フランシス×菊(1936)
この手の小ささが悔しかった。ずっと。
*
西日本の最高峰、石鎚山の表参道には全長二百メートルを越す鎖場がある。最大傾斜七〇度の急斜面を登るよすがとして、五〇センチほどの鉄棒を鎖状につなぎ垂らしてある。一度登り始めたら登り切るしかない。横にも後ろにも脱出路は無く、ただその手に握る鉄だけが命を支える。
ここ五十年の来し方を思い返すとき、菊はいつもその登山の感覚を思い出してしまう。他の選択肢はとれない、なぜなら、そのやり方でしか「世界の一等国」にはなれない、いられない。欧州大戦を経験した諸列強は平和という翼を手に入れたが、それは植民地という胸筋あってのことだ。菊が新しいレジームに乗り切れないのは、理想を解しないからではなく、それだけの体力がないからである。登り始めた以上登り続けるしかない道は、いよいよ険しさを増し、鎖にかける負荷はどんどん強まっていく。この道しか進めない、このあり方しかありえない、そのためにはもっと強く、早く……そう思う菊はしかし、石鎚山の鎖も切れたことがあるのを知っている。
*
一九三六年六月。「世界会議」に出席していた菊は、無、無、無、と心の中で繰り返していた。アルフレッドは居丈高に、アーサーは辛辣に「世界平和を乱す者」を糾弾する。そしてあの人はつまらないといった表情を隠しもせず給仕の女性に話しかける。無にすればいい、無。心を空にしてこの時間をやり過ごしさえすれば、国に帰れる。上司の外交は世界各国が一堂に会する場を失って久しい。私だけが我慢すればよいのだ。
喧噪の会議場を抜け、中庭を抜ける回廊に出たところで、菊は後ろから呼ぶ声に気がついた。無言で振り返った菊の目に、美しい緑色の目を細めて笑うアントーニョが映った。
世界を二分するなら、彼は敵。
そう思うから菊は会釈のみを返した。無表情を崩さない菊にいっこう頓着せず、アントーニョは「はい」と一枚の案内状を渡してきた。そこにはオリンピックの文字があった。開催地はバルセロナ。
「なぜ、私に……?」
思わず問えば、ふにゃりとした笑みを返される。
「そんな、警戒せんでー。別に裏の思惑とかないし。単に、来てくれへんかなーと思うただけや」
「来る、わけがないと思いませんでしたか」
「うん、まあ、ね」
行く、わけがない。菊は案内状を突き返した。
「お返しします」
「そっかー、ま、しゃーないな」
頭を掻きながら紙を受け取ろうと手を伸ばしてくる、その手をさらにのばし、彼は菊の手をとらえた。引き寄せられ、息がとまる。近くに迫った目の、光彩までがはっきりと見える。
「ぷーちゃんとこ、行くん?」
「…はい」
「まあ、そやろなー。ていうか、俺も行くねんけど」
そういって彼は中庭を縁取る植え込みを眺めた。躑躅に似た花がコントラストも鮮やかに存在を主張している。
この夏開かれるオリンピックが、単なるスポーツ競技会にとどまらないことは誰の目にも明らかだ。開催国ドイツは常ならぬ勝ちへの執着を示すだろう。金メダルは個人のものではない、それは、先の欧州大戦の屈辱を晴らし、ドイツの復権、民族の優秀性を示すことに直結する、そのように演出されているからだ。先の大戦により一九一六年の開催予定が流された因縁の地、ベルリンに、ナチス政権は壮麗な劇場効果を持つ競技場とそこへの街道を整備させたという。ここに集まる観客も選手もその壮麗さに酔い、それが選手の志気を高め、結果をもたらし、「やはり」と思わせる仕掛けなのだ。「やはり、アーリア民族は世界一優秀なのだ」。プライドの回復、自信、そしてそれをもたらした国家への憧憬。
一方に強い光を当てれば影もまた濃くなる。政権は一民族を名指しして「劣等人種」なる言葉を公に用いている。そのナチスドイツの人種差別主義政策を認めることになるとしてベルリンオリンピックへの参加を躊躇っていた国もある。
アルフレッドが噛みつくこの民族問題について菊は今ひとつピンときていない。それよりは自らに向けられる視線の方に敏感になる。
未だに開催地の決まらない一九四〇年オリンピックの招致のため、菊は欧州に出る度に根回しをしている。オリンピックが平和と世界融合の象徴であるというなら、アジア初・有色人種初となる東京オリンピックへの一票こそその理念への賛意表明ではないか。そう言えば頷きはするくせに、距離が湿度がと言を左右にされると、「どうせ」と言いたくなる。どうせ世界の中心は大西洋なのだ。地球の裏側など、彼らの昼においては太陽の光も届かない。その照らされた地球のイメージは、彼らの脳裏の世界イメージと同じなのだと。
