大正八年・上野恩賜公園
接待と称して、築地精養軒の支店に連れて行かれた。猥雑な街だからこういう安心なところにいかないとと興行主は言うが、同行したアルフレッドは微妙な顔をしていた。
「俺、フランス料理ってあんまり分からないんだよね。親が料理へたでさ。味覚が育たなかったんだ」
奢ってくれるのに悪いと思うからか、囁きは通訳に分からないだろうフランス語だった。同じく声を潜めて、片目をつぶって返す。
「俺も貧乏育ちだから高級なのはあんま分かんねーな」
それでも二人、すました顔で奢られた。やれと言われればできるけれどもやりたくはない、と共通の思いを隠して、お上品にカトラリーを使い、散会の後、二人で苦笑した。公園を歩きつつ、英語に戻ってアルフレッドは呟く。
「ハンバーガーが食べたいなぁ」
食べた直後だろと呆れるが、気持ちは分かる。もっと肩の凝らない、単純な、それでいて美味いもの。所謂ソウルフード。
「俺は焼きソーセージだな。顔くらい長いのを炭火で焼いて、パンに挟んで」
「あー、ドイツのソーセージはほんと美味いよね、ハーブ入ってたりしてさ」
「気合いが違うぜ。ドイツ人の胃袋は豚と芋で埋まってっからな――」
隣家で飼っていた豚を思い出して言葉が途切れた。ルートヴィッヒによくなついていて、ころころと可愛かった。
「ポテトか! 君、チップスは食べたことあるかい? 薄ーく切ってぱりぱりに揚げたところにサワークリームつけてさ……」
語尾がかすれた理由はすぐ分かった。やたら香ばしい匂いが流れてきたのだ。揚げ物だろう。ここの公園も屋台がいくつか出ているからその一つかもしれない。日本の屋台の揚げ物と言えばテンプラらしいが、この匂いはラードだ。新鮮なのだろう、思わず嗅ぎたくなるほどの香りだ。何せ食べたばかりだから受け流すつもりだったが、どうも向かう先にあるらしくどんどん香りが近づいてくる。見合わせるとアルフレッドはうずうずした顔をしている。
「「……」」
満腹だった筈なのに、二人して足がそちらに向いた。アルフレッドなどはもう食べる気まんまんで足取り軽く進んでいる。追いかけて行った先で、アルフレッドが急に止まった。
「「「あ」」」
屋台の前に腰掛けて揚げた豚肉をくわえていたのは、本田だった。
結局並んで腰掛け「とんかつ」というらしい揚げ物を食べた。流石に一人前は入らなかったので本田のを一切れ貰う。まだ熱かったそれは、分厚いヒレ肉にきちんと火が通っており、柔らかいのに噛み応えがある。
「うっめぇ……」
思わず呟くと、本田もこくりと頷く。今まで見た中で一、二を争う真剣な表情で、思わず笑ってしまう。
「初めて食ったような顔だな」
大阪では妙に気恥ずかしい別れ方をしてしまったので、次に会ったときにはどんな顔をしたものかと思っていたが、余りにも意外な場で出くわしたもので何もかもが吹き飛んでしまった。アルフレッドがいたことにも助けられた。あの高いテンションに付き合っていると色んなことが気にならなくなる。
「初めて食べたんです」
本田は生真面目な顔のまま言った。
「大阪の家は洋食を食べませんので。こういう屋台での買い食いも禁止なんです」
というより、出歩くこと自体に良い顔されなくて、と本田は続けた。
「でも、君自身が売ってたんじゃないか」
「大阪での知り合いが、動かさないと体は鈍ると主張して、父の目を盗んで連れ出してくれてたんです。ほとんどリハビリのようなものだからできることは少なくて、有り難い半面申し訳なくて、」
義母の過保護にも見えた心配ぶりと、まるで幽閉されたかのようだった離れを思い出す。重い話を、しかし本田は笑顔で締めくくった。
