フランシス(・ギルベルト・アントーニョ)×本田菊(近未来パラレル)
何とか付属何とかと言う長ったらしい名前があったのだが、誰もそんな名前で呼ばない。眼下一面に海が広がるその施設には、俺たちと、菊がいた。
「今日朝メシ何だろ?」
廊下の突き当たりにある洗面台は二人並ぶのが限界、顔を洗うのに一歩出遅れた俺は聞くでもなく呟いた。
「あ?いつも通りサカナやないの?」
ざっと顔を上げ首にかけていたタオルでぬぐってからアントーニョは答えた。うん、それは分かってる。サカナの種類を考えてたのね、俺は。アントーニョと同じくタイとヒラメの味の違いさえ分からないギルベルトはぺっと口中の泡をはき出して唸った。
「…ほんっと枯れてんなー、あいつ」
いつの時代だって十代後半の男ってものは意識の大半が食に向けられている。うまい飯、適度な汁気に、肉肉肉。ハムでもベーコンでもいい、譲歩して缶詰ランチョンミートでもいい(…とのギルベルトの意見には俺は与しない)、とにかく歯ごたえと脂っ気を感じたい。それなのに、「私は栄養士の資格も持っていますから」と献立表を牛耳る菊は、明らかにお前の好みだろうと突っ込まれながら毎朝焼き魚と一夜漬けを供する。箸の先でほろほろと崩れる銀鱈味醂漬けやしっとりと脂を蓄えた塩鮭などは確かに数十人を相手にした給食としては上等の部類だったが、それよりも肉だろう常考、とゲルマン人は唸る。
「だいたいあいつだってまだ三十代だろ?なんであんなじいさんみたいな趣味してんだよ」
食堂へ向かいながらぶつぶつ言っていたギルベルトの後頭部が突然かぽんと鳴った。
「二十九です、まだ」
かぽんの正体、空いた盆を抱えて、配膳室から現れた菊は低い声を出した。
「おー、菊ちゃんおはよー」
「おはようさん」
「おはようございます」
俺たちにはにこやかに挨拶を返して、割烹着に三角巾姿の菊は腰に手を当てる。軽くにらまれているギルベルトは、痛くもなかったくせに後頭部をさすっている。
「てめ…そんだけ生きてりゃ一歳の違いなんかたいしたことねえだろうが」
その台詞に思わず菊の顔を見たが、菊は気にも止めない様子でふんと鼻を鳴らした。
「私の年くらい知ってるでしょうが、貴方。それとも記憶力が退化しましたか。ドコサヘキサエン酸不足ですよ、煮魚の目玉を食べなさい」
「俺、覚えとるよー」
「ですよねー?」
くるりと振り返りほやんと笑顔を見せた菊だったが、その笑みは裏切られることになる。
「もうすぐ誕生日で、三十になるんやもんな?」
邪気のない…またはなさそうなその言葉に菊はぐっとつまり、ギルベルトは吹き出した。当のアントーニョは菊の屈託など知らぬ気に、「今年も盛大に祝ってやるさかいなー」と笑った。
「え、ここの恒例行事なの?」
昔の言葉で言えば影の番長とも言うべき支配力を持つ菊だが、身分としては一看護師に過ぎない。
「俺とギルちゃんの間でな」
そうだろうと思った。菊は苦笑を俺に向ける。
「本当に、毎年ご辞退申し上げているんですけど」
「こいつがぺーぺーの看護師だった頃から、俺がお世話してやったんだぜ!」
「いや、お前だけとちゃうし」
「いや、お前らが世話したのでもないし。むしろされたんだし」
突っ込み連鎖に、菊は吹き出した。
「さて、オニイサンがた、早く食堂行ってください。折角のサワラですよ、カンザワラ」
いや、この獣たちに『折角のサワラ』が味わえるとは思わないんだけど。その言葉を飲み込んで黙っていると、菊は俺の方を見て目をつむった。
「もうすぐ春ですね」
思わず口笛を吹きたくなる。サワラは魚に春と書く。回遊魚なので日本各地で一年中とれるけれども、瀬戸内で春にあがるそれは淡泊にして上品な味わい、まさに春の魚を代表する。そしてサワラが属する科であるサバを由来に、四月一日をフランス語ではPoisson d’ avrilと呼ぶ。風物詩なのだ。こういうちょっとした感覚の日仏シンクロはわけもなく嬉しい。しかし……やはりここは別のところに突っ込まなければなるまい。
「菊ちゃん、もしかしてさっきの……ウィンクだったの?」
*
俺やギルベルト、そしてアントーニョは、菊が言ったように「おにいさん」組だ。俺たちは世間で言う高二、俺が入って以来それより年上はいない。あとは、ちび組やこども組、そちらの方が数が多い。入所前にもっと正確に説明を受けた筈だが、さすがに気が動転していたのかあまり覚えていない。入ってからしばらくして、ところでこの施設の名前は何だったかと隣室のギルベルトに尋ねたところ、「ああん?」と顔をしかめた。覚えてないのだ。「何とか付属何とか」と言った後、「いいじゃねーか、家だ家」と言ってのけた。