「あなたは…」
「んー?」
柔らかい笑顔でアントーニョは応える。
かれこれ五百年前、この人は、もっと凄みのある笑いを見せていた。世界の半分を手中にしていると、確信している目だった。地球儀、天文図、望遠鏡に金時計……菊は久しぶりに、文明に圧倒されて言葉を失うという経験をした。
――なあ、菊。
彼は戦乱の世の中で縮こまっていた菊の手を引き、岬へと誘った。
――俺のところへ、来ぃひんか。
その時の海の色をまだ覚えている。水平線に切り分けられた海と空は「これまで」と「これから」の象徴のように思えた。「どうや」と微笑みながら返事を待つこの人の、海の一色を凝縮したかのような瞳に飲み込まれ、言葉を返すことさえできなかった。心の半分は倒れ込むように没入しながら、残りの半分が菊を引き留めた。過ぎる憧れは、心を惑わせる。こういうときには、動くべきではない。菊はようやく首を振り、きらびやかな西洋世界を切り捨てた。
あの頃彼が持っていた暴力的なほどの求心力は既に無い。少なくとも、菊には。
「貴方は、本当に満足ですか。今の政治状況に」
Front Populaire――― Frente Popular。日本では人民戦線と訳す。小異を捨て結集し政治勢力とする、その旗印は、反戦・反ファシズム。全体主義により束ねられることへの拒否感から自由主義者や共和派知識人を含むが、中心は「左翼」という言葉にまとめられる勢力となる。もっとも、一口に左翼と言ってもその中に、どのように革命を実現するかの方法論を巡って激しい対立がある。共産主義者は穏健左派を社会主義ファシストとして攻撃していたほどだった。その彼らがこの政治的状況に対して手を結んだ、その成果の一つがスペイン人民戦線政府である。彼らは教会財産の没収などの平準化政策を既に実施し、庶民からの支持を集めている。
「特定目的を持った連立政権は、その目的が長期的であればあるほど瓦解の可能性を含みます。まして貴方のところではもともと政党間抗争が激しい。あれだけ激しく角を突き合わせたマルキスト、アナーキスト、トロツキストが折り合えるとは思いません」
アントーニョは少し笑った。
「もともと、百人スペイン人がいたら百政党が生まれる、言うくらいでな。意見が合致せんのは織り込み済みやねん。そのせいがあるかどうか分からんけど、無政府主義へのシンパシーが強いんやな。ぴったりまとまるちゅうのは難しいやろ」
「そんな国情ならなおさら、強権を発動できる指導者を上司に迎えた方が統治がしやすいのではないですか。今のような百家争鳴状態は、コミンテルンの介入を呼びます」
「イヴァン?」
菊は頷いた。各国当事者たちの思惑はともあれ、共産主義インターナショナルが人民戦線戦術を承認したのはこれを指導力拡大の機会と判断するに至ったからだと菊には思われる。
「うーん……」
かり、と首の後ろを掻いてアントーニョはまた困ったように笑った。
「分析的に言うたらそうも言えると思うけどな。そやからいうて何もせんで未来をただ待つ方がしょうに合わんねん。そしたらカタルーニャ自治政庁が、対抗してオリンピックでもやってやんよちゅうんで、それもありかな、と」
そう言いながら、先の案内状を紙縒のように巻き上げて紙の花を作り上げ、菊のポケットに刺した。
人民オリンピック、スポルティンテルンとも呼ばれるそれは、コミンテルンと労働社会主義インターの主催する労働者の祭典である。既に二回行われているが、今回は少し意味合いが違う。ベルリンと開催地を争った土地、バルセロナで行われるからこそ余計に、そしてその国家政府が人民戦線により成り立つものであるから更に、「反ファシズム」の祭典となっている。
それに菊が行く、わけがない。
資本主義の成熟度、立憲政治の経験、どれをとってもルートヴィッヒにはかなわない。菊の体制は、少なくともまだ、ファシズムの定義に届かない。とはいえ、彼やフェリシアーノが掲げる「結束」という言葉は、この難局を乗り越える唯一の道であるように思われる。全体が強い鎖となって繋がっていかなくては、全員が滑落してしまう。蜘蛛の糸が切れ地獄の闇に堕ちていくイメージは余りにも鮮烈で、その恐怖感は常に菊を駆動する。
そのくせ菊は、鎖から解き放たれるイメージを目覚めどきの薄明に感じたりもするのだ。誰にも、それは言わないけれども。
