鷲よ、雲の彼方に羽搏け

ギル菊

大正九年・サハラ

 読み返しすぎて、既に紙の縁は切れ味を失っている。できるだけ丁寧に折り戻し、封筒に入れ、胸の上に乗せた。寝転んだ姿勢のまま、足下の毛布を引き上げ、ギルベルトは目を閉じた。
 フランスには一人で来た。二人用の家を用意してくれていたフランシスは、黙って来たギルベルトをやはり黙って迎え入れた。しばらくして、何気ない風で「絵を貰ったお礼とか書きたいんだけど」というので連絡先を教えたらいつの間にか幾度か手紙を交わしていた。
 つまり、それだけの時間が既に経っている。返事を書かなければならなかった。菊は自分の結論を既に出している。
 日本の文化なのか、それとも菊の性格なのか。直接的な言葉は全くないのに、持つ手にその熱がうつるほど、言葉は熱い。思いは自分にまっすぐ向けられている。それが嬉しくて、それなのに苦しい。
『お前の脚を失わせたのは、俺なのか』
 しらじらと明るみかけたホテルの部屋で、心蔵を引きちぎるようにして問いかけた。目と目を合わせたままの、既に答えでもある沈黙の中で、がんがんと鳴っていたギルベルトの脳は次にいえる言葉をようよう見つけ出した。一生かけて償わせてくれ――
『手紙を、書きます』
 しかし、そういってにこりと笑った菊は、その時も、そして手紙でも、謝罪も贖罪も断固拒否していた。
 ギルベルトは手紙の束を胸ポケットに戻し、肩まで毛布を引き上げた。
 もう寝なければ。分かっているけれども、心がぷつぷつと爆ぜて落ち着かない。悩みばかりではない、疼くような熱もあった。単純に、菊が欲しかった。抱きたかった。そんな即物的な情欲で考えが乱される自分が腹立たしく、ギルベルトは輾転反側した。
 人を殴ったことも傷つけたこともある。いや、空中戦で敵を撃墜したこともあるのだ――姑息な言い換えはやめよう、人を、その意志をもって殺したこともある。それぞれに理由はあったし、だから責任を負えといわれればいつでも受ける覚悟はある。非があるなら謝る、殴らせろと言うなら殴らせる、そういう責任のとり方なら今でもできる。
 けれども、貴方は加害者ではないと主張する相手に刻み込まれた「害」と、謝罪もないまま、どう向き合っていけばいいのか。
 またギルベルトは寝返りを打ち、仰向けになった。
 地球が背にあり、目の前には闇と星だけがある。

 地中海を越える前からエンジンの音に違和感があった。
 フランシスの会社は社主のいい加減さを反映してか、課せられるノルマで息ができないというほどではなかった。それでも会社が成り立つためには多少無茶と思えることもしなければならない。飛行機が速さをもって売り込もうとする郵送の世界で、船や汽車は兎と亀の逸話のように、夜、ひたひたと追いかけてくる。払い下げの飛行機の当てにならない計器類と、後はほんの僅かな照明灯を目印に、各社は夜間飛行に乗り出した。アルフレッドにはああ言ったが、逆に危険と挑戦が日常業務に入ってきた形だ。
 不安をできるだけとり除くため自分だけの点検マニュアルを作ってチェックしてはいたが、整備のやり直しを要求してもおざなりにされてしまう。かといって自分でやろうとすると職分を冒したとして反発を食う。仏独両国人間のわだかまりというフランシスの懸念を、ギルベルトは克服できていない。
 天気に不安もあったので、整備に不満を覚えたまま出発した。アフリカ大陸に至る頃には風は落ち着いていたが、雲を避けて低く飛んでいたせいで予定より遅れてしまった。夜、一切の光を失い全くの闇と化す砂漠は、日没前の金色の輝きを見せていて、美しさが逆に胸を騒がせた。リビアの空港に立ち寄り、燃料補給をしながら、エンジンを見た。外見におかしなところはないし、現地の整備員も問題無しと言いきった。
 いつまでも波立つ心を落ち着かせるために簡単に天測をした。東経二十・〇六度。大丈夫だ。少なくとも自分はいつも通り冷静、上手くやれる。
 薄暮の中、離陸し、その合図に上空で大きく環をかいてから機首を東南に向け、カイロへ向かった。照明灯が消え、人家の灯りが無くなると、周囲は文明以前の闇に包まれた。厚い雲に頭を押さえられるようにして行くしかなかった。風が押す力を考えて、速度計を信じ、今いるだろう経度を暗算する。そのための地域情報を得る通信の最中、連絡が途切れ途切れになり、やがて不通となった。信じられるものは何も無かった。上も下も、底なし沼のような闇で、何の道標も無い。しかも雲は少しずつ高度を下げ、飛べるはずのトンネルを押しつぶしていた。雲から逃げるように高度を下げていく。ちりちりと焦げるような不快感が脳を去らない。焦るなと心の中で呼びかけ、そうしようと思うほど苛々していたことに気づく。深呼吸だ。けれども人間で言えばもう腰を折って歩かなければならないほど天井が低い。計器はまだ問題の無い高度を示しているがこの地域の気圧に調整できてはいない。
「落ち着け」
 とうとう声に出して言ったところで、燈台が見えた。海岸まで出たのだ。一瞬で計器類を確認し、速度と経過時間から現在位置を概算する。大丈夫だ、もう海辺のはずだ、山は越え――
 突然全てがひっくり返された。地球がいきなり下から殴りかかったようだった。悪童が猫の手を掴んで無理矢理引き回すように、地球は鉄の翼を掴んで振り回し、座席に固定されたギルベルトをそれでもがくがくと揺さぶった。
 地面が高くなった筈は無かった。自分が計算以上に低く、遅く飛んでいたのだ。エンジンの不調でスピードが出ていないのを勘案すべきだった。
 竜巻の中に突っ込まれたような衝撃の後、不意に世界は無音になった。急いでベルトを外し、機体から離れた。しばらく見守ったが、引火・爆発には至らず、世界はまた沼のような闇に飲まれた。最悪の事態は免れたかもしれないが、せいぜいレベルが一つ二つさがっただけだった。大きく翼が破損した機体は、ギルベルトに直せるようなものではない。ここがどこなのかは雲が晴れるまで測定もできない。けれども、どんな場所なのかは分かる。草も木も無い枯れた大地。そのただ中に、使える機械一切を壊された上で放り出されたのだ。

