サディク×菊(書家パラレル、『巷説シリーズ』ダブルパロ)
土曜日の午後は小学生を、平日隔日の夜は大人達を相手にした本田書道教室は、師範同様生徒の方も代々という家が多く、小規模ながら潰れずに続いてきた。自身高名な書家であった祖父や父がかなりの遺産を残したため、菊はその狭い書道教室に引きこもっていても暮らしていけたのだが、頼まれると断れない性格で、多少の賃仕事に出向くこともあった。
そうして引き受けた区民講座の書道教室で出会ったのが、アドナンである。
彼ははっきりと目立っていた。明らかに日本人ではない彫りの深い威丈夫が、おじいちゃんやらおねえさんやらの中に混じっているのだから目立たないわけがない。しかも彼は部屋の中でもサングラスを外さない。「なぜサングラス」「なぜ黒スーツ」という疑問が彼の周りにはいつも漂い、しかしそれらの質問はいつも発されることなく日本的「曖昧な挨拶」にとけて消えていた。
言葉も流暢で(流暢すぎてどこの江戸っ子だ、というレベルになっていたのはご愛敬だ)、漢字もかなり読めるらしいアドナンとは特に意思疎通に困ることもなく、ただ受講生の誰も聞けない「なぜサングラス」が菊の脳裏にも常に漂い、何となく視線を向ける回数が多くなっていた。
実のところ、日本文化に関心を持つ在日外国人が区民講座の書道教室に来ることはままある。住民票を持っていれば参加できて、民間の教室に通うよりは安い。区民センターを使うのでセイザから免れる。実にお手軽に日本文化を体験できて、多少の実用性もある。
向こうが望んでいるのもその程度なので、書家として無名の菊であっても気楽に応対できる。とはいえ、以前来たアメリカ人は筆の特性も考えずに「大胆な運筆」(八つ橋)をしたため、菊は筆の痛みを感じて講座の続く間、心休まるときがなかった。
対してアドナンはその圧迫感のある体躯から想像できないようなやわらかい物腰で筆法を習い見る間に運筆を覚えていった。先のアメリカ人の時とは違った心の動きでアドナンのことをしばしば見ているせいで、時には目があいもする(推定。菊から「目」が見えるわけではないのだ)。なんだどうしたと言われたら困っただろうが、アドナンはちょうどよかったとでも言いたげに「先生、見てくんなせぇ」などと手を挙げる。菊はちょっとどきまぎしながらそのSPのような男に向かってにっこりと微笑み、朱で○を書いたり範を示しりしたものだった。
その、アドナンが授業後ふらりと菊のそばへ近寄ってきたのは、半年の講座も終わりに近づいた晩夏だった。菊は手すさびに和歌の書き付けをしていたところだった。
「先生、今、都の美術館でやってる本田展ってなぁ……」
「あ、はい。私の祖父です」
菊が恥ずかしそうに言うと、アドナンはうんうんと頷いた。
「やっぱり、お身内でやんしたか。そこでポスター見たんですがね、どぅも先生の筆と似てなさるンで」
「順番が逆です、私の筆が祖父のを真似てしまっているのでしょう」
家業を継いでいる、といえば継いでいるわけだが、書家として作品を生み出していく技量もなく、その気もない。金になりもしない雑文などを描いて日々を過ごしている。投げ出しているから諦めもつくが、越えられない壁、父祖の築いたもののことは常に菊の意識下にある。
「――そうは言いなさるが、俺にとっちゃァどうしたって先生っから始まる話でね。なんともやさしい字を書きなさる」
「……お褒めいただいて、どうも…」
ふ、と半紙に目が流れたので菊は手元の書きかけに目を落とした。
「まだこういうくにゃくにゃしたのは読めねぇんですがね、流れるようで美しいと思いやすよ」
ちなみにどういう意味なんですかい。アドナンがサングラス越しにこちらをじっと見たので、菊は気圧されるように答えた。
「『唐衣着つつなれにし妻しあればはるばる来ぬる旅をしぞ思ふ』 ……『伊勢物語』という古典作品の中の歌です。『着慣れた服のように親しんだ人を都においてはるばるやってきたこの旅を思う』……心ならず地方へ来た人の歌なのです」
「はあ……、服のように、ですかい……?」
