放生会

アル菊

アメリカ×日本(R15)

こぷ、と小さな音を鳴らして菊の唇が離れた。まだ息の静まらないアルフレッドを見下ろしながら、「おごちそうさま」と薄く笑う。
そうしなければ脱いでもくれないから豆電球しかつけていない、そのおぼろな橙色の明かりの下、黄みがかった菊の肌は不思議なほど優しくも、妖しくも見える。
窓の外には大東京の終わらない夜が広がっている。安全の確保と醜聞の防止にと最上階を用意されたホテル。どれだけ声を出してもいいと言えば、ええ貴方もと返された。
口の端から垂れるものをぬぐおうとしたか、唇に当てた手を掴んで引き寄せると、細い体がそのまま被さってくる。
「――ずるい」
「何がでしょう」
馬乗りになった菊は薄笑いを顔に乗せたまま。 蒸気をあてたようにしっとりと汗をはらんだ肌が艶めかしい。
「してくれなくていいからさせてくれ」
「言葉遊びのようですね」
ふふ、と笑って菊が顔を揺らすと黒絹のような髪がさらりと流れた。
腹が立つ、とアルフレッドは下から腰を突き上げた。既に力を取り戻したものが菊の背にあたる。
「遊びじゃないぞ」
「ええ、遊んでなんていないですよ。真剣に、」
「弄んでるんだろ」
「違いますよ。ただ私は体力がないですから全回同じようにお相手はできないんです。だからといって余った火照りをよそに振り向けられるのは勘弁願いたいですし」
「そんなことしないぞ」
「そう願いたいですが。とはいえ不満の残る交合は別離のもとですから、我慢もして頂きたくないんです」
アルフレッドは笑った。
「すごーく愛されているように聞こえるんだけど」
「そのように言ってますよ。――愛させてください」
菊はまたにぃと口を引いて、顔を伏せた。耳の付け根あたりで舌が蠢く。直接的な刺激ではないけれども、息がかかる度に背筋がぞくぞくする。耳殻をなぞられて思わず熱の籠もった息がこぼれ、思わず舌打ちする。――またいいように駆け上がらされている。こういうのはむしろ俺がやってやりたいのに。喘ぎ乱れる菊なんて滅多に見せてもらえない。声に出さないのがせめてもの矜恃、完全に掌の上だ。
「本当に、君って」
「疑いもなく淫蕩な人民、と仰いましたね、以前」
「一周回って事実だろ」
ペリー提督の日本遠征記だ。西洋ではあり得なかった混浴の習慣、裸体に対する寛容さに、当時日本を訪れた西洋人は皆、道義的で自律的な日本人がなぜと眉をひそめた。
あの頃の自分は甘かったとしか言いようがない。あの頃の彼が非文明的で無邪気だったから奔放に裸体を晒した、のではない。見て見ぬふり、というより、視界に入れるべきでないものは視野に入っても認知しないというハイスペックな視線を既に獲得していたのだ。
彼の淫蕩さはそんなところにはない。そんなものじゃない。
「ここ。がさがさになってますよ」
上腕を舐めあげられる。
「あー、最近地下水灌漑のやり過ぎでちょっと乾いてて」
「しょっぱいです」
そう言いながら、丹念に舐める。そんなもので潤うレベルの塩害ではないと分かっているだろうに、菊は眉をかすかに寄せて舌を動かし続ける。
首の角度が変わって顔が覗いた。
「あれ」
手を伸ばして、眉を撫でる。するりと指に従う毛並みが最後にことんと途切れる。
「眉剃りに失敗した高校生みたいになってるぞ」
「あー…」
苦笑ともつかない顔でそこをなぞって、髪をかきあげる。
「植樹祭をするんですよ」
「またかい?相変わらず君のところは木を植えるために木を切るんだな」
記念行事だから主賓・来賓のために公園を整備するのだ。そのため雑木林を切り開くこともままあるらしい。
「ええほんとに。武器を売りつけた紛争地域で人道援助するような話ですね」
「……言うね」
菊の髪を指で梳いてついでに引っ張れば、痛みに小さくゆがんだ顔で笑う。
