Tempora mutantur, et nos mutamur in illis.

アサ菊

アーサー×菊 (続「我等が我等であった日々」

国同士の会話に言語の壁はない。とはいえ国同士との会話だけで外交は成立しないから、国際公用語たる英語、フランス語あたりは耳慣れしておかなければならないと菊は諭され、開国後しばらくの間、その顔を見ると陣痛を起こすほど、オランダ通事あがりの講師に外国語漬けにされた。
日英同盟期には本場の発音を教えて貰い、そうやってなんとなく外国語学習のこつを掴んだ菊は、その後のドイツ・イタリア文化への傾斜、戦後のロシア語文献の流入とその時々のブームにのって各言語を浅く学び、いずれも絵本くらいは読めるようになった。そこで公務で他国を訪ねたときは、これ幸いと本屋を回ることにしていた。

一つには、日本を紹介してある書籍を見るためだ。先頃公開になった人気スパイ映画シリーズにおける「日本」は、凄まじかった。忍者って。鹿威しって。ていうか芭蕉って。戦争中でさえ「さん」づけを忘れたことのなかった菊が思わず「アーーーサーーー……」と唸ったほどである。娯楽は娯楽、と念仏のように唱えて映画館を出たが、それ以来、他国の出版物における「日本イメージ」を怖いもの見たさにちらちらと見るようになった。国際連合に加盟してからでも10年ちょっと、まだまだメインは「フジヤマ・ゲイシャ」である。

それは脇に置いても、菊は本が並んでいるのを見るのが好きだった。日本では売れないだろう鮮やかすぎる装丁もパリのウィンドーでは美しい。自宅なら床が抜けそうな羊皮紙革張りのセット本もロンドンの天井の高い本屋に並べてあればそれだけで目を楽しませる。和書も軸物ももちろん愛する菊だが、西洋文化の象徴のような洋書にはミーハーな憧れがあるのだ。


その日菊はお馴染みロンドンの雨を避けて古本屋で静かな時を過ごしていた。首を痛くしながら見上げていた菊を見かねてか、主人は脚立を出してくれて、菊はそれをいす代わりにして20世紀初頭のカードデザインを集めた写真集なぞをめくっていた。
その本を書棚に戻した後、ふと、本が並ぶその背表紙の面が一カ所凹んでいることに気がついた。何かの本が奥に入り込んでしまっているらしい。天井にも近いところにいた菊は落ちないように気をつけながら、その埋没した本を引っ張り出そうと試みた。手が、つり、そう。やっと指の先にひっかけて取り出した本は、時代の色もついた函も小さな染みも菊を驚かすものではなかった。それよりも菊の目を奪ったのは、そのタイトル文字。日本語だったのだ。
異境の地で同胞に逢うのはこんな心境だろうかと菊は少し微笑んで函から本を抜き出した。英文学を学びに来て、貧窮の余り本を手放してしまった留学生だろうか。それとも……かつてここに暮らした人が、住みにくくなって日本に引き揚げる時にでも持ち物を整理したのだろうか。いずれにしても、よく買い取ってくれたものだと古本屋の主人にも感謝の念がわく。いつか買い取られる見込みも、実際その人もいなかったことはこの場所に埋もれていたことから分かる。
それにしても、逍遙訳シェークスピアなんて、懐かしいものを。もしかして初版だろうかと、そこまでは柔らかな微笑みを形作っていた菊の表情は、固まった。正しく、それは初版だった。
その次、裏表紙見返しの遊び紙に貼られたカードは、菊を記憶の渦に巻き込んだ。