そうか、家なのか。…それでいいか。と思う程度には、もう落ち着いていた頃だった。
ここに来る前は、調理師の資格を取れる高校に行っていた。実習ではいつもA評定、料理コンテストに出たりもした。流石に若輩、力及ばずだったが、「その瑞々しい感性に」と努力賞をもらった。卒業後は親戚のいるフランスに帰って、三つ星レストランで修行を積んで……そんなことを考えていた。もちろん、日本におけるサバとサワラの違いだって舌で分かる。だから、俺は分かっている。菊は、旬を、季節を食卓に呼び込もうとしている。
ご親切なことに、普通教育年齢であるちび組・こども組のやつらだけではなく、俺たちに向けても学課の時間が設けられている。流石に、じゃあ調理実習をというわけにはいかず、国英数社理ってやつだ。施設に一人きりの講師がやっているのだが、時々は菊が代理講師を務める。俺たち付きの看護師なのだから、お前やりゃいいじゃんとギルベルトが無茶ぶりをし、その言葉に首を絞められるようになったのだとアントーニョは笑う。
厳しいセンセイなのだ。
小テストもするし俳句も作らせる。集中力が足りない!と百ます計算をさせられたこともある。作文なんて一年間で何回書いたか。運動会も合唱コンクールも修学旅行もないというのに……日本の小中学校は本当にこういう集団的行事が多かった……、日常茶飯事でいいから書けという。基本的に単調な毎日を送る俺たちは、それでも十七歳という年齢をもてあましてかわいらしい悪さをやってもいたから――女性職員の品定めとか、あだ名つけとか、教室の人体解剖模型の内蔵を蛍光ピンクで塗っておくとか、世界掛図に各国語でのお下品な言葉を書いておくとか――そんなことを三人とも書いた。菊は作文を受け取る度に「あああ、また他の方には見せられないものを…」と嘆く。その顔が見たくて書いているようなものだった。
一度、示し合わせて菊宛の熱烈ラブレターを三者三様に書いたこともある。「さっさと落ちろ、菊」が口癖のギルベルトは何言っても今更だなあ…とぶつぶつ言いながら、それでもゲーテだのショーペンハウアーだのを引用して高尚な(俺たちには爆笑ものの)恋文を書き上げた。睦言の類は息をするように紡げるラテン人二人のものもなかなかに熱烈で、流石に回線がショートしたらしい菊は、完全な無表情で作文用紙を回収して行った。
ギルベルトは、菊の困り顔を見るのが大層好きらしく、「なー、保健体育やれよ」などとからかうこともしばしばだった。腹に据えかねたのだろう、菊はある日、どこから入手したのか、イギリスの性教育ビデオを流してみせた。そのどう見てもAVというビデオを俺は笑って見たが、アントーニョは困ったようなへらっと笑いでごまかし、ギルベルトは耳まで赤くして机に突っ伏した。背後からその様子を見ていたはずの――振り返る勇気はなかった――菊はいったいあれをどんな顔で見ていたのか、ビデオが終わると淡々とした顔で解説プリントを配って説明し、「わ、か、り、ま、し、た、か!?」とドスをきかせた。それ以来、保健体育という教科は封印されている。
その日のことを言うわけではないが、十五歳以上には個室を与えるという施設の太っ腹には感謝することも多い。気の置けない奴らなので、三人、しじゅう誰かの部屋にたむろしているし、見回りの目を盗んで雑魚寝したりもする(ばれるとこっぴどく怒られる)。しかし、まあ端的に言って年齢も年齢なので、そう頻度は多くないとしても個室がありがたい夜もある。あいつらってこういう時オカズどうしてるんだろうなと思い、もしかして、とか、やっぱりそうかな、とか思う。
男女の性行為の意味を説いていた性教育ビデオは、そうして命を生み育む尊さを伝えようとしてなのか、やたらと愛を強調(する余り行為を派手に)していた。どうしても身体的にあてられてしまい、平然を装った俺でさえ腹の底に熱がこもったものだったが、同時に小さな痛みも宿った。ギルベルトは教室から引き上げる廊下でそれを口に出した。「カンケーなかったな」。
俺たちは、そのビデオが伝えたかった「意味」には届かない。関係ないのだ。そうであるなら、「意味」の「前提」だって、関係あるまい。…そんな愛が男女間にだけ成立するものだなんて前提は、くそっくらえだ。