「ピロートーク以外で言えば問題になりますからね」
「ピロートークとしての適格性に問題があるだろ。愛がない」
「おや」
菊は首をゆるりと動かして目を合わせた。
「私の気持ちをお疑いですか」
「…最初から信じてないよ」
「それなのに私には貴方を信じろと仰る?」
信じろ、とかの問題じゃない。俺の側が君の十倍のめり込んでることなんて、主張じゃない、判断じゃない、事実だ。
そう言ってもさらりとはぐらかされるのは目に見えている。
「……君が他の人とこんなことしてないってことだけは信じるよ。そんな体力は残してあげてないからね」
「ええ、少しは浮気できるくらい残して下さってもいいんですけど、一滴残らずですからね」
「――っ、本当に君はどこまでもえろいな」
ふふふ、と菊は笑ってベッドを降りた。
バーカウンターから出した炭酸水を二つのグラスにつぎ、一つはそのままベッド脇に滑らしてもう一つにはリキュールを足す。
酒に手を出さないまま21になるやつなんていない、そんなのは菊も承知の上だ。例の視線を発動して見て見ぬふりをすることだってあるくせに、自分からはけじめをつけたがる。
そんなのは
「欺瞞、ですか」
別に飲みたかったわけでもないのにリキュールの瓶を見続けていたからか、菊がグラスを唇の線でとめて笑う。
炭酸水をごくりと喉に流し込んで、アルフレッドは残りをぶっかけてやろうかと思う。少しは彼も甘くなるか。
その凶暴な思いに気づいたわけでもないだろうが、菊は窓の方へ顔を向けた。
「――もう秋も終わりですね」
「そうだね、随分寒くなったね」
「神社や仏閣の仲秋の祭りは、放生会だったものがあるのですよ」
「ほうじょうえ?」
「仏教には殺生戒がありますが、それを守ればいくさは行えない。いくさびとは救われない。そこで、生き物を放し自然に帰すという宗教行事をやるのです。神仏習合と、アニミズム的観念が組み合わさって、神社でも」
「その生き物はどこから来たのさ」
「事前に捕まえておくのですよ、勿論」
「――それはまた」
「欺瞞の最たるものしょう?」
アルフレッドは肩をすくめた。そこに菊が戻ってくる。
「江戸時代には娯楽のようになりましてね。普通の日でも、小銭で雀売りから雀を買っては放すということもありました。雀売りは商売ですからその放された雀が遠くまで逃げられないように風切り羽を切っておく。雀は全く救われない」
また上に乗り、アルフレッドの胸に手を当てる。
「だけど、澱を積み重ねながら生きている者には、一瞬の胸のすく感じがすなわち救いなのではないですか。そして兵士や、権力者や、私達は澱から逃れることは難しい。こんなに長く生きても人や自然を傷つけずに生きる術さえ分からない。それでも、私達は生きていかなきゃいけない」
「…」
飛べない雀、飢える子供。荒れる土地。本当は分かっている、けど、見えない、ことにしている。
手を後頭部に回して引き寄せれば逆らわずに顔を寄せる。眉尻に口づければ少し肌が緩んだ。そのまま頭と顎を掴んで唇を合わせる。舌をつつけば応え、絡めれば逃げる。歯列をなぞれば唾液を送られ、溶けて溶かされて一つになる。
「ねえ、ここ以外で同じように振る舞えば問題になるんですから、ベッドの上でくらい思う存分愛させてください」
「――そうしてまた俺を翻弄するわけだ」
「するのとされるのは結局同じになるんですよ」
「言葉遊びだ」
「遊んでません、真剣に」
意地悪な微笑みを無視して、体を返す。
「菊、戯れ言はいいよ。もう限界」
上下を逆にすれば、菊は下から手を伸ばし、頬に掌を沿わせてきた。微かな声で始まりを宣する。

「さあ、私達の中の野獣を解き放ちましょう」

食って食われて、俺たちは、刹那、互いを救う。