なぜ「服」?という顔をしているアドナンに、菊はにっと笑って、今度は横書きに句を書き連ねた。
「この歌は『折句』――今で言う『縦読み』になってまして」
からころも
きつつなれにし
つましあれば
はるばるきぬる
たびをしぞおもふ
こうすると、カキツバタという花が歌の中から浮かび上がってきます。ええと…アイリスの一種です」
「へぇ―――」
「染料として用いられた花なんです。当時は妻が夫の服を染めたりもしますから、歌の解釈としては『唐衣着つつなれにし』の部分は妻との親しみ具合を語り出す呼び水――序詞と言いますけれども、それでしかないのですが、その時に「服」が「カキツバタ」を通って「妻」を呼び出すのはとても自然なんですね。そのほか、「つま」という音に「妻」と「褄(着物のおくみ裾のことなんですけど)」という「衣」に縁のある言葉をかけていたりと、非常に技巧的な歌として……」
高校辺りで習うんです、と続けようとした菊は、アドナンのによによとした笑みに気づいて瞬きをした。
「あの、なにか」
「先生はそういう、これが実はああで、みたいな判じ物、お好きでやんしょう」
「あ…………はい」
雑学は好きだし、ミステリも好き。何気ない顔をしたものの裏に秘められた意味を知ると菊はわくわくする。そういうのを書けないものかな、と文章を描いているのだが、本にまとまる見込みはない。
「いつもと口ぶりが違いやしたからね」
そう言って、やっと意地の悪い笑みをひっこめると、アドナンは言った。
「この紙、頂いてもようござんすか」
「え」
「国に帰ったあとにでも『こいつぁ実は』とやってみてぇと思いやしてね」
相変わらずサングラスの奥に感情はかくされてわからない、けれども、菊は「ああ」と思った。
「………どなたか、アドナンさんのお帰りを待ってらっしゃる方がいらっしゃるのですね」
「え?」
「お国に」
「え、………いやぁ、参った、そういうわけじゃあねえんですが………」
がり、と後頭部を掻いた。
「そういう色っぽい話じゃござんせんよ。ただ、ガキの頃から面倒見てた、まあ言わば腐れ縁がいやしてね。ちょっと思い出しただけでさぁ」
とはいえ口に漏れ出た笑みはその誰かとの関係の深さを思わせ、菊は理由もつかないまま胸がちり、とやけるのを感じた。
「あ、先生」
その声に顔を上げると、アドナンはいいことを思いついたという顔で手を打っていた。
「はい、なんでしょう」
「ちょいと、助(す)けてくださいやせんか」
「は」
「実は最近、身の回りで不思議なことが起きてやしてね。お知恵を貸してくだせぇ」
「え、そんな」
あれこれと真相を考えるのが好きなだけでプロの探偵でもなんでもない。むしろアドナンの知性の高さは、字を教えるついでに言葉を教えていてもよく分かる。手を振ろうとした菊にアドナンはにっと笑いかけた。
「ま、その話をサカナに、ちっと甘い物にでも付き合ってくだせぇよ。好きなんでやすが、このナリじゃあ喫茶店も甘味処も入りづれぇんで」
ボディーガードのようなこの人がパフェでも食べていたらそりゃあ目立つだろう。菊は思わず吹き出し、無礼の詫びにと、とっておきの茶店に連れて行った。
ああ、自分は、この人との時間を引き延ばそうとしている。
それに気づきはしていた。
モンブラン、スイートポテト、洋梨のタルト。
秋はそのまま食べても美味しいものが多く、甘く加工すれば更に美味しくなる。その場限りの言葉ではなく本当に甘いものが好きらしいアドナンはネットで見ただの同僚に聞いただのと有名店の名をあげ、講座が終わると二人で尋ね歩いた。実は菊も甘い物が好きで、だからそれらの店はほとんど知っていたのだが、若い女性でいっぱいの店内に入る勇気はなく、お土産を装った持ち帰りしかしたことがなかった。
多少の違和はメーターを振り切ってしまえばもう気にならない。菊だけならいたたまれないかもしれない視線さえ、不似合いこの上ないアドナンとならば楽しむ余裕も出てくる。きっと「この人達はどんな関係だろう」なんて考えてるに違いない、でもきっと分かるまい…!
