ。ギルベルトは戦闘シーンは釣り込まれたように見ていたが、話が人間関係の込み入った辺りに入るとテンションを下げ、顔を枕に埋めた。アントーニョはそれなりに楽しそうだったが、こちらも後半で落ちた。俺と菊は電気を消し、小声で「動きやばい」だの「この表情、萌え!」だのつぶやきあいながらラストまで見た。菊はDVDを特典映像に切り替えてまた布団に戻る。
「こうやって…」
「うん?」
「ずっとオタクやってたいです」
平時にはどう聞こえるか分からない台詞だが、俺は胸がつまった。歴史の教えるところによれば、第二次世界大戦は個人の趣味をも奪っていった。
「アニメの戦闘を楽しめるのは、それで本当に人が死ぬ訳じゃないからです」
菊は俯せになって布団をかぶり、顔を見せない。
「…フライド・グリーン・トマトって、昔の映画の題名なんですよ。1990年頃かな?」
だからどうしてそんな昔のこと知ってんの。
「90年代の中年女性の話と、30年代の昔語りが重ね合わせになっていて、フェミニズムの観点からも評価が高かったようですね。回想の方では、その時代のアメリカ南部であるにも係わらず黒人にも開かれたカフェが出てくる。そこの名物料理なんです」
黙って頷く。
「そのカフェの経営者である女性二人、イジーとルースの友情が、現在に生きてくる構成なんですね。様々な困難があっても共に生き、助け合うという」
そこで菊はもぞと動いて、顔を見せた。夜の闇に同化した菊の目がこちらを見据える。
「…私、貴方の隣をあけわたす気はないんです」
あのときと同じ、底光りする目だった。あの中学生の日、菊を包んでいた疎外の空気、その中でも揺らがなかった、瞳。切なさが俺の脳髄を襲う。
「………そんなこと言ってさ、菊ちゃんの隣は俺たちじゃないじゃん」
「え?」
できるだけ意識にあげないようにしている名前を出す。
「…みたいな子が、また隣の椅子にすわるんでしょ」
恋人ができたと噂の菊に、確かめることもできず、だからといってそれを意識の外に置くこともできず、悶々としていたある日、俺は彼女に待ち伏せされた。真っ黒い目でまっすぐ俺を見つめ、彼女は言った。「貴方の隣にいることで、本田君まで仲間だと見られませんか」。
彼女が言う「仲間」に、何が含まれていたのかは分からない。俺の性格なのか、人種なのか、性的志向なのか。そのどれであれ、彼女の言うことは正しかった。俺がこの気持ちを押しつければ、菊はまた痩せてしまうだろうと分かっていた。いつものように毒味して貰おうと持ってきたマドレーヌが手の中で重かった。
菊はくすりと笑った。
「気づきませんでした?彼女、貴方のこと好きだったんですよ。私は相談役です」
「へ」
「いつのまにか私と付き合ってることになっちゃったんですけど、陰から見ていたいだけだからその方がいいって」
それ信じてるの、菊ちゃん。まじまじとその顔を見る。
「フランシスさんの好みを教えてあげたりして…彼女、いじらしいくらいそれに近づこうとしてましたよ」
その努力自体が菊との会話のためのネタだろう。本当に菊は、自分に向けられる好意については鈍感だ。
「フランシスさんだって、貴方いうところの『人類愛』を振りまいていたじゃないですか。目からハンター光線が出てるみたいで通った後には死屍累々、でも惚れた方の負けだって言うんでしょう」
そうは言ってない。ただ、俺を惚れさせる競争で菊が勝ち続けたというだけだ。この苦しさを振り払いたい俺のためだけの競争に、付き合わせてしまった女の子には、心底申し訳ないと思ってる。
「私は、ずっと、隣にいたいんです。貴方が誰と付き合っても、どこに就職しても、そういうのを越えて、ずーっと、一緒にいたいんです。だから……世界秩序がどうこうだからじゃない、イジーとルースみたいに一緒にいたいから、戦争なんてヤです」
「麗しい友情ありがとう」
ぱちんとウィンクすると、菊は一瞬泣きそうな顔になった。泣きたいのはこっちだ。ものすごいフり方しやがって。分かってていっている筈はない、映画ではその設定はなくなっているのだが、俺は検索したから知っている、原作ではフライド・グリーン・トマトのカフェ経営者二人は同性愛の関係にある。だけど菊は俺が誰と付き合おうが気にしないという。時代は同性愛者の人権を認めても、自分が同性の恋愛対象になることを認められる人は少ない。それは「別の組」の人たち、なのだ。
「戦争、なあ……。抗議の焼身自殺でもするか」
