雨と隕石

APHその他CP

サロンから一番近いメトロの入り口は、狭い階段しかないこともあって人気が少ない。傘を閉じながら薄暗い入り口に佇む人影を見、そのまま階段に視線を移そうとして、はっと菊は振り返った。
ローライズのジーンズ、きっちりとまとめあげられた髪、サングラス。記憶の中の姿とはまるで違う装い。
「ナターリャさん…」
パーカーのポケットに突っ込んだ手を挙げもせず、ナターリャはにっと笑った。

「賭をしていた」
二度ほど来たことのあるカフェに落ち着き、彼女は言った。全面ガラス張りで温室のようなカフェの向こうは止みそうで止まない雨が道をぬらしている。
「どんな…?」
「お前が私に気づくかどうか、そして声を掛けるかどうか」
菊は思わずため息をついた。それはつまり、彼女を心から捨てられているかどうかの確認だ。どこまで馬鹿にされているのか―――またはひとでなしだと思われているのか。
「…掛けなかったらどうするつもりだったんです?」
「手段はいくらでもある。ドアくらいなら壊せる」
「違法ですよ」
思わず笑ってしまった。何の会話だ。何を悠長に話しているんだ。
アイスコーヒーが運ばれてきた。菊は一口含んだが、ナターリャは動こうとしない。サングラスもかけたまま、パーカーに手も突っ込んだままだ。
グラスを戻しかけたところでナターリャが口を開いた。
「兄さんとは会っているのか」
それでもまだ着地していなかったグラスの中で、氷が揺れて音をたてた。
「……忙しい人ですから」
そうそう会えない。それが幸いなのかどうなのかよく分からない。あんな興奮状態を日常的に味あわされれば頭がおかしくなってしまう。けれども会えないでいる間に、ふと気がつくと「それ」を考えてしまっている。
360度どこから見ても美しい手。グラスを掴む手、椅子の背もたれに回された手、サングラスを押し上げる手。
そして、
―――本田君。
ささやき声とともに顔の横で髪に差し込まれる手。
それだけで達してしまう菊は、終盤には脳が焼き切れて、意識さえ失ってしまう。
ナターリャはしばらく黙って考えるように菊の目を見ていたが、目線を外さないまま、ゆっくりとポケットから手を引き抜き、グラスを掴んだ。
目を射貫かれているとはいえ、視界には当然入ってくる。特にもったいをつけているわけでもないのに流れるように動いたその手に、菊は、自分の制御のきかないところでスイッチが入ったのを知る。
「…………ひどい人だ、あなたは」
声はかすれた。ナターリャはもう片方の手でサングラスを外し、目だけで微笑んで見せた。

入れ替わりに浴室へ向かうナターリャの後ろ姿をしばらく見送って、菊はため息をつき、ベッドに寝転がった。

「本当に、よく開発されているけど――」
婉曲語法という言葉を辞書に持たないのもきょうだいの共通点だ。イヴァンは眉をしかめる菊に構わず続けた。
「君は、基本的にヘテロなんだよねえ」
「……」
そんなことを考えたことはない。同性愛・異性愛の線引きの前に、自分は「変態」だった。今でも「人」に惚れる感覚の分からない菊は、どちらなのかと判断することができない。
菊に分かっているのは、貫かれる快感は本物だということだけだ。
それを口にするのは余りにも難しく、だが取りなしをする必要は感じられて、顔を赤くして困っていると、イヴァンは笑った。
「ああ、うん、それは分かってるけど」
そう言って、頬を手で包み、軽くキスを落とす。この手を用いたスキンシップが自然なものなのか、菊の性向を計算に入れたものなのかは分からない。少なくとも、慣れているんだな、と思う。自分の性的志向からしてそんな権利はないと思うから聞いてもいないけれども、この人が、この手が優しく触れる相手は何人くらいいたのだろう――いるのだろう。
「3人でする?――ごめん、やっぱり無理かな、僕が」
「何のことです?」
「見ちゃうとたたないね、多分」
「だから、何のことです?」

かちゃりとドアの開く音がして、下着だけをつけたナターリャが戻ってきた。水を渡すと頷いてそれを飲む。その肩に髪は揺れない。腰を掴む指に、ネイルチップはない。
同じなのに、違う。
ペットボトルを返してきた、その手を掴むと、やはり爪は綺麗に短く切りそろえられている。
「どうした。傷つけないと言ったろう」
「ええ……そうですね」
そして、ナターリャは菊の腹の上に座り、その手を預けた。細く優雅なその指に、吸い寄せられるように口づける。指の脇に舌を這わせ、水かきをはじくと、真っ白いその指が薄く色づく。
下半身に血が集まるのが分かる。と、ナターリャは軽く体を浮かし、下にずれた。菊の興奮を下着越しに感じ取り、ナターリャは満足感を瞳に浮かべた。そのまま軽く腰をゆすり、菊をなでる。
「う、」
思わず声を漏らすと、更にナターリャは目を細めた。
押しつけられた下着は、ナターリャの秘所の肉感を伝えてくる。たった一度だけ与えられた、包まれる快感。

同性愛・異性愛という線引きを菊は持たない。ただ快楽だけが事実として菊の前にある。選ぶことはできない、どちらも脳裏に焼き付けられて忘れられない、二つの快。

菊は目を覆った。
「貴方が、恨めしい」
「そうか」
解放されたナターリャの手は、菊を包み、そして菊に差し入れられる。

現実での恋愛を諦めた菊は、それでも、いやそれだからこそ、物語の中の恋愛に憧れた。陰陽の図のように、重なり合い、補い合って完璧な円を作る二人。対概念。その完璧さを疑ったことはなかった。