巨峰のパフェを待ちながら心の中でによによと笑う菊の前で、アドナンは相変わらずサングラスをかけた真面目な顔のまま女性雑誌を繰っている。この店の情報が載っていたからと持ってきたのだ。その題字を見、アドナンの顔を見ることを二度繰り返した通行人がいたものだ。
「外人にむつかしい日本語はカタカナ語だって言いやすが――」
ぱら、ととまった頁はエッセイだ。なるほど日本化して原音から遠ざかった外来語もたくさんでるだろう。そう納得していたらアドナンはカタカナではない箇所をとんとんと叩いた。
「俺ぁ、このルビの多用に悩まされやしたねぇ。何かの台詞じゃあねぇが、『運命と書いてさだめと読む』類がわんさとあって、こちとら二語訳す羽目になる」
「…ああ、なるほど。本来の読みを外れた振り仮名ですね」
「ええ。時にはアルファベットに漢字が『パール』で振ってあったりしやすでしょう」
パールは5ポイント活字。ルビーは5.5ポだ。確かに、漢字でとなるとそれはもう振り「仮名」ではない。
「もともと、小さな字で別の読みや意味を記すということは近世からよくあったのです。明治時代の新聞には両仮名、つまり右に音読み、左に訓読みを振ったものがあります」
「はあ、そりゃあ、識字率の問題ですかい」
「ええ、ひらがなは読める、という人への配慮ですね。最近の漫画に多用される『生命と書いていのちと読む』の方は、そうした手法を利用した表現ですけど」
こうした「これがこうなってああなるのでは」話は他人にはつまらないだろうと菊は表情をうかがったが、アドナンは、少なくとも見える限りでは面白そうに聞いている。
「私見ですが……日本語では書き文字に対する信仰があるんだと思うんですよね」
運ばれてきた秋の味覚に手を合わせ、ひとすくいアイスクリームを舌の上へ送った。
アドナンの方は洋梨とヨーグルトの組み合わせだ。薄く切ってある洋梨を一口で食べて、それからアドナンは言った。
「言霊信仰ってやつですかい」
「ああ、言ったことが本当になるという音の力への信仰もあります。それは本当に『信仰』なんですが、書き文字の方は、『信頼』というか…」
先を促す目線につられて益体もない話を続ける。
「日本語は中世以降漢語に大きく支配されたために同音異義語がとても多くなっていて、口に出すだけでは語義が確定しない、やはり字で読まないと…という感覚があるように思うんですね。『かていの問題』がどういう問題なのか文脈でも決まらないこともあるので『仮に、のカテイ』というように字を示して言葉を示す。それに対して書いた文字は原則的に唯一のものを指し示すはずだという感覚があるんじゃないかと」
菊はこの前見たネット上の書き間違いを思い出して続けた。
「MATなら怪獣攻撃部隊、MITならマサチューセッツ工科大学、みたいな」
ウルトラマンか!と思わず突っ込んだのだ。
アドナンはサングラスの奥でしばし沈黙した。
「……MATってのは、自衛隊の対戦車ミサイルの呼び名でもあったんじゃねぇですかい」
スプーンが一瞬とまる。
「…そうなんですか?」
「確か。つぅか…アルファベットの略称なんて業界が違えば全然違うものを指すでしょうに。CDはコンパクトディスクとしてもキャッシュディスペンサーとしてもクリスチャン・ディオールとしても使われてる略記号じゃねえんですか」
アドナンの意外な知識に目を瞬かせていた菊だったが、使おうと思っていた例がちょうど出されたのでペースを取り戻した。
「あ。はい。話はそこに行くんです。文脈である程度判定できますし、文章の最初に略語の意味を表しておく、多分その辺りは世界共通なんだと思うんですが、その時に読んでいく日本語話者の意識は、振り仮名なんじゃないかなと。先に『信頼』と言ったのは、書いてある以上意味は特定できるはずだという意味でもあるんですが、書いてある以上その単語は読みも意味も特定されなければならないという強迫観念を感じさえするからなんです」
ふうん、と面白そうに聞いていたアドナンは、しばらくスプーンを動かしていたが、あ、と顔を上げた。
「書道芸術ってのもそれに関係すんですかい」
「え」
「前にも言いやしたが、先生の字で見ると歌も言葉もやさしく見える。この気持ちはこういう線で書かれるべきだという思いでそうなさってんのかと思いやしてね」
「……」
アドナンの直截な賛辞は時に照れる。
「先生はどう思ってらっしゃるか知らねえが、俺は先生の字好きですぜ」
「………」
かつん、グラスに当たった長スプーンは思いの外大きな音をたてた。
「……ええと、どうでしょう、書の世界にはあまり振り仮名は入ってこないのですが……そして『べき』ということはなくて、あくまでそう書き表したいという気持ちでしかないのですが……」
