救済者に救済を

ギル菊

ギルベルト×本田菊

6年ぶりに偏屈じじいが音楽祭を開くという。
ワグナー、なあ。頬杖をついて貰ったチケットを振る。いい悪いで言えばそりゃあいいんだろうが、若干ケレン味が過ぎるのでそう好きではない作曲家、更に普墺戦争で坊ちゃん側につきやがったパトロンの顔がちらつきもして、第一回音楽祭は素直に楽しめなかった。とはいえ、本邦屈指の音楽家、喜ぶだろうと留学に来ている菊をその第二回バイロイト音楽祭に誘った。ところが、菊は「考えておきます」だの「また今度」だのと首を振る(後で聞けば、勉学以外のことに時間をとられるのが嫌だったらしい)。そうなるとむっとする、ふざけるな俺様の音楽を聴け、と首根っこを捕まえて強制連行したところ、結局俺以上に楽しんでいやがった。作曲家が「舞台神聖祝典劇」と名付けたそのオペラは四時間半もあり、言葉もろくに分からないくせによく楽しめるものだなあと隣を見て感心した。それくらい、菊は話に没頭し、音楽に圧倒された様子で両手を握りしめていた。
帰り道の馬車の中、菊はすごいですねすごいですよねとしゃべり続けた。やべぇ隣しか見てねぇから分かんねぇぞと俺は曖昧に相づちを打っていたが、ややあって菊は「はぁ」とため息をついた。
「どした」
「ヨーロッパの文化文物は、こうやって観客の立場で楽しむのが一番です」
「……なんかやんのか?」
フルートでも吹くなら教えてやるがと思ったが、菊はこめかみにそっと手を当てた。
「……ダンスを……」
「は?」
ダンス?進むのも曲がるのも直線のこいつが?晩餐会に招かれても、寄せてあげてした女達の胸から目をそらそうとしてばかりいるこいつが?話しかけられる隙を作るまいとわざと深刻そうな議論を俺にふってくるこいつが?どの口で「お手をどうぞお嬢さん」とか言うわけ?
「似っ合わねぇ……」
常々、「兄さんは思ったことをそのまま口に出しすぎる」とルートから窘められていたのだが、ついうっかりした。かちん、という音が聞こえそうな顔で菊がこちらを見る。
「どうせ小男です」
「いや」
まあ、そうだけど。頭をわしゃわしゃ撫でられるサイズだ。
「どうせ下手です」
「……は?お前、踊れんの?」
いつの間に。なんだったら教えてやってもいいぜ但しお前女役な!と思っていたせいで、またうっかりした。
菊は失敬な!という面持ちでこほんと空咳をした。
「一応は。今度、本格的な迎賓館ができるんです。そういうのが特に好きな上司がいましてね。『西洋の方をおもてなしするのだから西洋の流儀で』ということで、色々と私も学ばされました。秋にお伺いするローデリッヒさんにもきちんと教えていただくことになってるんです」
「待て」
かちん、とした。何だその頭越しの約束。
「5月にはもうベルリンに来ていただろうが」
「はい」
それが何か?と顔に書いてある。
「なんで俺に教えを請わない」
「ええ?ギルベルトさんに?ダンスを!?」
またそんな冗談を、と言いたげに笑いやがる。
「それぞれのプロにそれぞれ学ぶ、それは我が国の至上命題です。料理はフランシスさん。海軍はアーサーさん。大規模農業はアルフレッドさん。そして、国家学と軍事学はギルベルトさん、誰が見ても納得でしょう」
「だからってお前……!」
よりによってダンスを、坊ちゃんにか?