「折角周りにたくさんあったのに、[[rb:一銭洋食 > おこのみやき]]も[[rb:電気飴 > わたがし]]もカルメ焼きも食べたことがなくて! あ、関西おでんもですね、関東のとは味が全然違うらしいので。だから今回は胃袋の羽をのばそうと断固決意して東京にきたんです」
「そりゃあいいや! いつまでいるんだい? 俺たち明日飛ぶんだけど」
もちろん知ってます、見に来たんですと本田は頷いた。アルフレッドは口笛を吹いた。
「じゃあ明日の夕方、待ち合わせて食い倒れツアーやろう!」
「はいっ!」
アルフレッドは宿がすぐ近くだというのでそのまま別れた。本田は知り合いの家に泊めて貰うというのでそこまで送ることにした。今日の本田は義足をはめているようで、靴までのシルエットがあるから、多少足を引きずっている程度に見えはする。だが、杖代わりらしいステッキを使っても動きが遅い。視線に気づいたのか、問わず語りに本田は呟いた。
「父が東京行きを許した条件が義足着用だったので、履くしか無いんですが、これ、いつものより重いんですよね」
「……」
「あ、その先です……」
本田が指さした先には今にも倒れそうな小さな家があったが、扉に紙が貼ってあった。
「『空き家』……」
コッ、コッと焦り気味に隣家に向かい、入り口で声を掛けた本田は、出てきた女性としばらく遣り取りしたが、やがて悄然と戻ってきた。
「すみません、ここに泊まるつもりだったんですが……宿探ししないと」
「引っ越してたのを知らなかったのか?」
「……数年前に亡くなっていたそうで」
「は?」
それさえ知らない人の家に泊まるつもりでいたのか。驚いた顔を隠せないでいると本田はそっと苦笑した。
「実母の実家なんです。行けば泊めてくれることは分かっていたんですが――手紙を出すことも禁止されていて」
「あ、ああ……」
そういう家庭もあるのかもしれない。他人が横から評価などすべきではない。分かってはいるけれども。
さっき、屋台の話の中で、関東のなんだかは食べたことがあるようなことを言っていた。もしかして、本田は東京育ちなんだろうか。前回の飛行は東京青山だったから、それを見たという話とも符合する。
安くて美味いものを露天で食べる生活が当たり前だったのなら、箱膳の食事は淡泊に過ぎるだろう。行けば泊めて貰えるような気安い相手との交流を禁じるような父親、そして、体裁のためにだろう、「普通と変わらない」見た目を強要する父親。もし本田が『そういう』のに息苦しさを感じているのなら、本気で家を出ることも考えに入れるだろうか。
頭を振る。まずは目先のことだけを考えよう。
もう遅い。この時間から、本田の足で苦も無く行けて、泊まれるところ。上野は歓楽街だから、安い宿はあるのかもしれない。多少挙措に不便があるかもしれないが。そして、多少風紀的に宜しくないかもしれないが……。思わず眉間に皺が寄る。そんなところに宿を求めるくらいなら。
「あの、さ」
「はい?」
「とりあえず今日は、俺の部屋泊まるか? 身長の関係でダブルとって貰ってるから、ツインになら変えてもらえると思う」
「え、でも」
「他に宛てがあるならそうすりゃいいけど。あと、ちょっと高く出せば今からだって安全に泊まれるとこあるかもしれないし、なんだったら辻待ち自動車呼んでもうちょっといいとこ探したっていいんだけど――もし、俺と、話したいとか、思うなら」
うわ、くそ、俺かっこわりぃ。頭を抱えそうになったギルベルトを本田はじっと見上げ、ややあって「はいっ」と頬を染めた。
フランス語よりは英語の方が得意だと思っていたのだけど、Yes、Yesと言われたはずの部屋替え交渉の結果案内された部屋はやっぱりダブルだった。
「あれ?」
「今日はもう部屋が空いてないって言ってましたよ」
「えっ? そうだったか?」