*
腹の中はどうあれ、ナチス政権は菊との関係構築に前向きだ。ルートヴィッヒとはほぼ「初めまして」だが、ギルベルトとは旧知の仲、雛鳥の頃その背を追い続けた相手だ。破天荒に生きながら、規律を求める人だった。血まみれの軍服を着たままで、哲学を語る人だった。生を求めながら死を想う、その矛盾をも抱えられる力に憧れていた。
そのギルベルトは、菊の訪問を受けて「おお!」と顔を輝かせた。無聊を託っていたらしい。競技場をみたいと言うと口をへの字に曲げたが、それでも車を出してくれた。ウンター・デン・リンデンにさしかかり、菊は驚きの余り言葉を失った。もともと目を剥くほどの大通りだった。百メートルはあろうかというその道は、空があいたためにより巨大に見える。一列に続くガス灯は、ともれば、世界を導くただ一つの光明とも思えるに違いない。
装置なのだ、と菊は思う。菊が戦争に勝つ度に東京にこしらえた凱旋門のようなものだ。張りぼてのそれはパリのそれとは比べようもなくみすぼらしいものだったが、それでも市民は一様にそれを見上げた。見上げるという身体動作がそのまま国家への目線となる。
プロイセン王国の意匠を多く引き継いだ現政権の演出に、しかしギルベルトは三白眼を見せた。
「木ぃ切ったら意味ねーだろうがよ」
確かに、と言うに言えず、菊は首を斜めに傾けた。
かつてフリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯が整備したこの通りは「菩提樹の下」という名にふさわしく、枝を広げるリンデンバウムがアーケードを形作る涼やかな散策路だった。
整備された道の上を車は滑らかに走っていく。東京ではこうはいかない。道も狭く、石ころも多い。車中で話すのには舌を噛む覚悟がいる。かなわないなぁと運転するギルベルトを眺め続けた、ら、いきなりアクセルを踏み込まれ、菊はがくんとヘッドレストにたたき付けられた。
「ど、どうしたんですか?」
「……んでもねぇよ!」
何かを振り飛ばす勢いで走った車はオリンピアスタディオンの脇に駐められた。
やはり、大きい。
首が痛くなるほどその大門柱を眺め続ける菊に、ギルベルトは鼻を鳴らした。
「面白ぇか?」
「……面白くないんですか?」
もうすぐオリンピックが始まるというのに。瞬きをした菊に肩をすくめて見せて、ギルベルトは歩きながら「なんだろな」と眉を寄せた。
「なんか、違ぇんだ」
薄暗い通路を抜けると、観客席に出た。壮大な競技場が目の前に広がる。
「なにがでしょう」
「それが分かんねぇから『なんか』っつってんだろ」
ぽかりと頭をはたいて――こういう時の力加減は絶妙だと思う――ギルベルトはその手をぐーぱーと握る。
「褒め称えるんなら俺様をだろ!って感じか」
「なら、余計に、何の文句があるんですか。貴方を……というか、貴方が作り上げたものへの賞賛なんじゃないですか」
行進曲に用いられる言葉は全て「ドイツ」。確かに厳密に言えば彼ではないが、それこそ世界に冠たるブラコン兄弟の彼がルートヴィッヒへの賛辞に渋面とは。
「…」
しばらく考えていたギルベルトは、やがて頭を振った。
「いや、やっぱり違うだろ。あいつらが見ている世界は、あいつらの見たい世界でしかない」
「ショーペンハウエルですか?」
世界の本質は生存意志であり、世界は主観の表象でしかない――ドイツ哲学の一つの極みとも言われ、高校生ならデカルト・カントと並んで必ずその書をひもとく哲学者だ。
ああ、あいつも言ってたなと軽く頷き、ギルベルトはすっと菊の頬に触れた。
「俺がお前を絵に描くなら、この肌の色を表すために何十色も絵の具を使うだろう。でも、あいつらは一色で塗りつぶす気がする。――そういうことだ」
言われたことの含意をくみ取ろうと、菊はギルベルトを凝視した。かつて世界を教えてくれた師は、しかし何も言わず次第に顔を紅潮させ、いきなりきびすを返し、手すりに体重を掛けてフィールドを見下ろした。
「ああ、早く始まんねーかな!」
菊も歩み寄って手すりに手を掛ける。
「オリンピック自体にご不満なのかと思いました」
「競技は楽しみだぜ?一九一六年の雪辱戦だしな。…手加減しねえぞ」
最後は菊を振り向いて、目を細くして笑った。
この人に、愚痴混じりの相談を持ちかけたことがある。憲法学を学びに欧州に行った頃のことだ。文明とはこうして学ぶことができます。しかし、文化とは本当に学びうるものでしょうか?
