クリスマスにニューイヤーと行事の続く時期は流石に帰らなければいけない。我が国にとっても久しぶりに迎える「戦時下でない」クリスマスだ。目一杯飾り付けをして、生きている幸せを喜び合うのだ。
この半世紀、アメリカ本土が戦場となることはなかったとはいえ、兵士の出征は続いた。星条旗にくるまれて帰国の途についた兵士もたくさんいる。
その数をできるだけ減らすための策をとってきた。アメリカは市民が作り上げた国、彼ら自身の幸福追求が――その大前提となる生存が、何より尊重すべき権利とされる。それを利己主義と蔑んだ戦中の菊の感覚は未だによく分からない。
一度帰国する、とだけ告げに病室に向かうと、菊は清拭の途中だった。いつもなら病室の中で終わるのを待つところを「後でまた来る」とだけ言ってすぐに踵を返した。
見てしまった。菊の白い、細いからだ。
あのからだが、赤く染まるのだろうか。弓なりにしなるのだろうか。平坦な胸でも舌で弄れば「菊」のように鳴くのだろうか。…そういうことを想像すまいと心に鍵をおろしてきたつもりだったのに。
廊下の窓に肘をついて瞑目していたアルフレッドに、看護婦が手振りで清拭の終わりを告げて去った。「後で」と言ったのに来年、はないだろうと、仕方なく病室に入る。
「お見舞い、ありがとうございます」
菊は少し張りの戻った声でアルフレッドを迎えた。シャワーも一人では浴びられないほどなのに、その弱り具合を見せまいとする。その凛と張った精神が好きで、だけど少し嫌いだ。
「ん、いや」
わずかに目をそらして、脇机に土産の箱をのせる。
「いつも同じので悪いけど」
「いえ、チョコレートですよね、ありがとうございます」
甘いの、嬉しいです。菊は微笑んだ。
「一つ食べる?」
「あ、では。……ひとかけほど」
ふうん、とアルフレッドは一枚取り出し、ぱきぱきとその板チョコを割った。銀紙から一片を取り出して差し出すと、菊は受け取ろうとして顔をしかめた。
「さっき軟膏を塗られたんでした…」
「……手、使わなくてもいいじゃないか」
口元にチョコを寄せられ、菊はわずかに躊躇って、それからそっと口を開いた。そんなわずかな時間のせいでチョコレートはとけてアルフレッドの指にも付着した。菊の口に塊を押し込んだあと、その指を舐める。
別になんてこと無い。言い訳のようにそう考えて、アルフレッドは残りをしまった。
口の中にものがあるからか菊も黙ってしまったので、居心地が悪くなったアルフレッドは当初の目的を思い出した。
「一度帰って、また年明けに来るよ。そろそろあれをやらなきゃいけないからね」
菊はこくんと頷いた。来年の課題、それは憲法改正である。
「民間の憲法草案についていくつか報告があがってきててね。読ませて貰ったけど、なかなか面白かった。まあ、具体的なことは俺は分からないから、上司たちがやるんだと思うけど。とにかく君は――」
――俺の言うことを聞けばいいんだぞ。
この半年間、何度も、続けて、そう言った。菊を壊すためじゃなく良くするためにやっている――と上司が説明してくることについて、菊に説明する度に。
菊は背伸びをしすぎたから、市民が育つ前に産業が肥大化してしまったんだ。一握りの大金持ちのためにその他大勢が犠牲になる、なんて構造じゃだめだ。みんなが自分の城を心に築くことだよ。そのためには大きさはともかく、現実的な城を――経済的自立の基盤を、一人一人が持つべきだ。
たとえばそんな「経済の民主化」の説明について、菊はいつも通り従順に頷いて、「ええ、ではそのように」と答えた。
本心からそう思ってる。「歯を抜く」といっても、軍事力はともかく、経済力について菊に怯える必要はない。海外権益を失ったのだからなおさらだ。神に誓ってあれは競争相手をつぶさんがための詭弁などではなかったのだけど、「独占欲」というフィルターの存在を自覚してしまった後では、そこに計算がなかったかと考えてしまう。菊を、自分の手の中におさめ続けるための。そして、違う形の「みんなの城」――プロレタリア独裁などに菊が惑わされないようにするための。
言うことを聞けといえるほどの義は、俺に、あるか。
「…とにかく君は、自分を愛してあげて」
いつもとは違う台詞に、菊の目がわずかに張った。それがゆっくりと緩んで、口元もほころぶ。久しぶりにこの顔を見た、とアルフレッドは思う。なんでだろう、この半年、菊はよく微笑んでいたのに。
菊は目を細めて、何かを言った。聞こえない、と体を近づけようとして、思いとどまる。小さな声で言ったのは、聞こえなくていいことだからだ、きっと。
顔を寄せたら、そのまま重ねてしまう。