「『そういうことで』『はい』っていうのの『そういうこと』をお互い違う内容で了解しちゃったんですね」
「その場で言えよ……」
「でもホテル側だって無い袖は振れませんし」
「そうだけど」
そうだけど。意識しなければいい。ベッドの端と端に眠ればツインと変わらない。そう思いはするけれども、またわーっと叫んで走りたくなる。
本田はそういうギルベルトの葛藤に頓着しない様子で、椅子の一つに荷物を展開した。そして何かを取り出して隣のソファに腰掛ける。
「ギルベルトさん」
「お? おう」
「以前、絵を褒めてくださったの覚えてますか」
「ああ、そりゃもちろん」
「久しく居眠りしていた向上心が頭をもたげまして」
「うん?」
「きちんと描いてみることにしました」
「おー!」
「見て戴けますか」
「見る見る。何描いたんだ?」
本田が取り出したのは思ったより小さな紙だった。絵はがきよりは少し大きなサイズ。
水彩で描かれていたのは、やはりというか、ギルベルトの飛行機だった。構図を変えて何枚かある。長さも比率も角度も全てが正確なのに、色が違っていた。払い下げ品のルンプラー・タウベは黄土色に塗られ両翼に鉄十字が描かれている。しかし、本田の絵の中で秋晴れの空に光っているのは真っ白な飛行機だった。ああ、そうかとギルベルトは思う。本田の目にはこう見えたんだろう。飛行機は、姿さえ自由に、軽く、美しく飛んでいたのだ。鉛筆の線でも目を見張るほどだった本田の画力は、完成した絵ではいっそう凄みを増していた。
「これくらいのサイズなら、お持ち戴いても荷物にならないかなと思いまして」
思わず顔をあげた。
「くれんの」
「え、何かそういうこと仰っていませんでしたっけ。お知り合いの方に見せたいとか」
またわーと叫びたくなる。口に出してたっけか。けれども、いっそ言ってしまってもいいのかもしれない。祖母の家だったというあばら屋の前で立ち尽くしていた姿が瞼をよぎる。
来月から知人の会社に入ること、あわよくばというくらいのことだけれども、その知人のつてで絵の仕事を紹介して貰えないかと思ったのだということを説明した。
「え? フランスの方から……ですか? 船便で送るとか?」
「その……俺の家で暮らせばいいと思って……」
「え」
考えれば考えるほど唐突な申し出に思えてきて、思わず早口になる。
「フランス語必須だし、そもそも海外だし、食うもんとか暑さ寒さとか色々違うし、あっ、しかも今思い出したけど俺はずっと飛んでるからあんまり家に帰ってこなくてそんなにサポートしてやれないし、だからお前にとってメリットあるのかって言われたらすげぇ謎なんだけど」
「……貴方にとってメリットがないじゃないですか」
いや、ある。お前があの深海魚みたいな顔をしなくなるならそれだけで万々歳だ。けれども、それをどう説明したらいいか分からない。
「それより、どうなんだ。……あの家を出て、絵で独り立ちしてみたくないか」
本田はこくりと唾を飲んだ。
洋式のバスを、本田は喜んだ。こういう作りなら入浴も楽に済ませられるだろうという。
「あまり見目のよいものではないですが」
そう言いながら、義足をこんと叩いた。外すという。
「見せたくないなら、見ない。けど、隠したいと思わないでくれるなら、それは嬉しい」
さっきの話は保留になったが、一緒に暮らす可能性があるのなら、気持ちのヴェールはやっぱり薄い方がいい。
「……」
ふわ、と本田は笑った。
「見せたくない気持ちはやっぱりあるんですが、そう言ってくださるのは嬉しいです」
心持ち後ろ向きになりながら、ズボンを脱ぎ、腿を受ける筒から足を抜いた。初めて見た生の脚は、ぽっかりとした空間が欠如を主張してはいたものの、拍子抜けするほどに普通だった。術医の腕がよかったのだろう、断面もきれいだ。