「欧州の身体に関する文化は、どうしてそのように忌避されるかが理解できなかったり、逆にどうしてそれが平気でできるのかが分からなかったりするのです。手を取ったり、握ったり、頬に口をつけたり、じっと見つめたり……そんな風に振る舞われると、よもや懸想されているのではと勘違いをしてしまうのではありませんか」
ギルベルトは少し黙って、小さな声で「俺の台詞だ」と言った。
「なんですか?」
「なんでもねーぜ?!勘違いとか、分かってるから寂しくねーし、する方が悪ぃって分かってるし!」
また話が迷子になった、と菊は思った。時々、欧米の彼らは菊にはついていけない回路で論理を進めてしまう。どうしてそこに話が進んだのかは全く分からないが、それでも、ギルベルトの結論は、菊の結論とも合致していた。
勘違いなんて、する方がいけない。
あのときアントーニョが地中海へ誘ったのは、菊に惹かれてのことではない。黄金の国と言われ、実際まだ豊かに産出してもいた金銀や、カトリック勢力に組み込みうる可能性を計算に入れただけだ。あのときは本能的なおびえで首を横に振ったが、心は強くひかれていた。神を見た時に感じる帰依の感情とはこういうものだろうかと思った。そう感じたのは、その時彼が伝えた一神教のイメージと重なっているからだろう。
幕末の開国は、怯む暇さえ与えられなかった。戸惑っている間に話はどんどん進み、たくさんの条約が交わされた。欧米の本や舞台も伝えられ、それまで日本には無かった概念が持ち込まれた。惚れたはれたと違うものとして「恋愛」があると伝えられ、半知半解のままに覚えていた、そこに、彼が現れた。
春の日だった。世間の騒擾を知らぬ顔で、城の中にも花が咲いていた。その麗らかな景色に誘われたのか、フランシスが梅園の中に寝転がっていた。まだ欧米の誰とも必要最低限の接触しかしていない頃で、当然フランシスについてもその姿をまともに見たこともなかった。たまたま行き会った菊は、その絵のような光景に足を止め、我知らず近づいた。地面に膝をつき、いつもは許すはずもない距離にまで顔を近づけ、その顔をまじまじと見た。平々凡々たる菊の顔に対して、造物主に愛されたとしか形容のしようのないその美しい顔。日を受けて輝く金の髪。
菊は体に覆い被さるようにして手を突き、そっともう片方の手を伸ばした。髪はさらりと菊の指を通った。この手の中に、美しいものがある。――美しい人がいる。
酔いにも似た心持ちでいた菊の、もう片方の手に、そっと触れるものがあった。叫んで飛び退きそうになり、危うくとどめた。髪を掴んだまま急に動くわけにはいかない。しかし、菊の手に重なるフランシスの手は、彼の覚醒を示している。
頬が照る、しかしその下で、フランシスは眼を閉じたままだった。そのまま長い時間が過ぎた。彼は何も言わず、ただ菊の手の中にあることを許し、その代わりに菊の手を求めただけだった。
梅の香が靄のように二人を包んでいた。
それから始まった蜜月の甘さたるや、想像を超えるものだった。江戸幕府の顧問として彼は頻繁に菊を訪れ、美しいものを菊に贈っては、それよりも美しいと菊を称えた。まるで、西洋の恋愛小説のように。
過ぎる憧れは、心を惑わせる。
分かっていたのに。
短い蜜月は終わりを告げ、政体は覆り、新政府は範を他国に求めるようになった。「もっと俺を愛してよ」、そう口をとがらせるフランシスに積もっていたくすぐったいような晴れがましいような感情は、初めて出席した世界会議の場で打ち砕かれることになる。
彼の目に、菊は映っていなかった。彼が抱える多くの植民地、給仕の女性、風に任せて窓を打つ木の葉、その程度にも。
そうか。菊は思った。私が目の前にいたから、彼は私に声を掛けた。他の人がいたら他の人にかける。博愛とはそういうことだ。
私が彼の手を離すことは、口をとがらせて文句を言えば受け流せる、その程度のことでしかないのだ。
力をつければ、またその瞳に映ることもあるだろうか。そう思って、走り続けた。一等国になれば。国連の常任理事国になれば。肩を並べれば、あるいは……しかし、その思いは裏切られ続けた。
