Je suis ici.

フラ菊

3 「初めてです、そんなこと言われたのは」

かのショパンは、学校で音楽理論を習ったとき、忘れていたものを思い出した気持ちがしたという。つまり、習う前から、理屈を越えて自然にあるものとして、ハーモニーは彼の中に存在し、自在に取り出すことができた。神童ぶりを表すエピソードである。
「そうだったんだ……」
言葉は意図せず口から零れ、日本の顔を怪訝にさせた。文字面では繋がっているように見える文脈が、雰囲気では大きく転回していると気づいたのだろう。
カタナみたいだと思った。鋭く尖り、光る日本刀。実用を追求した末に、意図せず現れた美しさ。――それに、ずっと目を惹かれていた。生真面目にひた走る姿、懸命に学び取ろうとする瞳。俺、日本のこと好きだったのか。それで、他国との間に見せる『仲良し』に小さく苛立っていたわけか。
「なるほどねえ……」
「あの。何か?」
「うん」
言葉は続けず、右手をドドソソララソソと遊ばせた。誤魔化されたと思った日本は少しむくれた顔を見せたが、第二変奏、第三変奏と進むとフランスの両手が織りなす曲の煌めきに夢中になった。
「ほんとに、きらきらしていますね。音の粒が、星のような、真珠のような」
ああ、星の歌だと思っているんだなと、フランスはにっこり笑いながら考えた。英語の歌詞のそれにもう慣れたけれども、フランスにとってはやはり恋のシャンソンだ。〝お母さん、あのね〟。〝恋が心をくすぐると、なんて甘い気持ちになるんでしょう!〟
ぱちんと片目をつぶって言ってやる。
「日本もね。目がきらきらしてる」
からかわれたときにいつもそうするように、日本は少し顔を赤らめて眉を寄せた。
「そういうのは綺麗なご婦人にいう台詞です」
「綺麗に男女は関係ないよ。日本は綺麗だなって、俺は思ったんだ」
「もう」
わざとのように頬を膨らして、日本は余所を向いた。
努力をしているのだそれでも追いつかないのだと告白をされた、そのタイミングで、可愛いという言葉を軽率には言えない。好きだというのも唐突だろう。だけどフランスはそう思ったのだし、そう言いたかった。少なくとも今は言えない気持ちを、だけど、音で表現できた。モーツァルトありがとう。
この変奏曲では、耳馴染みの良すぎる、言ってしまえば単調な主題が、アルペジオ(音が連続して上昇または下降する分散和音)や転調で感情豊かに表現される。速さや運指といった技術的難易度もさることながら、まさに日本が言った「音の粒」を聞かせる技量を要求する曲だ。
ぱちぱちぱちと、日本は盛大に拍手した。また恭しくお辞儀をしてウィンクをしてやると、日本は破顔して再び拍手した。
「間近で聞くと、やっぱり違いますね!」
「あ」
ぽんと手を打つ。その言葉が、訪問の目的にかちりと繋がった。
「戦勝おめでとうを言いに来たんだった」
なぜ今、を顔に書きながらも、日本は慎ましい礼でそれを受けた。
「それでね、国内向けに成果をアピールしたい時期でしょ。ちょっと景気のいいイベントなんかやりたくない?」
「あ、はい、それは」
「軍楽隊の演奏会とか、どうかなって。プロの演奏を国民みんなが気軽に聞ける場があるといいと思わない?」

日本陸軍が軍制をドイツ式に切り替えた後も、陸軍軍楽隊はフランス式制度が維持された。指導したのはフランスで軍楽隊長を勤めたこともあるルルー。その後を渡仏経験のある日本人が引き継いで、かなり高度な技術と理論が講習されていた。音楽といえば遊芸の域、男子一生の仕事に非ずという雰囲気が――日本の悲壮な決意を知ってか知らずか――覆っている中、両軍軍楽隊の隊員は演奏に人生を献げる大義名分を持っていたのが功を奏した。今の時点で「プロ」と呼べる演奏家のほとんどが軍楽隊と言っても差し支えない。
であるのに、と日本は気を揉んだ。
「それに見合ったホールを用意した方がよかったのでは」