 食糧全部を持てば後はもう大したものは持って行けなかった。砂漠の夜は一気に冷える。それを思えば毛布は捨てられない。不幸中の幸いで、機体を運んでいたようなものだったから貨物は無い。重いだけの工具も応答しない通信器具も捨てていくことにした。
 待ちに待った日光は、すぐに凶暴さを見せ始めた。渇く。液体は、わずかに残っていたポットのコーヒーを飲み干すともう、ワインの小瓶が一つあるだけだった。重く暑いけれども毛布をイスラム教徒のように頭から被り、体表を覆った。とにかく表皮からの水分蒸発を遅らせなければ。ただ荷をまとめているだけなのに体力が奪われる。じりじりしながら南中を待った。クロノグラフがまともに動いていると仮定して算出した現在位置は、やはり想像していたより西だった。誤差はプラスマイナス数百キロ……思わず砂の中に埋まりそうになる。ヨーロッパの街道数百キロとは訳が違う。三百六十度何の目印も無く、線さえ引かれていない中の数百キロだ。まして生命の息吹のまるでない、むしろそれを吸い取っていくかのような一面の砂の中。更に言えば、この地域には反帝運動の闘士や匪賊もいる。それでも行くしかなかった。
 もう一度深呼吸をする。
 飛行の最後に見た燈台を苦く思い返す。砂漠ではよくあることなのだ。空港を見失った飛行機が照明灯を探し、探し、探し続けて、偽りの青い光を見てしまう。それは低い空にのぼった星であったり、全くの幻影であったりする。あって欲しいと思う心が無いものを見せてしまうのだ。偽りの照明灯に引き寄せられ、貴重な燃料を無駄にしてしまったことのある飛行機乗りは少なくない。
 目をよく凝らし、考える。理性を信じる。それしか生き残る道は無い。
 半日、ひたすら歩いた。日が沈むぎりぎりまで歩いたが、光が無くなったならもう動かない方がいい。下手をすれば元の箇所へ戻ってしまう。窪地を見つけて、そこに寝転がった。
 温度は急速に下がっていった。息苦しさは去ったが、喉の渇きは去らない。ラムネの吹き出すような爽快さを思い出す。あの日、胸の空洞を一気に埋めた甘い飲み物。そこからどれだけ遠いところにいるのだろう。
 街まで、いや、せめて人のいるところまで、少なくとも数十キロ、もしかしたら数百キロ。本当に行き着けるのだろうか。それを考える意味はないのに考えるだけで不安になる。
 ギルベルトは首を振った。
 そんなことより、自分には考えなければならないことがある。胸ポケットから手紙を出した。星が出ているとはいえ、それで字が読めるほどではない。けれども、もう内容は覚えてしまっている。思いが筆の力をいれさせたのだろう、インク溜まりのついた文字がどれだったかさえ覚えている。
 行き着けるのか、帰れるのかじゃない。何としても帰り着く。そして菊に返事を出す。そうしなければ、菊は、「返事をしないという返事」と受け止めるだろう。それは、菊が血を吐くようにして出した結論を、そこに行き着くまでの思考過程を含めて打ち棄てる行為だ。そうじゃない。そういうことじゃないんだ。
 冷たく光る星と砂の間で、胸ポケットを上から押さえた。菊に返事をする。それが第一課題、そのために、生きる。
 その夜はオレンジを一つとチョコレートを二かけ口にした。水分とカロリーと考えれば足りるはずだ。喉は渇くが、最悪一週間歩き続けなければいけないと考えれば腐らないワインは残すべきだろう。折れていた鉄骨の一つを持ってきていた。歩いて来た道筋を跡として残し、彷徨を避けるためだ。足が重くなるにつれ杖として使いたくなったが、首を振ってその考えを振り払った。確実性を高める、それが疲労より優先される。
 次の日も、朝またチョコレートとオレンジを一つずつ食べて黙々と歩いた。歩幅と速度を落とさないよう気をつける。計算が狂うと信じられるものがなくなってしまう。方角と距離。地形地図までは覚えていないが、ここまでの演算が間違っていないなら――間違っていないなら! 歩き続けさえすれば海岸までいける筈だった。まっすぐ歩きさえすれば。
 後ろはふり向かなかった。菊が言った。貴方はまっすぐな人だと。正確に自分をコントロールできると。できる、だから、できている。振り返って迷うようなことはしない。
 三時過ぎ、左手に湖の影を見た。足を止める。輝く湖面が誘っている。思わず喉が鳴った。知っている、幻の青い火よりもっと前から人を惑わせてきた蜃気楼のことは。それでも足の向きを変えさえすればあと数時間で水に辿り着けるという想像は震えが来るほど魅力的だった。
「菊」
 心臓を掴む。胸ポケットの中で手紙がくしゃりと音を立てる。自分をつなぎとめるものがここにある。ここに菊がいる。これは幻じゃない。
 昼と夜の十二時には、ほとんど目眩を感じながら天測をした。数値は正しく海岸に近づいていることを示していた。
「……」
 思わず口が歪む。見たくないものを見ないという日本人。見たいものを見てしまう飛行機乗り。自分の測定がその類いでないとなぜ言えるだろう。本当は自分はただ砂の中をぐるぐる回っているだけなのではないか。
 さきほどの蜃気楼が本当の湖でないと、どうして言えるだろう。それを見捨てて別の方角にもう何時間も歩いてしまった。夜の設営をすると、ワインの小瓶を空けた。体力が減耗しているせいで、ひどく回る。もう三日、ほとんど何も食べずに歩いている。風が吹いて、不気味な声をあげた。この広大な虚無に飲まれた命の怨嗟の声に聞こえなくもない。
 地上の光の全くない中で両手で抱けるほど広がった星空は、美しかった。星空に人が投げかける神話や物語を全て拒絶して、ただ幾億光年の先にそれぞれの星はあった。それらの存在の確かさの前で今自分がやっている悪あがきはまさに粉塵のようなものだった。命さえそうだ。明日も明後日も星はあるが、明日も自分が存在しているかどうかは分からない。
 アルコールを入れているから余計に、「だったら」という思考は魅惑的だった。だったら、もう動かなければいい。動いても動かなくても助からないのなら、疲れる分無駄ではないか。
 ――ぐっと胸を掴んだ。
「こうやって、大勢が虚無に飲まれてったんだろうな」
 敢えて他人事として語ることで、自分はそうならないのだと言い聞かせる。なぜなら、自分には、もう一度会わなければならない人がいる。
「菊」
 喉を震わせ息を吐き出しこの名前を呼ぶことを、エネルギーの無駄とは考えない。名前を呼ぶだけで、ぐらつきそうな頭をまっすぐに戻すことができる。
「菊!」
 膨大な空気の中にただ吸いこまれ消えていく叫びが、それでも自分を北に向かわせる。

