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フラ菊

 日本人の「コンサート」体験記として最も古いものの一つが、久米邦武『米欧回覧実記』である。1971年から始まった岩倉遣欧米使節は外交儀礼の一環として各地で西洋音楽に触れたようだが、「奏楽アリ」などの簡素な記述が多く、感想・評価などは少ない。
 例外的に紙幅を割いているのが1872年6月17日からアメリカ・ボストンで行われた「太平楽会」(南北戦争及び普仏戦争の終結を記念する「世界平和祝典と国際音楽祭」)に関する記述で、上記の目的、会場の規模、演者数についてのみならずプリマ・ドンナの報酬についての噂まで詳述してある。
 使節団は18日と19日にこのコンサートに出かけている。件のプリマ・ドンナのアリアについては漢語を駆使してその妙技を讃え、また歌唱法やハーモニーに関する考察を行っている。ところがこの記述は、アンコールにおける人びとの感嘆から愛国心への考察へと滑らかに(読み手にとっては予想外に)話が流れ、「欧米ノ民開化ヲ論スルハ、愛国ノ心ヨリ始ル」と強調してコンサート体験をまとめている。
 従来これは、久米始め使節団の音楽的見識の低さ故に聴衆の感興を愛国心と誤解したためと理解されてきたが、その判断は、久米が持ち帰った公式プログラムから考えるに、該当する曲目は特に愛国心を惹起するようなものではなかったことによる。ところが、当時のボストンの音楽新聞を参照すると当日のアンコール曲の一つに「星条旗」が存在する。「星条旗」は1931年に国歌とされる前から国民歌として愛唱されてきた。久米が書き留めた考察は、南北戦争を終えたアメリカにおいて人びとが準国歌を斉唱することでナショナル・アイデンティティを再認識している様を正しく把握していたと言える。
 明治新政府の吃緊の課題は「国民錬成」であった。文部省は複数の人材を留学に送り出し、新時代の教育を模索した。アメリカに留学した伊沢修二は、留学以前からフレーベル教育に接近し、遊戯を心身の発達及び社会行動の訓練の場ととらえ、唱歌に注目していた。アメリカでも優秀な成績を修めた伊沢だったが、唯一苦手としたのが唱歌であった。その体験から、彼は所謂ヨナ抜き音階という考えに至った。ドレミファソラシドをヒフミヨイムナと呼んだ際のヨとナ、則ちファとシを除いた五音音階で作られた曲を多く採譜、または新規に作曲して、西洋音階風の唱歌教育を実施しようとしたのだった。現代では文化的な違いとして相対的に理解される音階の相違は、この頃は文明と未開の問題として受け止められていた。西洋音階は科学的な計算で導き出された完全な音階と見なされ、五音・六音音階は「それに足りないもの」と見なされたからである。
 伊沢の唱歌教育研究の成果が1881年の『小学唱歌集』である。伊沢はグラハム・ベルに学び、視話法と呼ばれる発音教育を紹介したことでも知られるが、そこには「世界スタンダードの喉」という発想が通底していることが分かる。
 帰国後の伊沢は多岐にわたる活躍を見せるが、その一つが東京音楽学校(現・東京藝術大学音楽学部)の設立である。世界水準の演奏家を輩出すべく講師を音楽大国・ドイツから招いた。しかし、明治二十年代の反動的風潮及び日清戦争準備の緊縮財政のあおりを受け、学校は、東京高等師範附属音楽学校と改組される。エッケルトが帰国したまま御雇講師も空席となっていたが、のち独立組織に回復し、ユンケル、クローンらを招き、演奏家を育成する仕組みを整える。
 戦前を通して、東京音楽学校の講師はドイツ派であり、フランス人講師が中傷により追い出されたことさえあったという。こうした中で当時世界の最先端と言われたフランス音楽を日本に届けたのは、陸軍軍楽隊の日比谷公園奏楽だった。1905年に開始され、第二次世界大戦中も続けられたこの奏楽では、ドビュッシーやラヴェルなどフランスの作曲家も多く紹介された。
 十九世紀後半にフランスを中心として起こった印象派の運動は、西洋文明の書法に対するオルタナティブとして、ジャポニスムとも重なり合う。音楽における印象派の筆頭と言われるドビュッシーは、1989年パリ万博で聞いたガムランの響きにインスピレーションを得たという。また、欧州公演を行った川上貞奴の劇にも影響を受けているという指摘もある。彼ら印象派にいち早く反応したのは、音楽家よりは、上田敏、永井荷風、島崎藤村といった文学者だった。
 もともと明治期における西洋音楽の摂取は、文字を通して行われるきらいがあった。二十世紀初頭にはワグナー・ブームと呼ばれる大きな流行があったが、それも焦点は(輸入・翻訳が可能な)オペラの筋立てにあり、音楽性ではなく文学性が評価の対象となっていた。生演奏を始め音楽そのものへ接する機会が生まれ、そうした状況が大きく変化していく転換期に、フランス音楽の流入は重なった。