本田は腰掛けなおし、筒の内側を拭いた。
「密着してないといけないのでぴったりのサイズなんですが、だからものすごく蒸れるんですよ。臭ったらすみません」
「いや」
短く答えた後で、付け加えた。
「今のヨーロッパなら、もっと軽い義足も使いやすい杖もたくさんある」
傷病者に溢れているから、対応する医療も進んでいる。視線の向けられ方も日本とは違う。ふむ、という顔をして視線を立てかけた義足に向ける。
「たまわった足なんですから、文句は言えませんけどね」
「俺がもっといいの買ってやる」
本田の家が豊かであるのは、家構えでも分かる。紡績工場の他に商船の仕事もやっているという。そりゃ、最高級品だって買えるだろう。つい対抗するように口を尖らせたからか、本田は笑った。
「……どういう形で暮らすのが一番いいのかは分かりません。大阪の家では床に座りこむしかなかったのでずっとそうして来ましたけど、洋式の家でなら杖だけで起居できるような気もします」
そうなら楽ですね、と本田は呟いた。ここで同意すると押しつけがましいかもしれないと、こらえる。ややあって本田は言った。
「まずはお風呂で試してみますね。いけそうな気がします」
言葉の通り、時間はかかったものの悲鳴をあげたり壁にぶつかる音をさせたりもなく、ほっかりとゆで上がって出てきた。日本人ってのはどうしてこんなに風呂の後ほどけた顔をするのだろう。全幅の信頼を向けられているようで後ろめたい気になる。
予定通り、少しずつ端によって寝ることにした。寝られないのではと思っていたが、本田のやさしい呼吸が心を落ち着かせていった。この空気の中で寝られるなら超メリットだよなと思いながらゆっくりと眠りに落ちた。
どのくらいたっただろう、ふと荒い息が耳に入った。
「……ルート……?」
覚醒しきらないままに、声の方に身を寄せる。
「大丈夫だ、にーちゃんここにいるから……」
抱き寄せたところで気づいた。ルートヴィッヒじゃない。そもそもルートヴィッヒのはずがない。今腕の中にいるのは本田だ。本気で叫びたくなったが、同時に気づいた。あの荒い息は未だ止まず、本田は脂汗さえ流している。
「おい。本田」
何度か呼びかけると、本田は薄く眼を開いた。
「すみません、大丈夫です。今日は動き回ったから熱を持ってしまったのだと思います……」
弱々しく笑ってみせる。その顔を袖で拭いてやると、気持ちよかったのかふうと息をついた。ルートヴィッヒではないと分かってはいるのだけれども、安堵のあまり、思わずそのこめかみにキスをした。本田は少し目を見張ったが、またうっと眼を顰める。
「痛いのか」
「大丈夫です……」
そう言いながらも本田は泳ぐように手を動かす。
「どっか痛いのか。気持ち悪いのか」
さすってどうにかなるものだろうかと思いながら聞いたら、本田は眼を強く閉じて、呻いた。ぎゅっと体を丸めて、縮めている。
「左の……足首が……」
「……本田」
膝から下を切断している本田に、足首は無い。幻肢痛と呼ばれる現象だ。戦場ではたくさん見た。喪った手や足が、いつまでも心を苦しめる。
つうと頬に流れた汗を拭うと、本田は薄く目を開けた。
「……分かってます、もう無いことは」
「ああ」
「それでも、痛い」
「ああ」
無い脚を、必死で摩る。苦痛の元はなくても苦痛は今ここにある。汗なのか涙なのか分からないものが本田の頬をつたった。それを舐め取る。そのまま続けて瞼に、額に唇を落としていると、体を捻り、腕を回してきた。
「ギルベルトさん……!」
抱きしめられるというよりはしがみつかれて、その強さに息が止まる。
「……菊……っ」
全力で抱きしめ返す。痛ければいいと思った。俺が与える痛みこそが実存だと思えばいい。
「ギルベルトさん!」