パリ講和会議、ワシントン会議、ロンドン会議。彼の蒼い目は、まさに世界を彼の主観によって眺めていた。彼はいつも自信にあふれ、首輪を施した国々の肩を抱き、自らの輝きを失うまいとした。
エゴイズムと批判するのは、天に唾するようなものだ。国家利害はぶつかるもの。こんな世界の中で、何が愛と呼ぶに足るだろう。それが存在するという思い込みがそもそも勘違いだったのだ。
*
京都の夏は暑い。渡欧を直前に控えて、菊はこの街を訪ね、馴染みの喫茶店に入った。いつ見ても品のいい制服のウェイトレスが丁重に出迎えてくれる。壁のステンドグラス、天鵞絨張りの椅子。落ち着いた空間で目を閉じてコーヒーを待っていると、「あれ」と声がかかった。目を開ければ、いるはずのいない人がここにいた。
「フランシスさん!?」
「やあ、偶然」
「偶然――ですか」
まさか後をつけてきたのかと思ったが、情報操作用の変装をするでもない。夏の京都にふさわしい涼しげなシャツの襟元をくつろげている、どこから見てもただの外人観光客、だ。
「この店、よく来るの?」
「いえ!」
反射的にそう応えたのに、ちょうどコーヒーを持ってきたウェイトレスが「この方、菊さんのお知り合いですか?」と聞いた。フランシスは何気ない顔で――一瞬笑いをかみ殺すのが見えたが――頷いて、菊の対面に陣取った。そして、ウェイトレスに「素敵な店だね?その服も、とてもエレガントだ」と微笑みを投げた。客商売で慣れているのか、軽く顔を赤らめるだけでそれを受け流したウェイトレスの背中を恨めしく見やる。あんな風に振る舞えればいいのに。
「…なのに、なんで否定すんのかなー」
こちらの呟きは、明らかに菊に向けたものだ。菊は黙ってコーヒーを飲んだ。この店は、名前といい外装といい、明らかにフランス趣味なのだ。この店が行きつけだなんて、知られたくなかった。
「…フランシスさんこそ、なぜここに?貴方は今、大変なんじゃないんですか」
七月一七日、スペイン領モロッコの駐屯部隊がクーデターを開始した。スペイン本土の軍部もそれに呼応し、内乱が始まった。
人民オリンピックは、開会宣言だけを行って、そのまま中止に追い込まれたという。バルセロナに集まってきていた各国選手の一部はそのまま義勇軍となって戦っているという噂もある。
当然、大変なのは何よりアントーニョだが、この問題はフランシスをも直撃しているはずだ。同じ人民戦線政府なのだから援助すべきだと考える勢力と、内政不干渉の原則を貫くべきだと考える勢力と。アントーニョにも言ったことだが、大同小異の連立は、蟻の一穴で崩れてしまう。
「うん。揉めちゃっててね。お兄さん頭いたくて」
で、気分転換に来た。そう言って、煙草に火をつける。うんざりするほどこういう仕草が絵になる人だ。
そんなことをやっている場合じゃないだろう。少なくとも、うちで気分転換を図るという法はない。
ふう、と煙を吐き出して、フランシスは目線を店の奥に向けた。
「菊ちゃん本人に会うつもりはなかったんだ。――そこまでの勇気はなかった」
「……勇気?」
「だって、菊ちゃんに言ったら、絶対否定されると思ったからさ」
こんな会話の持って行き方をされたら、用心せざるを得ない。それはたぶん、「否定すべきこと」なのだ。
「…どんなことでしょう?」
ふわりと手を動かして、フランシスは引用符の形を指で示した。
「『菊ちゃんは、俺のこと好きだよね?』」
鼻で笑ってやった。なかなか上手くやれたと思う。まるで本当に馬鹿にしたように、あり得ないかのように。フランシスは苦笑する。
「だーっから、勇気ないって言ったのに。…俺だって傷つかない訳じゃないんだよ?」
「傷つくとか…」
そういう、勘違いさせるようなことを言わないでください。まるで、私が貴方を愛さないことが貴方の痛みであるような――私が貴方を愛することが貴方の喜びであるような、そんな発言は、大人の冗談が通じるヨーロッパの中でだけにしてほしい。
「そんなことが、ある、わけがないと思いませんでしたか」
「あー」
かく、と指に挟んだ煙草で菊を指して。
「アントーニョにもそれ言ったでしょ。行く、わけがない、って」
筒抜けなのか。それはそうか、と無言を返してコーヒーを啜る。古くからの馴染みであるだけではない、彼らは同じ人民戦線政府を持った仲――私が属しようという陣営に明確に反対した、仲間だ。世界を二分するなら、敵、なのだ。
