蘭さん×本田菊(大学生/助教パラレル)
世間がどれだけしゃれた、または突飛な服を着るようになっても、この学科には未だにネルシャツをジーパンに入れている男子が多いし、化粧っ気のない、いや明らかにすっぴんの女子も多い。そんな史学科の中で、金髪を逆立てた彼はひどく目だった。オラニエ=ナッサウ家につながる家柄との情報に史学科だけに騒然とし、一発で覚えられない長い名前のこともあって、通称「蘭さん」は教員界隈でさえそれで通じるほどに定着してしまった。かの国とのゆかりはその血だけで、福井で産湯を浴びた彼は、流暢と言えば流暢なその言葉遣いもあって、実にユニークな存在だった。
多分、と菊は思う。研究職とは名ばかりの雑用係の助教の身、もし彼がこうでなかったなら――その「こう」の中身を菊は上手く言えない――、菊はその身なりについて指導することを命じられていただろう。人文系の教授にはリベラリストもいるが、恐ろしく保守的な人も多いのである。しかし、彼は動かしがたく「彼」であって、他の誰にもプライバシーに口を挟ませる余地を持たなかった。
菊も他の学生と同様、遠巻きにその逆立った髪を見るだけだったのだが、ある日、図書館で行き当たった。
蔵書の大半を開架書庫に配してくれている図書館、それでも戦前発行された書物はあまり人の行かない地下一階と半地下にまとめて置いてある。半地下と言っても、一階から下りるのではなく、地下一階から上がる、中二階のような作りだ。古雑誌は地下一階の電動書庫にまとめられており、また貴重書の類は申請書を出して鍵付きの部屋で見るのだが、一般書と貴重書の間、古本屋にもあるかどうか分からないような古びた活字の、紙魚のあとさえあるそれらの図書はめくるだけで菊を幸せにした。人がほとんど来ないからと天井を低くした半地下は、少なくとも菊がここに通い始めてから人を見たことがない。それをいいことに、菊は中二階の端にしつらえられた階段の最上段に腰掛けて地上と地下の間で過去と現在の間を読むのが常だった。今の季節は、冷え冷えとする図書館の中でも地上に近い分ほのかに暖かいのも有り難い。
階段といっても踏み板以外は鉄骨の格子でできていて視界を遮らない。頭を鉄骨にもたれさせ、時々電動書庫が動くのを眼下に見る。顔が見えなくても、そこに過去を尋ねる人がいる、そう思うだけで何となしに菊は心が安まるのだった。
そうして『ゲエ・ギムギガム・プルルル・ギムゲム』が置かれているあたりの電動書庫の動きに目をやっていたら、靴音に気づくのが遅れた。
「……何しつん」
蘭さんだった。いつものマフラーを巻いて、口に煙草をくわえている。
「はっ……す、すみません」
勝手に座席にしていたが、階段なのだ。公道に座り込む高校生と、迷惑度合いでは大差ない。
ばたばたと階段を上がり、道を空けて「どうぞ」と言うと、「おう」などと返してくる。手にメモを持っているから、何か本を探しに来たのだろう。ということはしばらくは出て行かないかもしれない。仕方なく菊は階段を降り始めた。ら、声がかかった。
「どこへ行くん」
「え……、下の閲覧席に」
この半地下には座席がないのである。
「そこで読んどったなら読めばええやざ。通してくれりゃほんでぇええ」
「はあ…」
そう言われて階段に座り込むのも気が引ける。所在なく立ちすくんでいると、目当ての本を見つけたのか、蘭さんは戻ってきた。そしてそのまま階段を降りるかと思いきや、彼は階段の一番上にすとんと腰を落とした。
「え…」
「座るところがないんやざ」
「そ、う、なんですが」
なんとなく、言いながら、隣に座る。体を小さくすれば二人並んで座っても接触もしない。とはいえ、なぜこうなったのか我ながら分からなくて菊は首を傾げた。蘭さんは確か近現代史だ。彼の学年ではまだはっきりと専攻が別れてはいないけれども、菊が出欠係にかり出される授業ではあったことがない。ちらりと本を見れば石橋湛山だ。
「……読めるのですね」
当たり前だ。彼は留学生ではない、日本の公立中高を経て一般入試を受けて入ってきたのだ。すぐに失礼に気づき、「すみません」と首を垂れる。
