鷲よ、雲の彼方に羽搏け

ギル菊

大正八年・天王寺公園

 ビール飲みてぇ。一度思い始めてしまうとその考えを振り払うのは容易ではなかった。ギルベルトはぶるっと首を振る。契約上閉場までは勤務時間であり、アルコール摂取は許されない。たとえ今日はデモンストレーションがないとしても。たとえ今日の仕事は、ただの見世物として座っているだけだとしても――自らに言い聞かせる努力を嘲笑うように膝の裏からにじみ出た汗がつっと脹ら脛を伝った。もう秋の声を聞いた筈だが、この国の湿度の高さは脳にくる。ぐらんと頭が後ろに傾ぎ、そのせいで首の汗がにゅっとにじみ出た。
「~~~~っ!」
 ぷちりと心の中の何かが切れたのを自覚し、荒々しく立ち上がった。
 通訳が慌て顔でどうしたかと問うてくるのをトイレだといなし、振り切るようにして席を立った。親切心は疑わないが、今は一人になりたかった。
「あーっつぃー……」
 公会堂の外に出ると残暑の熱が地表から立ち上ってきた。新鮮な空気は嬉しいが、それにさえ熱と湿気がこもっている気がする。この国がそうであることは知っていたのになぜ来てしまったのかとうんざりするような気持ちが胸をかすめ、ギルベルトはまた頭を振った。考えてもどうにもならないことはある。過去下した判断もその一つだ。自分で行くと決めた。見世物小屋の野獣のような心持ちになるだろうことさえ了解の内にあっての決断だった。誰を恨むわけにもいかない。
 そうは言っても、ただでさえ苛ついている今、歩くギルベルトを遠巻きに避け、それなのにじろじろと見る一般客を見るにつけ、凶暴な気持ちがもわもわとこみ上げてくる。迂闊に手を出されたら噛みついてしまいそうだ。思わずイっと歯を剥き出しにするとまた行く手の人波が割れて退いた。
「モーゼかってぇの……」
 公会堂から大通りまでの道には、両脇に屋台が立ち並んで子供向けの遊興で小銭稼ぎをしている。食べ物の屋台もあるが、形の変わった飴や炒った豆、焼いた海洋生物、はてはクレープに野菜をのせてソースを掛けたような得体の知れないものを売っていたりで、そそられない。何より暑いのに熱いものを食べる気にはならない。二の腕で額を拭うと汗が服の色を変えた。うんざりしながら横を向いたら大きな机の上に透明な瓶を二つだけのせた、見るからにやる気の無い、従って[[rb:人気 > ひとけ]]もない店が目に入った。他は様々な呼び声で客引きに懸命だが、ここの店主は黙って座っている。いや、それは問題では無い。
「おい。それ買えるのか」
 指さしながらずいと顔を突っ込んだら、テーブルの向こうに座っていた白シャツ吊りズボンの子供が目を丸くしてこちらを見上げてきた。
 知っている。日本では、「じろじろ見る」のがマナー違反にならない……いや、どういう角度で誰を見るかによって、ならない。さっきのモーゼを見るかのような通行人のあれは、この国では「あり」なのだ。ペリーはじめ、幕末以降来日した様々な欧米人がそう書いている。彼らのはにかみや親しみやすさとマナー違反は独特の線引きがなされているのだと。
 とはいえ、この子供のように真正面からまじまじと見るのは多分一般的では無い。けれども、ギルベルトはこれも知っている。「様々な欧米人」と比しても独特なカラーリングのせいで、子供には妖怪かと思われることを。
「違う、ただの客だ。喉渇いてんだ」
 うんざりしつつ手を振って言うと、やっと子供が硬直を解いた。
「ラムネは十銭、ビールは五十銭です。……あの、町中より少し高いですよ」
「そりゃお祭り相場ってやつだろ、仕方ない……っ!?」
 今度はこちらが凝視してしまう。今、会話が通じた。何も考えずに、いや、考える力を失ったままドイツ語で話しかけてしまったのに。
 まじまじと見たからか、子供は頭を振った。つやつやした黒髪が軽く揺れる。
「中学校で習っただけなので、初級会話程度です」
「あ、そう……」
 しかし驚いたからか、ずっと続いていた苛々は飛んで消えた。庇の陰に入って一息ついたのもあるだろう。屋台の中を改めて見て、ギルベルトは聞いた。
「そんで、お前、何してんだ?」
「え。飲み物売ってるんですが」
「あ、あ――そりゃそうだろうけど」
 うっすい体して、家業の手伝いでもやらされてるのか。感心なことだ。それにしてもと首を捻りながら青い瓶を指さす。
「じゃ、そっちくれ」
 ラムネとは何か分からないが、もう一つの方にはラベルにbeerと書いてある。だめだ。……誘惑から身を断ち切るのだ。
「はい。少々お待ちください」
 まさか外気温と同じになっているだろうこの瓶を渡されるのだろうかと思っていると、子供はテーブルの下に身をかがめた。こちらからは幕板で見えないが下に置き場があるらしい。果たして、上体を起こした子供は、新しい瓶を手に持っていた。それも、いかにも水から引き上げたばかりの、冷たそうな瓶を。この素っ気ない広いテーブルは実は日差しよけで、中にバケツか何かを仕込んで冷やしているらしい。T字型の栓抜きらしいものでぐっと蓋を開け、子供は「はい」と瓶を差し出した。そこで忘れていた乾きと暑さがどっと蘇り、炭酸が噴き上がるのと競争するようにして一気に飲み干した。
「うめー!」
 味と言うより炭酸がもたらす清涼感が全身をすっと駆け巡るようだった。日本食のもてなしも何度か受けているが、日本で口にしたものの中では今までで一番美味しい、と思った。
 子供は薄く笑って、言った。
「十銭です」
「ああ、――あっ!!」
 日本の硬貨は、持っていない。かといって兌換券も手元には無い。お抱え旅行のようなものだからこれまで不自由は無かった。最後に土産でも買うことがあるかもと円自体はいくらか用意して貰っていたが、興行師に預けたままだ。
 そのいかにもやり手らしい俗物紳士顔を思い出したところでぎょっとした。トイレというには長すぎる時間がたっている。戻らないと、と思わず体をよじり、あわてて向き直る。子供は、少し目を眇めていた。
「い、いや、ちがう、食い逃げなんかじゃ……」
「……でも、十銭戴けないんですね?」
「や、ちょっと待て」
 胸ポケットに入れていた手帳の一頁をやぶり、名前を走り書きする。
「『ギルベルト・バイルシュミット』……?」
「俺の名前だ。博覧会の会場行って、これで呼び出してくれ。お前、名前は?」
「ほ、本田菊です」
「ホンダな。わかった。通じるようにしておく」
 踵を返しかけ、ふと思いついて駆け出すのを止めた。何か、証拠のモノがあった方がいいに違いない。左ポケットをまさぐると手にあたるものがあった。ちょうどいい。
「これ」
 ぽいと放ると、青いブローチはうまく放物線を描いて本田の手の中に収まった。
「質草がわり」
「ちょっ」
「悪ぃ、もう行く」
 急いで戻ったが、興行師にはきつく苦言を呈された。新聞やが取材に来ているという。そのまま連中の待っている場所まで案内される。
 引き留めなかった通訳は怒られていたらしく半歩後ろでしょんぼり項垂れている。慌てて謝ると、「いえ」とそっと笑った。
「息抜きになったなら良かったです、少尉殿」
 人寄せパンダ役にうんざりしていたのを見破られていたらしい。スカーフを整えながらウィンクを返す。
「元、な」
 先に立って歩いていた興行師がふと立ち止まり、ん、と顔をしかめた。
「ヘル・バイルシュミット、勲章は」
「あー…。や、宿に置いてきちまった、かなー」
 写真うつりを考えてだろう、興行師は不満を鼻息で表したが、無いものは仕方ないと諦めたようだ。
「明日からはずっと付けててくださいね!? 折角の勲章なんですから!」
