Je suis ici.

フラ菊

4 「私は……私でいいんですね」

「ああ……」
大屋根の黒板をそっと撫でながら呻く。
「やっぱりグランドピアノは美しいですね」
「ピアノの女王・エラールだからね」
とはいえ、スタインウェイやベヒシュタインには完全に水をあけられた。ホールでの響きが違うのだ。それでもフランスにはエラールの微音の美しさにまだ愛着がある。
撫でたところを軽く拭いて、日本はそっと人差し指を白鍵に遊ばせた。
「自分の部屋でこの音が出せるなんて、羨ましいです」
「……」
買えばいい、という話ではない。日本家屋にグランドピアノを持ち込んでも「この音」は出ない。材料も、空間の大きさも、いや建築思想そのものが違うからだ。
おいで、と座面を叩くとぽっと頬を赤らめて日本は隣に座った。
「自分の部屋だと思って弾きに来ればいいじゃん?ここに」
「ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる。
とんでもないおこがましい!と首を振られなくなっただけ進歩だ。甘えていい、自分はそれを許しているというメッセージを何度も何度も、会うたびに繰り返して、やっとここまで来た。「だって、俺、日本のこと好きだし」。その言葉を、まるで甘いお菓子を前にした少女のような眼で聞きながら、けれどもそれを呑み込もうとはしないのだ。まるで舌に乗せた途端消える綿飴ででもあるかのように。
日本の黒い眼に、穏やかなベージュ色の肌に、現れ、零れ、伝わってくるのは紛れもない好意であるのに、まるでそれは自分だけの思いであるというように、ゼリーのような透明なもので包み込んでしまうのだ。それでも、
「……なんですか。くすぐったいです」
耳に触れたフランスの手を笑いながらはずそうとする、それを柔らかく左手で掴んで、フランスは日本の耳をなぞり続けた。こういう接触を許しはするのだ、日本は。誰にでも、ではないことは分かっている。そもそも椅子に並んで腰掛けるというこの距離が、日本の対人関係のとり方としては破格なのだ。
「耳の形ってすごく不思議だなって」
「え?ああ、そうです、っけ……」
「ああ、自分では見えないか」
フォルムは人によって全然違うのに、その人自身にその形は知覚されない。日本の耳の美しさを日本は知らない。しみじみとそんなことを思いながら耳殻をなぞる。軟骨を覆う薄い皮、あるかなきかの肉。いつもは無造作に髪に覆われているこの線をなぞらせてくれるくらいには、フランスも許されている。
くすぐったいのだろう、日本はくすくすと笑った。そろそろ勘弁してやろうと、最後に軽く耳朶を挟んで手を下ろした。
「ねえ、日本。耳って何のためのものか知ってる?」
「え?聞くためでしょう」
「うん、勿論そう。でも、もともとはジャイロスコープなんだよ」
知ってる?と眼で問うと、日本は小首を傾げた。
「振り子のフーコー氏の……?」
「うん。角速度機そのものを彼が作ったわけじゃないけどね」
どんな速度でどれくらいの角度を付けて体が動いたか、それを内耳で測定する三次元ジャイロスコープが三半規管だ。
「だから、耳はもともと自己定位器なんだ。今自分はどっちを向いているのか、顔を上げているのか俯いているのか……誰を見ているか」
言いたいことが分かったようで、日本は顔をフランスに向けてくすぐったそうに笑った。
「そうやって自分をきちんと握りしめる器官であり、かつ、人と応答し、繋がっていくためのものでもあるのですね」
「そして、綺麗な音を聞いて、〝綺麗〟を自分に溜めていく器官でもある」
なるほど、と髪をかき分けるようにして日本は自分の耳の形をなぞり、耳朶を指で挟んだ。細い指が耳に絡み、離れていく。意図していないだろうに、その動きには艶めかしさがあった。
「……」
「何か?」
「いや!いやいやいや」
何でも無い、と顔の前で手を振った。
「そうそう!今日手に入れた楽譜はね、ちょっと気合い入れて弾きたいからそっちの椅子に座ってくれる?」
曲を聴きたいというより音を聞きたいというのがプチ演奏会の主目的だから、隣に座らせたまま悪戯弾きすることもよくあった。屋根を開けた時の音、ペダルを踏んだときの音。弦を直接叩いたときの音。無音が続いた後のピアニッシモに、フォルテッシモの後のピアニッシモ。
それでも時々はリサイタルばりに通しで弾くこともあった。
「あ、はい。大作なんですか」
「ううん、全然。短いよ」
でも、難しい。楽譜を見たときにはなにこれと思ったものだ。とても耳に優しい曲なのに、指に優しくない。いや、そんなに技巧的に難しい訳ではないけれども、こういう曲想の曲は今までなかったから、「聴かせる曲にする」のが難しい。……腕が鳴る。
譜面台に立てかけたのは、前世紀末頃から知られるようになった作曲家、クロード=アシル・ドビュッシー。彼がこのほど作り上げたピアノのための前奏曲集だ。続けて聴くとまた作曲家の狙いが読み取れて面白いが、今日本に聴かせたいのは何と言っても第八曲の「亜麻色の髪の乙女」。