「……慣れたわ」
「すみません」
「英語で声かけられるし、髪見てひそひそ言われるし」
「すみません」
「おめえが謝る必要はないが」
くすりと笑われ、そうすると案外幼い表情を見せるのに気づく。何せクールなので、下手をすると自分よりも年上に思えてしまうのだ。
彼は長い足を階段に投げ出して、ぱらりぱらりと頁をめくった。菊も少し体の力を抜いて、持っていた本の頁をめくる。一人がいいからこそ来ていた筈の半地下で、なぜこんな状態で私はくつろいでいるのだろう。少しだけ首を傾げたまま、菊は頁をめくった。
そんな日が、週に一、二度挟まるようになり、菊の日常には少し色がついた。約束をしているでもない。ただ並んで腰掛け、それぞれの本を手にとってめくるだけである。ほとんど書庫であるこの場所は、本を読むには明度が足りない。目が疲れると本を閉じて目を眼下にやった。足下からは微かに電動書庫のウインチ音が聞こえてくる。頭上ではたくさんの人が行き交っているのだろうと想像する。そんなタイミングでぽつぽつと話し、菊は蘭さんについていくつかのことを知った。室内では煙草に火を付けないこと、けばけばしい化粧をした大人の女性は苦手なこと、オランダ語は話せるがほとんど読めないこと。
「それは残念」
「残念?」
「今集めている史料には蘭文テキストもあるので」
「ほう……」
曖昧な返事をされたので補足する。ここで読んでいるのはほとんど外堀を埋めるための本で、研究用の史料は学科長室の続き間に与えられた机に置いていること。
「ん?」
そこで菊は「やはり」と苦笑しながら付け加えた。着任して一年が過ぎようとしているわけだが、学生全てには認識されていなかったらしい。
「つまり、私は学生じゃないんです。今、27です」
口から煙草が落ちかけ、慌てて蘭さんはそれを手に取った。それで菊を指さす。
「……え」
「はあ。貴方が小学校に入った頃、中学生ですね」
「……先輩?やのうて、先生?」
「やめてくださいよ、今まで通りしてください」
それでもまだ固まったまま、煙草で指されたままなので、菊は続けた。
「ただの本田です。本田菊」
ただの。それは「上下関係のない、フラットな」という意味だったのだが、耳から戻ってきたその言葉は小さく菊を刺した。いるだけで圧倒的な存在感を持つこの人と、平々凡々な自分。自分を異質と見る社会の中で、かえって自我を屹立させて見せる彼と、世間の視線に耐えられず、繭のような半地下に潜り込む自分。
考え込む菊をよそに、蘭さんは煙草をゆら、ゆらと上下に動かして了承のサインをした。
「『菊』」
「はい」
そう呼んでください、と頷く。
「……菊」
呼びかけられたので、応える。
「はい」
うん、と蘭さんは頷き、煙草を口に戻した。菊は二拍遅れて本に目を落とした。
図書館の半地下と学部棟の廊下以外で会ったことはなかった蘭さんを学食で見かけたのは、その日たまたま寝坊して弁当を作り損ねたからだった。特徴のある後ろ頭が空席を探して歩くのを横目で見て、場所の見当をつけた上できつねうどんを受け取って振り返ったら、あの頭の周りに女の子たちが近寄っていた。「隣いい?」「ええけんど」みたいな会話が想像できて、菊はくすりと笑う。笑って、ん、ん、と咳払いし、お茶を汲みに行き、そのまま食堂の端、彼らから見えも彼らが見えもしない位置に座り、値段相応のうどんを啜った。
未だに慣れない関東の黒い出汁に閉口しながらうどんをすする。そういえば学生時代から不人気メニューだったなとぼんやり思い返す。それなのに頼んでしまったのは、これが一番早く出そうだったからだ。なんとか食べ終わった頃、食器をさげに来た蘭さんと目があって、彼の足が止まった。
「なんで、ほんなとこにいるんけ」
あ……、と思う。彼の周りにいる女子学生は、近世史の子らだ。案の定、「こんにちは」と頭を下げてくる。
「本田先生が食堂にいるの、珍しいー」
「えー、蘭さん、本田先生と知り合い?」