「ういーす」
 言わんとすることは分かる。興行の箔は多ければ多いほどいい。まあしかし、ヴィルヘルム二世だとて人寄せパンダにするために「折角の」勲章を渡したわけでもあるまい。もう忠誠を誓う相手でもない元皇帝に大した義理はないが、こうまで功利性だけでものを言われれば肩の一つくらいすくめてやりたくもなるというものだ。
 会場では、愛機の前で幾人かの男達が写真機を用意していた。こんにちは、と差し出す手に握手で応え、後は興行師に任せる。ギルベルト・バイルシュミットの語る言葉などなくてもいい。既に興行用に準備された物語がある。俺は黙って写真にうつってみせればいい。先の大戦のエース・パイロットとして。

 翌日、開場の前に広場に出向いたら、周りが設営や仕込みに忙しく立ち働く中、既に本田の屋台は組み上がっていた。相変わらずやる気のうかがえない屋台には昨日と同じ青と茶の瓶が二本置かれていて、その向こうに生気の感じられない様子でぽつねんと座る本田もいた。
「よう」
 声を掛けると顔を上げ、首をがくりと下げる。
「本田、だったよな」
 と、いきなり隣から尖った声が飛んできた。
 見ると、チワワのような青年が隣から睨み上げていた。指を突きつけられ、何事かを詰られる。
 慌てたように本田が腰を浮かし言葉を挟む。
「——」
「=========!」
「————–」
 二人は日本語でやりとりを始めた。何を言っているのかは分からないが、雰囲気からすると、この薄茶色い髪の青年がこちらに文句をつけてきているところを本田が取りなしているようだ。怪しい外人だと警戒されているのかもしれない。
「怪しいもんじゃねえ。借りた金を返しに来ただけだ」
 都合を付けた十銭銅貨を掌に載せて差し出すと、本田がほんのわずか勝ち誇ったように言った。
「ほら!」
 まだ胡乱げな顔をしている青年に向き直り、本田は苦笑も混ぜつつ更に二、三言続けた。頭一つ下の位置から青年は「不承不承」を絵に描いたような顔で見上げ、それでも突っかかったのに対してだろうか、小さく頭を下げて、向かいの屋台に戻っていった。
「すみません。私の世話役のような人なんです」
 振り返ると本田もぺこりと頭を下げている。
「いや、何言われてるかよくわかんなかったんだけど……『ほら』ってなんだ?」
「あー…」
 本田はとんとんと指で口を叩いた。
「大阪君は――あ、さっきの彼の名前ですけど、『借りた方が返しにくるんが当たり前や、取りに来いて何様や』って言ってきたんで」
「うっ」
「なので、ほら、返しに来て下さったじゃないですか、と」
「……悪ぃ」
 掌に載せたままだった十銭銅貨を渡しながら、頭を下げると、本田は受け取って改め、「確かに」と頷いた。そして「ちょっと待って下さいね」と胸ポケットに手を突っ込んで布包みを取り出す。
「お返しします」
「お」
 そうだった、今日こそはこの勲章をつけていかなければ。冷たい筈の金属がほの暖かい。首元につけると鮮やかな青が日光を受けてきらりと光った。肩書きに箔がつくかどうかは分からないが、確かにぱりっとして見えるんじゃないだろうか?
 ちろりと本田を見下ろす、が。
「……」
 本田は、遣り取りは済んだ、とばかりに目線を水平に戻していた。周りの喧噪をよそに、本田は深海魚のように座っている。
 商売っ気の無さは相変わらずだ。人一人やっと座れるほどのスペースのほとんどは幕板付きの台で、その上にぽんと瓶が置いてあるだけだ。日よけだろう、屋根を作ってあるせいで余計にここはひっそりとして見える。今日は暑くなりそうだから冷やした飲み物だって売れそうなものなのに。世話役というか元締めがいるんならノルマもあるんじゃないのかと勝手に心配になる。
 ポケットにはもう何枚か銅貨がある。ビールだって買えるほどの。流石にまだ飲みたくはない――まだやっと開場かという時間だ。
「配達はしてねえの?」
「うちですか? ――ええ」
 もちろん、という顔で頷かれる。そりゃそうかと肩をすくめる。仕事が終わったところで冷えたの飲めたらめちゃくちゃ美味そうだと思ったのだけど。まあ、昨日みたいに抜け出して買いに来ればいい。そうは思うけど、すっぱり立ち去れない。
 勝手な思い入れだとは分かっているけど、子供らしい笑顔がみたい。
「なあ――ちょっと店を空けるとかできねぇか」
「え」
 マンボウがこぽんと息を吐くような動作で、本田はこちらを見上げた。
「トイレとかさ、そのついでに、ちょっとだけでいいから、十時に広場に来いよ」
「えー…」
「面白いもん見せてやっから」
 ぱしんと本田が瞬きをする。あ、睫なげえな、とちらりと思う。
「待ってるぜ!」
 断りの言葉を吐かれそうな気配を察し、返事を聞く前に手を挙げて屋台を去った。

 博覧会にはゴータ G・IVも来ているが、これは動かさない。アクロバット飛行には向かなくて、観客が喜ばないからだ。博覧会の趣旨としてそれでいいのかよと飛行服を羽織りながら思う。
 正式名称は、平和記念空中文明博覧会というらしい。枕詞は、世界大戦の終結と講和成立を意味していて、航空機の現代的意義についての啓蒙が目的だという。主催者である新聞やは「平和克復の記念として博覧会を開催せらるることは戦後事業中最も必要なるものの一たる真価あるを疑わず」とぶちあげた。
 今世紀に産声を上げた空を飛ぶ乗り物はこの十年で長足の進歩を遂げた。00年代には何分飛んだの何キロ飛んだののレベルで競い合っていたのが、一九一〇年にはドーヴァーを越え、アルプスを越えた。それでもまだ多分に墜落の危険を背負って飛んでいたのが、数年も経たないうちに貨物輸送、旅客輸送が始まった。リスキーであることには変わりなくとも、冒険家の夢想から文明の利器に変わってきたのだ。更なる飛躍は、先の大戦の中で起こった。それまでにも航空士に機関銃を持たせたり機体に爆弾を積み込ませたりはしていたが、可能性に掛けたドイツ帝国は世界に先駆けて空軍を創設した。軍事的価値が疑問視されていた航空機は、偵察飛行などの空中観測で実力を証明し、各国はその開発に尽力した。そして、戦前既に試行されていた戦略爆撃が実現する。ゴータ G・IVはロンドン空爆の主役となった双発の重爆撃機だ。複数回にわたるロンドン攻撃は死者合計二百名を出した。そのうち一発は小学校に落ち、五十人近くの子供が死んだという。
 通称「白いゴータ」を、ギルベルトは運転したことがない。所属部隊が違ったからだ。それでも出撃をすぐ側で見送ったことはある。腹を殴るような重低音に周りを吹き飛ばすような爆風。愛機と同じ「飛行機」という名前で括られるのに違和感を感じるほどに、それは、重苦しい存在感を持っていた。
 参戦したとはいえ本土が攻撃されたでもない日本で、だから機影にも馴染みの無い国民に防空の意義を思わせるのなら、公園上空にゴータを飛ばせてその影を見上げればいい。その小学生の気持ちも追想像できるだろう。
「……あの」
 声に振り返れば、通訳が不安げな目をしていた。いつの間にかキツい顔になっていたらしい。
「わりぃ。ちょっと……やさぐれた」
「はあ」
 両手で顔を挟んで押し引きすると、通訳は小さく笑った。
 軽く機体を撫でてやって、タラップをあがる。集まっている観衆が遠くまで見える。本田は来ているだろうかと見渡したが、人が多すぎて分からない。
 コックピットにおさまれば人のざわめきもすうと遠のいた。決めている手順通りに計器をチェックする。高度計、対気速度計、昇降計。ジャイロも正常。操縦桿の動きも滑らかだ。左手を右手で掴んで手首まで滑らせ、手袋の張りを確かめるとキュッといい音がした。よし、いつも通りだ。