「『フランシスさんが、私のことを好きな、わけもない』…とかも、思ってる?」
頷けば片思いを肯定する、否定すれば可能性を肯定してしまう。顔を作ることもできずに、菊は眉をしかめた。
「………首輪をつけないで隣に立つやり方を、俺は知らなかったんでね。欧州の奴らならたいてい誰とでも殴り合ったことがあって、それでも隣なんだから関係を再構築できた。菊ちゃんには、失敗できないと思ったから、怯んじゃった」
「……」
「失敗、したくなかったんだ。目を合わせないのが礼儀だとも聞いたし、だから、後ろから見つめるしかできなかった」
「そんなこと……」
「あるわけない、って、まだ言う?」
フランシスは苦笑した。
「私は……だって、こんな矮躯で、こんな色で」
西洋の国に好かれる筈がない。ユダヤ人のかぎ鼻と同様、この肌色はマークだ。それが嫌われる根因ではない、けれども、自分にはどうにも変えられないそれをシンボルに、私は名指しされる。
そんな風に言われるなら、言われ続け、抜け出せないなら、最後には私は裏返しをはかるだろう。国内の白人は白人であることをもって冷遇されるに違いない。
「…菊ちゃんの海軍にさ、『月月火水木金金』ってジャーゴンあるよね」
「よくご存じですね」
土日返上、という意味だ。
「一週間には一度休息日がある、そのように神がお決めになった…というのの全否定だね」
「生憎、それは私の神ではありませんので」
「うん、でしょ。金曜日の次に土曜日が来るのは、神の摂理なんじゃなくて、神の摂理だと人が決めただけだよ」
「…はい」
こちらの台詞だ。そう思うから、声が訝しげになる。
「西洋とは相容れない、というのも………今まで歩いてきた、その方向にしか道はないというのも、そう思ってるだけなんだよ、菊ちゃん」
「……」
「菊ちゃんも知ってる通り、俺の来し方は、破天荒にじぐざぐしている。革命、帝政、反動、また革命。たくさん死んだし、傷ついた。でもそれさえ込みで、俺は、選択肢を捨てない。何の可能性だってある。ファシズムは俺のセンスに合わない、だから、食い止める可能性があるならリスクだって飲む。でもこの前ので戦争はもっと趣味が悪いと思ったから、喧嘩しないで済む可能性があるならそっちの道も残す」
「…」
唇が乾いていた。「この前の」と呼ばれた欧州大戦、彼は主戦場となり、毒ガスをその胸に受け止め、百四十万人を見送った。海軍大佐、水野広徳は大戦後のフランス視察でその荒涼たる死体の原を見、考えを変えた。「我国は列国に率先して軍備の撤廃を世界に向かって提唱すべきである。これが日本の生きる最も安全策であると信ずる」。
近代以来何度も戦ってきた菊は、しかし、本土の上に敵兵を乗せたことがない。『趣味が悪い』戦争は、その火花は、「兄」たちの身を焼いた。
上唇とくっつく下唇の皮を引きはがすようにして、言った。
「…でも、バルセロナオリンピックは潰された」
共和、連帯。そんなものは、一時の夢だ。その言葉のように美しく、しかし、儚い。
「うん。でも、またいつかできるよ」
そんな風に、夢を見る強さを、私は持たない。内なる強さを持たないなら、外側の強さで進むしかない。
「………結束は、私のセンスには、反しません。挙国一致は既に国柄です。集団性を軸に据えて文化を創ってきましたから、政府の方針に反することを国民は好まない。治安維持法の疑いがかけられただけで世間から白い目で見られる、うちはそういう国です」
「そう思い込んでるだけだよ」
外人が何を言うか、と、菊は不快感に眉を寄せた。
この二月、青年将校たちが「昭和維新」を掲げてクーデターを行おうとした。彼らが暴力で排そうとした「君側の奸」は、実際不況をきっかけに肥大した財閥と結びついている。その反面寒村では女性が売られ、子供は大根をかじっている。ここまでの不況を招いた政府の金融政策は、しかし、日本資本主義の脆弱性を克服しようとしてのことだ。財閥系大企業でさえ、その動かせる資本は国際水準から見れば余りにも低い。日本の武器は低廉な人件費だけだ。しかしそれに頼った競争は黄禍として排撃される。