俺の心にはずっと菊が住んでいる。艶っぽい顔など見せたことがない、見せるわけもない十以上年上の男を、頭の中でだけは剥いて、抱きしめて、抱きしめさせている。
最初感じた背徳感は、すぐに消し飛んだ。道徳なんかで人は生きられない。
*
恒例だという菊の誕生日に、俺は手製ケーキを振る舞うことにした。振る舞うと言っても材料一つ自分では揃えられないから、サプライズも何もない。そもそも腕がなまりきってるので材料は二倍用意して貰い、一週間前に予行練習をした。
「フランシスさんの指は、魔術師のようですねえ」
三角巾と割烹着をつけた菊が思わずといった調子でもらす。手伝いを申し出てくれたのだ。本末転倒ここにきわまれりといった感じだが、同じくやる気は見せてくれた友人どもはあてにならないので有り難く受けた。それにしても、俺でさえエプロンで髪を結んだだけなのに助手がそこまでの格好をしなくてもいいだろうと思うが、何となく見るだけで癒される姿なので言いはしない。
実のところ、そう難しいものは作っていない。スポンジ生地を焼いて生クリームといちごでデコレーションをした、いわゆるショートケーキというやつだ。菊も日本人の例に漏れずこれがいいと言うので、だったらせめてデコレーションは華麗な技を見せてやろうと絞り出しで菊の花を表現した。花弁の一つずつができていくごとに三人が歓声を上げる、それは昔の――たった一年しか前じゃないのにもう遙か昔のことのような気がする―――調理実習を思い出させた。
すごいね、フランシス君。さすがだね。お店開いたら教えてね!………
「…さ、どうぞ」
できあがったものを菊に差し出すと、もったいなくて包丁が入れられないと困り顔を見せる。んじゃあこのまま食っちまおうぜとギルベルトが実におおらかな発言をかまし、結局そのケーキは菊のデジカメに収められた後、男どものスプーンに四方から蹂躙されることになった。
「うまー」
アントーニョが幸せそうな顔をする。こいつが幸せ顔をすると周りに花が飛ぶような気がする。…いや、馬鹿だと言ってるんじゃない、決して。若干悔しいことだが、学課の成績はこの二人に追いついていないのだ。ちなみに理系では意外なほど(失礼)切れのあるギルベルトも今は惚け顔だ。
「すげー。人間、一つは特技があるもんだな」
「お前ね。失礼でしょうよ。じゃーギルは何が得意なんだよ」
「俺様か?」
ギルベルトは一瞬考え、すぐに胸を張った。
「新人教育」
菊はかけてもいない眼鏡のふちを押し上げるような仕草をした。
「なんですかそれは。私のことですか」
「心当たりがあるんならそうだろ。最初はぴゃーぴゃー泣いて、使えなかっただろうが」
菊の新人時代というのは今から七年ほど前になるのだろうか、その頃ギルベルトははな垂れガキだった筈だ。それなのに、いっぱしのようなことを言う。
「ことりのように泣くお前に、俺様が胸を貸してやったもんだぜ…」
決めようとしているのか笑わそうとしているのか分からないその台詞に、アントーニョは遠慮無く吹き出した。
「ぷーちゃんがよう言うわ!」
「てめ!それを言うな!」
腹を抱えて笑い出したアントーニョにギルベルトが掴みかかるのをよそに、俺はこっそり隣に聞いた。
「ぷーちゃん、って、何?」
「い、いえ、私の口からは」
笑っていいのかどうかという顔で向こうを向いた菊の代わりに、アントーニョが肩を揺さぶられながら言う。
「菊が来るまで、ギルちゃんは泣き虫でなー、でも負けず嫌いやからその顔を見られとうなかったんやろな、悔しいことがあるとでっかいぬいぐるみに抱きついて顔見せんかったんや。その辺知らんかった看護師のお姉さんが、あらまあ、ギルベルト君はとってもぷーさんが好きなのねってぷーちゃんって呼び始めてなー」
「だから言うなっつってんだろ!」
そのぬいぐるみなら、ちび組の部屋で見たことがある。篤志からの寄付だというそれは、確かに大きかった。しかし、それに顔が隠れるほどの背丈だった頃のギルベルトを想像して、ふっと曰く言い難い思いにおそわれる。そんなにも小さな頃から、彼らはここにいたのだ。
「菊ちゃん、俺こそいつでも胸貸してやるけぇね。泣きたい夜はいつでも来ぃや。情熱の一夜で全部忘れさせたるで」
あらまあ、とおばさんのような苦笑を菊は返した。
「またそんな冗談ばっかり」
と、アントーニョは、くっと身を屈め、菊に体を寄せた。
「またそんな、はぐらかしてばっかり。―――ラテンの男の本気を甘ぅ見たらあかんで?」
