アーサー×菊
真面目一方だと思っていた菊の意外な一面を見たのは、個人授業の時だった。
「………ひとごろし……?」
「は?」
なぜその発言がでてきたのか全くつかめない、どちらかというとロマンスの話をしていたのではと眉をしかめると、菊は微かに傾けていた顔をはっと戻し、ほんのりと顔を染めた。
「いえ、あの。せっかく教えていただいたので覚えねばと」
「覚えるべきものに殺人者が出てきたか?」
手元の文学概説書と文豪の本を見渡す。
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アーサー宅の図書室は全ての壁に本棚を作り付けてある。採光のための天窓もステンドガラス装飾をつけてあり、知の蓄積が神へと至る階段であることが端的に感じられるようになっている。静謐さも好ましいこの部屋をアーサーはことのほか愛していたが、それを披露すべき友に恵まれることがなかったため、(傍若無人に乗り込んでくる隣人や元弟はおいておいて)初めて招待した相手が菊だった。
初めてこの部屋に入った時、菊は自分を取り囲む本とその匂いに圧倒されたらしく立ち尽くしたまま言葉を失っていたが、やがて「……すばらしい」とつぶやいた。
「なにもかもが美しいです。色遣いといい、家具との調和といい…。そしてこの圧倒的な蔵書量。さすがです」
褒めちぎる菊にアーサーは少々上ずった。
「もし気に入ったならいつでも来るといい。お前の出入りは許すよう家の者にいっておく。本も……大切に扱ってくれれば手にとって読んでいい」
「そんな!とっても貴重そうなものですのに」
「ま、まあな!国宝級のものもあるんだが、特別に見ることを許してやる……別にお前のためじゃない、俺のすばらしさを分からせるためだ!」
やっと対処になれてきたのか、それとも言葉をそのまま受け止めたのか、菊は「ええ」と笑った。そしてこの部屋での英語のレッスン、英文学の講義が始まったのだ。
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「いえ………あの、その方の生まれ年です。語呂合わせできるなあ、と」
「ゴロ?」
「数字の羅列を覚えるために、その読みを言葉に見立てる、というようなものです。昔から似たような、二つの意味を一つの言葉を掛けた物言いがあったのですが、最近覚えなければいけないことが増えましたから学校でよく使われているようです。円周率の覚え方、なんてのもあります」
「ああ、『Yes, I know a number!』か?」
「え、いえ。…それは何でしょう?」
「円周率の覚え方だろう。各語の文字数が値と対応する。Yesで3、ととっていって、3.1415だな」
「へえええ。アーサーさんはそういう覚え方をなさるんですね。……ちなみに、私風のではここまで覚えられます」
菊はそういって「産医師異国に向こう…」などとぶつぶつ呟きながらノートに数字を書き付けた。
3.141592653589793238462643383279502884197 !
「……へえ」
確かに、それはすごい。その辺の数学の教師もそこまで覚えてはいないだろう。…覚える意味があるかどうかは別にして。いや、言い切ってしまおう、ない、普通は。つまりこれは、役に立つから覚えた、ではない。覚えること自体が楽しかったのだ。まだ付き合いは短いが少し分かってきた、菊には知識フェティシズムの気がある。
「そのやり方で、ひとごろし、が出てきたわけか」
「ええ、シェークスピアさんの生年の1564年と没年の1616年って、つなげると『人殺し色々』になるなあ、と!」
菊があんまり嬉しそうに拳を握るので、思わず笑い出してしまった。
「おっまえ…」
「はい?」
「時々、子供みたいなのな。目ぇきらっきらさせて」
「え、え。そう、ですか?」
すげえかわいかった。
もう少しでぽんと口から出るところだった続きを危うくとめる。
「あ、の。ええと、脱線しちゃってすみません。教えていただいていたのに」
「いや、我が国の誇る作家をそこまで覚えようとしてくれるとは、幸甚だ。がんばって訳書も出してくれ」
「あー…訳……」
菊は頭を抱えた。
実は菊は一度やらかしたことがある。
かの有名なハムレットの台詞、「To be,or not to be,that is the question」を「あります、ありません、あれは何ですか」と訳したのだ。
「繋辞という概念が日本語にはないもので…beと言ったりisと言ったりするだけでも混乱しているのに、『ある』だったり『そのようである』だったり……お忙しいアーサーさんに教えていただいているのに恐縮なのですが、なかなか上達しないです」