ターンも何もなく勝手に囀りだした女子学生に瞬き以外の反応を返せないでいると、いいことを思いついた、というように学生が手を打ち合わせた。
「知り合いならちょうどいい、後期テストの打ち上げ、本田先生も来てくれませんか」
「あ、いいそれ!ほら、蘭さんも知り合いいるならいいでしょ」
「うわあ、本田先生来るなら私ボイスレコーダー持っていきます」
とりわけ真面目な学生が軽く手を打合せ、「飲み会だっつうに」と突っ込まれる。
「ええと……」
なんだこれ。私は鯛を釣るためのエビか。いや、エビというのも烏滸がましいか。残っていたお茶を啜るが、なぜか先ほどより更に渋い。茶碗を戻して、菊はにっこりわらった。
「ええ、と。では、蘭さんから日時など聞きますので。……でももしその日用事があったらすみませんね」
助教は二十四時間サービス業なのである。
しかし、その話はうやむやになったようだった。二月に入り、テストが近づいてもその話が出て来ない。とれかけた瘡蓋をいじりたくなる心理はなんだろうとその日菊は考えていた。
「菊は」
蘭さんの発言はいつも唐突だ。
「論文を書いたり学会発表したりせんでええんけ」
「してますよ……論文は」
発表が苦手なのである。字の方が十倍雄弁だと言われたこともある。とはいえ発表しなければ業績になっていかない。
「いつ来てもここにおるけの」
「いや、だから、昼間は机に向かってますって……」
言いながらも声が尻すぼみになる。なぜ与えられた机で研究しないのかと、学科長にもちくりと言われることがある。雑用をしたくないからだと誤解されているのは分かっているが、そうではない。確かに、ここで読んでいるのは机が無くても読めるような本、だったらわざわざこんな狭いところで読む必要はない。必要があってしていることではない。ここにいたくて。ずっとこうしていたくて。――しかしそうしてはいられないのは分かっている。
「何の研究なん」
「今押さえているのは、長崎口の機能について、です。この頃の日蘭関係は、主体が二つじゃないんです。幕府、長崎奉行、そしてオランダ商館長に蘭領東インド総督とオランダ本国。全てが少しずつ意図と意志を持って動いている……」
長崎口、という言い方は高校でも習う。小学校では「鎖国」と習う近世の対外関係は、実は「四つの口」を押さえた幕府の対外情報・貿易利益の独占であり、国をとじていたわけではないというのがここ数十年通説になっている。苟もこの学科に身を置く者として、蘭さんは軽く頷いた。
「そういえば、不思議に思ったことがあるんです」
「ん?」
「一八四二年に薪水給与令がでるでしょう。あれはオランダ商館長のビックが、イギリス艦隊が清の後日本に来るらしいという情報を伝えたからだと言われているのですが…真偽はともかく、長崎口は、その薪水給与令をビックに伝える際に、言い含めているようなんです。このことを諸外国に伝えるようにと」
「……ほう……」
「考えてみたら、長崎が唯一の入り口であるなら、唯一の出口でもあるわけですよね。他の、松前・対馬・琉球の口は欧米に向かって開いているわけじゃありませんから。それまでは日本が世界に発信したいことなんてなかったから、特に意識されてこなかった。けれども、無二念打払令を撤回したという情報は発信する必要があるはずです。何せ敵対意志を捨てた、侵略の口実は与えないという幕府の意志があるのですから」
「ほやのう。言い含めたて、口頭でか?」
「いえ、付言です。『言え』とは書いてないんですが、まあそうしか読めないという文言で。実際、蘭領東インド総督は通達を念頭に置いてでしょう、両命令をわざわざ蘭訳させて本国植民省に伝えています」
「ふん」
「ところがですね。オランダ政府は、結局1851年までそれを諸外国に伝えていないんです」
「へえ」
「1850年代といえば、もう近海が脅かされていた頃でしょう。幕府は開国要求に対する相当の緊張感を……いえ、恐怖感を持っていた筈です。対外政策の変更を世界に伝えて欲しいと長崎口は思っていて、オランダ商館もそれを理解していて、なのに『オランダ』としてはそれを裏切っているのが、なぜなのか……」
