社長は視察と休暇をかねて、一月ほどヨーロッパを回る予定だとチーフは言っていた。だとしたらもうすぐ帰ってくるのだな、菊はぼんやりと思う。たったこれだけの間に、自分のからだは随分と変えられてしまった。
手に対する執着は変わりなく、手のイメージだけでイけるのも変わらない。しかし、それ以外の快感を覚えてしまった。最初は確かに「手」が源泉であったはずの後孔への刺激は、そこ自体が快感を覚えるようになってきている。ラミナリア桿の挿入にさえ、違和感より快楽を感じるようになり、しかも既に複数本受け入れるほどに拡張された孔は、もはや女性器のように寂しがるようになってしまった。
美しい支配者は、しかしせめてものプライドで口にはしない菊の渇望を感じ取り、微笑む。
私はお前を傷つけない。
その言葉通り、ナターリャは菊を言葉でなぶるようなことはしなかった。
言葉攻めは、恥辱の授受の感覚が噛み合えばむしろ興奮剤になる。しかし、明らかに「変態」に属する菊は、そのことにおびえ、男女交際を諦めるほどだったために、どんな言葉も刺激と言うには痛すぎて、萎えてしまう。ナターリャの手をなで回しているだけで恍惚の境地に至っても、わずかな刺激で達してしまっても、ナターリャはそれをからかうこともなく受け入れる。何もかもを許される代わりに、菊は全てを投げ出し、ナターリャの支配を受け入れる。
性同一性障害。
多分、世間の言葉で呼ぶならそうなのだろう、と菊は密かに考えている。
今は診断書があれば手術も戸籍変更さえできる。しかし、上流階級に位置する、しかもこんなにも美しい彼女にその選択肢はないのかもしれない。
イヴァンはそれを知らないのだろうか。人形のように着飾らせて、女性としての美しさを称えるイヴァン。ブラコンの彼女は、どんな思いでそれを受け入れているのか。
今でも菊に他人を「愛する」という情感は存在しないが、このままひっそりと傷をなめ合って生きるならそれでもいいと思うようにはなっていた。
そのための難関は、なんと言っても――
そんなことを思っていたのを知ってか知らずか、ナターリャは、ディルドを手に取り、するりと撫でた。
今まで準備だけはされつつ使われることのなかったそれは、最初は思わず後ずさりしてしまうほどの大きさだったが、それが入るまで拡張を続けられた後孔は、もはや期待をもってはくはくと蠢いている。
これも装置だということは分かっていた。2ミリ管にさえ違和感を感じるほどの初期から、ディルドはベッド脇に並べられ、予告を発していた。いつかあれが自分の中に入る。彼女の手があれを送り込んでくる――それをナターリャのシャワーの間否応なく考えさせられ、ついにはその日を待つまでにさせられていた。
「本田」
言いながら、ラミナリア桿をゆっくり引き抜いていく。
「な、ん、でしょう…?」
ナターリャは、ふっと微笑えんで小さく呟き、菊の中に張り型を埋め込んだ。
「 」
「あ、あ、あ…………!」
馴らされきった孔はディルドを問題なく受け入れた。目の裏がちかちかするほどの刺激は、しかし紛れもなく快感で、菊はそのまま押し出されるように射精した。反った形のそれは蠢いて容赦なく菊の前立腺を刺激し、透明な液体を目からもこぼさせた。
「形を覚えたか」
ナターリャは囁きながら刺激を続ける。
「ど、どう、いう……」
止まらない涙をそのままに見上げると、ナターリャは獲物を見る時の顔で笑い、いつの間に脱いでいたのか、菊をその体に埋めた。
その夜を境に、連絡が取れなくなった。電話もメールも不通、彼女のマンションはセキュリティ完備でドアの前に立つことすらできない。既に管理人には不審の目を向けられている。これ以上近寄れば巡回中の警官に職務質問されるだろう。
普通に考えるなら、振られたと言うことなのだろう。ふる、ふられるという「恋人」に関する言葉が自分たちの間にあてはまるのがちぐはぐで、だから余計に納得がいかなかった。しかし何のしようもない。
そうこうするうちに、休暇明けのイヴァンが店に回ってきた。業績チェック、店内確認と穏やかな顔で厳しいことを言って回ったイヴァンは、いつものように菊に声を掛け、そして首を捻った。
「……どうかした?」
「いえっ…」