涙だか汗だかでぐちゃぐちゃになった菊の顔を両手で掴み、噛みつくように口づけた。互いの歯があちこちにぶつかる、殴り合いのようなキスだった。
朝の光がカーテンの隙間から差し込んできて目を覚ました。腕の中にいると思っていた菊はいつの間にか抜け出していた。水音がしているからシャワーでも浴びているのだろう。簡単に身支度をすませ、手持ちぶさたのついでに、フランシス宛ての手紙を書いた。フロントに頼めば出してくれるだろう。自分よりは鑑賞眼のあるフランシスがいいと思ってくれたらいい、それを早く確かめたいと思ったから貰った絵の一枚を同封した。もしかしたら、その描き手と一緒に暮らすかもしれない、とも。
気恥ずかしくなって何枚か書き損じを出したので随分かかってしまった。気づけばもういい時間だ。シャワーは諦めるかなと思いつつ、バスルームへの扉を叩く。
「おーい菊」
「あ、はい!」
ぱちゃんという湯音とともに焦った返事がかえる。
「悪い、もう出るわ。一人で外出できるか? あの、ホテルのフロントって意味だけど」
「あ、多分分かります。すみません、時間かかって」
どごどごと音がする。あがろうとしているのだろう。
「いや、いい。夕方の待ち合わせ場所覚えてんな」
「はい」
「んじゃ」
「あのっ」
いきなり扉が開いた。バスローブは着ていたがびっくりして「おわっ」と声が出てしまう。
「すみません。やっぱり、気になって。……ルートさんというのは」
今度はぎゃっと叫びたくなる。ベッドの上で寝ぼけて他人の名を口に出すなど大失態だ。
「お! おとーと! 弟だから!」
「え、あ……はい」
そうなのか、と頷いて、少し本田は眉をひそめた。
「……あの、ご病気なのですか」
「え」
「呻き声に、反射的に仰っていたようだったので」
「あー……」
そうだったかもしれない。ちょっとだけ無理して苦笑の顔を作る。
「ちっちゃい頃から体弱かったんだ。年が離れてたから、もう親みたいなもんで」
「ああ……」
海外だと余計に心配ですね、と見上げる本田の頭をくしゃりと撫でた。
「乾杯!」
といっても、アルコールは抜きだ。よく晴れたのに夜には冷えて、外でビールを飲む気にはなれなかった。日本の酒は口に合わない。アルフレッドはこの後移動だからといい、本田もアルコールは嗜まないそうで、三人仲良くジュースで乾杯した。
「「……あまっ!!」」
アルフレッドはべえと舌を出した。
「なんか、ぴりっとしたんだぞ」
ははは、と本田が笑う。
「こういう露天商の飲み物は大抵サッカリンですよ。台湾経営のおかげで砂糖も随分安くなったそうですが、それでもサッカリンの方が断然安いですからね」
「砂糖使いなよ、別に日本は物不足でも何でもないんだからさ」
「……お前ら食わねえなら、先に食うぞ」
鶏肉の串焼きを手に取ると、菊がああっと声を上げた。
「ぼんじり……っ、一番美味しいものを……」
顔が面白かったので言葉の途中でぱくりとやってやると菊はまた「ああ…」と嘆いた。思わずけせせと笑いが出る。
「また頼みゃいいじゃねーか」
「そうだぞ、他にも十本くらいあるんだし。こっちのミートボールもめちゃくちゃ美味しいんだぞ!」
相変わらず適当だなとちょっと笑う。菊は一人頭三本ずつで計算して頼んだようだから二人とったあとに十はない。アルフレッドが食べているものもミートボールとはちょっと違うのじゃないかと思う。
「……つくねは卵黄つけて食べるとまた美味しいですよ」
なんだって生卵かいSo Crazy! わめくアルフレッドをよそに、菊はネギと交互になっている鶏肉を食べ出した。本来、食べることは好きらしい。あんな細い体をしているのに、食欲旺盛だ。
「ねえ菊、今日俺たちの飛ぶの見てたんだろう? どっちのループの方が綺麗だったかい?」