 ワインの小瓶に薄くついていた夜露を舐めて、朝、唇を湿すだけはした。もうカロリーの取れるものは何も無い。諦めはしないが流石に最後の崖っぷちにいることは理解した。出発の前にと日の光の下で手紙を丁寧に読み返した。
 今頃になって、気づく。
 菊は、「引き受けてくれるなら」とは言っていない。
 引き受け方が分からない、どうしたって罪悪感から自由にはなれないと思っていたから、答えが出せていなかった。違う。菊は、「そうしたいとさえ言ってくれるなら」と書いていたのだ。
 結果ではなく、意志に対して、菊は手を差し伸べている。助かるかどうか分からなくても今歩き続けている、足掻いている、それと同じ「意志」のレベルに。
「菊」
 泣くような水分の余裕はない。だから、奥歯をぐっと噛んだ。
 お前に会うためだけに、もうずっと歩いてる。それを証拠に、答えを言いに行く。
 二項対立を超えた関係。そんなものを作れるかどうかは分からない。けれども、一生それを目指すことを誓える。
「菊!」
 その叫び声が届いた訳は無いが、地平線の先に小さく人影かもしれないものが見えた。足を止め、目を凝らす。幻では無かった。駱駝か何かに乗った現地人のようだ。そのしがみつきたくなるほど懐かしいフォルムが少しずつ近づいてくる。
 人であったとしても、助けてもらえるとは限らない。匪賊かもしれないし、ムーア人であるかもしれない。後者なら、場合によっては白人であることを理由に殺されるかもしれない。奪う者、奪われる者。奪ってきた者、抗う者。そうした形を超える可能性に希望をつないで、ギルベルトは大きく毛布を振った。
 白旗に見えるだろうそれは、存在証明であり、主張だった。
 最後の力を注がれ、翻る白は、空に駆け上がる鳥のようでもあった。

Kennt ihr meine Farben(汝等知るや我の色を)