妹さんはお元気ですか。それくらいさりげなく聞けてもいいはずなのに、菊の顔は強ばった。
「んー…、なんだろ、本田君、僕に後ろめたいことあるの?」
慌てて首を振る。どうしてこう、気づいて欲しくないことへの洞察力がすさまじいのだろう。
「まあよく分からないけど……こういうのを見逃す手はないよね。今夜、あけてね?」
ご飯食べに行こうね、と微笑まれ、菊は引きつった顔で頷いた。
食事と言いつつ、イヴァンが連れて行ったのはダイニングバーで、菊は腹の満たされないうちにウォッカを摂取するという暴挙に出る羽目になった。
「嬉しいなあ、僕、ずっと本田君とデートしたかったんだよね」
既に頭痛の始まっていた菊は、こめかみを押さえたまま言った。
「デートって、アルコールハラスメントじゃないんですよ」
「別に嫌がらせした覚えないよ?いつもの強気をなんでか失っている本田君が、いつもなら断れる酒を断らなかっただけでしょ」
そう言ってイヴァンはグラスを回す。
「……」
ナターリャも、同じように上からグラスを掴む癖があった。掌で覆うようにして振ると、グラスの中の氷が涼やかな音を立てる。
デートの類は不要だと言い切られたせいで機会は少なかったが、二度ほどカフェで待ち合わせた。
肘をつき、グラスを持ったまま軽く手首を頬にあて、ナターリャは平坦な声で言った。
「私には分からない」
「何がですか」
「なぜお前が、私の手などを褒め称えるか」
煮え切らない菊を横目で見つめていたイヴァンは、小さく肩をすくめて、バッグからシガーケースを取り出した。
「…っ、煙草、吸うんですか…?」
「あ、うん。滅多に吸わないけど。煙、いや?」
「………いえ」
上司への遠慮ではない。本当に煙草が苦手ではない。しかし、それは困る。やめてほしい。
眉を寄せた菊の顔を見ずに、イヴァンは二本の指で煙草を挟んでカチリと火をつけた。細長いそれを挟んだまま、手は、灰皿の上でふうわりと揺れる。
「兄さんの手の方が美しい」
「……」
黙った菊をナターリャはしばらく見つめていた。そしてやがて、「お前もそう思っていたのか」と言った。
人を愛する、という感覚を、菊は知らない。手さえ見られればそれでいい。そうは言っても、生きた手の表情を愛する菊は、その手の持ち主を意識から切り離すことはできない。
最初に見たときから、墜落感を覚えるほど惹かれていた。この手をとれるなら地獄へでも自分は落ちる、と思った。しかし、この人にだけは惹かれてはいけないと本能が囁いてもいた。
人の手が一番美しく動くのは煙草を吸うときだ、と菊は思う。イヴァンが喫煙者でなくてよかった。これ以上引きつけられてはたまらない。自分はその手に触れるためなら何でもしてしまうだろう。そう思っていた。
「……イヴァンさん」
ふ、と煙を吐き出して、イヴァンは菊に向き直った。
「なあに?」
「妹さんに、呪いをかけられました」
「…え?」
すっと指が伸び、煙草の先が潰される。どくり、と耳の後ろで血管が鳴った。
「もう、………我慢できません」
菊はその手に手を重ねた。
肩を抱かれるようにしてホテルに入った。指を絡めて手をつなげば唇を求められた。苦みの残る口づけさえ不快では無かった。今まで意識から除外しようと努めていたイヴァンの手を掌全てで感じ、その恍惚感を舌で伝えた。触られる快感は想像以上で、何度も爪を立ててしがみつき、こらえた。
愛も情もないのに。
すみません、と何度も呟く菊に何も言わず、イヴァンは丁寧な愛撫を施し、やがて菊に入ってきた。
「あ、ああ、あ……!」
――覚えたか。
――これは、兄さんの形だ。
ナターリャの装置は、呪いは、とうとう菊をここに至らしめた。
時間を掛けてほぐし、広げ、一方で期待をさせ、求めさせたそれが、こんな形で手に入ると囁いた。
――私はお前を傷つけない。
確かに、身体的な傷は何一つつけられていない。今イヴァンが与えてくる信じられないほどの質量をさえ、むしろ快楽を以て受け止められるように馴らされた。
指を絡ませたままの両手は痺れるほどの快楽を伝えてくる。
ずっと視界から追い出そうとしていた、究極の手。それを思うだけで透明の液が溢れ出す。
これ以上はない快感の中で、菊は、声もなく泣いていた。