 エンジンを始動すると前方プロペラが力強い音をたてて回り始めた。もう完全に時代遅れの飛行機だが調子は悪くない。設えられた滑走路を機体は徐々に速度をあげて走り始めた。頬に風があたる。思わず口角があがる。
 ギルベルトさんは空の上ではいつも笑っている、と言われたことがある。言われるまで気づいていなかったが、確かに表情は狂気的になっているかもしれない。頭の一方では大声で歌っているかのようにハイテンションで、でも一方では完全な無音の世界の中で目も耳も最大限に研ぎ澄ませている。今も視界にはくっきりと計器類が写っていて、わずかな針のぶれも一目盛り単位で認識できている。
 ルンプラー・タウベは大戦初期に広く使われた飛行機だが、運動性能が悪いので戦争半ばにはもう引退させられた。主翼が左右に広がったあと少し後方に流れるような形や三角形に裾が広がる尾翼の形から[[rb:鳩 > タウベ]]と名付けられた。カーキ色に両翼の鉄十字が印象的だが、せっかく軍から払い下げられたのだから全部白く塗り直して飛ばせばいいと思う。本物の鳩のようにその姿は青空に映えるに違いない。
 精々百キロほどしか出ないけれども、それでも地上の乗り物よりは速い。高度一千。ここから急上昇に入る。操縦桿を握る手に力を加えていく。慎重に、しかし迷い無く。計器正常。体が地面と垂直になるほど傾き、重力が背中を席に押しつける頃になるともう顔ははっきり笑っている。このまま一気に機体を引き上げ、後ろ向きに宙返りをする。慣性の法則で体は機体と共に動くが、頭の下には一千五百メートルの距離、その先に地面。もう地上の人は識別できない。高い山に登ったときとは違う、足下が保証されない、それどころか足下という概念自体がひっくり返っている。
 インサイドループの頂点で、いつも精神的な浮遊感を感じる。人の世界から離れて、といっても神の領域に近づいたわけでも無く、ただその足下に近づいたような。そこでは、たとえ戦場であっても、たとえもう一人搭乗していたとしても、ひどく孤独な世界が瞬間的に現れる。
 環を作り終えたあとは、もう一度ゆっくり公園の上を旋回して、終わりだ。ぎりぎりの低空で機体を傾け、鳥のようにくるりと回る。ポケットから手旗を取り出して、小さく振った。地上から見えるかどうかは微妙なところだ。本田は見ているかな、とちらりと思う。
 地上に降り、ゴーグルを外して最後の点検をしていると、「ギルベルト!」と大きな声がかけられた。振り返ると、手を振りながらフライトジャケットの青年がやってくる。
「おー! 久しぶりだな、アルフレッド!」
 アメリカ人の飛行機乗りだ。ごく若い頃たまたま手ほどきしたことがあって、以来ギルベルトには懐いてくる。
 よっと飛び降りると、駆け寄ってきたアルフレッドがばんと肩を叩いた。相変わらずの馬鹿力に思わず片目をつぶる。
「いてーよ!」
「なーに言ってんだい、HAHAHA! 相変わらず飛ぶね!」
「お前も飛ぶんだったか?」
 飛行機乗りとして生計を立てられている、数少ない男だ。それも、一度墜落で自前の飛行機もぶっ壊して本人も大怪我しながら見事に回復して賞金レースで優勝を果たし、借金も全部返した上で新しい飛行機を買ったというアメリカンドリーム全開の男だ。
「いや、今回は呼ばれてないよ。上海で曲芸飛行やって、来月の東京までの休暇であちこち回ってる。日本が気に入ったんだ」
 言っている間にも名前を呼ばれ、手を振り返している。愛想が良いし顔もいいから映画俳優のように人気がある。ギルベルトの来日・飛行は二回目だが、こういう人気はない。べっつに! 寂しくなんてねーし! と思いながら周りを見渡す。半ば予想していたことだったが、やはり本田は来ていないらしい。
 ギルベルトを招いた興行師が握手を求めてきた。大した曲芸でもないが成功は成功、それも完璧だった。気持ちよく握手を返し、休憩を願い出るとあっさりと許してくれた。
「……アル。俺ちょっと飲みもん買いに行く」
「へえ。用意されてないのかい?」
「あー、いや、多分あると思うけど。ええと、他に色々ジャンキーなもん売ってたりするから、広場見てくる」
「ふうん」
 頼まれていたらしいサインをささっと仕上げて、アルフレッドは小走りにやってきた。
「じゃあ俺も!」
 え、と思わず足をとめるが、アルフレッドは気にせず進む。逆に追いかける形になった。
 アルフレッドは、日本では有名だ。あの本田だって気づくかも知れない。それがなぜか面白くないような、けれどもあっと言わせたいような複雑な気になる。
 細工飴の複雑な形に目をきらきらさせながらアルフレッドは隣を歩く。色とりどりなのが気に入ったらしい。ちょうど注文が入り飴屋は絵を描き始めた。できあがるまで見てるからちょっと待っててくれよ、と言われたところで、ほんの二、三軒先に本田の屋台があることに気がついた。ぱぱっと買ってしまえば「ちょっと待ってる」の範囲だろう。そう独り決めして早足で向かう。
 相変わらず深海魚のように本田は座っている。「よう」と声を掛けるとゆっくりと顔を上げた。
「これ」
 十銭銅貨を掌に載せて差し出すと、本田はこくりと頷いてラムネの瓶をとりに身をかがめた。
「……」
 店番が一人しかいないのだから、広場に来いと言われても行ける筈が無い。仕方が無い、分かっているけれどもほんの少し拗ねるような心持ちもある。
 がしゅっと栓開けを突っ込んで、本田は「どうぞ」と瓶を差し出した。シュワシュワと溢れる泡がかかったらしい、戻した手をちろりと舐めている。
「……」
「あー! こんなところにいた、ひどいんだぞ!」
 後ろから叫び声がしたかと思うと次の瞬間にはラリアートが襲ってきた。思わずぐえっと声が出る。馬鹿力め。
「待っててくれって言ったのにぃ……」
 押される、その下から「あ」という小さな声があがった。
 ん? と振り返ったアルフレッドは「わお!」と叫んだ。
「菊じゃないか!」
「え。え?」
「アルフレッドさん……」
 本田は挨拶のつもりだろう、がくりと首を折る。両者を指さして、聞くとも無しに聞く。
「知り合いか?」
「ああ、もう五年も前かな、来日したときに飛行会に来てくれたんだ」
「へえ……」
「英語で話しかけてくれたからちょこっと会話した。懐かしいな」
「……」
 手に持ったままだったラムネを一口飲む。
「そんな前に一度会ったきりで、よく気づいたな」
「だって変わらないからね! 相変わらずキュートだな、菊は」
「「きゅっ…」」
 絶句が重なった。子供とは言え男に使う言葉ではないだろう。
「だけど、それはそれですげーな。本田はその頃小学生じゃね?」
「「は?」」
 今度は怪訝そうな声が重なった。
「え、だって、今中学生なんだろ。それで五年前なんだったら……」
 本田は一気に胡乱な目になった。
「なにぶん初級しか学んでいないもので、過去形に間違いがあったかも知れませんが。中学生というのもドイツ語を習ったのも、まるっとその飛行会の頃です。私はとっくに成人してます」
 温度の低い、言われてみれば音域も割と低い声で、本田は淡々と言った。成人という事実への驚きより怯みが勝った。
「わ、わり……」
 おののいているこちらを尻目に、アルフレッドは脳天気な声を出した。
「えー、そうだったのかい? まだ学生かと思っていたよ。だって全然変わってないし。ほっぺたつるっつるだよね!」
 手を伸ばして頬を引っ張ろうとするアルフレッドを慌ててとめる。少しは、空気を、読め!