フランスはちちっと指を振った。
「気持ちのいい場所と気持ちのいい音楽。セットで『素敵体験』にしていく方が最初はいいって」
何せ目的の第一は「耳を慣らす」なのだ。敷居は低いほどいい。まだ夏の盛りなのだから、密閉空間に籠もって椅子の上で体を強ばらせるより、吹き抜けの空間で風を感じながら楽しめた方がいい。フランスは、ざっと首を回して周囲の木々に目をやった。日比谷公園の奏楽堂。キャパシティが小さいのは残念だが、それが「大入り満員感」を演出してくれてもいる。何より、東京の真ん中にありながら、木々によって日常と隔てられ、爽やかな異空間を作っている。
敷居をさらに下げるために、整理券は特別に無料で配ることにしたという。後々のためにも「ただ聞き」できる程度のものだと思わせたくはない、けれども今は、器楽演奏に興味関心の無かった人にも聴いてみてほしい段階なのだ。
特別に「景気のいいイベント」を打つのに日露講和目前というこれ以上のタイミングはない。存在意義を示したい軍楽隊と、西洋音楽の啓蒙をしたい日本の思惑は上手く噛み合っている。そして、フランスの思惑もちゃっかり入っている。
「ぷーちゃんじゃないけど」
「はい?」
「俺の音楽も聞いてよ、ってね」
ウィンクをしてやると、あ、はいと慌てたように顔を赤くして日本は頭を下げた。ワーグナー・ブームもあって日本の論壇ではドイツ音楽ばかりが取りざたされているけど、いい曲はフランスにもある、その自負はある。聴けば好きになる、きっと。ちらりと横を見ると、恐縮を全身で表しながらパンフレットを眺めている。書いてあるだけで十曲弱、かなりの曲数だが、歌劇中心、邦楽も混ぜて、コンサートの経験を持たない人でも足を運びやすいよう考えられたプログラムだ。そして、東京音楽学校の演奏会ではあり得ないほどの割合でフランス音楽が入っている。前に日本が言っていた「三方一両得」ってまさにこれではないかとフランスは満足して顎を撫でた。
「あの」
「うん?」
目線を落とすと、パンフレットで顔を隠しつつ、日本が言った。
「私自身の耳も、鍛えなければならないと思うのですね」
「うん?」
来てくれてるじゃない?と首を傾げたフランスに、日本は俯きの角度を大きくしながら、そっと言った。
「あの。皆のための大々的な奏楽会も有り難いのですけど……この前のように隣で弾いたり、してくださらないかな、とか……」
言葉を失ってまじまじと見る。髪の間からわずかに覗いた耳が赤い。
「……」
〝恋が心をくすぐると、なんて甘い気持ちになるんでしょう!〟
「もちろん!」
うわ、声が浮かれてる。思わず顔に手を当てて、フランスはその陰に緩む口を隠した。

「というのはですね」
このまま肩まで抱いてしまいたい気持ちを一瞬で冷ますような真面目顔で、隣に腰掛けた日本は「宜しくお願いします」と頭を下げた。
「この前きらきら星変奏曲を弾いて下さった時、私が弾いたものと違いすぎて、びっくりしたんです」
いえ、もちろん!と日本はばたばた手を振った。
「レベルの差は分かってます。私は初心者ですし、フランスさんは……リストの弟子ですし?」
あ、冗談言うくらいの余裕はあるんだとほっとして、フランスは笑顔を返した。
「そういう問題ではなくて、何か決定的に違うような……」
首を傾げた日本に、うんじゃあ、と鍵盤を指した。
「弾いてみせてよ」
「え!」
先ほどの倍ほどの勢いでぶんぶんと手を振る。
「無理です!とんでもないおこがましい!……横から見せて戴ければ、それで」
聴きたいだけなんですと縮こまる。小さな肩がより小さくなっている。
「うーん!」
「厚かましかったでしょうか……」
「そういうことじゃないんだけど」
そして、理解ができないわけでもない。弟子なら先生の前で弾くのは当たり前だが、日本は別にフランスに習いたいというわけではない。先生は別にいる。