お手をどうぞ。優雅に(ということをいくら俺様でも認めないわけにはいかない)手を差し出す坊ちゃんにうっかり見とれながらこいつは手をとるのだろう。背中に手を回されて、腕の中に巻き取られて。……待て待て待て。なんだその映像。駄目だろうそれは。
「お前、ダンスがどれくらい密着するものか分かってんのか」
「分かってますよ、だから嫌だって言ってるんでしょう」
でもやると決めたからには本格を目指すんです、日本男児ですからね!菊はがつっと拳を握る。それであいつか。何故だ、さっぱり分からないがものすごく苛々する。
「だったら、やめだ。ダンスホールも建設中止。その上司クビにしちまえ」
「はあ?!」
菊は目をつり上げた。
「どれだけ国家予算かけてると思ってるんです。国民の皆さんのほとんどは足を踏み入れることもないのに、血税でその『おもてなし』を支えるんですよ」
「だから、それがおかしいだろう。お前の今までの流儀でもてなせばいいじゃねえか!」
「そーれで貴方がたが『もてなさ』れてくれないから、無理してるんじゃないですか!」
「ざけんな、『貴方がた』なんて簡単にひとくくりにすんな、俺様は立派にもてなされてやるぜ!」
売り言葉に買い言葉で応答したが、「立派に」は変だろうと、口から出した瞬間に気がついた。「あ、しまった」の顔で固まった俺に、菊は吹き出した。
「分かりました、ではギルベルトさんをお招きできた暁には、わたくしの流儀でお迎え致します」

「…ってやりとり、覚えてます?」
横浜港におりた直後、菊はそう言った。お前、久々に会えたセンセイに他に言うべきことはないのか遠路はるばるありがとうございますとか会えて嬉しいですとかギルベルトさんは相変わらずかっこいいですねとかなんとか!と喉までこみあげたが、こらえる。
陸軍指南役の派遣要請を受けて、国内最高の教官を出すことになった。この要請は普仏戦争の結果を受けてのものだと言うから実にいい気分だ。遠路を厭う兵学者に「俺様が一緒に行ってやる」と説得し、というか、まあ、それを口実に2ヶ月以上かけて大洋を渡ってきた。
東京へ向かう兵学者とはいったん別れて、二人乗りの人力車とやらで菊の別荘に向かった。近くだとは言うが、道はかなりの登りとなっている。

「俺の記憶力なめんな」
「よかったです。あの後ウィーン行きがちょっとごたついたので、約束があると申し上げたのをお忘れかと思ったりしてたんですよ」
「…」
菊は相変わらず真意の読めない曖昧な微笑を浮かべているから、それが皮肉なのかなんなのか分からない。軽くウィーン行きの妨碍はした。靴の中に蛙を入れるとか目の前を黒猫に横切らせるとか。そんなことで止められるとは思わなかったが、素直に行かせてやるもんかと思ったのだ。「素直に俺様に習っておけば、小鳥のように踊れるようになるのによ」と聞こえよがしに言いもしたのだが、面白いことを言ってもいないのに吹き出された。
菊の手は細い。刀を持つ手だからかなり固いし、身長からすれば大きい。間違いなく男の手だ。それでも多分、俺の手より一回りは小さい。目のラインがちょうど俺の肩の上あたり、踊るにはベストの身長差、だと思う。多分。正直に言えば菊の適材適所論は正鵠をついていて、ソーシャルダンスなんて俺の柄じゃない。だから教えてと言われても困ったのだが、それでも、他人を先生と呼ぶ菊を想像するとなんだかむかっ腹がたった。
「……上手くなったのかよ」
「ええまあ、お相手の靴を踏まない程度には」