ナターリャは最後に爆弾を落としていった。イヴァンとは「できなかった」という彼女は、熱く熟れて菊を包んだ。その快楽と、そして謎とが、彼女を心から消し去るのを押しとどめている。
「いくら本田君のためでも、僕は受け身にはなれないし……だいたい、感覚が違うしね」
せめてね、とイヴァンは手で菊を包む。せめてもなにも、それは菊には度を超した快楽で、とどめられていなければ際限なくイってしまう。――それでも、確かに別のものとして、あの快感を覚えている。
とはいえ、感覚だけのことなら、封じることができた、と思う。イヴァンには、きっとナターリャとも関係を持つだろうと言われたが、そんな節操なしではないと言いたかった。外見もよく才能もあるイヴァンが、冴えない変態の自分以外と関係を持つのをとどめることはできまいが、少なくとも自分は一途に誰かに愛を向けたかった。もしナターリャがあんな幕切れを用意しなかったら、自分はイヴァンだけを愛するようになった、愛しているという幻想に浸れただろう。
それなのに、ナターリャの呻きが、菊に貫かれながら彼女が見せた歓喜と涙が、彼女を忘れさせてくれない。
菊の心は暴力的に引き裂かれ、双方からつながれている。

「お兄さんが、好きですか」
ナターリャはこくんと頷いた。
「……どうして自分ではなく……と、思いますか」
またナターリャは頷いた。
「お前のことを思うと、苛々する」
そして菊自身を掴む指に力を入れた。痛い、の寸前のそれは、菊を翻弄した。手を汚した白濁をナターリャは見やり、それをなめた。
「――だったら、どうしてそういうことするんですか……」
五本の指をそれぞれに伸ばして、ナターリャは舌を這わせた。とどまりきれなかったしずくが菊の上に落ちる。それを軽くティッシュで拭いて、ナターリャは言った。
「お前がシャワーを浴びているとき、兄さんに電話した」
「……!」
思わず起き上がると、菊の中に入れられたままの指が内壁に当たった。思わずうめく。
「逢っているのを、知られたくなかったか」
当たり前じゃないか、そう言おうとするが、声が出せない。菊の体を知り尽くしているナターリャは、微妙な加減で菊の息さえ支配する。
「どう、言ってました……?」
声が震え、そのことに動揺する。違う、これは、触られているから。平常心でいられないのは、身体的な問題だ。
「黙って切られた。――安心したか」
面白そうに……それなのに苦そうに、ナターリャは言った。
「お前は本当に甘い。甘さを無防備に晒しているから、私なんかにつけ込まれる。さっさと忘れればよかったんだ」

桜色の爪が、菊の内壁をする。その感覚に刺激され、こぷりと透明なしずくをこぼした菊を、ナターリャは丁寧に舐めあげた。
イヴァンは、ナターリャのことをTS志向ではないと言った。イヴァンという要素を外すなら、彼女は男になりたいわけではないと。
それを考えているかを見抜いたように、ナターリャは言った。
「兄さんは少し誤解している。確かに私は、男になりたいわけじゃないし、女を愛するわけでもない。ただ、男の痴態を見ることでしか、私は興奮できない。兄さんが女を見ると萎えるように、のしかかられると鳥肌が立つ。こういうヘンタイをなんと呼ぶのかは知らないけど」
だからお前との相性は考えられる限り最高だ。お前以外では、私はイけない。
そう言ってゆるく指を回す。
「だったら……!」
「なんだ」
だったら、二人だけの世界のままにいさせてくれればよかったのに。恋人のふりをして、二人で寄り添って生きて行けたのに。

「―――お前は本当に甘い」
そう言って、ナターリャは菊の目尻に口づけた。

私はお前を傷つけない。そう繰り返すナターリャが、彼女言うところの「ヘンタイ」になった理由を、菊はうすうす感づいている。女性の絶頂感は、安心の中ででなければ到達しがたい境地だという。彼女がブラギンスキ家に引き取られたのは成長してからだったというが、それまでの間に、彼女は「支配」に傷つけられたのだ。自分はともかく、彼女は「変態」の定義からは遠いだろう。だけど、その性的志向の受入られがたさで言うならマイノリティにはかわりはしない。性の場で完全に「支配」を手放せる男はほとんどいないのだから。

気圧はまだ低い。雨は続いているのだろう。東京の空の下、きょうだいはよく似た傷を同じ雨に晒している。

ナターリャは、自分の手と、それが扱う髪の威力を知っている。それなのにそれを封じて菊の前に現れた。どんな手段でもあるとは言ったけれども、…確かに計算高いけれども、誇り高い肉食獣は、自分を心にとどめ置かない男を切り捨てさせる強さを持っている。そして「甘い」菊は、傷ついた獣を見捨てられない。もし本当に「さっさと忘れて」いたならばそのまま立ち去るつもりだっただろうナターリャは、菊の心の中、ひとり雨に打たれる。

「兄さんに『恋』は奪われているが、『愛』はゆずらない。――私と兄さんは『欠落』を共有する」

愛も恋も分からない菊にはまるで理解できない言葉を囁いて、ナターリャは菊の髪を梳いた。

どうぞあなたも孤独であってほしい雨 (時実新子)