 東京音楽学校がドイツ一色だったからこそ、フランス音楽への志向は、反アカデミズムという側面を持ち、また、最先端の流行への目配りを示すものとなった。フランス帰りのピアニストも登場し、その繊細さ、流麗さは評判を呼んだが、軟弱、派手などの非難もなされた。ドビュッシーの五音音階の導入については、上田敏などはその新しさを紹介したに留まったが、島崎などは、日本音楽との近似に注目した。ドビュッシーのステレオタイプとなる「日本音楽との親和性」という理解は、この頃に始まる。のちドビュッシーに影響を受けて「春の海」を作る宮城道雄も、ドビュッシーは「半音の半音」を志向しているのではないかと推測し、その響きに東アジアの楽器との共通性を感じている。
 作曲の世界でも、滝廉太郎は完全にドイツ流、山田耕筰はフランス流にも広く目配りをしつつ主体はドイツ流だったが、民族派、モダニズム派などと呼ばれるフランス音楽の影響を受ける若手が登場し始めた。この中の民族派と呼ばれるグループは、特にドビュッシーを入り口に西洋音階に親しんだ人びとが多く、そこから日本独自の音楽を創り出すことを目指していた。紀元二千六百年式典などで披露された交響曲は交響曲の定番である第一主題と第二主題の絡み合いを捨て、東洋的一元論を目指すかのように一つの主題で通しているが、これにもラヴェルの「ボレロ」の影響を指摘できる。
 第一次世界大戦は様々な側面で音楽史の画期となったが、その一つが前衛音楽の台頭だった。西洋音楽の三要素はメロディ・ハーモニー・リズムであるが、それらを再構築する試みが続いた。第二次世界大戦直後、実験音楽家であるジョン・ケージは、マサチューセッツ工科大学で無響室を経験、外部雑音を一切遮断しても拍動や耳鳴りなど体内で響く音は消えないと気づき、「沈黙」の意味を問う問題作『4分33秒』を作成する。
 社会主義革命により成立したソ連は、初期はそれら前衛音楽を奨励したが、後弾圧に転じ、むしろ民族音楽などの演奏を推奨した。米ソ対立は戦後世界を大きく規定し、双方のオリンピックボイコットを引き起こすなどしたが、フランスが主導したヨーロッパ経済共同体の形成など多極化によりその枠組みが揺らいでもいた。その象徴的出来事ともいえるのが、1984年のヴェルダン追悼式典である。招待された西ドイツ首相コールとフランス大統領ミッテランは納骨堂の前で沈黙のまま手を握りあい、「両国は歴史から、和解と相互理解と友情を学んだ。両国民は平和、理性、そして友好関係の道から後戻りしない」との共同声明を出した。
 東西対立の象徴であったベルリンの壁が壊された1989年のクリスマス、ドイツ融和を祝ってベルリンのシャウシュピールハウスで交響曲第九番のコンサートが行われた。演奏はバイエルン放送交響楽団を主体に、東西ドイツ及びその占領四カ国であった米ソ英仏の四カ国からなる混声オーケストラが行った。ユダヤ系アメリカ人である指揮者レナード・バーンスタインは、第四部の歌い出し「O Freude(歓喜よ)」を「O Freiheit(自由よ)」とし、大きな印象を残した。
 第一次世界大戦の時期に音楽史を変えたもう一つの側面が大衆音楽の隆盛と、それとあいまってのレコードの普及による音楽体験の変化だった。そもそも、現代で言う「クラシック音楽」及びその「コンサート」は資本主義社会が創り出したものと言える。それ以前、宮廷やサロンで王侯貴族のために奏楽されていた時代、音楽の主人公は演者に限られるものではなかった。王侯貴族は演者を支え、また注文をつけるという形で音楽体験のプロデュースを行っていた。しかし、ベートーヴェンの頃から一般化した「コンサート」にしろリストが始めたといわれる「ピアノリサイタル」にしろ、聴者は一方的な享受者・消費者にならざるを得なかった。レコードで聞く大衆音楽に至っては、聴者には音楽的知識の何者も要求されず、より耳馴染みの良い音楽が消費物として大量に供給された。
 そうした生産と消費のあり方をドラスティックに変えたのが初音ミクを初めとするボーカロイドである。それ以前からソフトを使っての作曲や器楽演奏を発表する同人文化は存在したが、キャッチーなモデルを前面に出すことで、技術的に抜けなかった機械っぽさをも物語の中に組み込む、壮大な音楽世界がユーザー協業によって成立した。
 当初は日本社会でも、まして海外では拒否感の強かったボーカロイドだが、アニメ文化・コスプレ文化の浸透とあわせて少しずつ海外にもファンが生まれてきた。初音ミクは2013年にはパリオペラ座でオペラ「THE END」を上演、話題を博した。今年はフランス語ボカロ「ALYS」も登場する予定だという。

本編主要参考文献
佐野仁美『ドビュッシーに魅せられた日本人 フランス印象派音楽と近代日本』昭和堂、2010
奥中康人『国歌と音楽 伊澤修二がめざした日本近代』春秋社、2008
岡田暁生『「クラシック音楽」はいつ終わったのか? 音楽史における第一次世界大戦の前後』人文書院、2010
伊東乾『なぜ猫は鏡を見ないか? 音楽と心の進化誌』NHK BOOKS、2013