――――私は、鎹(かすがい)だったのですね。
「そうなんだろうね」
イヴァンは俯せになり煙草を吸いながら言った。菊はぬらしたタオルを目に当てて、シーツの中に体を投げ出している。
「僕たちは、直接はできなかったからね」
タオルの上に手をあてて、菊は聞くともなく呟いた。
「しようとはしたんですか」
「うん」
そうなのだろう。イヴァンは、古めかしい、体のラインの出ないワンピースを着たきりのナターリャについて「スタイルがいい」と言ったし、ナターリャははっきりと「兄さんの形」と言った。互いの姿を見たことがなければそういう表現にはなるまい。
「きょうだいって言っても、顔を合わせたのは成長したあとだからね。タブー意識なんてなかった。僕の方はしたかったわけじゃないけど」
ふう、イヴァンは煙を吐いた。
「ちょっと、痛々しかったから」
「余計に痛々しいことになると思わなかったんですか」
「というか、そのときに初めて分かったんだ。女の人はまるっきりだめだって」
物理的にできなかった、のだろう。血を分けているのなら、それはむしろ幸せだったと、世間は言うだろう。
煙草をもみ消す音がした。
「僕さ、彼女の母親に――というのはその時知らなかったんだけど、誘惑されたあげく、首しめられたことがあってね」
「――え?」
「渾身の力で払いのけて、頭打たせて、殺しちゃったんだよね」
「……」
カチリ、と音がした。滅多に吸わないという煙草を、しかし心が欲しているのだろう。
「正当防衛ってことでそれは流されて、僕も子供か大人かって言われれば子供だったから一生懸命忘れてたんだけど、ナターリャがうちに来たのはそのせいだったんだ」
体を返す音がした。煙草はまだ吸っているらしい。ふう、と長い吐息が聞こえる。
「まあ、もともとその気があったんだと思うけど、ともかく、女の人とは無理。でも、できなかったのは、僕だけじゃない」
「……彼女も、ですか?」
「あの子は別に女を捨てたいわけじゃなくて、自分が僕の恋愛対象から外れてることが許せないだけなんだ。でも、彼女が本当に失いたくないのは、つなぎ止めたいのは、僕自身じゃなくて、『家族』だったから――」
ふう。また長い嘆息が聞こえた。
「そう思わせたのには責任があるし、応えられることならって思ったんだけど……彼女の方がまっとうだったんだ。家族とはできないって、体が思ったんだね」
顔を覆う手はいつか両方になっていた。
彼女の愛は一身に彼に向かい、「ヘンタイ」という言葉に怖じることもなく、兄と体を繋げる方法を模索した。
そして私の体を使った。
私とナターリャ。
私とイヴァン。
私を通して二人はつながる。
「彼女は、この後、君に声をかけてくるだろうね。つきまとうかもしれない。彼女はありとあらゆる手段で君を籠絡して体を繋げるだろう。……そして君はそれに逆らえないんだろうね」
みし、と小さな音がなった。菊の手にイヴァンの手が重ねられ、柔らかい間接照明の世界が菊に戻ってくる。
「君は僕も彼女も愛していない。モノとしての手と性器があれば快楽を味わえる。君はナターリャに騙された気がしているのかもしれないけど、彼女の認識では嘘をついていないはずだ。道具として自分を扱わせる代わりに君を道具化しただけだし、これは間違いなく彼女の傷だしね」
イヴァンの手が菊の顔を包む。
こんな話の後だというのに、それだけのことで菊の顔は薄く染まる。
この手は自分を地獄へさえ連れて行ける手だ、初めて見たときにそう思った。他の人より強く太く性的興奮へつなげられた感性の回路のせいで、心を置き去りに体が反応する。
それが切なくて、また知らず涙がこぼれる。
下がった指は菊の耳朶をまさぐる。心情と裏腹に、菊は煽られていく。
は、とついた息は苦い口に飲み込まれた。
「一番欲しいものはどうしようもなく手に入らなくて、その代わりのものは好きにできる、という意味では、僕たちきょうだいは同じだね」
菊の愛する細く長い指は菊の髪に差し込まれる。
思わず震えた唇に小さく口づけを落として、イヴァンは凪いだ湖面のような瞳で、笑った。
隕石を手であたためていましたがこぼれてしまうこれはなんなの (東直子)