アントーニョ×菊(岡本かの子「鯉魚」オマージュ、1580年代)
高槻は摂津国嶋上、今の京都市と大阪市の中間に位置する。伊勢物語にも歌われた芥川が市中を流れるこの町は、領主高山右近の手により福音の響く切支丹の楽園となっていた。
天正十年、大名小名を驚かせた光秀の謀反とその結果は、イエズス会東インド管区巡察師・ヴァリニャーノを初めとする宣教師達にも動揺をもたらした。当地に於ける布教の後ろ盾であり、ゆくゆくはこの国を掌握すると見なされていた男が、露のようにあっけなく消えてしまった。よもや朝廷に権力は戻るまいが、では誰がこの統一事業を受け継ぐのか、または、誰も受け継がず、世界は混沌に戻るのか。先の見えないまま、安土のセミナリヨは高槻へとうつることになった。
セミナリヨとはイエズス会の建てた小神学校である。武士の子弟数十人が住み込みで、ラテン語・音楽など司祭となるための教育を受けていた。それなりの所帯の移動となるため、高山が急遽用意した敷地はかの地を出自とする豪商が故郷に錦を飾らんと建てた、芥川の水を裏庭に引くほどの豪邸だった。借り上げにより引き継ぐことになった鯉の世話は、寺男よろしくセミナリヨに寄寓し雑役をこなしていたアントーニョという青年の仕事となった。髪を剃らず軽装をまとうのみの彼は、日本人学生には厳めしい神父たちより親しみやすく感じられていたようだった。しかし大地で働く者の肌を持ち、朗らかな笑顔を振りまきながら、それでもにじみ出るその顔の貴族的な美しさは、彼を下男扱いから遠ざけていた。
だから、鯉の餌遣りはむしろアントーニョがかってでたものである。裏庭といっても雑木林をまるまる抱えたその屋敷は広く、川に近いその池まではかなりの距離があった。薄気味が悪いと学生も近づかないその池に、アントーニョは、食事の後にテーブルから掬ったパンくずを運んでいく。魚の方もいつか異人の影に慣れ、異国の糧に慣れた。
その日は小糠雨が降り止まず、更に林は霧でけぶり、万事楽天的なアントーニョにさえ侘びしさを感じさせる空気の重さがあった。こういう日には、からっと乾いた地中海世界に帰りとうなるなあ。そんなことを思いながら池に近づくと、そこにうずくまり濡れそぼる人影があった。
「なにしとん!大丈夫か?」
駆け寄るアントーニョに、伏せられていた頭はゆっくりともたげられた。少女、と一瞬思い、いや少年、と次に思い、アントーニョは「どうでもええわ」と思い直した。そんなことよりも生死の方が重要である。それほどに、血の気がひいてしまっている。
これはやばい、と周りを見渡したが、雨を避けられる小屋もない。しかし、係留された屋根船が目に止まった。川遊びをするためのものだろう、しかし長く使う人もなく使えるかどうか分からない小舟だが、ともあれ雨はしのげそうだ。
「あっち、いこや!」
船の方を指すが、しかし、少年は動く気配を見せない。やがて青い唇が開いた。
「……おなかがすきました……」
「はあ??」
雨にじっとりと濡らされて、冷たくなって、一言目にそれかい。もうええわ、と、アントーニョはその少年を抱え上げ、木陰まで走った。貴族が着る布の多い服は雨を吸って重くなっている、それにも関わらず、はっとするほど軽かった。なるほど、飢えているのだろう。苫を破るようにして船の中に押し入り、一息つく。髪をぬぐってやるタオルもないので、シャツを脱ぎ、軽く絞って頬をごしごしとこすっていると、そのうちに血の気が戻ってきた。同時に、少年の腹がぐううと鳴る。アントーニョは苦笑した。
「やりとうても、パンくずしかないわ。それも、ぐちょぐちょや」
「いいです」
”要らない”の意味なのか”それでよい”との意味なのか迷い、とりあえずパンくずのはいった籠を見せると、少年は原形をとどめぬそれにしばし躊躇い、それでも最後には手を伸ばしてそろそろと口に含んだ。大した量があったわけではないが、それでも少しは少年の腹を満たしたらしい。人心地ついた顔になった。