そして、すっと手を取り、目をそらさず、そらさせず、低くささやく。
「Mi amor」
「………」
手を取られたまま真っ赤になった菊に、対面のギルベルトから紙コップが飛んだ。かぽんと軽い音がしてそれはテーブルに転がる。
「照れてんじゃねえ、菊!」
「うっさいなーぷーちゃん、邪魔せんといてー」
ぶーと口を尖らしたアントーニョにも戻ってきた紙コップがぶつけられる。
「毎度毎度、俺様の目の前でいい度胸じゃねえかてめぇ!」
そして、確実に部外者である筈の俺にも紙コップ攻撃は来た。
「そっちのラテン人もぼーっと見てんじゃねー!」
ちび組の子分の面倒を見てやるという二人を見送って、片付けや皿洗いをしていたら菊がぽつりと言い出した。―――あれは、本当なんです。
ギルベルトさんの発作、あるでしょう。周期的に内蔵の周りの筋肉が緊張し、中を締め付けるという。はじめてその発作に遭遇した時、私はまだ新人で、どんな風に対処していいかも分からなかった。暴れないよう手足を押さえているよう医師に命じられて、必死で手足を押さえたんですが、それはもう、ものすごい力で、私は何度も振り飛ばされ、顔も体も打たれました。一定の間隔で呻きながら体を硬直させるギルベルトさんの体から、めき、めきという音が聞こえる気がして、貧弱な私にも及ばないほど小さく薄い体の中にどれだけの圧が満ちているのだろうかと思い、気がつくと私は彼を押さえつけたまま号泣していました。何とか発作が鎮まった後、私はお医者さんにも先輩の看護師さんにも怒られたんですが、だからということではなく落ち込んで、海を見下ろすベンチに長いこと腰掛けていました。そこに、まだちょっと青い顔をしたギルベルトさんがやってきて、私の頭を、すっと抱いて、…
菊は一瞬詰まった。
―――泣くのは、今だけ、ここだけにしろと。
菊の目線は手に持った白い皿に固定されたままだった。
―――私は、どんな意味でも泣いていい立場じゃない。ギルベルトさんこそ、痛いと泣き叫んでよかったんです。彼はまだ子供で、座った私の頭が胸に届くくらいの身長でした。それなのに、私を許してくれた。
…はー。菊は長い息をついた。
―――こんなことを言っては何ですが、ここに勤めるのは、本当に辛い。労働がではなくて、自分が苦しくなるのです。だけど、あのとき私は未熟さを含めて許されたと感じました。許されたから、私はここにいます。
許されるも何もない。入所者にとって職員はいてもらわなければならないのであって、苦しく感じてもらう必要はない。苦しいからと辞められるより、同情も何も感じずに事務的に仕事をしてもらった方がいい。そうなのだけど、何をセンシティブに感じ取ってしまっているのかは分かる。何せ、ここの子供たちは、大人になることがほとんどない。基本的に十歳以下で罹患し、特殊な伝染力を持つため完全隔離が必要な上、発症後十年以上の生存例を持たない病気なのだ。なりたい職業、かなえたい夢、白いドレスの花嫁、どことなく自分に似た子供……三六〇度に広がっていた可能性の全てがぷつりと切断されて、せめてもの苦痛緩和のために(そしてもちろん伝染防止と研究のため)この施設に送られてくる。発症の遅かった俺は成人後も五年ほど命ながらえることになるんだろう。けれども、日本の風物詩とも言うべき「成人式の悪ふざけ」は三人ではできない。俺はもうすぐ二人に置いて行かれる。
割切ってしまえばいいのに、菊は、「それなのに」自分が長く生きていることが辛くなるのだ。自分の年に、俺たちが追いつかないことを知っている。だから誕生祝いなどされたくない。でも、ギルベルトはここで引いたら一事が万事だと知っているから、「今だけ、ここだけ」以外では割切れと言外に言ったのだ。お前は何でもない顔で生きていけばいい。
平凡であることが、不幸でないことが、苦しい。一方で、その感覚自体、傲慢だとも思う。そんな意識の堂々巡りの中で、菊は、必死で自分にできることを考えている。それの一つが、食卓の中の四季であり、無茶ぶりに応えての代理講師なのだろう。巡り来る季節も、蓄積される知識も、結局、数年で、無に帰る。だからといって今を諦めないこと、それが菊の選択なのだ。
ぽん、と頭に手を乗せると、真っ黒い瞳がこちらを見上げた。
「ありがとね、菊ちゃん」
「え」
三角巾を外しても変な癖のついたままだった一束をかき分けて、戻し、数度梳いてやる。
「みんなの手を握ってくれて、ありがとう」