ぱちんとこちらにウィンクを飛ばしてくる。そういえば先月、負けないとか言い合っていた。今回の博覧会の飛行は今日で終わりだから、勝負するなら今日の分しかない。
真ん中に挟んでいた菊の背後に行くようぐっと上体を反らし、ウラからアルフレッドに文句をつけた。
「勝負なら、飛ぶ前に言っとけよ!」
「飛び終わった後で思いついたんだよ。……もう勝負の機会ないんだなって」
「……」
背後の会話を聞いていただろう菊は、「うーん」と腕を組んだ。
「速さはアルフレッドさんの方があったと思います。それこそ、鷲のように飛びますよね」
「よっし!」
拳を握って肘を引いている。
「でも、環が真円に近かったのはギルベルトさんですね。偏りが無い」
「あー、それは俺も実は思ってたんだぞー…。正確なんだよな」
「ま、性格だから」
その洒落は二人から冷たい眼をうけた。この二人、容赦ない。
「……でも、どちらも本当に綺麗でした。人が飛行機に求める夢をそれぞれに見せてくださった気がします」
「それはなんだい?」
「自由です。大気の重圧や人体の限界から解き放たれて、速く、思い通りに、人がいけなかった高みにまで、到達する――他の誰も追いつけない世界」
「……」
俺が言ったらしい言葉の、アルフレッドの拡大解釈を、詩的に綴ったような言葉だった。
「でも、だからこそ、人類には何でもできる、と思わせてくれます」
「……ありがとう」
アルフレッドはにこっと笑った。
待ち合わせの場ですぐに、アルフレッドは菊が足を引きずっているのに気づいたらしい。口には出さず、けれどもさり気なく歩幅を小さくしていた。「追いつけない」菊が、「人類に」と言った気持ちを汲んだのだろう。
「そういう夢を載せて、『空中文明』って呼んでるんだろうなあ」
更にふっと息を吐いて、アルフレッドは続けた。
「アメリカの青年がヨーロッパにいる恋人からの手紙を翌日受け取れるってのも、やっぱり人類の夢で、ギルベルトはそれへの挑戦者なんだと思うようになったよ。……君の門出を祝うよ」
今度は菊の前から手を出してきたから、握手をした。菊はその上にちょんと手を被せて、「役得です」と笑った。
ホテルに戻って、それぞれ風呂に入った後、菊はベッドの端に腰掛けて、拝むように指を組み合わせた。
「どした」
「あのっ」
気圧されつつ、隣に腰掛ける。
「やっぱり、気になるので聞きます。弟さんは、……もしかして、亡くなられたのですか」
「……アルになんか聞いたか」
「いいえ。あの方は、こうしたことはご存じでも仰らないだろうと思います。私は、過去形が気になって」
小さい頃から体が弱かった。……弱いまま死んだ。
「言いたくないなら無理に聞こうとは思いません。けれども、気になります」
隠す意図があったわけではないが、塞ぐ気持ちが口を閉ざさせていた。けれども、自分が言ったのだ、隠したいと思わないでくれるなら、それは嬉しいと。菊だってそうだろう。
それでもまだ胸が痛む。心臓に手を当てる。
真似をしなければと思ったのか、菊も同じ格好をして小首を傾げる。それでちょっと緊張がほぐれた。
「ドイツ語で、『心臓に手を当てる』という慣用句は『正直に言う』という意味だ」
「あ、そうなのですか」
あげてしまった手をどうしようと一瞬迷ったようだったが、そのままの姿勢で菊は頷いた。だから二人して誓い合うような静謐な空気をもって、ギルベルトは語り始めた。
「……『豚殺し』って知ってっか」