誰もが、今のままではいけないと思っている。登山者の深呼吸のように、安堵を吸いたいと思っている。しかし山頂に至る枝道は次々と封じられ、もはや目の前の鎖場を進むしかない。他国から批判されようと、他国の誰かを泣かせようと、どうせ世界からは疎外された……されていたのだ、このまま道なき道を歩む。
菊は首を振った。
「もう、遅いんです」
「遅くないよ」
「どうしようもないんです。何もかもかなぐり捨てて走るしかない」
しばらく菊を見つめていたフランシスだったが、やがて低い声で囁いた。
「『生きて今此処に居ることを手離すまい』」
菊はぴくりと肩をふるわせた。その様子をじっと見つめ、フランシスはやがて煙草を消した。
「どうせ、なんて、いわないで」
「……」
唇がわなないた。言わずにいられるならその方がいい、こんな心境にならずにいられるならそれがいいに決まっている。
「そうやって、世界を……『俺』を諦めないで」
煙草を捨てた手が、菊の手に重ねられる。
「………」
否定を、しなければ。既に国体明徴を宣言している。そこに言う「国体」においては、イヴァンの社会主義どころではない、フランシスの共和主義さえ過激思想なのだ。
しかし――
彼のように、軽やかに……重いものを背負いながら、何事もなかったようにウィンクをできるなら――。そのイメージは、暁に見る夢に似ている。
それでも菊は首を振った。一度とめて、また強く振った。
血で贖った土地を、その利権を、手放すことはできない。人を飢えさせる国など、国である資格はない。
フランシスは沈黙の末、「そっか」と呟いた。
………ああ、今、私が諦められたのだ、と菊は思った。
フランシスが先ほど口にしたのは、あるコラムの一節だ。京都大学の美学講師・中井正一が中心となってこの七月に発刊した雑誌『土曜日』は、フランスの人民戦線派の新聞『vendredi(金曜日)』をモデルにして、文芸批評を中心に庶民への呼びかけを続けている。
――まだ私たちは、違う道を取り得る。焦りに乗り込まれず、大義名分に引きずられず、手の中の日常を出発点に反戦・反ファシズムへ心を向けよう。
それまで中井たちが作っていた知識人向けの雑誌とは趣を変え、平易な言葉で綴られたこの雑誌は、より手にとりやすいようにと、喫茶店での委託販売というユニークな頒布形態をとった。それが、ここだ。
もちろん知って、ここに来た。編集会議をやっているメンバーを見、雑誌を手に取り、そのいかにも美学者らしい鉱石のような言葉に引かれもした。当然、フランシスもそれと知ってこの店に来たのだろう。
逢いたくなかった。自分の中に、一色に塗りつぶされない思いがあることを、――夢に引かれる心もあることを、知られたくなかった。
菊はまた首を振った。もう機関車は動き出している。その上に横たわる異物は鉄の車輪にはね飛ばされ、踏みにじられる。
その菊をじっと見つめていたフランシスは、やがて、ぽんとその手を叩いた。
「分かった」
思わず顔を上げてしまい、フランシスの苦笑を誘う。
「そんな顔して…人をフるんだからねえ、この子は」
慌てて表情を取り繕う。だけど見捨てられたくない、そんな心を、見せてはいけない、勿論。
「違うよ、諦めたわけじゃない。でも、今ここで強く出るのは、菊ちゃんを困らせるだけなんでしょ」
「……」
今。今以外のいつがこの二人の間にあるだろう。表情を読んだかのようにフランシスは小さくかぶりを振った。
「未来はある。人が死んでも国は続くし、国が滅んでも人は生きる。どんな未来だってありうる。いつか、今なら言葉を受け取ってもらえそうだという時に、また言うよ。いつか……そうだな」
なんと続けようか少し迷った様子で言葉を探し、それから微笑んだ。
「バルセロナでオリンピックが開かれた時にでも」
*
「遅い!」
プラシド・ドミンゴらが開会を寿ぐアリアを歌い継ぐ中、フランシスはアントーニョを殴りつけた。昔から思うことだが、この人たちのこういう力加減は絶妙だ。
「なんやの、いきなり!」
「どんだけ待たせんだよ!」
「知るか!」
「お前…」
ギルベルトが呆れたように言う。
「それは、客観的に言って、言いがかりだろ」
「主観で言ってんだよ!」