それが分かっても、やはり切ない。恥ずかしいからと自分を開かないのは「他人」に対する身の振り方だという気がする。もっと見せて欲しい、自分から踏み込んできて欲しい。前には「貴方に見られても何も気にしない」と扱われるのが寂しいと思ったくせに、人とは欲張りなものだ。いや、恋とは、なのかもしれない。恋は人を欲張りにさせる。恋になれているフランスだからこそ、それが自分勝手だということも分かっている。
「えーと、さ。センセイみたいに呆れたり叱ったりしないから、気楽に弾いてくれたらいいんだけど」
聞きたい理由はそういう問題ではないのだけど、第一変奏をゆっくり弾きながら笑って言うと、日本は握った手を摺り合わせた。「違い」が知りたいと言ったのだから自分も弾くのが筋だ、そう思ってはいても気後れするのだろう、肩で大きく息をして、一度、二度と指も動かして、それでも困った顔をしていたが、フランスが弾き終えてすっと鍵盤から身を離すと、きゅっと口を引き結んで、第二変奏を弾き始めた。
「……………………………………」
弾いてもらう方便として言った台詞がフランスの脳をちかちかしながら横切っていった。「呆れたり叱ったりしないから」。言った以上、するわけにはいかない。叱るつもりは最初からないけれども、「美しくないもの」に呆れないでいるのは、フランスがフランスである以上、難しい。どうしよう、これ。半ば固まりながら音を聞いていたが、やがてそっと日本の顔を伺った。はっと息を飲んだ。やはり、カタナのような顔だった。緊張で顔は硬く強ばっているが、その瞳は深く黒く鍵盤を見つめている。人の辿り着けない湖に張った氷のようだとも思った。
恋は甘い、それはとっくに知っている――と思っていた。けれども、こんな、玻璃のような硬質なものに惹かれたことはない。甘い、くすぐったい、とろけるような恋、その美味さは十分知っているけれども、今までのそれらとは違う、何か清潔で軽やかなものが二人の間に現れるのではないかと期待してしまう。うわあ、とフランスは口を手で覆った。俺、ものすごいマジじゃない?
日本はそのまま第三変奏に入った。先ほどは左手に、今度は右手に美しいアルペジオが要求される。要求されているんだよ……。
演奏に顔を歪めずにいるという試練に立ち向かっていたフランスは、ふと気づく。確かめるために心の中でメトロノームを鳴らす。ああ、そうだ、やっぱり。「弾けていない」わけではないのだ。
手を止め、日本は大きく息をついた。ぱちぱちと拍手すると、ぺこりと頭を下げる。その仕草に確信する。やはりそうだ。日本は、こう習っている。習った通りに弾いている。きちんとできたと自分で思ったからこその会釈だ。
「すごい正確だね。時計みたいだった」
皮肉になりかねない言葉だったから慎重に言った。果たして日本は素直に頷いた。
「きちんと拍が取れていたなら良かったです」
「指もよく回ってる」
それを、それだけをたたき込まれていたのだろう。音楽学校の講師陣は誰だったかと記憶を探る。もともとドイツ系は「弾ける」の主軸をそちらに置きがちだ。思い出した顔ぶれに、さもありなんと頭を抱える。
でも、と日本は握った手を口に当てた。
「フランスさんの弾いたのと全然違いますよね」
「うーん……音色については、どうしろと言われている?」
「ねいろ?」
それはどういう意味ですかという顔で日本は繰り返した。なるほど。意識したことも、しろといわれたこともなかったらしい。第三変奏のスタッカートなど鍵盤をぶったたいたのだろう。そうしなければ音が出せないほど鍵盤が重く感じたのかもしれない。
固いのが固いの真似してちゃ、か。勿論真面目に教えて真面目に習ったからこそここまで正確に弾けるのだろうけど。
「実は、プロイセン君の弾いたのとも、やっぱり違うような……?」
「ああ、うん」