これに賭けたいというほどの思いを書にもてない。自信がないからだ。謎解きは好きだが、それで食べていけるでもないし、一冊たりともまともにものにしたこともない。ただ命があるからつないでいくし、仕事の場があるからこなす。そんな形で一日一日を生き潰していた菊に、アドナンの言葉がじわじわと沁みていく。
「……そういえば、アドナンさんは何のお仕事をされているのですか?」
「え、いやぁ……」
がりがりと頭を掻いて。かなりの時間躊躇い、やおら向き直ってアドナンは静かに言った。
「なんってぇか、人様の目を憚るような生き方してましてね。だから本当はこんなオモテの場に混じるべきじゃねぇんだが………ここに来て先生に字を習ってっと、なんだか真ッ当になったような気がするんでさ。先生は、―――とてもまっすぐでいらっしゃる」
さきほどまでとは違う笑みをその口元に見いだし、菊はどきりとした。
「そんな………私は」
その続きは口に出すことではあるまいと、菊は最後のアイスクリームを口に運んだ。
何もかも、半端で。何に対しても一人前になれず、ただ、流されるままにここまで歩いてきて。
だけどそんな私を―――少なくとも私と共にする時間を、この人は求めてくれる。
口の中で兜率の天の食はゆっくりと溶けた。
別にアドナンに言われて思いついた訳ではない、講座開設以来の恒例だ。菊はあと2週で講座が終わるという週に白い紙を配った。
「修了記念に、短冊をお送りすることにしています。特にご要望がなければこちらで適当に漢詩の一節などを書きますが、もしお好きな詩文があるようでしたら、リクエストして下さい」
私などが烏滸がましいと渋ったのだが区の職員に押し切られて始まった「恒例」だ。去年は自分の名前を漢字で書けとアメリカ人に強請られて往生した。それは特例として、よく求められるのは「一期一会」。確かに市民講座に来るような人とはもうこの後会わないままになる可能性が高い。十字路で行き会いしばらく共にバスを待った、その程度の間柄でしかない、それでいい。
それでいい、はずなのに、今年はそれが少し痛い。
翌週、「ここのところちっと家がばたばたしてまして」、そんな挨拶でアドナンは早々に帰っていった。自宅に戻った菊は、提出されたリクエストの紙を繰り、目を見開いた。
アドナンからの紙には村上天皇の歌が記されていた。
逢坂も果ては行き来の関もゐず尋ねて訪ひ来来なば帰さじ
菊は小さく呟く。
「……嘘つき」
最終日、求められた字句を書いた短冊を受講生に配った。自作の俳句を書いてきた高齢者は嬉しそうに眼を細め、「絶対合格」をリクエストした主婦はうんうんと頷いている。子どもの机にでも貼るのだろうと考えて、生真面目に、だけど肩肘張らないような書き方を心がけた。書道の世界に『べき』はない。しかし、その場その場でこれしかないと思わされるカタチはある。
何気ない顔でアドナンにも短冊を渡しながら菊はこっそり頷いた。リクエストの紙の裏には時刻と場所の指定があった。一番最初に行った甘味処だ。季節限定の栗金団の贅沢さが特筆もので、だけど初回の訪問時にはまだ出ていなかった。
四人がけの席に落ち着いて、抹茶とのセットを頼み、菊は半個室の垂れ布の向こうをしみじみと眺めた。
「どうかしやしたか」
「え―――いえ」
考え過ぎなのだろうか。そうかもしれない。
と、アドナンが黒い鞄から先の短冊を取り出した。
ここ数回の「甘い」時間、他愛もない話もたくさんした、その中に、例の「腐れ縁」の話も何度か出た。かわいげがないだの恩も知らないだの口から出るのは文句ばかりだったが、それを許す仲だということが否応なく感じられ菊をちくちくと刺した。「お会いしてみたいです」と菊は言った。本当に会いたいような、絶対会いたくないようなもわもわとした気分だった。いずれにしても地球の向こう側にいるというなら会うことはないだろう、そう思っていた。
菊はまた楊枝で刺されたように眉を顰めた。その時、簾状の垂れ布が揺れ、菊はびくりと肩を揺らした。栗金団を運んできた店員も一瞬驚いたほどのその強ばりは、アドナンの眉をも寄せさせた。
「先生?」
店員が空の盆と共に出て行くのを見届け、覚悟を決めて菊は顔を上げた。
「あの……例の方と会わせていただけるのでは、ないのですか?」
「は?」
「ここで待ち合わせなのかと」
「え?先生と、ではなくて?」
「はい、あの……着つつ馴れにし方、と」
小さく口を開けたまましばらく菊を見つめていたアドナンだったが、やがて手に持った短冊を眺め、もう一度菊の顔を見た。