そうでもないけどな。心の中でつぶやいて、でもこれは慎重に喉でとめる。『上達』してしまったらもう『教え』られなくなる。
「いや、さっきも言ったように、自国のものに興味を持ってくれるのは嬉しいし、菊と話すのは息抜きになるしな」
確かに国際・国内政治に忙殺されながら捻り出している個人授業の時間は、しかし既に息抜き以上のものになっている。カレンダの次回予定日についた○だけを支えに日々を乗り切っている。そんな気持ちが、少し怖い。想いをかけすぎると裏切られたときに倍辛い。その痛みを、既に知ってしまっている。
「いずれにしても、沙翁全訳のない一等国など他にないのですから、我が国も当代きっての文学者が訳業に取り組んでいるのですが…しばらくは原文で味わうしかない作品もあるようです」
「いいじゃないか、英語読解の訓練にもなる。彼の言葉は響きが美しいから、朗読するといい。なんだったら会話の相方を務めてやるぞ」
発音に自信がない菊はしばらく困ったような顔で目線を泳がせていたが、アーサーが小さく顎をしゃくって促したのを見て、仕方なそうに手元の本を開いた。適当に開いた頁をそのまま読み上げる。
「……If I profane with my unworthiest hand this holy shrine,……」
”もし私のとるにたりない手がこの聖なる場所を冒してしまったのなら”。読み上げた菊は、思わずといった調子で言葉を切り、そっと周りを見渡した。自己評価の低い菊は時々こういう顔を見せる。洋服を着た猿と嘲った過去の自分を殴りたくなるのはこういう時だ。
「続けろ」
「……『その罪に対して、私の両唇は、ちょうど二人の赤面した巡礼のようなものです、この手の粗野な振る舞いを償おうと待ち構えています』……」
菊はまた言葉を切った。目で促すと、しばらくの逡巡の後、そっと囁いた。
「………with a tender kiss」
微笑んで、会話を引き取る。
「『巡礼様、それは御手に対してひどすぎます。御手は品行方正で敬虔な心をお示しです』」
目を合わせたままそっと菊の手をとると、逆らわずに力を抜く。その手のひらをこちらに向けさせて、こちらのそれと重ねる。
「……『手のひらと手のひらを合わせるのが聖なる巡礼の口づけですから』」
机越しの手の触れ合いだけで、菊は頬を染めた。伝わっている。”お前の気高さを分かっている”というメッセージは。
そっと手を包み込むと、人差し指の横に固いものを感じた。
「ペンだこか」
「…ええ。毛筆とは持ち方や力のかけ方が違って、どうにも指が汚なくなってしまいます」
「綺麗だ」
「今日はもちろん洗ってきましたが」
「いや、その汚れも、そしてこの胼胝もだ。お前の向上心がここにある」
そっと人差し指の横に口づける。
「菊は勉強熱心で、吸収も早い。そのうちここの本どれも読めるようになる」
「そうでしょうか…」
控えめに言いつつも、読む方にはいささか自信がついてきたらしい菊は部屋の壁を埋め尽くす羊皮紙の背表紙たちを眺め回した。
「ああ。『無学は神の呪い、知識は天にいたる翼』だからな」
「それも、彼の作った言い回しなんですか」
「ああ。シェークスピアの名文句は文化資本と言うに値する。修辞としてその後の英文学にも影響を与えているし、今でも文章に使われるからたくさん覚えるといい。………そのうち、その翼で海を越えて来い」
「…?はい」
菊のよくないところは、完全に分かっていないときでも、自分の了解した範囲で「分かった」のサインを出すところだ。けれども、今回はそれを狙って言った。いつか気づくだろうか、先の台詞が「恋の翼で塀を越えてきた」ロミオの台詞のもじりだと。
気づいてもいいし、気づかなくてもいい。
俺たちは敵対する家の子ではないし、なぜ彼が彼であるのかを問う必要もない。
さきほど菊はbe動詞の意味について苦しんでいたが、実は、結局その二つは同じになる。「to be」とは、この世での生存と同時に、現状のままあることを意味している。だからこそ、ハムレットにとってはその否定に意味がある。
菊が生きていること、そして菊が菊であること。
その二つは同じことの異なる表現なのだ。
そして、ジュリエットと違ってそれを喜べる。
菊が過剰なほどの知識欲でもって追いつこうとすること。多少の背伸びをしてでも隣に並ぼうとすること。その全てが微笑ましく、嬉しい。
愛おしい。
この時間がいつまでも続くよう、菊の学習遅滞をこっそり祈った。
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菊が英領植民地と同様「沙翁も分捕れ」と吠える、そのわずか数十年前のことだった。
疾く我等二人
遠くに去りけり