日英同盟解消から既に五年以上たっていた。とはいえ、国際連盟の常任理事国として、またそうでなくても各種世界会議に呼ばれる主要国同士として、菊はアーサーとの友好関係を保っていた。菊はその日、久方ぶりにカークランド邸を訪ねた。応接間に案内しようとしていたアーサーは、菊の抱えた風呂敷包みを見てそれと悟ったのか、あの図書室に菊を通した。やはり通じ合っている、そう思った菊は、何も言わず、机の上に置いた包みをほどいた。紫色の布がするりと滑り落ち、薄黄色い函が姿を現す。
「やっと、お贈りできます」
「ああ」
文明の尺度とさえ見なされたシェークスピアの全訳。ドイツなどには数種のそれがある。アーサーが誇る文学の金字塔に自国語でのぼる途が、やっと去年できたのだ。
私の国民も貴方の世界に触れることができます。それを「いつかきっと」と約束した頃とは関係が違ってしまいましたが――それでも。これを作り続けたことが、貴方に向ける憧憬の証です。
そんな言葉は、今更要らなかった。
アーサーはあのとき菊のペンだこをさすったような優しい手つきで表面を撫でた。
「40巻は流石に持てませんでしたので、数冊だけ選んでお持ちしました。残りは明日にでも送らせます」
「40巻か。どこをあけるかな」
そう言って壁を見回すアーサーに、菊は胸をつかれた。この、素晴らしい革張り洋書のぎっしりと詰まった図書室に、菊の言葉を置いてくれるのだ。彼は、一番上に置かれた本のタイトル、「ロミオとヂュリエット」さえ読めていまい。いくら菊の国際的地位が上昇したと言っても、日本語は世界にとって公用語どころか一辺境の難解な現地語でしかない。理解もできないその本を、文化の粋を集めたこの部屋に、この棚に置いてくれる。それこそが多くを語らない彼の気持ちだと菊は分かった。
ああ、アーサーさん。もう手を重ね合う関係ではなくなってしまいましたが、この本がこれからも私達を繋ぐと思ってもいいですか。この本を読むとき、いつも私の心は翼をはためかせこの部屋に飛んできます。この文化の殿堂に、そして貴方のそばに――。
そんなことを口には出せず、菊は胸の上を掴んだ。
アーサーはしばらく頭の中で本の配置替えを試みていたようだったが、やがて目算がついたようでうんと頷き、いすに腰掛けて引き出しをあけた。
「…?」
取り出した一枚のカードに、羽ペンで今日の日付を書き込んでいる。しばし手を止めて、それから余白に「from Kiku」と書き込み、アーサーはそれを奥付の次の頁に貼った。不思議そうな顔をしている菊に気づき、笑いかける。
「エクスリブリス」
「はい?」
「蔵書票だ。見たことなかったか?」
「……気づきませんでした」
「ああ、前はやってなかった。というか、18世紀くらいまでは、ルリュールしてたんだ」
「る、るりゅ?」
アーサーは貴重書の並ぶ壁を腕で示した。
「あの辺の古い本は全部同じ背表紙だろ?本を手に入れたら、表紙をはいで綴じ直し、自分専用の表紙をつける。ってもちろん工房に頼むんだけどな。そういう個人装丁をルリュールっていうんだ。流石に前世紀くらいからやってられなくなって、蔵書票に切り替えた。本棚に並べての統一感は損なわれるが、手早いからな」
近代に至るまで、本は横に積み重ねるものだった菊には想像もつかない世界だった。その美的感覚と財力に圧倒される。
「このカードはやはりアーサーさん専用なのですか」
「ああ、エクスリブリスは、その文字と票主――まあ蔵書主だな、その名前を印刷しておくのが約束だ。図柄は好きなものを使えばいい」
「…アーサーさんらしい」
リンゴを持つ美女が――あとで、エクスリブリスに女性はよく描かれるのだと言い訳のように言われた――抱えた花束は色が想像できるほど丁寧に書き込まれたバラだった。
雲間から指す光は、かつて彼が言った「知識は天にいたる翼」を端的に表している。
その美しいカードは、本来の機能と相まって、贈った本の価値を倍にしたような気がした。

……その本が、ここにある。

EXlibris。 Arthur Kirkland。――1929年1月30日、from Kiku.。

気づいたらそれを持ったまま脚立を降りていた。気配に顔を上げた主人の言うままに札を出し、店を出たところでその本を買ったことに気づいた。
贈った本を、……そして売り払われた本を、買うとは。
「は、は……」
降り止んだ雨はまた街を冷やしていた。
名前を、呼ぶこともできなかった。心の中でさえ。
こんなに明瞭に私は切り捨てられた。

戦中の断絶を除いて、概ね良好な関係が続いているから、本の贈呈はあのときに限ったことではない。それこそ集めるのも読むのも追いつかないほど本は日々出されているし、「日本イメージ」正常化の狙いもあって、かなりの冊数を送りつけている。最初から「蔵」書となることを期待してなどいない、そんな本が市場に出回るのはむしろ有り難いと皮肉混じりに言ってもいい。