〝Tres calme et doucement expressif ――非常に穏やかかつ優しい表情を付けて〟。変ト長調のピアノで始まるこの曲は全体的にやわらかな日差しの午後、時々風とともに雲間から煌めきをこぼすそんな春の暖かさを持っている。あくまでゆったりと、揺らぐように。
そして展開部の独特な和声進行。変位や導音の省略で今までに聴いたことのない、それなのに耳馴染みのいい響きを作り上げている。
さて、気づいただろうか。
フレーズの切れ目で横目を流すと、小さく口を開けた日本が目を大きく開けていた。よし、と心の中で拳を握る。
〝ああ君の大きな瞳、薔薇色の唇をずっと見つめていたいから〟。乙女と呼べば日本は怒るかも知れない。けれども、伝わるといい。ひばりが歌う愛の歌、それを届けたい気持ちがフランスにもあることを。
最後のフレーズ、〝Murmure et en retenant peu a peu――ざわめくように、そして徐々に収まるように〟。静かに、丁寧にコーダを表現し、Ⅴ度とⅣ度の和音を同時に響かせる。ピアニッシモの最後の和音は純粋なⅠ度。最後まで心を配って余韻を響かせ、姿勢を戻した。
拍手はなかった。日本は、完全に放心していた。見開いたままの眼を、やがて一度、そしてもう一度瞬きし、やっと呟いた。
「今の……」
「綺麗な曲だったでしょ」
「ええ。ええ……、でも、四七抜きでした……よね」
「うん」
「それで、プレリュードが作れるんですか……いや、作れるんですね……」
完全に五音音階というわけではなく、時々西洋音階に戻ってはいるが、中心となるメロディラインが五音なので東洋的とも西洋的ともつかない不思議な響きになっている。彼の仕事は全体に機能和声への挑戦という部分があり、前奏曲集第二曲「帆」では全音音階を採って揺らめく布を表現するし、先立つ楽曲「版画」の「塔」は、五音音階が中心となる骨格を喪ってしまうことを利用して、しっかりした構造美を持たない、たゆたう音の世界をこそ聴かせている。
まだぼんやりしている日本の肩を叩いて、ピアノの前に座らせる。そのまま珈琲を淹れにいくと、背後でぽんぽろんと音が響き始めていた。
場を離れ、食器を扱いまですると、やはりエラールの音はかき消されてしまうな、とフランスはため息をついた。やっぱりあれは、サロンで少数の王侯貴族にだけ聴かせていた時代の遺物なのかもしれない。今、「演奏」は大観衆の前で行われるのが当たり前になっている。そうなるとホール中に響かせることのできるアメリカ製やらドイツ製やらが、やっぱり強い。時代は音楽を容赦なく変える。……けれども、それが面白い変化を産むこともある。
カップを持って戻ると、日本はまだ楽譜に目を寄せて、旋律をさらっていた。どうぞと差し出すとはっとしたように手を止め、両手で受け取る。横向きに座って一口含み、ゆっくりと味わってから目を開けた。
「すごく、懐かしい気がしました」
「あ、なるほど」
フランスにとってはただただ新鮮だった。行き着くところまで行き着いた感のある調性音楽の世界に風穴を開ける音楽だろうとも思った。音楽理論に縛られ、新しい表現ができなくなっていた西洋音楽は、東洋という未知の世界を知って、天井だと思っていたところから更なる世界を開き始めた。彼らが印象派と括られるのは、遠近法を大胆に無視して独特の表現をしていたウキヨエに影響を受けた画家グループとそんなところが一致するからだ。
「俺はね、天窓の覆いをとったような気持ちになった。バッハ以来がっちりと作り上げてきたからこそできなかった表現を、『あ、できるんだ』と思った瞬間、さっと光が差し込んできた……みたいなね。世界が広がって、俺たちヨーロッパ人が、これまで聞いてこなかった音を聞いたからだよね。日本に言うのは変かも知れないけど、教えてくれてありがとうという気持ち」
「……」
かちりという音がした。ソーサーに戻したカップに目を落としたまま日本は言う。
「私は、ずっと自分が不完全なのだと思ってきました。未熟だというなら鍛錬するし、無知だというなら学習します。けれども、器質的に欠けているのなら、私は、どうやっても文明の庭には入れない」
けど、と日本は顔を上げた。
「私にとっては既存の構築物だった『文明の庭』が、私のいる世界に向けて広がってくることがあるのですね」
「うん、多分こういう流れはずっと続いていくんじゃないかな」
アメリカで流行り始めたジャズというジャンルも、こうした「音楽の閉塞状況」に対するブレイクスルーだ。西洋音楽の理論に基づいているけれども、そこには明らかにアフリカの風が吹いている。ドビュッシーに最初のインスピレーションを与えたのは東南アジアの音楽だという。こうした、双方向的に世界が開いていく動きは不可逆のものだろう。
「私は……」
日本は声を詰まらせた。ソーサーを持つ指にきゅっと力がこもる。
「私で、いいんですね」

――――「絵画と言わず、文学と言わず、昔からある吾国の芸術は印象派的の長所を多分に具備して居ります。吾儕は生まれながらのアンプレッショニストの趣があります。吾国の音楽が姉妹の芸術から独り仲間はずれであるとは考えられましょうか」(島崎藤村)