踏めばいいだろが。がんがん踏んでやれ。坊ちゃんはそんなことで動じもしないだろう。心の中で悪態をつく。
小さな峠を越えてやっと辿り着いた町は、穏やかな湾に面した静かなところだった。
「保養地か」
「ええ、それに向いているのではないかと思いまして、試しに別荘を建ててみたんです」
こぢんまりとした、けれどもどこかすっきりとした小屋の前で車は止まった。頑丈そうな車夫は荷物を降ろすと元気に走り去っていく。既にして「日本風」に気圧されていた俺を促し、菊は引き戸をあけて薄くらい小屋の中に入った。入り口すぐにかなりの段差がある。
「どうぞ、そこへお掛け下さい」
そういって菊は奥へ進んでいった。一人になって初めて、ためておいた息を吐く。
初っ端からやられた。民族衣装なんだろう、白い上着と黒いスカート状の服は、菊の身体にあっていて、凛とした雰囲気をいや増している。そして、何を考えているんだ自分、と頬をはたくしかないが、その下袴に入ったスリット?が手を突っ込んで下さいと言わんばかりでついそこを見てしまう。この下袴も、結び目が複雑だから簡単にはとけないのだろうけれども、原理を考えれば結局紐で結ばれているだけだ。なんてえろ……もとい、もろい服を着ているんだ。
「お待たせしました」
その声に振り返り、またどきりとする。幅のあった袖は紐でたくし上げられ、菊の腕は上腕二頭筋から剥き出しになっている。白いそれに眼を奪われていると、菊は捧げ持ってきた桶の中身を足元にあった盥にあけた。
「湯?」
「はい。『わたくし流のおもてなし』です。まさか、センセイは、嫌とは仰らないですよね?」
「言うわけね……待て待て待て」
いきなり足元にしゃがみ込んだ菊は、俺の軍靴を脱がし始めた。
「待ちません」
「何しやがるてめぇ」
「おもてなしなんですよ」
「どこがだよ、こら。やめ」
言ってるうちにするすると靴下まで脱がされてしまった。いっぱしの男が、人前で裸足とか、ありえねぇ…!
「今はまだ寒いくらいですが、この国は夏になると非常に蒸すのです。ですから、多くの宿で、こうして足洗いをしてお出迎えするのですよ」
言いながら菊はその足をたらいに導く。靴の束縛から解放された足が、そのほの温かい湯にほぐされていく。いや、確かに、気持ちは、いいが。
人に見られていい姿ではない。それなのに、菊はちらちらとこちらを見ている。降参しないかと様子を見ているのだ。羞恥と気持ちよさと悔しさとで、頬が熱くなる。
「ひぁ」
菊は手ぬぐいで俺の足をさすりはじめた。あの細い指がかかとをささえ、湯の中で泳ぐ布が足を包む。
「いっ!?」
指は布を携えたまま足指の間に入り込んだ。くすくすと笑うように指は上下し、する、と足の裏をさすり、逃げていく。
「ちょ、おま」
「おもてなしですよ」
菊はにっと笑った。ぜったい、ちがう、だろ、それ。
「ちょ、待て、……く、す」
「ぐったいなんて、そんな子どもみたいなこと仰いませんよね?」
こいつ……!ドイツ憲法暗唱テストしてやるぞと思ったが、既にクリアしていたことを思い出して黙る。
菊は腰に挟んでいた別の手ぬぐいをとりだして、湯からあげた足を拭いた。
「すみません、ちょっと遊びが過ぎました」
「わざとじゃねぇかやっぱり!!」
涙目になりそうで思わず叫ぶと、菊はすみませんと笑って、あがるよう促した。
「このままか?靴は?」
「靴はここで脱いでいただくのですよ」
「え」
だーかーら、裸足っていうのはベッドの上でしかならないものであって!