「ああ………『物』じゃなくて『者』ですか。こいつぁしくじりだ、考えつきもしやせんでした」
「あ、…そうなんですね、普通に解釈して良かったんですね」
「すいやせん、文法指南書で見つけたものを書いただけなンで。ちっとでも先生が楽しんで下さればと思ったんですがね」
強請っときながらナンですがね、とアドナンは頭を掻いた。
「……普通に解釈、ってことは、そっちも気づいてらっしゃるんですか?」
「ええ」
菊はバッグから袱紗を取り出した。
あふさかも
はてはいききの
せきもゐす
たずねてとひこ
きなばかえさし
この歌は、アドナンが指南書と言ったように修辞解説にも使われる例で、頭の折句「あはせたき」に沓の折句「ものすこし」と続け、「合はせ薫物、少し」という要求になっている。これに更衣・源計子が見事応えたというエピソードもついている。だから当然菊も薫物、すなわち練香を用意してきた。
しかし、薫物という言葉がアドナンの語彙にあるだろうかと考えた菊は、掛詞になっている可能性を考えてしまった。「逢はせたき者、少し」。
家がばたばたしているという言葉は、誰かの来訪の可能性を感じさせた。であれば、アドナンは会わせてみたいと思ったのかもしれない。
もしかしたら純粋に、会ってみたいと言った菊の為に。
もしかしたら、その時の菊の真剣なような投げ出したような気持ちをも全て見通して、――それを「一期」に終わらせる為に。
考えすぎて筆が乱れた。何枚も短冊を無駄にして、いくつもの思いを字に表した。あからさまだろうかと思いながら、それでも一番心に近かった書を渡した。
取り繕いや躊躇い、そんなものを捨てたその書は、まさにこの場でこれでしかありえない線になっていた。村上天皇がこの歌を口にしたときどうであったかは知らない、しかし今菊の筆になったこれは、理智の歌ではなく、激情の歌だった。
菊は袱紗を開いた。
香道は平安時代に洗練され、六種薫物(むくさのたきもの)に集約した。季節になぞらえて名付けられた六種類の、秋のもの。
アドナンはサングラスの奥に表情を隠し、しばらく黙った。やがて胸ポケットから取り出した小さな包みをテーブルに滑らせる。
「………律儀な先生のことですから言葉通り日本の香を下さるだろうと思って、お返しにウチの香りものを持ってきやした。その例の奴が国から来るついでに持ってこさせやしてね。…呼び寄せたとかじゃあねぇんです、あいつぁ、なんてぇか、年の近い息子みたいなもんでして。今回来たのは最後の機会だからって観光に押しかけてきただけでやす。実は、近々国に帰りますんで」
「……え」
「片付けやら引き継ぎやら、仕掛けていたことの仕上げやら、まあ色々で慌ただしくしてたンですが―――」
ず、とお茶をすする。
短冊をしばし眺めて。
「だから、半ば本気だったんですがね」
「―――え」
尋ねて訪ひ来 来なば帰さじ
とくり、と心が動いた。
「先生は、謎解きがお好きで、季節ってもンも分かってらっしゃる。秋に違う季のものを合わせるなんてこたぁ、ただ甘味を食うててもなさらねぇ。それを分かっていてこの歌を書いたンですから、俺ぁつまり、『それ』を下さらねぇかと言ったんでさ」
それ、と指さされたのは、沈香をベースに丁子や薫陸を合わせた秋の薫き物。名を「菊花」という。
「アド…」
「だが」
言葉は遮られた。
「この短冊を見ちゃあ、そいつは口に出せねぇ。先生は、本当に、『字』で生きていける方だ。ただ綺麗なだけじゃない、……見る人間の心をごとんと転がす力を持ってなさる」
それは……、それは、見たのが貴方だからなのではないですか。
貴方が、心を動かしてくれたのではないのですか。
前のめりに募る心を、アドナンは拒絶する。
「俺の国はイスラムですし、俺の生きるのは薄汚ねぇ世界で」
だから、連れて行けない、と彼は言う。
「……先生は、日の当たる世界でずっと生きてって下せえよ」
代わりにこれを貰っていきやす。そう言って彼は「菊」を掲げ立ち上がった。
「待って……待って下さい」
アドナンは足を止めた。
「日本語では、発された言葉は力を持ちます。だから、言ってくれとはいいません。ただ、その言葉に、振り仮名をつけてくれませんか」
「…?」
「私には呪文のようにしか聞こえない、だから意味を獲得して私を縛ることはない、だから―――貴方の国の言葉でこれを読んでくださいませんか」
アドナンはしばし躊躇い、しかし踵を返し、そっと菊の耳元に口を寄せ、まさに呪文のような言葉を囁いた。
その時だけ外されていたサングラスは、しかし、すぐに戻され、彼の感情を隠した。
後には4.5ポイント―――ダイヤモンドの言葉だけが残った。