困ったなあ、と菊はうつむく。アントーニョに文句をつけるつもりは毛頭ないが、確かに、長すぎた。一九九二年。戦後だけでも五十年近く。彼我の間に政治思想的懸隔は無くなった。フランシスは遠慮無く菊にかまい、だけど、最後の台詞だけを言わない、だから返事もできない。そんな時間が長く続いた。言葉にしなくても伝わっている互いの思いは、観客席の下、こっそりとつながれた手にも明らかだ。
まあ、な。逆隣のギルベルトの呟きに振り返ると、彼は肩をすくめた。
「俺の主観的には、よくやったって感じだな」
「オリンピック開催がですか?」
「いや、ここまで引き延ばしたことが」
引き延ばした?はて、とフランシスの向こうにいるアントーニョを見ると、フランシスの白目にホールドアップ、ふるふると首を振った。
「ちゃうでえ、わざとやないで」
確かに、わざとではないだろう。一九三九年に終結した内乱は国土を荒廃させたし、その後長く続いたフランコ独裁政権を巡って国際的な立場は揺れた。七〇年代の立憲君主制への移行を経て、やっと今年、平和の祭典が彼の元へ招致された。
「…うん、まあ、そうだろうけど」
そう答えてフランシスがこちらを向いた、その瞬間、アントーニョは、菊に向けて片目をつぶり舌を出した。意味が分からない。
首を傾げていると、後ろから「お前知ってるか」との声がかかった。
「なんでしょう」
「お前のところのオリンピックは、何年だった?」
「一九六四年です」
「ベルリンは?」
「一九三六年でしたね」
ほら、当ててみろ。師匠にそんな顔をされたので、しばし首を捻る。このタイミングで言うということは、このオリンピックも係わっているに違いない。
一九一六年に開催するはずだったベルリンオリンピック。一九四〇年に開催するはずだった東京オリンピック。そして、一九三六年に開催するはずだったバルセロナオリンピック。一九三六年……一九六四年……一九九二年……
「あ、ちょうど二十八年ごとですね」
「二十八の公約数を考えてみろ」
「え…。一と二八、二と一四、四と七、ですか」
「で?」
ああもう、こういうスパルタっぷりは相変わらずだ。七曜制の七、閏年がくる単位の四……。それの公倍数ということは。
「気づいたか?どの年でも、今日、七月二十五日は土曜日なんだぜ」
フランシスの、戦後最初のコンタクトは一通の封書だった。中に入っていたのは小さな春をうつしとった写真。その上にマジックで書かれた言葉は―――
花は鉄路の盛り土の上にも咲く
『土曜日』創刊号のコラムタイトルだった。
―――美しいせヽらぎ、可愛いヽ花、小さなめだかが走つてゐる小川の上を覆ふて、灰色の鉄道の線路が一直線に横切つたとき、ラスキンは凡ての人間の過去の親しいものが斜めに断切られてしまつたかの様に戦慄したのである。しかし、テニソンはそのとき、芸術は自然の如く、その花をもつて、鉄道の盛土を覆ひ得ると答へたのである。
消印は広島だった。今後五十年、生命は生まれまいと言われた街―――
しかしここに、命はある。小さな花が、その儚さをものともせず咲いている。この花にも残留放射能は及ぶだろう。ここで生まれる子供たちにも。それでも、それでも―――生きている。
人を飢えさせるなら国としての資格はないと思った。だから、手に血がにじんでも、足をもがれても、ひたすらによじ登った。その歩みの中で、たくさんの人が撃たれて死に、焼けて死に、飢えて死んだ。―――それでも、今、小さな花が咲いている。
まだ病床にあった菊はその手の中に命を抱きしめて、泣いた。
中井はこう記した。
――「土曜日」は人々が自分達の中に何が失はれてゐるのかを想出す午後であり、まじめな夢が瞼に描かれ、本当の智慧がお互に語合はれ、明日のスケジュールが計画される夕である。はヾかるところなき涙が涙ぐまれ、隔てなき微笑みが微笑まるヽ夜である。
アリアが終わり、ステージの少年にスポットライトが当たった。ソプラノの「歓喜の歌」。やがて独唱は合唱に変わり、感動は会場を包む。
「なんだか……運命を感じますね……!」
「だろ?」
と、後ろから強く手が引かれた。
「ちょっと!お兄さんを仲間はずれにしないでよ!」
慌てて、菊は振り返る。
「そんなつもりは…!」
両端の二人は「ある」と声を揃えて、同時に舌を出した。