「そう仰ると思って、室内履きを用意しておきました」
すっと隣にあがった菊は、横に置いてあった布靴のようなものを差し出してきた。
それを履いて、思わず安堵のため息が出る。
それを見ていた菊は、「ほら」とでも言いたげな苦笑を見せた。
「……あんだよ」
「いえ。どうぞ」
荷物を持たれ、慌てておいかけた先には草の匂いのする青い床の部屋が広がっていた。家具のない部屋に、菊は俺のトランクを置き、椅子もないそこに、四角いクッションを出してきて座れと言う。床に!だ。仕方なく足を崩して座る。どんな扱いだ、と思うが奥から箱のようなものを抱えてきた菊も隣に座るから嫌がらせではないらしい。
「銘々膳と言いまして、一人用のテーブルとなるんです。食事も遠慮無く伝統的なものにしました」
菊はそういって箱ならぬテーブルを俺の前においた。確かに「食べ物」がのってはいる。だが、ナイフもフォークもなく、代わりに二本の棒があるだけ。そして肉はなく魚と野菜と穀物。とまどっていると菊はテーブルの上の小さなボトルを手にとった。
「まずは、御一献」
ショットグラスのような小さな器を渡され、水をつがれる。気を落ち着けるためにくいと飲んだそれは、思いがけず喉をやいた。
「ぐえふをっっ」
「あ、うちの酒です」
「先に言え!」
「ね」
「ね、じゃねえ、お前が……」
怒鳴りかけた言葉は菊の表情の前に急速に勢いを失った。寂しそうな笑みの裏に諦念が見える。
「やっぱり、無理でしょう」
「…何がだよ」
「『私の、今までの流儀でのもてなし』では、心休まりませんでしょう」
もともとの出発点は、それだ。立派にもてなされてやる、と言ったのだ。これは「菊の流儀のもてなし」で、俺はそれでいいと……それをしろと言ったのだ。
「……んなことねぇよ」
「いやいや。先ほどからアドレナリン出まくりじゃないですか」
「…違ぇし」
「食べ物も、お口に合わないでしょう」
「んなことねぇって。でも、その棒でどうしろって言うんだよ。口に合わないんじゃなくて口に運べねぇんだよ」
「食べさせて差し上げましょうか」
笑いながら菊はそういって、器用にその二本を操って魚の身をほぐし、俺の口に運んだ。塩のみのシンプルな味付けは悪くない。しかし。
近い。
近すぎる。
それで思わず仰け反ったら、何を思ったか菊はまたそっと笑って身体を戻し、その棒をテーブルに置いた。
「随分、違うんです。どちらかがどちらかに合わせないといけない。そうであるなら、私の方が世界標準に合わせるしかないでしょう。多少無理でも」
そう言う菊の顔は、「無理でも」というより「恥ずかしくても」と言っていた。
やめちまえと言った「鹿鳴館」は無事に?できあがり、諸列強のいい笑いものになっている。服の形を変えることはできても、身体の大きさはすぐには変わらない。顔かたちも、骨に沁みた習慣も。
「……結局、踊ってるのか、お前」
「ええ、まあ、やむを得ない時だけ」
やっぱり言を左右にして逃げ回っているのだろう。それでも、「やむを得ない」時はある。なんだかなあ。思うに任せないことはあるものだ。
そして、そのダンスのことを思い出す度にちりりと胸が焼けることも、どうにも制御できないままだ。
「………坊ちゃんは足踏んでも許してくれたか」
「は?」
目をぱちぱちとさせた菊はややあって言葉を継いだ。
「ローデリッヒさんは、エリザさんと踊ってみせて下さっただけですが……。何度かはエリザさんにお相手して頂いたのですが、身長差がつらくて」
はは、と菊は笑う。
……なんだよ。
肘の力が抜けて、思わず手を後ろについてしまう。
足を踏まなかったって、あのフライパン女のかよ。そんなの踏んでやればよかったんだ。俺がやったら百倍返しでも菊になら笑って許したに違いない。
「はは」
―――あの暴力女はかつて自分が男だと信じていて、だから長じて「女修行」することになった際、全く素養のなかったダンスの練習相手を、俺に無理矢理努めさせた。足なんてがんがん踏まれた。もちろん俺も踏んだが、容赦なく踏み返された。なんで練習したかって、それは、坊ちゃんの前でのデビュッタントの際に、優雅に踊ってみせるためだ。少しだけ、ほんっっっの少ーーーしだけ切ないその「練習」は、それなのに静かに坊ちゃんの恨みを買っていて、俺たち三人は何やってんだろうと思ったものだった。