「ちょっと待っとってくれたら、料理人に言うて何かもろて来たる。肉、喰えるか?」
そう口にしたところで、アントーニョは、それには難しさがあることを悟った。今、この国は決して平穏ではない。戦はむしろ常態で、必然的に多くの難民を産んでいる。人助けなど、やり始めればきりがないのだ。
この地に於ける新参者であるキリスト教は、仏教との対抗上人道性を喧伝する必要があるが、イエズス会の資金は決して潤沢ではない。彼らが目の前の飢えた少年を助けるかどうか、それは、その行為の意味を神父達がどう判断するかだ。神父達は常に計算をしているのだ。
少年は、ふるふると頭を振った。
「…いいのです。もともと、死んでもいいと思いながらここまで歩いてきたのです」
少年は菊と名乗った。詳しいことは申し上げられませんが――上目遣いになる菊に、アントーニョが「どうせ聞いても俺は分からんよ、ナンバンジンやもん」と言うと、安心したように微笑んだ――、私は天涯孤独の身で、養い親のもとを転々としてきたのです。幼い頃はただ養われていればよかった、けれども――切支丹の方にはおぞましいと思われましょうが――男の身でありながら十五を越える頃から、身体ごと所有することを望まれるようになりました。私は奪い奪われる対象となり、男の人を渡り歩くようにして生きてきました。そうした人生も漸く落ち着きを見せる、そう思った矢先、またしても養父が死んだのです。また私の身体は幾人もに晒される、そう思うと辛くなり、突発的に逃げ出してしまいました。
淡々と菊は話すが、アントーニョは胸が締め付けられるようだった。十五を越えていると聞いて驚いたほど幼く見えるこの少年には、確かに、人を誘い込むような匂いがある。同性愛を禁忌としない、むしろ純粋な愛として賞賛する傾向すらあるこの国で、この磁力は、本人の意図ならず、多くの男を惑わせてきたに違いない。ともすれば自分さえもが引き寄せられそうになるものを感じ、アントーニョは首を振った。それを知らず、菊は小さく息をついた。
「折角助けて頂きましたが……未来を思うとこのまま川に身を投げたくなります」
「あかんて!」
そのまま船縁に向かいそうな勢いに、慌ててその手を掴む。
「私一人が死んだとて、世の中が変わるわけでもありません。誰にだって代わりはいる…」
そんなことはない。断じて、ない。が、そういう論理が通じない時というのも、またある。
「そういうことやないんや。そもそも、ほかしたらあかんねん」
「ほか…?」
「自分を見捨てたらあかんの」
菊は黒い目でじっとアントーニョを見た。
「それは、耶蘇の神様の教えですか」
「そうや。神様はみんなを救おうとしてはるのに、救われる気ぃないわーなんて奴がおったらやる気なくしはるやろ」
「その神様は、救う者として私を数に入れていないでしょう。入信していないのですから」
「そんなこと、ない」
「じゃあ、教会に匿ってくれるとでも言うのですか」
「……」
アントーニョは口を結び、水分を吸ったシャツをぎゅっと絞った。
返事をしないアントーニョに、菊は、ほら、という顔をした。神の愛を信じさせられないのは遺憾だが、神父達がああである以上、アントーニョも計算をせざるを得ない。今、この子を教会に連れて行くのは、まずい。
「なあ、ここに隠れとったらええ。食事は俺がくすねてくるし、生きとったらなんとかなるて」
菊は小さく笑った。
「…耶蘇の神様は、窃盗も罪としているのではないですか」
「ああ…うん。大丈夫、神様が居眠りしてる時に厨房に行くし」
今度は、もう少し笑顔が大きくなった。
アントーニョは、またな、と船を出て、自分の頬を叩きながらセミナリヨに戻った。
神様はしょっちゅう居眠りしてらっしゃるのですね。菊がそう笑うほど、アントーニョは頻々と船へやってきた。あの日のやぶれかぶれな様子は失せたが、まだ一人で生きる気力を見せない菊が気になったからだ。こうして俺が行くのがあかんのやろか。そう思いもする。自立を説得してみるが、そのたび菊は世界から見放されたような寂しい目をする。その目を見ると、菊に俗塵に戻れと言うのが切なくもなり、アントーニョの言葉も続かなくなる。