 軽くのけぞり、両手で頬をカバーしている本田を見下ろすと、視線に気づいたのか、すっと目線を反らされた。地味に傷つく。もう一度誤認を謝ろうとしたところで、本田はぼそりと呟いた。
「変わってなく、ないです」
「いやあ、ごめんごめん。気にしないでくれよ、馬鹿にするつもりはないんだぞ」
 あっけらかんとしたアルフレッドのものいいに、本田はため息をつくように苦笑した。
「……アルフレッドさんもどちらか飲みますか」
「うん? 君が売ってるのかい? じゃあビールじゃ無い方を貰おうかな……って、あー」
 急にしょんぼりした子犬のような目になるから、はいはいと小銭を取り出し、本田の手に置きながら顎でしゃくる。
「こいつの分」
「おごってくれるのかい? ありがとうギルベルト!」
 大型犬のような喜びを見せるアルフレッドに苦笑していると、本田も顔をほころばせていた。いつものようにテーブルの下から瓶を取り出し、こぽんと栓を押し込んでアルフレッドに差し出している。
「わーお! なんだいこれ!」
「早く飲まないと零れるぞ。経験者は語る」
 くすりと笑って、本田は言った。
「ラムネといいます。レモネードから来ているらしいんですけど、あまり原形留めていませんね」
「俺はこれ気に入ったぞ! 暑い日にはすごくいいよ」
「よかったです」
 微妙に出遅れた気がして、「俺もこれ、気に入ってる」とぼそりと言うと、本田は顔を上げて、やがてふうわりと笑った。
「……光栄です」
 どきりとする。まともに目を合わせて会話したのは初めてという気がした。ガラスのドアを挟んで対面していたのが、ドアがすっと開いたような。
「も、もう戻らないとな」
 慌てて口にした言葉だったが、実際休憩と言うには取りすぎている。瓶を返すと、本田は言った。
「……宜しければ、またおいでください」
「お、おう」
「俺もまた来るよ! じゃね」
 二人で並んで公会堂まで歩くと、やっぱり道は出エジプト状態となった。めずらしくアルフレッドも難しい顔をしているから、手を振ってくる子供もいない。
「菊、変わったな」
「お前、変わらないって言ったじゃねーか」
「空気を読んだんだよ」
 それは驚いた。心の中でだけ呟く。
「子犬みたいだったんだ」
「お前が言うか」
「どういう意味だい?」
「流せよ」
 素直にそれに従って、アルフレッドはまた言葉を継いだ。
「飛行機に乗りたいって言ってた。中学校はもうすぐ卒業だけど留学できるように語学頑張ってるって」
 驚きに、一瞬足が止まる。
「へー…」
「推測だけど、菊は、夢を諦めたんじゃないかな。そんな目をしてた」
「……」
 アルフレッドはもともと勘が良い。理屈では無いところで真実への最短距離を突っ走るところがある。それは知っていたけれども、ずばりと踏み込まれて、もやっとしたものが沸いた。あれが「そんな目」だと気づくことに、気づけるほど菊を知っていることに。実際、そうなのだ。本田は、ただ商売として店を出しているだけで、博覧会自体には興味が無いのだと思っていた。なんとか来させたい、見せたいと思っていても梃子でも動かない、それは飛行機など視界に入れていないからだろうと。
「……知らなかったな、飛行機乗りたかったなんて」
 かく、とアルフレッドは首を傾げた。
「え?」
「いや、だってそんな話してねーもん。あいつ、俺が飛行機乗りだってことも知らねーぞ」
 飛行機に乗ってる俺が、一番かっこいいのに。見にも来ない。ぷっぷくぷーだ。
「そんなはず無いんだぞ。だって、その飛行会の時、どうやったら飛行機乗りになれるかって話をして、俺、君の名前を出したんだ。そしたら、菊は知ってたんだ。その前の年に君が来て飛んだんだろ? それを見に行ったって言ってたぞ」
「え」
「一番憧れてる人だって、嬉しそうに言ってた」
「えっ」
「だから俺、さっきはそれ前提で話してたのに」
 ギルベルトは完全に足を止めた。
 そんな筈は無い。だって、本田はそんなこと一言も言わなかった。
 顔を知らなかったのかもしれない。少なくとも前回の来日の時、アルベルトがそうしただろうほどにはファンサービスの時間をとらなかった。だから飛行会に来ていたとしても遠目で見ただけだろう。今日の新聞には顔写真が載ったはずだが――せっかくかっこいいポーズをとってやったのに、何のおもしろみも無いバストショットの方を載せていた。表情が無いと別人とよく言われるから、それで――いや違う、名前を書いて渡している。
「ギル?」
「ちょっと、忘れ物。悪ぃけど公会堂行くならさっきの[[rb:興行師 > やつ]]に声かけといてくれ」
「や、そりゃあ営業はするつもりだったけど……」
 どうしたんだい、という言葉を背に受けたままギルベルトは走り出した。

 相変わらず人気の無い屋台に勢いよくかけこんだら、本田は頬杖をついて、その手で顔のほとんどを隠していた。足音に気づいてだろう、ゆるりと顔をあげる。
「本田っ」
「……はい」
「――っ……」
 反射で来てしまったもので、次の言葉が出てこない。
 お前、俺を知ってたのか。飛行機乗りを目指してたって本当か。――もう嫌いになっちまったのか。
 どれも言葉にするべきではないように感じられ、ぱくぱくと口だけが動く。
 本田は、徹頭徹尾、ギルベルトのことをただの客として扱っているのだから、違う属性でこの一メートル四方の空間に侵入しようとすべきでないのかもしれない。アルフレッドに聞いた本田のプライベートな領域は、俺には開かれていない。
 項垂れ、卓上の瓶を指す。
「……それ、もう一本くれ……」
「……」
 しばしの沈黙の後、本田は小さく苦笑した。
「お腹、たぽたぽになりませんか」
「……宿に持ってく……」
「専用の栓抜きがないと飲めませんよ」
「う……」
 本田はまた笑った。溶けた氷の破片がさらさらと落ちていくような顔だった。
「お時間、ありますか」
「あ? あー……、うん」
 アルフレッドがうまくやってくれるだろう。
「少しだけ、裏手の芝生でおしゃべりに付き合ってください。――大阪君!」
 本田は向かいに声を掛けた。朝の青年が駆けてくる。
 二、三言やりとりした後、大阪とやらは値踏みするような目でこちらをじろじろと見た。商売の邪魔をするわけだから、甘んじて受ける。大阪はため息をついて、本田に向き直った。手を差し伸べている。その手を柔らかく断って、本田は言った。
「ちょっと、目立っちゃうかもしれません。すみません」
「え」
 がたん、と大きな音をさせて本田は立ち上がった。今までテーブルに隠れていた下半身が露わになる。
 本田の左足は膝から下が無かった。

 屋台の裏側にあった植え込みをまたげば、そこはもう芝生だった。臑ほどの高さも無い植え込みを、けれども大きく回り込んで、本田は芝生に先導した。松葉杖を使っての歩みはふらつくでもなく、ベンチに手をついて一人ですんなり座った。手を貸すと言い出す暇もなかった。そのきっぱりとした動きは、他人の同情を拒んでいるようだった。
 それでも――ギルベルトなら苦も無く行ける距離が、本田には長い。
