不自由な僕等

アル菊

アルフレッド×菊(国×国/国×人/人×人(戦後パラレル))

それは未だ病床から頭の離れない菊を見舞った冬の日だった。

「………人違い……?」


そうに違いない。なにせ、さっき自分の目で横たわる菊を見たばかりだ。だから今アルフレッドの横をすり抜けていった男はよく似た他人に違いない。それは分かっていながら、踵を返して黒い髪のあとを追った。

GHQが接収した第一生命相互ビルは造りもしっかりしていて見晴らしもいい。最上階から見渡すと、東京が一望できる。
焼け野原。そう表現しても大袈裟ではない空襲の跡地に、しかしぽつぽつとビルが残り、その隙間にバラックが建つ。夕暮れには炊事の煙がたち、人や車が動いているのが分かる。放射状に広がる道には血流のようだ。菊はしたたかに生きている。
点滴の管につながれたまま、起き上がれない体のままで、それでも謝意を目礼で表した。何に?と聞けば、生きていることに、と答えた。
私が生きることと国民の誰かの死とが、もう引き替えではないということが、それだけで、私の救いです。菊はゆっくりと語った。生きることは私に課せられた義務でしたが、これからは私の唯一の希望となるでしょう。そしてあなたは、私の歯を抜く代わりに命をくれるという。腕につながった点滴の管をさらりと揺らして、菊はひたりと目を合わせてきた。骨ばかりになった指で手を掴まれる。感謝します、アルフレッドさん。

一人になりたくて車を返してしまったものだから、土地勘もないままに歩くしかない。電車道沿いだからいざとなれば何とかなるだろうとただ闇雲に歩いた、その中での一瞬のすれ違いだった。


もう彼の後をつけ始めて随分たつ。
何をやっているんだろうと自分ながらに思う、その一方で、もう今日はマトモなことは一切したくないんだ、だからいいんだと捨て鉢に思いもする。

傷つけた、自覚はある。それなのに。それなのに、菊は。
このタイミングで礼を言うなんて、俺にはできない。
菊にだって忸怩たる思いはあるだろうに、何が彼にあれを言わせるんだろう。

やがて彼は料理屋風の小さな店に入った。何気なく続けて入って、ぎょっとする。GIたちが店の中に列を作っていた。
ホールにはジャズと紫煙。米兵たちは陽気に笑いながらただ何かを待っている。
「あ?」
間抜けな声をもらしたアルフレッドに、目の前にいた外見年齢にして数歳年上の米兵が怪訝な目を向けてくる。
「お前…何者だ?」
帽子もつけておらず正式のものでもないフライトジャケットをひっかけたアルフレッドはうさんくさげな目で見られて、肩をすくめた。
「アメリカ人だよ」
「そりゃ、見れば分かるさ。だけど、ここは軍専用だぜ?」
「…そうみたいだね」

そのとき、アルフレッドはぐいと腕を引かれ、店の奥へと引きずり込まれた。腕を掴んでいる男の顔には見覚えがあった。軍人たちに紛れ、その情報を上にあげる特殊任務を負った彼らの一部とは顔を合わせたことがある。アルフレッドが何者であるのかを知っている彼との遭遇が幸運なのかそうでないのか分からないまま、連れられるのに任せて階段を上がった。畳敷きの狭い部屋にアルフレッドを押し込んで、彼は廊下で誰かとぼそぼそと話している。甲高い抗議の声がしばらく続いたが、かさかさと紙を取り出す音と軽いキス音を最後に足音が遠ざかっていった。わけがわからない。
やっと先の将校がため息をつきながら戻ってきた。開口一番、なじるような口調で聞いてくる。
「なぜこんなところにいらっしゃるんですか」
「うーん。成り行き?そもそも、ここはどこなんだい」
はー。彼はもう一度ため息をついた。
「地名を聞いてらっしゃるなら、大森ですよ」
「それは聞いてないよ」
「そうでしょうね。覚えないですもんね、貴方は」
かちんとくる。母国に対してたいそうな口のききようじゃないか。
「君の名前は覚えているぞ。ジョン・スミスだろう」
「……ええもうそれでいいですよ。それで、ミスタ・ジョーンズ、ここが何かご存じない?」
「占領軍専用の施設なんだって誰かが言ってたぞ」
「日本政府からの通達くらい読んでください。Recreation and Amusement Association ――特殊慰安施設です」
「とくしゅ?」
「売春ですよ」
19歳のアルフレッドは口をあけた。
「…君こそなんでこんなところにいるんだ」
「……うるさいです。誰が私を恋人から年単位で引き離してるんですか」
俺なのか…?アルフレッドは自問自答する。戦場で自国民が死ぬ責任くらいまでは引き受けられても、そこまで責任もてないなあ。
「私はもうチケットも払って、順番が回ってきたところだったんです。15分の恋人を1時間待ったのに、ああもう、貴方なんてほっとけばよかった!」
「悪かったよ」
かけらも思っていない言葉をはいて、アルフレッドは横を向いた。
何やってんだ、日本政府。菊はまだ点滴うってるっていうのに。
と、ジョンはじっとりとアルフレッドを睨んだ。
「そうやって貴方が『責任もてない』なんて放りだしてるから、老獪な日本政府が先回しして準備したんでしょうが。結局はここ、民間ですけど、内務省がこの件に関して自治体に通達を出したのは8月18日だって話ですよ。それで懐柔されちゃうのも確かにナンですけど――こんなど田舎に呼びつけられた兵士たちは、こういう愉しみでもなければなんかやらかしちゃうと思いますよ。今のところアカい連中にさえ解放軍と呼ばれるほどうまくいってますけどね、犯罪しまくる占領軍なんて現地住民の反感くいますよー?」
「だから、悪かったって」
あー、でも、どうかな。こういうの、潔癖な本国女性陣の耳に入ったら罵られそうだ。実際、まだ若いアルフレッドにとっては「こういう愉しみ」は神への冒涜に思えるし、少なくとも政府がやることとは思えない。
そんなことより、さっきからアルフレッドの頭の中でちかちかと点滅している箇所がある。彼が入っていったここは、売春宿だった。しかし、日本人はここの客にはなりえないらしい。どういうことだ?
アルフレッドは胸のつかえの上あたりをとんと叩いた。

「…君はここによく来るのかい?」
「そんな暇ないですよ。今日待ったのは1時間ですけど、今日を待ったのは二週間です」
任務によって通常の兵士より忙しくさせられているはずのジョン(仮名)を思ってアルフレッドは首をすくめた。
「でも前に来たことはあるんだろ。あのさ…変な質問だけど、ここで『働いて』るのって、当然女性だけだよね?」
回りくどく聞いたのに、ジョンはいかにも嫌そうな目でこちらを見た。


「………やっぱり、菊のことだったんですね」