匿ったまま一月あまりがたち、信頼は純粋に積み重なり、アントーニョを迎える目にはとろりとした喜びが浮かぶようになってきていた。
これは、やばい。
心臓に手を当てて、アントーニョは思う。
余りにも頻繁な池通いは学生たちの口の端にも登り始めた。味に貪欲ではあるものの大食ではない菊の食事分くらいなんとでも自己裁量で賄えるが、アントーニョの気の浮いた様子は神父達の目にもとまりはじめている。もし菊が見つかれば――聖職者の彼らにさえ、菊の色気は伝わるだろう。それを匿っていたアントーニョとの仲は当然に邪推されるに違いない。
匿うなら、隠さんと。
世界から隔離して、閉じ込めて、俺だけのものにして――
それを、菊が嫌がらないだろうと思うから、余計にやばい。
土用を過ぎたある暑い日、風も止まり、ただじっとしているだけでも汗がにじみ出そうな昼下がりに、アントーニョは赤い果実を持って菊を訪ねた。
「なんでしょう、これは」
「うん、新大陸から伝わった植物やねんけどな。綺麗やろ」
「ええ……怖いくらいに、赤い」
「甘いで。そのまま、がぶっと食べると、なお美味い」
「…あまり、見たことがない色で、少し怖いんですが……貴方がそう仰るなら」
口に運ぼうとした菊に、「美しい貴婦人」とアントーニョは言った。
「はい?」
「…と呼ばれる植物があんねんけどな。それとそっくりやねん。そのせいで、これを食べるやつ少ないんや。ベラドンナは…和名ではオオカミナスビ言うたかな」
「……猛毒じゃないですか」
「せやな」
菊は手に持ったそれをこわごわと見る。
「毒なんですか」
「ちゃうよ?」
「……私が邪魔、ですか」
「ちゃうて。ほんまに、俺は美味しいと思うから、持ってきただけや」
嘘だった。だったら、ベラドンナの名など出さなければいい。
歪んでしまった。こんな風に、出会ってはいけなかった。セミナリヨに暮らすアントーニョにもその立場というものがあり、菊にも背景がある。こんな二人が、頼り頼られ、しかもその世界との隔絶をほのかな喜びとするような、そんな歪んだ出会い方をしてはいけなかったのだ。
菊の黒い目はじっとアントーニョをとらえて離さない。
この目が、心を吸い取っていく。
それを理解しながらも、アントーニョは身体が前傾していくのを止められない。
二人は見つめ合ったまま、燃えさかる赤に両側からかぶりついた。
がじゅり。
音がして、中の汁が飛び出し、顔を汚す。垂れる雫を気にもとめず、真っ黒な瞳に光をたたえて、菊は言った。
「あま、い」
果汁の匂いが空間を支配していた。湿度も粘度も高いその空気は、容易にアントーニョの口を開かせなかった。
「…」
果汁に濡れた唇がすぐ目の前にある。
菊は目を伏せ、ちろりと舌を覗かせて唇を舐めた。
「…」
アントーニョは更にもう一口囓った。果汁は菊の手を更に濡らした。
ややあって、菊は囁くように言った。
「汚れてしまったし、水を浴びませんか。汗もかいたし」
こくり、と喉がなった。
そんな危険なことができるわけがない。こんな昼日中に、誰に見つかるとも分からない。世界の目から隠している菊を、その裸体を。
それなのに、服を脱ぎ出す菊を、制止することができない。暑さが脳を冒していく。
「一緒に、いきましょう?」
菊はさっと池に入った。慌ててアントーニョはシャツを脱ぎ後を追う。この池は途中からがくんと深くなっている。それを言わねば、と飛沫をあげながら駆け寄ると、まさに目の前で菊はずぶりと足をすべらせ、水中に没した。悲鳴を殺し、潜ってその身体を探す。
池の水は澄んでいた。温められていた表面とは裏腹の冷ややかさが奥にはあった。菊はアントーニョを見つけ、しがみついてきた。苦労しながら足の立つところまで戻り、身体を起こして飲み込んだ水を吐かせる。しばらくはけほけほと咳き込んでいたが、やがて笑いながら頭を下げた。
