鷲よ、雲の彼方に羽搏け

ギル菊

大正三年・青島

 長い手紙になることをお許しください。
 取り次いでくださるフランシス様にも宜しくお伝えくださいますよう。
 まずは何より――息災でいらっしゃいますでしょうか。どれだけ貴方の技量が卓越していて、各機器の性能も日々向上しているとしても、墜落の危険が相半ばしていた黎明期を見知っている者としては、[[rb:一分 > いちぶ]]の心配を除くことができません。
 心臓に手を当てながら、これを書きます。
 私が左足を失ったのは、ご想像通り、一九一四年、[[rb:青島 > チンタオ]]要塞攻略戦でのことです。
 けれどもまずは、なぜその場にいたのかから書かせてください。
 先日、ははとは血が繋がっていないと申しました。ドイツ語でなんと言うのかうまく見つけられなかったのですが、私がもらい子であるとか義母が継母であるとかではありません。私は、妾腹なのです。
 大きな紡績工場をいくつも持っている関係で、父には複数の妾宅がありました。その父が東京工場を作った際にただの遊びのつもりでカフェの女給に手を付け、うっかりできてしまったのが私です。
 妾の格式というのはヨーロッパでも通じる概念なんでしょうか、ともあれ、我が家は月々のお手当てこそ戴けるものの、父の来訪もほとんど無く、本家からは無視される存在でした。
 飛行機に乗りたいという夢を誰よりも応援してくれたのが母でした。東京青山の飛行会は、母と出かけたのです。もういい大人になっているつもりだったので親と出歩くのは恥ずかしかったのですが、やはり貴方の飛行を見ると夢中になって、どれだけあの飛行がすごいのか、単葉機がどれほど挑戦的な存在なのか熱弁を振るいました。母は父から貰ったものを全て私の教育費にあてました。貧しい生活でしたが、実母はどんなときでも前を向いて笑いながら進む人でした。その頃、東京帝大では田中館愛橘先生が航空学に先鞭をつけられていたので、私もそちらを目指しました。兵学の中の航空学はまだなくて、物理学の中です。それ自体にも興味があったし、作る場所の近くにいけば乗る道も開けるだろうと思っていました。
 中学を卒業する間際、突然母が亡くなりました。車にぶつかったと笑いながら帰ってきたのに、ちょっと横になるといって、そのまま冷たくなっていました。頭を打つとそういうこともあると医者には言われましたが、ぶつかった相手も分からないため訴訟も何も、どうしようもありませんでした。
 心に準備のない出来事は人を混乱させます。だからそう考えたのかも知れませんが、私は、母の死は自分のせいだと思うようになりました。母は江戸生まれのしゃっきりしたひとで、そうそうものにぶつかって転ぶような不手際はしない。その母がぼうっと歩いていたのは、学費の不足分を補うために無理をしていたからではないか。「せい」かどうかはともかく、この想像自体は多分間違っていないと思います。
 母を食いつぶしてしまった自分の夢を、だから捨てる、という選択もありえたでしょう。けれども私は、だからこそしがみつきたいと思いました。それで、私は大阪の家の申し出に乗ったのです。
 母のことはひどく蔑んでいたらしい義母ですが、私を引き取ることを了承しました。帝大への進学も、その先の研究活動も何もかも認めて援助するとさえ言ったのです。その代わりに義母が出した条件が、血税を果たすことでした。
 父は、本妻である義母の間にも、他の愛人の間にも、男子をなしていませんでした。いえ、その時、いませんでした。唯一生まれていた嫡男は、その数年前に死んでいました。本田家では口に出すのも禁じられていたその人のことを、私はほとんど知りません。けれども断片的な情報を組み立てるに、彼の死はうっかりと自分自身で引き起こしてしまったものだったようです。徴兵逃れを狙って失敗したのです。時は日露戦役の前夜で、彼の行為は家名に泥を塗りました。もっとも、順当に入営していれば第九師団。遼陽、沙河、奉天と激戦の中に投入されていたはずで、彼の人生そのものは同じ事になったかもしれません。けれども、その両者は、本田家としてはまるっきり違うことでした。厄介者の私という存在は、突如、汚名返上の可能性となったのです。
 問題が一つありました。現在、公立学校の生徒には徴兵が免除されています。この後高校、大学と進んでしまえば「お役目」は果たせない。私は義理への前払いのつもりで、高校進学を取りやめ、志願兵になりました。日露対立と違い、一般の関心が薄かった欧州でのいざこざは世論に緊張感を与えておらず、入隊直後に開戦、派兵となったときには運が悪いとため息をついた、その程度の緊張感でした。ご存じかも知れませんが、先の大戦での日本軍の戦没者は三百人、負傷者は九百人です。後で調べましたが、あの時仰っていたドイツの飢餓では七十六万人超が犠牲になったそうですね。貴方がそれを思わなかったのか、それとも言葉を呑み込まれたのか分かりませんが、その飢餓を引き起こした海上封鎖と輸送断絶は日本の重化学工業を発展させ、また本田家もそうですが各商船会社を儲けさせました。世界大戦は、日本にとっては、感覚的にも量的にも、対岸の火事だったのです。自分がそのごくわずかな火花を被るとは思いもしないほどの。
 入隊の噂を聞いていたこともありましたが、一目見て独軍偵察飛行機のパイロットは貴方だと分かりました。正確で、まっすぐで、無駄が無い。かつて憧れたその飛行は、陣地や軍艦の位置を隠したい日本軍にとっては悪魔のような鋭さでした。あの黄色い機影が現れた後は、確実に砲撃に見舞われました。一度日本軍のモーリス・ファルマン式と空中対戦になったのを覚えていらっしゃいますか。多分後部座席の方がライフル銃を使っていらっしゃったのだと思いますが、銃手の精度など問題にならないほどの飛行技量の差でした。地上から見ていた誰もが悔しがる中で、私は一人感情をもてあましていました。自軍に大きな被害を与えている、邪悪で強大な敵だと見なければならないのに、やはり私はその美しさに憧れてもいたのです。