 隻腕隻脚、義手義足の者は母国でも珍しいというほどではない。それをカバーしてキャリアを積んでいる軍人さえいる。けれども確実に言えることがある。少なくとも今は、どれだけ憧れても、それでは飛行機乗りになる夢は諦めざるを得ない。
 手で勧められたので隣に座り、頭を抱えた。
「……悪ぃ」
「……」
 本田はしばらく黙っていた。
「客観的に言って、貴方に謝る必要はありません。別のことについてなら、もう謝っていただきましたし」
「あ?」
「借りた側なのに取りに来いと言った件です。大阪君は負けん気が強いから文句言いましたけど、日本の商習慣では、身分の低い商人の側が売掛金の回収に出向くのはそうおかしなことでもありません。まして貴方は主催者側、むしろ主賓なんですし」
「そういうつもりじゃ……っ」
 なかった。急いでいた。そして――公会堂に来てくれたらついでにと少しくらい案内してやれるかと思った。展示はほとんど日本航空史の写真パネルだけど、機体を見せて説明するくらいはできたかもしれない。すごいですね、と言わせてみたかった――のだと思う。だから、露天商と軽く見て呼びつけたわけではない。
「ええ。――貴方は、フラットな方ですね」
「フラット?」
「『何様って、俺様だ!』って言えるくらいの人なのに、それを十銭のやりとりには持ち込もうとしない。飛ぶのを見せようとするけれども、たかだか数円の商いよりそっちが価値があるだろうとは思わない」
「え。そりゃ――そうだろ?」
 本田は返事をせず、微笑んだ。
「たかだかっていうけど、俺ん家だって貧乏だったし」
 一般的に言えば、飛行機乗りはそれになっている時点で富裕層だ。それでだろう、少し小首を傾げていたが、ギルベルトが言葉を続けなかったので、ややあって本田は言った。
「プール・ル・メリット勲章を授けられた方だというのに」
「あ。あー…」
 気づいていたのか。何なのかを知らないまま預かっただろうと思っていた。
「世界で数個しかないものでしょう。あんな貴重なものを軽々に人に預けるなんて」
 本田は笑った顔のままで怒ってみせた。もしかしたら話をそらしてくれたのかも知れない。乗っかって、肩をすくめる。
「……高そうに見えたら返さなきゃと思うんじゃねーかな、くらいのことだった。そんな適当に扱ってる訳じゃ……ねえ、ぞ」
 若干自信が無くなって語尾がぼやけた。何せ、投げて渡したから説得力がない。
 先の大戦で、敵機を五機墜としたパイロットは、どこの国でもエースと呼ばれ新聞に取り上げられた。国威発揚のためだ。あの戦争は科学競争という側面があったから余計に飛行機の戦果は喧伝され、トップエースは英雄視された。いくら貴重でも、からくりが見えた後は複雑な代物だ。
「折角なので一晩じっくり眺めさせていただきました。矯めつ眇めつ、月光に照らしつつ」
「へ、へー」
「美しいです」
 話の流れだからだろう、こちらを見てそう言うから思わずどきりとする。
「貴方の飛行機もそうですけど、ドイツのデザインは本当に洗練されていますね。額に入れて飾る美ではなく、ストイックな機能美。貴方も、新聞に載るような写真に切り取られた姿より、動いている時の方が美しい」
「……おう」
 かっこいいと言わせたかった筈なのに、やたらと気恥ずかしい。そして、針に指されたような痛みもある。
 十年前より今の方が絶対に上手い。飛ぶ姿を見せてすごいと言わせたい、見に来いよと言いたい、――いや、言いたかった。
 義足と称するのは憚られるレベルの、鉄のつっかい棒らしきものだけを膝の下から突き出した姿で、けれども本田は割に器用に歩く。目立つかもと言ったけれども、ぎごちなさが少ないからそう目を引くでもない。そして、例の日本人独特の視線に関するルールにもよるのだろう、通行人は、まるで目に入らなかったかのようにすっと目をそらしていく。突き刺さる視線は無いようで、やはり、ある。いや、無いことで、むしろ、ある。
 眼をぎゅっとつぶって、わしわしと頭を掻く。黙っていた本田が、やがて口を開いた。
「気持ちのしまいどころが見つからなくて感情自体に蓋をしてきましたが、――やっぱりお二人に会えて、声までかけていただいて、嬉しい気持ちもあるんです。今日も、出歩きたくないというだけじゃなくて積極的に見たくないという気持ちと、やっぱり見たいという気持ちでぐるぐるしてました。貴方は鳥のように軽やかに飛ぶから、空に鳩を見ただけで心が揺れました」
「俺は――飛ぶしかできねぇから」
 ゆっくり首を振る、それにつれて黒髪がさらりと揺れる。
「やっぱり、貴方が飛ぶのを、もう一度見たいです」
「……」
 顔を寄せ間近に見たが、本田の眼は凪いだ湖面のように静かだった。見たいというせりふは、腹からすとんと出てきたようだった。
 この顔には見覚えがある。
 ――兄さんが飛ぶのを、もう一度見たい。
 何もかもを捨象して、純粋なその願いだけに戻った時の顔だ。
 言葉に詰まって、その代わり、ギルベルトは本田の髪をわしゃわしゃと撫でた。
「わっ……!」
 何するんですかやめてくださいと腕で応戦しながら本田は笑った。その手ごと腕の中に封じて、顔を隠した。弟を思い出すと胸の底がじくじくする。
 ああ、そうかとギルベルトは思った。あの海の底に居るような本田の佇まいは、どこかルートヴィッヒに似ていたのかもしれない。生真面目そうな顔つきや静かな瞳、さらさらの髪。想起される記憶の断片がギルベルトの心をつつき、構いたくさせたのだろう。
「明日も飛ぶ」
「はい」
 見てろ、と言おうと思って、とめた。それは、何か違う。
 本田は、「見たい」と言った。俺は――
「お前が見てると思って、飛ぶ」
「……はい」
 腕の中から顔を出した本田は、照れたような顔で頷いた。

「やーっと戻ってきた!」
「あ。わり」
 わざわざ待っているとは思わなかった。「ほんのちょっと」と言って場を離れたから、すぐ戻ってくるだろうと思わせてしまったのかもしれない。
 向こうにいる興行主に謝罪のつもりで頭を下げたら、いやいやと手を振り返した。アルフレッドが彼や客の相手をしてくれたのかもしれない。アルフレッドも怒った様子では無い。それでも軽く謝意を示しつつ、隣に腰を下ろす。
「いや、さっきも言ったけど、営業だから平気」
「効果あったならよかったけどよ」
「うん。やっぱりアジアでは日本が一番反応いいからね。ほんとにこの国は新しいものが好きだな!」
「『平和記念』の飛行会もいくつか予定されているしな」
 平和記念か、と言って、アルフレッドは少し顎を掻いた。
「競争相手がどっと出てくるだろうから俺もうかうかしていられないな」
「競争相手? ――ああ、退役軍人のか」
 ヴェルサイユ条約はドイツに対して航空機の保有を禁じている。帝国陸軍航空隊は解体され、たくさんのパイロットが職を追われ、戦闘機もスクラップにされるだろう。金に余裕があり運良く払い下げの飛行機を手に入れることができたパイロットは、その技術を活かして曲芸飛行に乗り出すに違いない。
「『飛行機に乗ること』自体が仕事になる時代は終わるのかもな」