それについてなら、言ってもいいだろう。ドイツ式を全否定するのも混乱のもとだろうと口を重くしていたけれども、これは流派の問題ではない。
「体格が違うのに、姿勢から何から真似しようとしてるからだと思う。あいつああ見えて体幹すごくしっかりしてるから同じ姿勢で柔らかく弾くことができるんだけど、日本は背中が固まっちゃって、腕だけで弾いてる」
「え、え、え」
日本は、初めて聞く話で何が何だかという戸惑いを顔中に見せた。
「背中、ですか?」
「うん」
目で「触るよ」と告げて、腰にふわりと掌を当てた。
「ぴんと背筋を伸ばしてると、掌全部は当たらない、分かる?手の真ん中あたり少し浮いてるでしょ。これが自然に全面触れるくらいまで力を抜いて」
「は、はい」
「ここを俺が支えてるから、自分は大丈夫、ぐらぐらしない!ってイメージして、ふわっと指を鍵盤に乗せてみ」
「はい……」
「で、右手で主題弾いてみて。手首柔らかくして……鍵盤の下に陶板があっても割らないくらいのつもりで」
「はい!……はい……」
訳も分からず指示に従って弾き始めた日本は、しかし、数小節もすると何かに気づいたような顔になった。
「音が……違うような」
「でしょ」
にこりと笑ってやると、ぱし、ぱしと大きく瞬きをした。少し顔が赤い。
「これが、音色ですか」
「綺麗でしょ」
こくんと頷いて、日本はしばらく弱音のまま弾き続けた。単純な四分音符が、綺麗な音の粒を作っている。日本はそれを浴びるように神妙な顔で第四フレーズまで弾いた。
そして日本は考え込むように下を向いた。教わったことと違うからだろう。フォローを入れておかなければ。
「音が汚く聞こえるのって、ほとんどはミスタッチで不協和音になるときなんだけど、それは起こってない、その意味でちゃんと弾けるようになってるよ。でも、ピアノってのも物理法則だからね。鍵盤が鍵床に当たれば衝突音がするし、指が鍵盤に当たったときだってやっぱり音がする。そういう雑音を除こうとすると、柔らかい弾き方になる」
「初めてです、そんなこと言われたのは」
「うん、まあ……人によって何を優先して教えるかは違うから、さ」
なるほど、と日本は頷いた。そのまま落とした目で手を見ている。
「私は、まだその段階ではないということですね」
「んー?」
そうとるか。いやそもそも芋野郎教授陣にそれを教える気があったかどうか謎なんだけれども。ドイツ人てのは美とか優雅さとか分かってない。
「弾く技術については、違う人に習わない方がいいと思うから俺もこれ以上言わない。でもさ、日本は自分で気づいたよね、音色の違いに」
「え……はい」
「だったらさ、耳は自分で鍛えたらいい。綺麗だなと思うものをたくさん聞いたら、自分の音にもかえっていくから」
「はい。……あの、ありがとうございます」
狭い椅子の上で窮屈だろうに、日本は深々とお辞儀した。
「教えてくださったこともですが、先ほどの手も。すごく」
あ、そういえば触っちゃってたなと思わず胸の前でホールドアップ態勢を取る。しかし、それを見ないまま、腹の上に両手をあてて、日本は目を閉じた。
「支えられました。おろおろとか、びくびくとか、そういう気持ちがすっと抜けていって、丹田に力がじわっと溜まりました」
「うん?」
「これからも、弾くときにはフランスさんの手を思い出します」
ゆっくりと目を開いて、日本はふんわり笑った。上気した頬がフランスの心をきゅっと掴む。詩の一節を思い出す。〝神の気配をたたえた君の口もと。ああ可愛い君、キスしたくなるほど!〟
「そして、宜しければこれからもフランスさんのピアノを聞かせてください。私がこの耳で聞いたことのある、一番綺麗な音ですから」

――――「当時の日本のピアノ界はドイツ流一点張りで、音の美しさや、繊細さなど一向お構いなく、ただ強く、ばりばり弾けばよいという風潮が、長年の上野の伝統と風習になっていて、それが世間にもび漫していたのである」(野村光一)