「ふうん……」
なんでやろな。首を捻って真剣に考えている。ただの余談、本気で答えが欲しいわけではない。けれども、嬉しい。嬉しいその気持ちを自覚しているから、このままではいけないと思う。
「ところであの……、ほら、前に、学食で…」
「……あー」
あれ以来学食で会ってはいないから、これだけで通じる。
「日時とか、もう決まりました?」
「さあ…どうやざ」
「まだテストで頭一杯ですかね……蘭さん、行くんでしょう?」
「……いつとも分からんし」
乗り気でなさそうな返答に少しだけ力づけられる。
「いや、でも、…折角の学生生活ですから、彼女とか作って、楽しんだらいいと思うんです、よ……。史学科の女の子には素朴でいい子が多いし、話していても楽しいですよ。やっぱりこう、心がはずむというか」
ああん?という目を返されたてしまった。嘘など全部見通されそうな目だった。
「行きたいんか」
「私は、……もう爺ですからね。滅多にないお誘いなので有り難くお邪魔しますけど、若い人たちの交流を邪魔したりしませんよ」
蘭さんは、いつもくわえている煙草を指に抜き取り、じっと眼を見てきた。
そんな風に見ないでほしい。
全てが見透かされそうな気になって、菊は横を向いた。
「…と、お伝えください」
くいと、顎をとられ、また顔を正面に戻される。目が、髪が、眩しい。この人が眩しい。この人の隣に、私はふさわしくない。
「……分かったげや」
「…………え」
同意を得て出す声音じゃなかった。慌てて口をふさぐが、もう音は戻らない。
蘭さんは、頭をぐしゃりと掻いた。
「いや、そういう意味じゃのうて……ま、ええわ」
「え」
「とりあえず、テストじゃの。しばらく来られんけど、そういうことやけえの」
ぽん、と肩を叩き、蘭さんは階段を降りていった。
一人で史料を読む日々が続いた。
1843年、蘭領東インド総督ピエール・メルクスの手紙が本国植民大臣に届く。同月、植民大臣は国王に向けて所謂「開国勧告」親書の送付を進言し、翌1844年それが実現する。親書は日蘭関係の来歴を確認した上で、産業革命とその鬼子としての帝国主義、そしてアヘン戦争という顛末を説明し、薪水給与令では諸外国は満足せず、清の二の舞となる「かもしれない」、だからと外国人に対する法律を緩和するよう求めている。
余談だが、この国王親書の一件を初めて論文にしたのは1867年のオランダ人で、当時オランダに向けられた「世界貿易に日本を開かせるためオランダは努力しなかった」という批判に反論するものとなっている。しかし文面からして、これはあくまで「勧告」であり、「要求」ではない。何の具体的手順も示されていないそれを「世界貿易に日本を開かせるためのオランダの努力」と呼んだオランダ人の意図は、学究的というよりは政治的である。1840年頃のオランダは、ベルギーの独立とそれをくじくための軍事干渉、王の交代に財政危機と、非常に厳しい状態にあった。「政治的利己主義とは全く離れて」ただ長く続いた友好関係のためだけに親書を送ったとの言葉は、字面通りには受け取りがたい。
対する江戸幕府は、国王に対してではなく「摂政大臣」に対して返書を出す。日本の「通信之国」は朝鮮王国と琉球、オランダと中国は「通商之国」であり、正式の返信は出せないとだけ書かれたその返事は、概ね「開国勧告の拒絶」と学界に受け止められている。
ふう、とため息をついて本を閉じる。ここ最近、暖房が弱いような気がする。もうそういう時期だろうかと考えて、菊は気づく。今日までがテスト週間の筈だ。だったら、の後を二つ考える。だったら、また彼が来るかもしれない。もう一つ、だったら、彼は打ち上げに行くかもしれない。
分かった、と彼は言った。それは飲み会一つのことではない。そこからつながるたくさんの煌めきだ。青春という名の。繭を求めてこんなところにやってくる自分はもう失ったもの。彼の前には無限にあるもの。
――だから、自分は、送り出さなければ。