大戦が始まった次の年、ドイツ諸都市に対して住民一人あたり最低十五マルクの肉燻製品の調達が命じられ、家畜の頭数は登録がなされることになった。豚の飼料消費は人間の二倍以上で、このままジャガイモが豚に回されれば在庫が尽きてしまう、千二百万頭の豚の処分が必要だ、との学説が吹聴されたからだ。「豚はドイツの敵」とまで叫ばれた。それで本当にドイツの豚の数は半年で半分にまで減った。隣家の豚も処分頭数を稼ぐために潰された。ベーコンになったかハムになったか、それでも食糧に回ったからまだましだ。同僚の出身地では加工工場のキャパシティを越えてしまい、ただ殺しただけ、そのまま腐っていったという。
もともとドイツは痩せた土地が多く量的生産性が低いために、食糧の三分の一を輸入に頼っていた。十九世紀、東との鉄道で穀物が、大西洋汽船でパン用穀物や飼料・肥料が運ばれるようになって初めて、ドイツは慢性的な飢えから解放された。だから、逆に言えばロシアが敵になった時点で食糧危機は予測されてしかるべきだった。
しかし、一九一四年八月、戦争熱に浮かされた政府は、驚くほど無策だった。速攻による西部戦線の打破と反転しての東部戦線全力投入という、短期決戦作戦の有効性を軍隊も政府も信じていて、そのごく短い間社会生活を中断するだけだと考えていたからだ。男手はどんどん徴兵・徴用され、軍馬徴収も続いた。結果、農村労働力は激減し、輸入が途絶えた分を自力生産で補うどころではなくなった。そこにイギリスが兵糧攻めを狙って海上封鎖を徹底し、大西洋からの輸入も激減した。
一九一五年の一月にはパンが配給制になった。牛乳もジャガイモも相次いで統制経済に入った。
豚の大量虐殺をもってしても食糧事情は改善しなかった。そこに一九一六年の大凶作と、飼料高騰をみてとった農民達の作付変更によって、唯一自給できるはずのジャガイモが前年比0・五%にまで激減した。その年の秋には既に飢饉といえる状況だった。州大臣がカラスを売れと命令し、言われるまでもなく、弊馬があれば周りの家の女性達が包丁をもって押し寄せ肉を切り取っていく事態にまでなったという。
戦争よりずっと前、家に引き取られてきたときからルートヴィッヒは栄養失調気味だった。父の友人の遺児で、しかも父当人は既に死んでいたものだから母の対応は冷淡で、ほとんどギルベルトが面倒を見たようなものだった。いい医者に診せてやりたくて賞金稼ぎを狙って飛行機のりになった。安定収入のために軍隊に入るときも、くれぐれも頼むと母親に言い含めたが、母国の惨状が噂されるのを聞くにつけ不安になった。
「でも、杞憂だった。母親は、ちゃんとルートヴィッヒの栄養を確保しようとしていた」
「なぜそれが分かるのですか?」
「母親の方が先に餓死していたからだ」
肥満体でもなかったが、特に弱いところも無い、普通のドイツ人の母だった。ルートヴィッヒが弱々しい手で作ったのだろう、浅く掘られた庭の墓には、枯れた草花の跡があった。
きゅっと心臓を押さえた菊は、一瞬の後、はっと目を開いた。
「では、……」
無言で頷く。一人残されたルートヴィッヒは、埋葬されることもなく、ベッドの上で乾いていた。
深く穴を掘り返して二人を埋めた。どちらも、苦にもならない軽さだった。手持ちの金を全部花にかえて、二人をそれで覆ってから、土をかけた。
「俺が軍隊に入ったのはとにかく家計が安定するようにってことだから、周りの奴らに比べりゃ全然報国精神なんて足りねぇ。それでもやっぱり国を守ることが家族を守ることだと信じていたし、一機でも墜として勝たなきゃ、勝たせなきゃと思ってた。けど、家のドアをあけてあのルートを見たとき、なんか――全部、しらけた」
「しらける……」
「文字通り視界が薄白くなった。何してても紗が掛かって見える」
「……今も?」
「あ、いや……」