 呟くと、アルフレッドはBOO! と頬を膨らませた。
「俺はそうは思わないんだぞ。それこそ『空中文明』時代の幕開けなんだから、仕事はいくらだってあるさ」
「仕事はそりゃあるだろ、飛行機に乗って『何かする』仕事が。飛行機に乗ることは挑戦じゃなく、日常になっていく。実用化ってのはそういうことだ」
 アルフレッドはBOO……とまだ不満そうだ。
「……そう思って入隊したのかい?」
「あ? んー、いや。単に、金のためだ。その前に事故やらかして修理代必要だったし」
「ああ、戦争の直前だっけ? ちょっと怪我してたね」
 エンジンに不具合があって、着地ですべった。怪我は擦り傷と打撲の「ちょっと」の範囲ですんだが、交渉がもつれて機体の修理代を折半させられることになってしまった。貧乏な家に借金は重く、もう飛行機乗りなんてやくざ稼業やめるべきなのかと落ち込んだ時に、ルートヴィッヒが言ってくれたのだ。「兄さんが飛ぶのを、もう一度見たい」。体が弱く、激しい運動はできなかったからこそ、ギルベルトの飛行を見るのが何より好きな弟だった。そこに開戦と参加要請が来たから、愛機を手放して借金を清算し、月々のサラリーを従順に貰う身となった。
 頬杖をついて、アルフレッドは言った。
「俺、ちょっとショックだったな」
「あ? 俺の軍隊入りがか?」
 考えてみれば敵国だったなと思う。けれどもアルフレッドは首を振る。
「君が、誰かに命令される身になるのがさ。『飛行機乗りは、絶対の孤独と引き替えに絶対の自由を得る』って言ってたじゃないか」
 ぶべ、と思わず咳き込む。文学青年が言いそうなくさい台詞だ。
「そんなこと言ったか?」
「言ったさ。上下左右どう動くのも自由で、でも全部が自分の責任で、誰も助けてくれねぇんだって。俺の主人は俺様一人だって」
 それなら言ったかもしれない。どっちにしろ青臭くて気恥ずかしい。
「俺は、君を目指してたところがあったんだよ。けど、君の入隊で方針を変えた。俺は、俺のヒーロー像を目指すって」
 きりっと音がつきそうな顔でこちらを見る。失礼かもしれないけど言うのだ、という決意がうかがえる。若いな、と思う。少し、眩しい。
「最初からそれでいーんだよ。……さっきのも、別にお前は納得しなくったっていい」
「さっきのって?」
「仕事がどうこうってやつだ。お前は、お前であり続けることが仕事みたいな気もする」
「よく分からないんだぞ!」
 いいさ、と答えて、頭をわしわしと撫でると、アルフレッドは子供扱いしないでくれよ! と頬を盛大に膨らませた。それに笑いながら、変なの、と思う。子犬のようだと思う、それはアルフレッドでも本田でも変わらないのに、さっきはやたらと手が熱かった。
 言った言葉の底にある諦念のせいかもしれない。若い、そしてアメリカ人であるアルフレッドは、航空技術躍進の先頭にたって、生涯『冒険者』として過ごしていけるかもしれない。対して母国では、航空学は停滞することが目に見えている。できるのは、人に使われる立場で、『飛行機に乗って何かする』ことだけだ。敗戦とはそういうことなのだろう。他人を羨みはしないが、はっきりと立場は違う。
「君は、この後どうするんだい」
「来月の『平和記念』で飛ぶ。その後、フランスに行って、知り合いが立ち上げる郵便飛行機の会社に入ることになってる」
「へえ。一人で?」
「フランスに行くのが、か? ああ。もともと一人寂しすぎる身だしな」
 アルフレッドは一瞬黙ってこちらを見、それから顔を戻して言った。
「……来月、俺も飛ぶよ」
「そうだったな。負けねーぞ」
「ああ!」
 別に勝ち負けはない。タイムテーブルにそって二機それぞれ飛ぶだけだ。けれども、やっとアルフレッドが昔の笑顔で笑ったから、こう言ってよかったなと思った。

 明けて最終日のフライト前、いつもの手順で計器類をチェックし、ふと思い出して地図を取り出した。
 昨日本田と別れる際、手帳に改めて名前を書いて貰った。日本語ではどういう文字の並びなのか知りたかったからだ。字の一つ一つにローマ字の振り仮名までつけた後、本田は住所を書き足し、しばらく考えて、もう少しペンを走らせた。明らかに緯度と経度を指すその数値は、住所として指定された地点をさしているのだろうが、意味が分からない。もし本田の家を訪ねるとしても、東経〇〇度〇分〇厘の本田さん宅はどちらでしょうなどと聞くはずが無い。
 首を傾げつつ、とりあえず昨日の正午、滑走路付近で天測をしておいた。六分儀計はごく簡易なものだが時計は奮発して買ったブライトリングのクロノグラフ。天測は得意なのでさしたる誤差もないだろう。
 地図にこの二点を落としてみれば案外近かった。方角と距離からするとインサイドループを抜けて引き返す辺りだろう。どの家かなど特定できる筈は無いが、この辺りかと思ってちょっとによによできるかもしれない。
 それくらいに考えて地図をポケットにしまい、飛行を開始した。そしたら。
「――――!?」
 思わずゴーグルをあげて、機体から身を乗り出す。灰色の屋根が波を作る中に人らしき影があった。暢気に手を振っている。双眼鏡で確認するが、間違いない、本田だ。
「おっま……!」
 大きな屋敷の小屋か何かだろうか、こぢんまりとしたスペースながら、頂角のところに跨がっているから危なげではない。とはいえ屋根だ。隣に梯子が引き上げてあるが、あれで登ったのだろうか。あの足で。
 予定より少し大回りをして、その帰り道、可能な限り高度を下げてみる。機体を傾け、本田の側に最大限翼を見せながら横を過ぎると、一瞬だったけれども確かに本田が笑っているのが見えた。
 本田は画板を膝の上に載せていた。先の回転を描こうとしていたのだろう。
 考えてみれば、広場で観衆の中に混じるなら立ち続けなければならない。腕で体を支え続けるのは疲れるだろう。かといってベンチに座れば人垣で見えない。これだけ近ければ、確かに屋根の上は特等席かもしれない。
「…………ぷっ」
 驚きが過ぎていった喉の奥から、笑いがこみ上げてきた。思いもしないことをやってのける。
 深い海の底に沈んだような第一印象を引きずっていた。もっといえば、本人の抗議にもかかわらず、子供だという先入観が抜けないでいた。そして弟の面影を重ねてしまった。それやこれやで、[[rb:erbarme > あわれみ]]の気持ちに漬かってしまっていた。けれども――あの本田の笑顔。気づいた瞬間、驚きにバランスを崩した。それに気づいたからこその、「してやったり」の笑みだったのだ。
「こんのやろ……」
 見てやがれ、と心の中で呟く。これから最後のアウトサイドループだ。ギルベルトは大きく深呼吸し、操縦桿の先を見据えた。

 急用ができたと断りを入れて、ジャケットと飛行帽を放りだして会場を後にした。方角と距離は分かっているし地図もある。飛行機乗りの地形把握能力なめんなとばかりに歩き、屋敷の大きさから言ってもここだろうという家を見つけた。ドアベルは無いようなので声を掛ける。ドイツ語だなと思いはしたが、本田を呼び出せばいいのだ。いや、この家は皆本田か。じゃあ菊をと言えばいいだろう。けれども、いっこうに返事が無い。庭の入り口らしきところの門扉から上体を突っ込み、少し大きな声を出してみたが誰も出てこない。耳を澄ませてみると、なにやら庭が騒がしい。これは日本的に許されるのか許されないのか悩むところだが、ギルベルトはそちらに向かうことにした。声が妙に切羽詰まっていたからだ。