固まったように動かなかった菊だが、その言葉に、そっと真っ黒い睫を瞬かせた。
「俺が来たときにもここにいてくれて、ありがとう」
*
ちびたちの相手で疲れたという二人は夕食までの間をだらだら過ごすぞと俺の部屋にやってきた。ベッドにアントーニョを寝かし、俺とギルは床の上のラグに転がった。
アントーニョの症状は、少しずつ筋力が低下していくというものだ。昔は子分を肩車してやるくらい余裕やったのになあ。そう言ってしみじみと腕の筋肉を見る。指先の細かな制御も失われていくという。まだ字を書くには不都合がないが、それでも昔の方が達筆やったと作文を書くとつまらなそうな顔をする。潮混じりの土やからいまいちやなあと言いながら、アントーニョは庭の一隅でロヴィーノ(子分の名前だ)とトマトを育ててもいる。肥料を運ぶ役は、ここ半年俺に任されっぱなしだ。
「なあ、フランシス…」
寝ていたかと思ったギルベルトが小さな声をあげる。
「あん?」
「俺たちに遠慮とかすんなよ」
どきりとした。さっき、「ぼーっと見てるな」と言われ、その意味を考えた。見ているのではなく、何か。アントーニョを止めろと言うのか、それとも。それとも……お前もラテン人の本気を見せろ、と言われているのか。
「……してないよ?」
俺が言うと、ギルベルトは「ふうん」と言って、黙った。
煙草が吸えるなら吸いたいところだ。未成年の俺たちがそんなものを手に入れられる筈もなく、代わりに部屋の隅の小型冷蔵庫から炭酸水を取り出して飲む。にゅっと手が上がって、俺にも、と要求されたから、そのまま瓶を渡してやると腹筋だけで頭を起こして、何口かを嚥下した。
「俺は、しねえぞ」
「してんじゃん」
「どこが」
「菊ちゃんにさ。逃げ道あげてるでしょ」
あらまあ、と笑う余地を与えている。アントーニョもだ。
菊に聞いたら、あれはインプリンティングですよと、もしかしたら本気で言うかもしれない。はじめて動く者を見たひな鳥の刷り込み現象、それにも似た、勘違い。もしかしたら、そうなのかもしれない。憧れや思慕が恋情に錯視されているのかもしれない。しかし、本当に勘違いだったとして、それが何だ。最後まで勘違いしたままならそれは真実ではないか。そして、その最後までという期間は、手の上に載せられるほどほんのわずかなのだ。
だから、二人は本気だ。本気だけれども、二人の愛の言葉は、菊を追い込むことはしない。
「ちげーよ」
炭酸が戻ったのか少し眉をしかめてかふっと息を吐き、ギルベルトはもう一度炭酸水を含んだ。
「……ま、好きにすりゃいいんだけどよ」
*
昔、昔の話だ。俺の父親が子供の頃。
世界は第三次大戦の危機に見舞われた。捕鯨問題に端を発したジャパンバッシングに経済的なやっかみが重なり、ちょっとした失策をきっかけに亡霊のような人種差別さえよみがえって、日本は孤立しそうになった。当の白人とはいえ、日本にいる以上情報は入るし、見方もそれ寄りになる。父の目から見てさえも、この国への欧米諸外国の敵視は偏見に満ちた、酷いものだったという。ヒステリックに盛り上がったそれは数か国による経済封鎖まで至った。けれども、追い詰められたからといって武力に訴えるのは下策であると経験的に知るこの国は、国際協調主義を捨てず必死に対話の可能性を探り、やがて周りにもその姿勢は理解され、世界は無事平和な今を迎えました。めでたしめでたし――と教科書の歴史は終わっている。誇るに値する歴史だと思う。けれども、悲憤慷慨の渦中にあっては、誰もが教科書の中のようなご立派な姿勢でいられたわけではない。父親も一人では外を歩けない時期があったと言うし、一家ではフランス引き上げを巡って激論が交わされたという。
その父も、今は円満に商売をできている。貿易も均衡を取り戻した。世界は、一つ大人になったのだ。なった筈だ。だから、それは、都市伝説にすぎない。
曰く、日本政府は密かに生物兵器を開発していた。非モンゴロイド男性にやたら感染率の高い、しかも若年層に激烈に作用し、(生真面目な日本人の作に相応しく)タイマーのようにぴったり十年で仕事を完了する病原菌。その菌は封印された筈だったのに、とある憂国の研究者により持ち出され街に撒かれ…今でも小動物を媒介にして東京で毒を発している。
えー、そういえば、小学校の頃にイタリア人の子がいきなり病気療養とか言っていなくなっちゃったことがあったわ。え、うそ、あたしも。えー、フランシス君、気をつけてね!