飛行機に乗っている時だけは、視界がクリアになった。眼も手も足も全ての神経を掴んでいる感覚も得られた。だからフランシスには無理を言って会社に入れて貰うことにした。昨日の今日でドイツ人と同僚になる従業員達は複雑な気持ちになるだろう、そう渋るフランシスの気持ちはよく分かったが、機上を離れたら食べることも息することも忘れた白い世界で死んでしまうような気がした。オアシスを辿るようにしてイベントに出た。そして――こいつと会った。
振り回されて――いや、菊はちっとも動いていないのだから不当な言いがかりかもしれないが、気持ちがずっと振り回されていて、しらける暇も無かった。
「今は、ちゃんと見える。ちゃんと聞こえる。お前を見てる。お前が見ていると思って、世界をわたれる」
「ギルベルトさん」
肩を引き寄せると、そっと腕を回してきた。額を胸に付けたままで呟くように言う。
「状況が違う人に、安易に重ねるのはよくないのかもしれません。けれども、私も視界が白く感じていました。ずっと」
「菊」
「できないこと、できなくなったことを受け止められなくて、家族の言うまま、家でずっと寝転がっていました。でも、貴方の言葉は、私の目を空に連れて行ってくれました。私の手は、行きたかった世界を描けます」
「菊――」
きゅっと腕の力が強まった。
「私たちは、互いの[[rb:空虚 > あな]]を埋めあえるのかもしれません」
ぎゅっと抱き返したあとで「ん?」となった。少し引きはがして眼と眼を合わせる。
「弟の代わりにしてるってわけじゃねえからな?」
「はい? ――あ、そうなんですか?」
「ばっか! 弟にあんなことしねぇよ!」
がぶ、と鼻を噛んでやると、菊はぎゃあと悲鳴を上げ、やっと笑った。
翌朝はギルベルトの方が早く起きた。チェックアウトの準備をしなければならないが、どちらも物を散らかす方ではなかったので、大したことはない。簡単に荷をまとめたあと、そっと椅子をベッド際に寄せ、菊の寝顔を眺める。少しだけ開けたカーテンからは暁光がベッドの後方にさしている。照らされている布団の盛り上がりの下に、菊が抱えていく空虚がある。それを少しでも支えられるなら――一番近くで埋めていけるなら、嬉しい。
薄闇の中の顔はやはりあどけなくて、抱える重さも心の深さも見ただけでは想像もつかない。そういえばいくつだっただろう。成人だと言っていた。日本のそれは、徴兵を基準に言うなら二十歳なのか。アルフレッドの五年前の来日の時に中学生だと言っていた――そこまで考えたところで、ギルベルトは眼を瞬いた。違う。五年も前、と言った。アルフレッドは数え方が大ざっぱだ。アルフレッドの飛行会の時にもうすぐ卒業で、かつその前の年の俺の飛行を見たという話だった。俺の来日は八年前だ。日本の中学は五年制だから、つまり――本田が二十歳を迎えたのは、大戦中となる。
童顔という先入観のせいで、片足の切断は事故のせいだったのだと思いこんでいた。まさか、傷痍軍人だったのか。いや、でも徴兵期間に該当するのは大戦の後半、日本軍は大した戦闘行為をしていない。けれども……義足を「たまわった」と言っていた。今も帝政にある日本では、傷痍軍人に与えられる義手義足は恩賜と呼ばれるのではなかったか。
そして――
『やっぱり――貴方が飛ぶのを、もう一度見たいです』
『貴方は鳥のように軽やかに飛ぶから、空に鳩を見ただけで心が揺れました』
当然のように、前回の来日のことだと思っていた。けれども、菊は『鳩』と言った。ルンペラー・タウベのデビューは一九一〇年、その前から使っていた愛機で青山では飛んだ。
「……」
いつの間にか菊は体を起こしていた。ギルベルトの硬い表情に気づいてか、黙っている。
「菊」
「はい」
「心臓に手を当ててくれ」
「はい」
ギルベルトも自分に手を当てた。いや、掴んだ。爪をたてんばかりに鷲掴みにした。
「お前の脚を失わせたのは、俺なのか」