ジョンの口から飛び出した「菊」の名前に、アルフレッドは硬直した。人違い、じゃなかったのか?
「え」
「初めて見たときから、いやーな予感がしてたんですよ。でも、こんな東京の外れまで貴方は来ないだろう、だから顔を合わせることもないはず、と思っていたのに、ああもう」
ジョンは頭をかきむしった。
「アルフレッド」を知っているジョンは、「菊」の顔を見たことがある。けれども、人としての名までは知らないはずなのに。どうなっているんだ、と瞬きするアルフレッドに、いつしか腕をとめたジョンは、ぼそっとつぶやいた。
「あー、でも、いっそいいのかもしれない」
「何が」
「同じ目にあえばいいんです。そうだそうだ。交渉してこよう」
「だから何が!」
「まあ、そこで大人しく待っててください」
わめくアルフレッドにかまわず、ジョンは立ち上がってとんとんと下に降りていった。白粉くさい小部屋にのこされたアルフレッドは、仕方なく周りを見た。馴染みのある青臭い匂いがする。うんざりしてそちらをみやるとくずかごに投げつけられたらしい紙が入り損ねて転がっているのが目に入った。拾うと、「新日本女性に告ぐ」との文字が踊っている。
「戦後処理の国家的緊急施設の一端として進駐軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む」。
――大袈裟な言い回しはどこであれ国家非常時の常ともいうべきもので、アルフレッドだってよくやる。とはいえ、流石に「なんだこれ」とつぶやいてしまう。
180度と言ってもいい政策転換に、菊はよくついてきている。もうすぐ改正普通選挙法が成立する。民主化指令の筆頭「婦人の解放」は、旧来の女性運動家たちの手を通してつぎつぎと具体化していくだろう。「新日本女性」とは、そういう意味では、ない、のか。
チラシをくずかごに入れたら、そのとき、するりとふすまが開いた。
「――お呼びと伺いました、菊です」
振り返る勢いに恐れをなしたのか、浴衣姿の「菊」は固まった。それでも、しばらくの躊躇いののち、部屋に入ってふすまをしめた。
似ている。声まで。…でも、若い。
「…いくつ?」
「菊」は瞬きをした。
「二十歳です」
それでも俺より年上なのか。
「…おいくつですか?」
「俺?19」
「……お若いですね」
納得したように頷いている。一瞬むっとして、それから勘違いに気づく。比べられたのは兵役についている他の米兵であって、アーサーや王じゃない。そして多分、「若い」は褒め言葉なのだ。この「菊」は、人なのだから。アルフレッドは苦笑を漏らした。つられたように、「菊」も笑う。
「ん?どうかした?」
「…最初に年を聞かれたのは、初めてです」
「そう?」
そうかもしれない。ほかの米兵にとって、年齢など意味はないだろう。
「…皆さん、性別ばかりを」
「あー」
もともと日本人兵士は体格が体格だから、『女かよ』と嘲笑う米兵はいた。けれども実際日本に来てみれば差は歴然としている。日本女性は更に小柄で、そして、丸刈りの兵士たちにはなかった華やぎがある。
「菊」は、女性にしては背が高い。菊にそっくりの顔はやっぱり綺麗で、菊と同じように切り揃えた髪もかえって美しいけれども、何より、胸がない。
「…一応、女です。戸籍上も」
「コセキ?」
「……ええと、出生時にそのように登録されています。そして、あの…」
言いよどんで、小さく言う。
「女性として、できます」
「はあ」
何のことかよく分からない、と思いつつ、アルフレッドは曖昧な返事をした。
「でも、もしお嫌なら、他の女性と代わります。…なんと言いますか、私は、こういうなりを却って好む方の専用という扱いですので…」
「ちょっとまって」
適当に流せなくなってきて、片手をあげて止める。
「代わるっていうのは」
「…お相手を、です」
「……セックスの」
「ええ」
「俺とのってこと?」
「ええ勿論」
どくん、と耳の後ろが鳴った。
菊の顔をし、菊の声をしたこの人と、俺が、セックスをする?
「菊」はすっと顔を寄せた。
「……お嫌ですか…?」
答えを言えないアルフレッドの唇に、それが近づけられ、そして、重なった。
「菊」のアメリカ英語はとても滑らかで、まるで呪文のようだとアルフレッドは思った。何も、考えられなくなる。そして、止められなくなる。