「菊」にそうしたように。
顔をしかめたアルフレッドに菊は不思議そうな視線を寄越したが、何も言わずただ見送った。辞去の挨拶もそこそこに病室を出れば、どこの窓が開いているのか冷たい風が頬を張った。
知らなければ、気楽なままいられたのに。この愛しさも―――そしてこの劣情も。
アルフレッドが帰国している間にも、GHQは精力的に動いていた。年頭には昭和天皇が新年にあたっての詔書を発表、日本統治の地歩固めが進んだ。御用始めを待って、公職追放令も発された。菊の上司は病床にあって憤慨し、一時は総辞職を決意したようだが、11日の閣議報告からうかがうに、何とか浮上したようだ。
小町園はそんな政治とは無縁のようで、相変わらず男と女の匂いだけが充満していた。
制服制帽のアルフレッドを見た「菊」はまた一秒動きをとめた。今日の「菊」はシャツに吊りズボンと完全な男姿だ。そうしているとやはり菊そのもので、苦しくなる。
「菊」は、女としてはやはり低すぎる声で、「もういらっしゃらないのかと思っていました」と呟いて踵を返した。来たくなかったよ、と後について階段を上がりながら心の中で呟く。
階下にいた他の兵士たちにとってはどうだか知らないが、やはり敬虔なクリスチャンであるアルフレッドに、ここは悪徳の巣と見える。帰国した本国では教会に通い、懺悔もした。
それでもまた来ずにいられなかった。半月、体が焼けて、まともでいられなかった。この体を、抱きたくて、抱きたくて――その欲情がまたアルフレッドの心を苛む。
小部屋に入るや否や、後ろから抱きしめて、目の前の項に吸い付く。菊からはしない白粉の香りがわずかに届き、そのことに安堵し、且つ、そのことに苛々する。
「お願いがあるんだ」
「なんでしょう」
「本名を教えてくれないか」
「は?」
「菊」は眉間を寄せて振り返った。
「こういうところの女性はコードネームを付けると聞いた。本名は違ったりしないのかい?」
「……ええ、まあ、『菊』は源氏名ですが」
躊躇う「菊」を揺する。
「君を『菊』と呼びたくないんだ」
「――ああ」
彼女は落ち着いた表情になって、顔を上げた。
「そういうことなら。あきこ、と言います」
「ありがとう。アキと呼んでいい?」
なぜ短くする、と思ったのだろうか、微妙な顔をして、それでも彼女は頷いた。
「――ええ。他の『菊』さんを大切にお思いなのですね」
アキは微笑んだ。答えに窮したアルフレッドは、無理に誤魔化す。
「まあ、君と同じくらいには」
アキが目を張ったので失敗に気づく。アキが母国を思うのと同じくらいには俺も保護国たる菊を大切に思うよ、そう言いたかったのに、これでは、菊とアキを同じくらい大切に思っているかのようだ。
―違うのか?
自問する。少なくとも、今俺はここに来ている。アキに会いに、わざわざ制服一式を用意してまで。
「……ここは、最初から泡沫の夢を売る場所です。みんな誰かの代わりに私達を抱きに来る。それで構いません。『代わり』が日本人であるのは初めてですが、本来ここはそのための場所ですし」
誘うように布団に倒れ込みながらアキは言った。
「そうなのかい?」
のばされた細い指がアルフレッドの頬を包む。
「ええ。良家の子女の貞操を守るための、性の防波堤」
「…何それ」
「私は堤防に積まれた一つの砂袋に過ぎません。だから、どうぞ、情などかけないで。体だけ召し上がってください」
「……きく……」
その呟きをどう聞いたのか、アキは目を閉じた。その頭を抱きかかえて、腹の奥によどむものをおさえた。
菊。
今は、自分が生きることと国民の誰かの死が引き替えでないことが救いだと、そう菊は言った。かつて、引き替えにさせた、その主体は誰なのか。上司なのか、菊自身なのか、それは他人であるアルフレッドには分からない。けれども、それが菊を苦しめていたことは言葉から分かる。それなのに、また形を変えて、それをやるんだろうか。誰かの屈辱を引き替えにして、菊のプライドを守るんだろうか。
菊、君はこのことを知っているのか?
国家大事のための犠牲もまたどこの国にもありふれたもので、アルフレッドだってその論理を採ることはある。
だけど、それが菊の上司の押しつけた論理だとして、なぜそれをアキが口にする?
いたたまれない。菊のうつし身のようなこのひとが、自分をそんな風に扱うことが。
動かないアルフレッドにじれたのか、アキは背中に回した手をシャツの下に忍ばせた。冷たい手が背筋を伝う。そのしどけなさがまたアルフレッドをやるせなくさせた。そのくせ体の熱は簡単に煽られて、アルフレッドは着慣れないその軍服を脱ぎ捨てた。