 庭には初老の婦人が立っていて、金切り声を上げていた。見上げているのは屋根の上、そこにはまだ本田がいる。
「おーい!」
 声をかけると、当然ながら婦人はひどく驚いた声を上げたが、それを上回る大声で本田が手を振った。
「ギルベルトさん!」
 婦人は本田を振り返った。
「————?」
「=====。==============ヘル・バイルシュミット==================」
 紹介してくれたのだろう、またこちらを振り返るからギルベルトは日本式にぺこりと頭を下げた。それに会釈を返して、婦人はまた屋根の上を見上げる。それに本田は何事か声を掛け、また問答が続いた。
「ギルベルトさん」
 もう一度呼びかけられ、「んあ?」と本田を見上げる。
「降りるの手伝ってくださいますか」
「おー。どうした?」
「ははを心配させてしまったみたいで。今男手がないもので、父が帰ってるまで降りるなというんですけど、流石に暑くて」
 年配に見えたが親だったのかと驚き、改めて頭を下げた。本田が童顔過ぎるだけだ。ということは、ここの[[rb:家刀自 > hausfrau]]ということだろう。なるほど質の良さそうな和服を着ている。怪訝そうな顔をしている婦人に本田が何かを告げると、恐縮した様子で頭を下げてくる。
「よく分かんねーけど、俺は、梯子支えてて、万が一やばそうになったらクッションマット代わりになればいいのか?」
「ご理解が早くて助かります」
 嫌味混じりの冗談のつもりだったのに、本田はあっさり頷いて梯子を下ろし始めた。このやろうと思いつつそれを受け取り、下で支える。母親は心配と申し訳なさの入り交じった顔で上を見、下を見を繰り返している。
「おい。大丈夫なんだったらそう言ってやれよ」
「普通の人が梯子から足を滑らす確率とそう変わらない、とは何度か言いましたよ」
 違ぇだろ。思わず心の中で突っ込む。それじゃ結局落ちる可能性があることを意識させる。家族というのは論理的説明より安心を欲しがるものだ。
 しかし一方で思いもする。今の本田の台詞が母親を全く安心させないというのなら、本田の自己認識以上に危ない、できないと思われているのかもしれない。人の過小評価は不全感を産む。本田の台詞が些かひねくれているのはそのせいだろうか。
「『たとえそこから飛び降りたってギルベルト様が受け止めてくれる、だから大丈夫なんだ』って言ってやれよ」
「……」
 降りるために背中をむけかけていた本田が動きを止めた。まじまじと見つめ返してくる。
「本気にしますよ」
「嘘なんかついてねぇよ。できないと思うことは口にしねぇ」
「じゃなくて、だったら飛び降りますよって」
 やっぱり、こいつは顔に似合わず捻くれている。再度このやろうと思いつつ、腰を落とし両手を広げる。いくら細っこいとはいえ、流石に五十、いや六十キロはあるだろう。
「く、来るなら来い……っ」
 ぷす、と本田は笑い、それを指さしながら母親に向けて何かを言った。コントのような雰囲気を感じ取ったのだろうか、ずっとおろおろしていた母親が顔を和らげた。穿って言えばそれが狙いだったのかもしれない。ギルベルトが梯子を支えに戻ったのを見て、本田はそれに手をかけ、膝までしかない左足もうまく段にのせて、ゆっくりと、けれども落ち着いて降りてきた。最後はギルベルトの肩に手を掛けてきたので、体を支えたけれども、危なげはなかった。
 ありがとうございます、と丁寧に頭を下げ、母親にも言葉を掛けている。二人の遣り取りが続いた。母親が安堵したような怒ったような顔で文句を言い、本田が宥めつつ言い返している。入ることができない雰囲気なので、文句は後に回すしかない。
 やがて母親はギルベルトに会釈して屋敷の中に入っていった。
「今お茶を持ってきてくれるそうです。宜しければこちらへお越し下さい」
 本田が掌で指したのは今までその屋根に登っていた小屋だった。小屋と言っても作業用の土間ではない。縁側付きの座敷が、それだけ独立して建てられたような形だ。そこが本田の寝起きしている部屋だった。縁側から、腰を掛けた姿勢で出入りできるので楽なのだという。
 その離れという建物の縁側に並んで腰を下ろす。日差しが遮られてちょっとほっとする。腕で額をぐいと拭くと、汗が服の色を変えた。けれども、今はそれが不快ではない。
 不快ではないが不満はある。
「おっまえ、俺が気づかなくて、ここにも来なかったらどうなってたと思ってんだ」
 本田の頬をびっとつまんで左右にのばすと羽二重餅のようににゅっと伸びた。
「いひゃいでふっ」
 本田がもがいている間に、母親が湯飲み茶碗を二つ盆に載せて持ってきていた。慌てて手を離す。大事な息子に何をと怒られるかと思いきや、しばらく呆れていた母親はふうと息を吐くように笑って本田に何か語りかけて去って行った。本田も微かながら笑みを浮かべている。
「楽しそうで何より、だそうです」
 茶碗に入っていたのは緑茶だったが、よく冷えていた。日本の一般家庭に冷蔵庫がどれだけ普及しているのかしらないが、贅沢なんじゃないかと思う。
「ほー、ならお楽しみを続行するか?」
 もう一度頬を引き延ばそうかと手を伸ばすと、笑ってかわして、本田は言った。
「こっそり上がって、そっと戻っておく予定だったんです。気づかれないように梯子も引き上げていたんですよ。けれども、爆音が気になったようでここまで様子を見に来て、いないいないと捜索になってしまったんです」
 いつもより低く飛んでしまったせいだろうか。少し肩をすくめる。
「……あんまり心配させんなよ。家族の心配ってのは理屈じゃねえんだ」
 本田は少しだけ口を結んだ。
「ドイツ語では何と言うんだったでしょうか。血は繋がっていないんです」
「それが何だよ」
 反射的に答える。ギルベルトとルートヴィッヒだって血は繋がっていない。髪の色も目の色も違う。それでも、ことあるごとに「ああやっぱり兄弟ね」と言われた。
 さっきの母親も本当に心配そうだった。「楽しそう」というのも、いつも楽しそうじゃない本田を見守ってきたから出た言葉だろう。
「……はい」
 頷いて、本田は母親から渡された画板に目を落とした。先に地面に落としておいたのだろう、少し土がついている。
 横から覗き込んで、驚きの余り身を乗り出した。
「えっ、これ、さっきお前が描いてたやつか!?」
「はい? そうですけど」
「うめー!! なんだお前、ものすごい絵描くのな! 設計図みたいに正確なのに、すげぇ迫力!」
「はぁ……どうも……」
「バランスもいいけど、陰影とか……えっ、何こっちはどっから見てんだ」