そう思うのに。
鉄骨に頭をもたげて、軽く目をつぶる。
「蘭さん……」
思わず呟きが漏れる。と、「おう」と声が返り、菊は慌てて目を開いた。
「テスト終わった」
「あ、はい」
「で、ここに来た」
「……はい。……?」
「なんじゃ、まだ分かっとらんかったか」
「なにがでしょう」
「薪水給与令の通達が遅れた訳を考えとったんやないんか」
「そう、ですけど…」
話の流れがおかしくないか。問題の所在が一瞬分からなくなる。
ともあれ、いつものように階段に腰掛けて、調べて分かった1840年代の経緯について説明する。蘭さんは、静かに聞いていたが、聞き終わると火の付いていない煙草をそれでも深く吸い込んだ。
「俺の想像よりは複雑やったな」
「はい?」
「単に、独占状態を続けたかったんやろと思うとった」
「対日貿易の、ですか。でも正直、そこまでするメリットがあるほどの貿易規模じゃないんです。だから商館長は常々諸外国の脅威から守る存在として自国をアピールし、貿易拡大を要求していたわけで」
「それなら余計に、つなぎ止めたいやろ」
「うーん……でも、国王親書でそれは実現してないわけですよ。だからオランダの研究者も親書送付を失敗と位置づけています」
「失敗かどうかは、何をしたかったかやろ。貿易拡大を要求したのは商館長で、それと本国は別の主体やったと言うてたやろ。開国勧告や貿易拡大が目的なら成功してないわな。でも単にさぐりを入れたかったんなら成功しとる」
「さぐり?幕府に、ですか」
「そう。長崎口じゃなく、日本そのものが何を考えてるんか。アヘン戦争の顛末を受けて日本への寄港を認めていく方向へ舵を切ったんか、それとも小手先でごまかして『だからとっとと帰れ』作戦に出たんか」
「ああ……なら、この返書ははっきり後者を指しているという意味で、成功ですね。何せ鎖国を『祖法』と位置づけたのはこれと言われているのですから」
蘭さんは軽く頷いて続けた。
「日本は現状維持したいのだと、本国政府は判断した。ほんで、逆に受け取られかねない『薪水給与令』を通知せんかったんちゅーわけやでの」
「ああ!つまり、言葉の要求をかなえないことで、真意をかなえてくれたわけですね……」
頷……こうとして蘭さんは、少し頭を掻いた。
「まあ、あれや、その方が自分にとって良かっただけやろ。別に『してくれた』と思う必要はのうて」
そういう見方があったか。広がった過去の世界にしばしひたった。複雑に絡み合った人々の思い。立場が少しずれるだけで、同じ出来事の意味さえ変わる。
「どうして分かったんですか…?」
「え」
「勿論検証してみますけど、なるほどと思えます。そういう角度を思いつきもしませんでした。なんでそんなの思いついたんですか」
しばらく黙り、蘭さんはぷっと笑った。
「まだ分からんか」
「はあ」
「研究者でも、自分のことは見えんもんなんやろか」
「わたし?」
私の話がなぜ出てくる?
「……菊」
突然呼ばれ、「はい」と返す。だめだ、この人に名前を呼ばれると、どうしても上擦ってしまう。
と、視界が陰った。マフラーがふわりと頭にかけられ、私と彼は空間から布で切り取られた。
頭の中の画面が真っ白になり、そしてつっと一本の線が通り、まるでテレビがついたように、世界が開いた。二人きりのままでいたい日本と、いさせたいオランダ。言葉とは裏腹に示される心。
私と、貴方。
ほんの数秒の、軽い接触にも係わらず、唇に煙草の苦みが残った。
「日本が『鎖国』やないいうなら、ここも『繭』やない。どちらも窓はあいとる。いたかったらいればええし、出たくなったら出りゃあええ」
「……」
この人は……。襟元のマフラーをきゅっと握る。私が大学に入った頃はまだランドセルを背負ってた筈なのに、まるで年上のように私を甘やかす。
「飲み会は俺が行かせとうないだけやけどな」
「……?」
「いや、分からんならそれでええんやざ」
わずか開いていた数センチの距離を詰められ、また息がとまる。
足下遠く、電動書庫が誰かのために世界を開く音が微かに響いていた。