笑いながらクラスメートがそんなことを言って肩を叩いた、それくらい信憑性のないことの筈なのに。風邪薬でも貰おうと行った病院で、やたら長くかかった検査の後いきなり隔離され、家族にも会えないままこの施設に送られた。橋もない、どころかあたりに島影さえ見えないこの島にはこの施設しかない。
本当に罹患者がいないのか、それとも別施設に送っているのか、この施設に女性患者はいない。いるのは日本人の、それも年齢層の高い医師職員、そして俺たち。だから、物理的に、俺たちは「次世代の命」には関係がない。ここでは何も生まれはしない。
ここは、死を待つ家だ。俺たちの死が、待たれている。どれだけ金をつぎ込んだのかという好待遇・高度医療と引き替えに、対話と協調の美しい歴史に影を指さずに消えていくことが求められている。
突然の隔離処置にただ呆然としていた時期が過ぎ、ようやく事態が飲み込めた俺は、荒れた。俺の攻撃性は、目の前に現れた日本人に、すなわち菊に向かった。菊が悪いわけじゃない。そんなのは猿でも分かる。しかし、だったら毒を撒いた研究者にだって分かった筈だ。悪いのは「俺」じゃない。それでも恨みの結果は具体的な個人に現れる。
触るな、ほっとけ、近づくな、…ジャップ。歴史上の知識でしか無かった罵倒語が自然に口をついた。偉そうな顔をして、結局この国は、よそ者は死んじまえって思ってるんだろう。
当然のことだが、菊は伝説を認めはしなかった。違います、突然変異的な伝染病で、パニックになるのを防ぐために公表を控えているんです、でも研究所で必死に治療方法を調べています。しかし、荒れ狂う俺を前にポーカーフェイスを貫けなかった菊の表情は言葉を裏切っていた。ともすれば謝りそうになり、菊は唇を噛んでそれを押しとどめた。菊は、どのような意味でも、謝るわけにはいかないのだ。国家としてその行為を認めていないから。そして逆に、個人として国家の行為を背負うことはできないから。
何を言われても黙って受け止めていた菊だったが、反抗するのにも疲れて、どうせ、と言った時、顔色を変えた。どうせ、今死んでも十年先に死んでも変わんねぇじゃん。
平手でぶたれた。瞬発的に叩き返した。手が痛むほどの平手は菊を吹き飛ばした。しかし数歩下がって踏みとどまった菊は、体全体を使ってもう一度俺の頬を張った。
それだけは認めません!と菊は叫んだ。貴方の苦しさには応えようがない、だから受け止められる痛みなら甘受します、でも、医療に携わる者として、生きる一瞬に意味がないという発言だけは認めません!
他を見ろとは、言われなかった。もっと小さな頃からその病を背負ってきたやつらがいる。俺よりも短い命を終える筈のやつらだ。彼らに比べて恵まれていると、もしそう言われたなら爆発していただろう。不幸の大小を比べてどうなる。他がどうかなのじゃない、今、俺が、ここに、抱えている痛みの問題なんだ。
命の長さだけが幸福のゲージじゃない。なまじっか夢を見た分、俺の方が折られた翼の痛みは大きいとも言える(夢を見ることさえできなかったギルベルトたちの方が心的ストレスは高かったとも、勿論言える)。女の子の柔らかさや恋愛の甘美さを知ってしまった俺の方が、俗世から引きはがされた痛みが大きいとも言える(これも同様)。
手と頬の痛みに呆然としているうちに、当初の戸惑いや怒りに紛れていた喪失感がどっと襲ってきた。あ、と思う間もなく頬を冷たいものがこぼれおちていった。それを拭おうとそっと指を伸ばしてきた、その菊の手首を掴んだ。菊の手は震えていた。
仕事なのに。菊の潤んだ瞳を見ながらそう思った。死にゆく者に向き合うのは、この人の仕事にすぎないのに。それなのに、菊は、俺の痛みを受け止めようとしてくれている。
そのまま手を引くと、菊は逆らわずに体を寄せ、ふわりと俺の肩を抱いた。俺は、菊の胸にすがりついて泣いた。泣きながら俺を抱きしめ返した。
明らかに俺は、十歳のギルベルトよりも、子供だった。しかし、謝罪という行為が軽すぎて意味をなさないその場で、俺と菊にできるのはただ感情を生身でぶつけることだった。
*
遠慮など、しない。二人より少しだけ長く生きられることが、イコール幸せだとはと思わない。だから、それを負債のようにも思わない。思わないようにしている。