「脅かすなー」
「すみません…」
菊は腕をアントーニョにかけたまま、白い身体を隠しもせず、にっこりと笑った。
「ねえ、でも、なんて気持ちいいんでしょう」
陽の光の下で見る菊は、いっそう鮮やかだった。少しやせはしたが、肌の滑らかさは失われず、髪はつややかなまま菊の顔をかたどっていた。
池の水が菊の胸を、川を作って落ちていく。その流れをとめる小さな突起は色づき、人を誘う。
菊はトマトを食べた。貴方になら殺されてもいい、とその顔が言っていた。
そして菊は、……養父達に触られるのを嫌がっていた菊は、服を脱いだ。
貴方になら、食べられてもいい。
だったら、食べればいい。
だって、菊は、ことの最初からアントーニョに捧げられているのだから。
腕を伸ばし、腰を捕らえ、引き寄せ、口を奪う。その衝動を抑えかねていたアントーニョの目の端に、人影が映った。
「あかん!」
「え」
「見つかった!はよ、逃げ!」
「え、え?」
「ええから!」
船端に脱ぎ捨てられていた服を渡し、川へと誘導する。何とか敷地の外、追っ手の来ないところまで菊が逃げたところで、アントーニョは神父達に捕まった。下穿き一枚のままで建物にひきたてられ、すぐに湯おけと新しい服が用意される。どうこの局面を切り抜けるかと思考を巡らす間もなく、アントーニョは巡察師の前に連れて行かれた。
「……あの少年は……」
「……」
「本田菊、ではありませんでしたかな、アントーニョ様」
「……」
「なぜ逃がしました」
アントーニョは横を向いた。平伏した格好の神父は、しかし強い目線でアントーニョを射貫く。何のために、誰のために、私達がこんな辺境の地にいると思っているのですか。
織田の後継をめぐって諸大名が駆け引きをしているように、宗教の世界にもまた権謀術数が渦巻いている。プロテスタント勢力への対抗、のみならず、カトリックの中でも会派による駆け引きがある。その裏に、大航海時代がもたらしたアントーニョたちの世界戦略がある。
宣教師達は新世界へ布教の足を向ける度、その地を神と国王に捧げる。彼らに庇護を与え、彼らに侵略の先鞭をつけさせて、アントーニョとその隣人は世界を分かち合う大帝国となってきた。50年前の条約により、アントーニョはこの地への優先権を失っている。しかし東南アジア権益の分割という意味合いが強かったサラゴサ条約は、菊への手出しを抑制しない。
菊がアントーニョへの服従を肯うなら、日の沈まぬ帝国に黄金の煌めきを添えることは可能なのだ。
アントーニョが菊を組み敷くことを、神父達は言祝ぐだろう。人としてのなりを男性形に置いていることなど歯牙にも掛けず、同様に、人としての痛みを持っていることなど度外視して。
だから、菊は隠すしかなかった。アントーニョが国であることにも気づかないほど世慣れぬ菊に、そして百年の戦乱に倦み果てた菊に、首輪を付けて平伏させるなど、したくなかった。計算高い神父達が、流動化した政治情勢の中で菊を手に入れればどんな風にそれを道具化するかは手に取るように分かった。現実問題として、この地全域をスペイン植民地とするのは軍事的にも難しい。しかし、菊自身がアントーニョに首を差し出すなら話は別だ。菊が目を閉じている間に首輪の鍵をかけてしまえばいい。今まで、多くの国にしてきたように。
「ちゃうねん」
アントーニョはかぶりをふった。
……そんな風に、あの目を裏切ることなど、できなかった。そして、彼の中のアントーニョが壊れる様も見たくなかった。
こんな風に出会いたくなかった。国として正面から対峙したかった。そうした上でなら、愛し合うことも憎み合うことだって国として引き受ける。それさえできないまま、地面が抜けるように、墜ちてしまった。
「あそこにおったのは、人やない」
「ならば」
かぶりをふる。
ちゃうんや。あの船の中、蒸した空気の中、水の中、そこにあったのは。閉じ込められ、熱せられ、歪んで歪んで、そして結晶化したのは。
「こい、やったんや」