なんとなく思いついて口にした軽口だったのに、菊はがばっと起き上がり、枕を投げつけてきた。
「ばか!………分かってないのはそっちです!」
そのまま布団をぐるっと巻き込んで枕にし、背を向けてしまった。
次の日、味噌汁のネギを刻む音で目を覚ますというベタにしてレアな経験をし、寝不足でぼんやりした頭を振って洗面所へ行った。一人分しか余地がなく、ギルベルトは風呂にはみ出し、湯おけに腰掛けて歯を磨いている。アントーニョと交代して顔を洗い出すと、タオルで拭き終えたアントーニョがしみじみと言った。
「俺、フランシスがここまで鈍感とは知らんかったわー」
その言葉にギルベルトも頷く。
「なんのこと?」
場所変われ、とのジェスチャーに素直にどいて、タオルを受け取る。
うがいをすませたギルベルトは俺からタオルを奪い、口をぬぐう。そしてぽんと俺の肩に手を置いた。
「ま、流せ。俺だって執行猶予はあるだけいい」
「だからなんのこと?」
身支度をおえた二人はさっさと先に立つ。俺も、俺の疑問も置き去りだ。
「飯、何だろー」
「残りの塩鮭やろ。昨日2パック買うてたし」
「なんであいつ外国育ちなのに好みがじじむさいんだろな」
追いかけてダイニングキッチンに入ると、菊がギルベルトの頭を盆で打っていた。
「オートミールの方がよっぽど高齢者向けじゃないですか」
「そういう問題?」
昨日のあまりを全投入したらしい味噌汁は既に汁物というより煮物のようになっている。ギルベルトが持参したザワークラウトは塩鮭の横に盛りつけられ、昨日の青トマトの残りも小麦粉をはたかれて炙られている。食卓の上に世界が乗っている。これがこの国の、この国に生きる俺たちの、日常。一国経済などもうあり得ない。単一民族国家がありえないように。
真っ黒い目の彼女に、俺は、「それでも」と言った。
「菊ちゃんが望む限り、俺は菊ちゃんの隣にいる」
幼い日の出会い、そこで美しいものに憧れる目で「お姫様みたい」と言った菊に、俺は言ったのだ。
「ちがうよ、銃士だよ」
「えー…」
不服そうな顔をした菊の手をとり、その甲に軽く口づけて、「守ってあげる、望む限り、ずっと」と言った。あっけにとられたような顔で菊はほやんとこちらを見た。悪友二人に「俺も俺も」とどつかれて俺は前につんめのった。
あの頃は、どうするのが人を守ることなのかなど分からなかった。彼女が示唆したように離れることで守るというあり方もありはするだろう。戦って守るというあり方も。しかし、「家族やふるさとのために外敵と戦う」という言い方が自家撞着を起こす俺には、銃を人に向けるよりは、薔薇を差し出す方が似合う。
百年前とは時代の空気も違う。学生が時代を動かせるなんて夢も見られやしない。空気を読んで発言を慎むべきだし、大声で平和を叫ぶなんて恥ずかしい。
それでも、この手の中にある日常を手放さないこと、菊にならっていうならこのご時世にオタクで居続けることが、それ自体意志の表明でもあるだろう。
「菊ちゃん」
「なんですか」
「夏のコミケ、ペアルックで行かない?」
ぶ、と味噌汁をふきかけて危うくとどまり、それからずずっと汁をすすって、菊は応えた。わざとらしく眉を寄せた、その顔の、耳が赤い。
「あそこに集まる男全員、ペアルックのようなものと言えば言えますけどね……」
「なんなーん、仲良しアピール大作戦?」
未成年の一個人にできることなどそうはない。ただできるのは、ここに自分もいるというアピールだけだ。お前たちの敵ではない俺が、ここに、同じ地面の上にいること。同じものを好きだということ。そして、この案を菊が受け入れてくれるなら、こんな風に隣にいられるはずだということ。――辺りは暗く、月明かりしか見えなくても。
参政権さえ制限されていた百五十年前とは違う、今の日本は、違う選択ができる、少なくともその可能性を持っている。
「抜け駆けはあかんでー」
「え、アントーニョさんもいらっしゃるんですか」
「こら、俺様を一人つまはじきにすんな」
「うお、お、だ、だったら、コスしませんか!!いや私はしませんけど、してくれませんか!」
何が似合うだろうと最近のアニメのあれこれをぽんぽんと菊は列挙する。半分も分からない。
「めんどくせ、全員で黒スーツ着てメン・イン・ブラックでいいだろ」
あの灼熱地獄を知りもせず古い映画の名前を出したギルベルトに、俺と菊は同時に「却下」と叫んだ。