でも。
「俺さ…」
「あん?」
最後の一滴まで飲み干して、ギルベルトは瓶をローテーブルに置いた。
「お前らが、好きだよ」
「あー?」
胡乱げな声を出して、ギルベルトはラグに倒れ込んだ。
「ダチに何言ってんだ、今際の際じゃあるめーしよ」
洒落にならない。
「ほんとだって」
ふん、と鼻を鳴らす音が聞こえた。ややあって、ギルベルトは言った。
「あの、さ。本当に、好きにすりゃいいんだ。今だろうが……五年後だろうが。俺らがいなくなってから、その、そういうことになったら、………お前が変に気に病むんじゃねーかと思っただけ」
こんな施設、来たくなかった。都市伝説なんて、笑って済ませたかった。でも、ここで、二人に会えた。ここでしか会えなかった。
事態の急変の後はじめて泣いた、その次の日。二人に会った。彼らも不幸の多寡を比べることをしなかった。ただ彼らのやり方を教えてくれた。それは結局、菊のやり方と同じだった。「どうせ」と言わないこと。今の一瞬を楽しむこと。巫山戯ても、だらけても。
ギルベルトの脂汗をぬぐい、アントーニョに肩を貸し、俺たちは四季を過ごしてきた。
そして俺は置いて行かれる。
―――ずっと、菊を挟んで三人でいたいよ。
「お前らが、好きなんだよ」
これは遠慮なんかじゃない。
*
菊の誕生日会は、俺のケーキと、サバと、ピザ・マルゲリータという実に頓珍漢な組み合わせとなった。次の日に誕生日を迎えるアントーニョのためにロヴィーノがドゥを作ってくれたのだ。育てていたトマトを使いたかったとアントーニョは言ったが、ハウス栽培でもないのにそれは無理だ。五月に盛大にトマト祭りをやろうと約束して、調達してもらったソースを使う。週に二度ほどヘリで輸送されてくる食品は質のよい業者を介しているようで侮れない鮮度だ。
サバは菊の好物なので仕方がない。それは呑むが代わりに肉!とギルベルトは叫び、とうとう自力でアイスバインを作った。塩水につけておいて煮るだけ、料理というほどの料理でもないそれは、しかしパーティには見栄えがする。ちょっとオサカナさんがかわいそうになったので、シンプルに塩で焼いたものの他に、レモンを挟んでのオーブン焼き、マヨネーズやパン粉を振ってのホイル蒸しといくつかバリエーションを披露し、ついでに庭に落ちていた花を拾いテーブルに散らした。菊はまたばしゃばしゃとデジカメを光らせ、ようやく会食が始まった。
「三十までには落とすって決めてたのによー」
ギルベルトはストローの袋を丸めて菊に投げつける。お子様か。
「人を獲物みたいに言わないでください」
「俺はそんなん思うてへんでー?」
「ですよねー?」
「菊ちゃんは俺の宝石やもん」
「……っ」
「だーっ、いちいち照れんなっつうに!そこのラテン人も変な目力出してんじゃねー!!」
「…あ、あれ?あのドアの向こうに見えるのは…ロヴィーノ君かな?」
変な誤魔化し方だなと思っていたら、本当に子分の姿が見えた。注目されて、もじもじとドアの後ろに隠れ、出てこない。なんだなんだと四人で見に行ったら、そこにはちび組のロヴィーノのほかにもフェリシアーノやルートヴィッヒがいた。ギルベルトに勝手に弟分認定されているルートヴィッヒが、持ち前の責任感を発揮して説明をはじめた。
「あの、俺たちも、菊にお祝い言いたくて」
「べ、べつに、アントーニョも祝ってやりたいとか思ってねーぞこのやろう」
そういえば、ピザはロヴィーノが作ってくれたようなものだ。このツンデレのものいいを素直に受け止めて四人だけで宴席を持ってしまった。いかんいかん、と慌てて三つ席を用意し、会食を再開した。若干大人向きのメニューなので悪いかなと思ったが、ケーキがあるならだいじょうぶーと間延びした答えが返ってきた。そこで食後に予定していたケーキを登場させた。前回と同じく菊を描いたそれに、ちびたちは一斉に拍手をしてくれた。すごーい、きれい!こんなの初めて見た!芸能人のように喝采に応えて、少しずつ切り分ける。
俺の症状はアントーニョと同じようなものになるだろうと診断されている。少しずつ麻痺が進行し、手先足先が動かなくなる。五年もしたらこんなケーキは作れなくなるだろう。たぶん菊もそれを分かってるから、デジカメでばしゃばしゃと撮る。