 真上に機影を見た日もそうでした。見つかってしまった以上、すぐにも砲撃がくる。死さえ連れてくるその鳩は、やはりまっすぐで、凛としていました。私は、頭を伏せるのも忘れてずっとその航跡を見つめていました。実際の砲撃の日のことはがちゃがちゃした記憶しか無いのに、あの鳩だけはどうしても忘れられないのです。
 ヨーロッパでもそうなのでしょうか、日本では戦死すれば英霊になります。戦場から無事帰れば英雄に。けれども、傷痍軍人は癈兵と呼ばれます。兵士としては役立たずになるので、そこで退役となるからです。「癈」なのは、日常に戻っても同じです。痛ましい、あってほしくない存在を視界から追い出すのは日本社会の常です。
 負傷による退役者は、一応、優先的に煙草販売業などにつけるようになっています。けれども、父がそれを嫌がりました。本田家の男子が物売りなど、まして恥である体を人に晒し続けるなどとんでもないというわけです。
 家族からは隠され、匿われ、社会からは廃せられ、靄をかけたような世界の中で、本をだらだらと読むだけの日々が続きました。
 そうした中でも脳裏をよぎるのはあの機影でした。現実に掛かった薄霞をやぶり、光を受けて真っ白にさえ見える鳩。
 憎む対象であるべき姿が、しかし、それでもなお憧憬を呼ぶのです。
 去年のあの日、機影のようにまっすぐ、貴方は私の視界に飛び込んできました。貴方は想像していた以上にまっすぐで、フェアで、それなのに少年のように無邪気でもあった。何も考えないことにして屈託をやり過ごしてきた私は、棚上げしていた問題に向き合うことを余儀なくされました。つまり、誰が何を負うのかです。脚を無くしたのを貴方のせいだと考えるのか、義母の出した条件のせいなのか、全ては戦争のせいだと片付けるのか。
 ――貴方が飛ぶのを、もう一度見たい。その言葉を口にしたとき、全ての霞が晴れた気になりました。貴方の飛ぶ姿が好きです。それが全てです。
 私の目を天空へ連れて行ってくださったと、以前、言いました。けれども、多分貴方が翼を付けてくださったのは、私の心です。不全感を抱いて床の上に平たく[[rb:凝 > こご]]っていた私は、貴方との出会いをきっかけに思考の奥底に潜ることで、物理の法則から解き放たれたように空から自分を見ることができるようになりました。
 私は、確かに、父母の信条によって、また日本の国際戦略によって、進む道を変えさせられてきました。けれども、そこを歩く選択をしたのは自分です。私は、義兄を恥とは思わない。命を賭けて戦場に行くのは嫌だと叫ぶ、そういう選択だってあったのだと思うようになりました。私は、いえ、私が、そうしなかったのです。
 脚を失わせたのは自分なのかとお尋ねになりました。それは答えの難しい問いかけです。貴方が入隊せず、極東戦線に加わっていなかったとしても、別の方の偵察により私の居た駐屯地が攻撃されていた可能性は高い。けれども事実の流れとして、貴方はごく短期間に青島攻撃の布陣がどのようであるかを見抜き、効果的な攻撃を促した。その一環で私は負傷しました。
 同じように、事実の流れとして、本田家は他国の戦争につけ込んで船成金となり、貴方の家族は物資不足の中で亡くなった。
 二つの事実は大きな川の上流と下流にあったかもしれませんが、一つの泡沫の行為とその結果ではありません。貴方個人に負うべき責任はありません。一方、私は自分をあの日のあの場所に連れて行った責任があります。その意味では、脚を失わせたのは私です。
 帰還した私を見たときの義母の顔は、強い自責に溢れていました。義母も、脚を失わせたのは自分だと感じたのです。せめてこれ以上失うことが無いようにと、何かにつけて手厚く世話をしてくれるようにもなりました。そうされるたびに失ったもののことを思わされましたが、義母を責める気にはなれません。彼女が、本妻としての意地や苦しみと厄介者の私と国への義理という対立を軟着陸させようとした条件は、そこに小さな火花さえなければ、三方一両得の妙案だった筈なのです。
 完璧な人もいなければ、悪意の固まりのような人もいません。それでも思いがけない未来に向かうことはあります。どこにビー玉が転がっていったかについて途中爪弾きした子供がその責を負えないように、誰かのせいという話ではない、敢えて「せい」を言うなら、そのような[[rb:歴史 > ながれ]]をつくってきた自分のせい――ルートヴィッヒさんの話は違います、けれども大人として選択をした自分についてはそう思います。
 私が、このように思うと義母に言うと、理解はしたと言ってくれました。けれども、気持ちは追いつかないと。やはり自分のせいだと感じてしまうのだと。
 義母でさえそうなら、貴方に私の理屈を受け容れて貰えるのか、判断がつきません。
 日本語で「憐れむ」と言う時、主語は「そのように感じる者」ですが、ドイツ語の再帰動詞では「感情の対象」が主語になります。けれども、私は「erbarme(憐れみの心を起こさせる)」の主語でありたくないのです。
 私は、貴方のもとへ行きたい。貴方の隣に並びたい。
 貴方は、私を引き受けてくれますか。
 私の[[rb:空虚 > あな]]に映る自分の行為を引き受けてくれますか。
 そうしたいとさえ言ってくださるなら、私は行きます。