 ややあって気づいた。これは、操縦席から見た景色だ。計器類が下の方に映り込んでいて、その向こうに町が広がり、地平線の先に消えていく。当たり前だが、本田はこの景色を見ていない。見たことが無い筈だ。それでも知識と想像を組み合わせてこれを描き上げた。言葉を失ったまま二枚、三枚とめくる。ちゃっかりと屋根の上で手を振る自分まで描いた絵もある。小さいからはっきりとは分からないけれども、楽しそうな表情に見える。
 ああ、そうだ。お前はそんな風に手を振っていた。
「……すげぇ」
 放心して呟くと、褒められ慣れていないのか、本田は赤くした頬を指で掻いた。
「ど、どうも……」
 それは、深海魚のようでもなく、世間ずれしたひねくれ者のようでもなく――たとえて言えば小鳥のようだった。
 手を伸ばし、わしゃわしゃと頭を撫でる。
「や、やめてください! それ、髪が絡んでぐちゃぐちゃになるんです…!」
 わあわあと手を振り回すからもっと撫でてやる。
「もう! 子供じゃないって言ってるのに、なんで!」
 なんでってそりゃ――
「――撫で心地が俺好みだからな!」
 ああ、そっか、それでアルフレッドの時とはなんか違ったんだなとギルベルトはまた笑った。

 飛んだ後歩き回ったせいで、疲れていたのだろう。本田が手洗いに行ってくると言い、そのまま庭からまた別の小屋に歩き出した後、立てた膝の上に頭を載せて考え事をしていたら、いつの間にかうつらうつらしていた。
 本田の義母への紹介の中に、言葉の中にDeutschesにあたる言葉もPreußenにあたる言葉も無かった。人を紹介する時に国籍が必須だとも思わないが、日本ではほぼ百パーセント付加される説明だ。敵国だったからなのかなとちらりと思う。アメリカ人やイギリス人ならそれを言うのかも……滅多に無い思考様式に陥ってるものだとギルベルトは自嘲する。
 ああ、それから、とも思う。さっき「……はい」と、言い分を呑み込んだ様子で頷いた本田。ぽつんと隔離されたような小屋。この暑いのに、危ないから夜まで降りるなと言った義母。様々なことが塩に混じった砂のように歯に触る。
 本田の身を心配していたのは本当だろう、無事庭に降りたときの安堵の表情には嘘はなかった。この離れが本田にとって利便性が高いのも本当かもしれない。トイレが別建てなら、部屋と外との出入りは楽な方がいい。けれども、ここで暮らす本田を、あの深海魚のようにしか想像できない――
 ふっと風が吹き、意識がまどろみから引き上げられた。しゃっしゃっという音がする。何の音だろう、と姿勢を変えないまましばらく考えていた。風が気持ちよくて、そのままとろんとしていたかったからだ。意識の半分でしゃっしゃっという音を聞き続け、はっと気づいた。クロッキーの音だ。
 目を開けると本田が小さく「あ」と言った。そのまま画板を胸に抱いて小さく「おはようございます」なんて言う。
「こら、見せろ」
「い、いやー……」
「明らかに俺を描いてたんだろうが、モデル料代わりに見せろ」
 しぶしぶと、画板ごと差し出す。いかにもクロッキーらしい、全身をさっと線で描いたものが何パターンかある。面白いのは、本田はずっと左側にいたはずなのに、右から見た図も後ろから見た図もあることだ。それはクロッキーの趣旨から外れるものだろうけど、実によくできている。本田の空間把握能力は感嘆に値する。
 頷きながら見ていて、ぺろりと一枚めくると本田が「ぎゃ」というような声を上げ、取り戻そうと手を伸ばした。難なくかわす。さっき渡すときにさりげなく一枚戻していたのは気づいていた。描きかけていたのは今出てきたこの絵の筈だ。
 上半身のスケッチだった。全体はまだあたりをとった程度、顔だけが描き込まれていた。目をつむっていたのに、開けた状態で描かれている。焦点の合わされた眼は、きっちりと画面のこちら側を見ている。今は俺を、だからさっきは本田を。見ているのが気恥ずかしくなるほど、その眼はまっすぐにこちらに向けられていた。
「返して下さい……」
 顔を真っ赤にした本田がぐいと迫ってきたから、素直に返した。画板を伏せて置いて、本田は茶を飲んだ。気まずい。黙っているとこの居心地の悪さが熟成されそうだったので、もう一つの感想を言った。
「俺は、絵の寓意とか抽象とかさっぱり分かんねーんだけど、この絵の俺には、お前が言ってたフラットってやつを感じた」
「あ……」
「さっきの飛行機のもそうだったけど、お前の絵にはテーマ性というか、メッセージ性がはっきり出ている。何より、オモテから見てウラ側を描けるってのはすげえ強みだと思う。……仕事にできるレベルで」
 本田が手洗いに立つ前、いくつか指摘をした。俯瞰したとき地平線がこう見えるとか、尾翼の構造が少し違うとか。なるほどと頷き、修正を加えながら、本田もいくつか質問をした。高度五百で見える街並み、高度千で見える街並み。雲の上に見える太陽。こうだ、ああだという断片的な言葉を、本田は瞬く間に絵にしてみせる。飛行機の上で見た景色が画用紙の上に展開される。ぞくぞくするような興奮とともに、強く思っていたことがあった。この才能がただの趣味だなんてもったいない。
 考えたこともなかったようで、本田は眼を丸くする。
「伝手があるわけじゃないから紹介とかできないのに勝手言うのはなんだけど」
 そう言ったところで思い出す。今度世話になるフランシスならやたらと顔が広いから、もしかしたら雑誌の挿絵くらい回して貰えるかもしれない。うーん、それじゃ厳しいな、日本とフランスで画像の遣り取りをするなんて時間がかかりすぎる。いっそ本田がフランスに来ればいいんじゃないか。学校で習った程度でここまでドイツ語話せるならフランス語もじきに身につくだろうし、しばらくは通訳してやればいいんだし――
「わ!」
 突然叫んだので本田が眼をぱちくりさせた。なんでもない、と手で示す。今、ナチュラルに「来れば」と考えていた。どこにか。フランスに、ではない。俺が住むことになるフランスに、だ。
 手で目を覆って深呼吸する。暴走しすぎだ。初めて会ってから二日とたっていない相手に、何を。
「それはともかく」
「『それ』?」
「ともかく! 俺の連絡先書いとく。来月までは日本にいるけど、その後は俺の友達んとこに手紙くれれば届く。――飛行機のこととか、聞きたいことがあったら遠慮すんな」
 さっきの妄想のせいで気恥ずかしく、若干早口になったが、本田は気づかないようで「はい」と微笑んだ。
 本田の家を辞去し、一ブロック歩いたところで耐えられず走り出した。恥ずかしさが胃から戻ってくる。
 暴走には理由があった。描かれた顔を見ての、初っぱなの感想だ。この男、対象を、つまり本田を、見過ぎだろ。
 本田の絵はレベルが高すぎて、余計なところまで写し取っている。あの眼は、顔見知り程度を見る眼では無い。主観と記憶で描かれた眼を、けれども実際していただろうと思う。
 そして、本田がどこまで自覚しているのか分からないけれども、そういう顔を本田は選んで描いた。つまり――あの絵には、うまく言葉にできないけれどもこっぱずかしくなるようなメッセージが色んな層で溢れていたのだった。
「わー!!」
 ギルベルトは思わず叫んで、町を突っ走った。