最初は荒れていた俺が、二人と同じように高二用のスケジュールをこなすようになったのは春だったろうか。ソメイヨシノではない、大島桜のような色鮮やかな桜が咲いていた。夏、日差しの照り返しが葉をきらきら光らせていた榎。秋、色づいてちびたちの画材になった楓。冬、冷たい風の中揺れていた寒牡丹。隣で薔薇や薄雪草の世話をする菊に教えられながら、ロヴィーノと雪囲いを作った。まだその囲いの中に入ってしまうほどの小ささなのに、アントーニョの体力低下のことを知っていて、気遣う優しさを持っている。トマトが採れる夏には、ロヴィーノはどれくらい背が伸びているだろう。
「そういえばさ…」
「はい?」
ちびたちの世話に手を取られる二人を横目に、俺はテーブルに散らした花をつまんで聞くともなく聞いた。
「きへんに春で、ツバキなんだな。割と寒い時に咲くイメージあんだけど」
「春の季語なんですけどね。きへんに冬のヒイラギはぴったりでしょう」
クリスマスには、ルートヴィッヒなら菊には追いつくかもしれない。命の上限に向かって、それでもみんな、育っていく。命を生まないこの施設に、それでも何かは受け継がれ、何かは育っていく。ここはやはり、家なのだ。
「魚に冬は、なんだっけ」
「コノシロですね」
「ああ、出汁をとるやつ」
「え、身も美味しいじゃないですか」
「小骨が多いからねえ。日本の板前さんはあれをうまくさばくよね」
「江戸前寿司と言えばコハダですからね」
コハダはコノシロの若魚を指す言葉だ。出世魚とは少し違う、たとえて言うならラムとマトンの関係。若いときの方が市場価値が高い。大人になるのも大変だねえ、途中をすっとばしてそこだけをぽつんと言葉にしたせいで、菊は瞬きした。しまった、別に他意はない。
「いや、ええと…三十路突入おめでとうございマス」
「はあ、どうも」
「嬉しくない?」
「んー」
少し目を中空に浮かせて、菊は言葉を探した。
「何であれ、それをネタに楽しい思い出ができるなら、それで十分です。もう…この日さえ貴重です」
ケーキを食べたあとはしゃぎ疲れたか、ちびたちの目がお昼寝モードになってきた。眠り込まれる前にと手を引いて二人はちびたちの居室に向かった。
そのちびたちの笑顔が収められたデジカメを次々とさかのぼって見ていくと、ケーキのアップにたどり着いた。今日のケーキ。そして先週のケーキ。もう何年か先には再現できない、ケーキ。
「……菊ちゃんは、あの作文、全部保存してるの?」
「してますよ、もちろん」
「全部読んでる?」
「もちろん」
あの熱烈ラブレター競作も、どんな顔をしてか読み、ファイリングしているのだろう。この日このとき、俺たちが生きていた証として。
二人のようにストレートに気持ちを表せないのは、遠慮をしているからではない。「これから」の短い彼らに哀れみなど、感じない。比較の問題に過ぎないのだ、俺の余命も、菊のそれも。今の一瞬のかけがえのなさは、本当は海の向こうの全ての人間の上にさえ平等なのだ。
単に、俺は二人のように逃げ道を用意してやる余裕がないのだ。俺は何歳になろうと二人より子供だ。結果がどうあれ、追いかけて追い詰めて困らせてしまうに違いない。感情の、一番生のところでぶつかり合った人。希望のない暗闇で、それでも春を教えてくれた人。
巷間にいた頃のようなスマートな恋愛ができる気がしない。二人のように、日だまりのように愛せる自信もない。それなら、三人平等に相手にされない「今」の方がいい。この「今」を、残り少ない「今」を、壊したくない。
伝えられないから思いは籠もる。笑いに紛らせた筈のラブレターは、文字から炎が立つほどの言葉で菊を求めていた。言葉に出しはしなかったのに、それを菊も思い出したのか、ぎゅっと顔をしかめた。
「あんまりじいさんをからかっちゃいけません」
「別にからかって楽しんでるわけじゃないよ」
そんな……軽いもんじゃない。菊も、菊のことを好きな二人も、その三人でいるこの日々も、かけがえのないもの。
やまいだれに冬と書けばうずきとなる。このやるせなさは、確かに疼痛に似ている。
「どうだか」
「ほんとほんと。俺たちみんな、すげえ菊ちゃんのこと、好きだし」
ふん、と少しだけ赤い顔で鼻を鳴らした菊に、俺は精一杯冗談に見えるように投げキッスを送った。