でも、この本は。これだけは。

「いつ、あの人の手を離れたのでしょうね…」

ホテルに戻り、長い旅をしてきたロミオとジュリエットに語りかける。
この本の英文を、あの人と読み合った日もあった。忍んできたロミオとジュリエットの会話のシーン。二人は最後に別れを惜しむ。日本語訳を読みながら、英文を口ずさむ。
「Good night, good night! Parting is such sweet sorrow――」
別れはこんなにも甘い哀しみ。菊はそれを抱いて一人眠れない夜を過ごした。

モントリオールオリンピックの対応を巡ってイヴァンたちとの関係がぎくしゃくした年の冬、世界会議の後お茶に誘われて、何気なくカークランド邸を訪れた菊は、いつもの応接間の前を素通りしたことに胸がとくんと動くのを覚えた。まさか?歩みの止まった菊を振り返ってアーサーは慌てたように言った。
「い、いや、今日は天気がいいし、今の季節じゃバラもないからな?庭の見えるそこより光をふんだんに取り入れた天窓が綺麗に見えるんじゃないかと思ってだから別にお前を案内したいとかじゃなくて俺がいいシチュエーションで美味しいお茶を飲みたいだけなんだからなっ」
「……はあ」
むしろ、そこまで一息に言って疲れませんか、というところに気がいっていた菊はぼんやりうなずいた。そして、気づく。「案内したいとかじゃなくて」。いつもの読解スキルを働かせるならば、図書室に何かあるということだろうか?
ドアを開け、紅茶を注ぐアーサーは何も言わない。けれども小鼻が小さく動いている。何か自慢したくなるようなものがここにあるのだろうか?特に記憶と変わるところもないけれども、と思った次の瞬間、菊はアーサーの背後に目をとめた。
「あ」
アーサーの小鼻がぴくりと動く。
今年新たにシェークスピア全訳が出された。全7巻のそれが、既に書棚に位置を持っている。――全40巻の逍遙訳の隣に。
「……お贈り、しなかったと思うのですが」
「贈られたらかぶるな、と思っていたんだがな、残念ながら杞憂に終わった。ちゃんと予約特典もついてきたぞ」
「……すみません」
そんなことより、(いや、その刊行は日英交流史に残る大きな出来事だったのだが)気になっているのは、確かに1から40まで並ぶ旧全集の方だ。そんな筈はない。だって、あのエクスリブリスの…彼の署名のある蔵書票が貼られた本は、確実に菊の書棚にある。
「…あの、手にとって見ても…?」
「?ああ、前に好きにしていいと言っただろう」
その約束がまだ有効だったとは思わなかった菊は小さく瞬きし、それから逍遙訳『ロミオとヂュリエット』を手に取った。奥付は確かに初版。エクスリブリスも、見覚えのあるそれが貼ってある。
「あ」
ばつの悪そうな声に振り返ると、アーサーは実に言いにくそうに告白した。
「…日付で分かると思うが、買い直したんだ。ロンドン空襲を避けるつもりで疎開させたら、かえって混乱の中で散逸してしまってな。――せっかくもらったのに、すまない」
「いえ……」
疎開…。
もちろん菊も、本土空襲の時期には重要文化財の疎開を考えた。上司は三種の神器の安置先を探したし、各大学もその保有する財産を守るべく各地へ運び出しを行っていた。しかし、この図書室の中から特に持ち出してまで守るべきものがこの訳書だとは、イギリス国民の誰も思うまい。誰にも読めない訳書など。
アーサーは、アーサーだけが、これを戦火から守ろうと思った。敵である菊の本を。


アーサーさん。


名前を、よんでもいいですか。


その声に気持ちをのせてもいいですか。

古本屋での巡り会いがなければ気づかないままだったろうに、愚直に正しく書き込まれた日付は、1945年。初版を求めて古本屋を回ったのだろうか。まだアーサー自身包帯を巻いていた時期に。

モノが、ただ変わらずここにあることを願っていた――ただ希っていただけの菊に対し、アーサーは、敢えてここからそれを移し、無くしてもまた求めたのだ。変わらない思いをここにあらしめるために。

アーサーさん。アーサーさん………

エクスリブリスをなぞっていた菊は、はっと、ささやかな図案の変更に気づいた。

リンゴを持った女性は、バラと菊の花束を抱えていた。