「…はは」
このちりちりする感じは、その時の小さな胸の痛みと似ていた。似ていたことに、やっと気づいた。
「…………そういうことか」
「なんですか?」
「いやー?」
くしゃ、と髪をかき回すと菊は眉根を寄せた。
「なんですか」
「俺は根っからキリスト教なんだよ」
「…存じてますが?」
ショットグラスを弄んでいたら、不得要領な顔をしたままながら菊が小首を傾げたので、頷いて杯を受ける。
「これ、うまいぜ」
菊のような酒だ。水のように澄んで、しかし芯をしびれさせる。
一瞬で空いたグラスに菊がまた酒を注ぐ。気づくとその指がほの赤い。
―――見えもしない、気づきもしない世界というのがあるのだ。自分の世界だけが当然だと思っていれば、二本の棒が食器であることにも気がつかないし、酒だって水に見える。宗教のタブーの中にいれば、嫉妬だって弟子がとられる焦燥だとしか思わない。
その酒が飲んでみれば美味かったりするように、あの魚だって美味いかもしれない。菊は、西洋人の口には合わないと思い込んでいるようだし、実際合わないものもあるんだろうが、

諦めないで欲しい。自分を。そして、俺を。

未練げに魚を見ていたら察した菊が木で出来た小さいスプーンを持ってきた。
「すみません、すぐ根を上げることにおなりだろうと思っていたので、本当に西洋風のしつらえはないのです。これは薬さじなんですが」
「かまわねーよ」
菊は二本の棒を器用に操って魚をほぐしていく。食べやすくして貰ったそれをスプーンですくって食べる。子どもみたいで照れくさい。
「……お口に、あいませんでしょう?」
「なんで否定形なんだよ」
いえ、だって、と菊はもごもごと呟いた。
「うまいって言ってんだろ」
「いえ、初めてですよ言われたの」
「さっき言ったじゃねーか」
「いえ………」
ちょっと躊躇って、菊はこちらを向いた。
「今日みたいなこと、他の方に試したことないんで、ギルベルトさんが、初めてなんです。ギルベルトさんの『降参』が見てみたいというちょっとした悪戯心だったんですが、……もしかしてギルベルトさんなら、受け入れて下さるかも……と思っていたのかもしれません」
だからそのお言葉が嬉しくて。菊はふわぁと笑った。
一瞬にして血が全身を駆け巡った。うわ、やべえ。酔ったか?
何に?―――それはもう、分かっている。
「よし」
俺は小さなテーブルを脇にどけ、菊の手を掴んで立ち上がった。
「なんですかってば」
手を掴んで、肩胛骨に手を回す。ホールド。
「ダンス、採点してやるぜ」
「えー」
菊は「畳がすり切れます」とぶつぶつ言ったが、素直に手を腕にかけてきた。伸ばした左手に、やはりすっぽりとおさまる菊の右手。左足を差し出せばすっと後ろに下がる。右足を進め、横へスライド。菊はついてくる。予想通り、菊の目は肩の上あたり、見上げてくるその目の周りが、少し、赤い。フォワードクローズドチェンジ。
そのまま少し身体を回転させてリバースワルツスクウェアに持ち込みながら、俺は言った。
「『文化』は風土によるんだから、お前はお前の文化を貫けばいいさ」
「…」
「ま、『文明』はそうもいかねーだろうから、世界に冠たる俺様が教えてやる」
黙っていた菊は、ことんと額を肩につけてきた。
それでも足はとめないから、ゆっくりとステップを続ける。
「そうですね」
菊はちょっと顔を上げて、意地の悪い笑みをみせた。
「こんっっっなばっきばきのステップしかできない方でも世界に伍していけるんですもんね!」
「てんめぇ!」
足を止めてそのままのしかかってやると、菊は海老ぞりになりながら笑って言った。
「すごく希望がもてる、って言ってるんです!」
「そうかよっ」
「わたくしが教えて差し上げましょうか?」
「いらねー」
腕の力を緩めると、血が頭に上ったのか顔を赤くした菊は、起き上がる勢いそのままにばふっと抱きついてきた。抱きついているから、菊にも俺の顔は見えない。その筈だ。見られてたまるか。絶対今、すげぇ赤くなってる。
「…あんだよ」
「今は、秘密です」
「あ?」
「いつか、音楽でお伝えしますね」
坊ちゃんかっつうの。
「いつだよ」
「私が、貴方に恥ずかしくない楽団を作れたら」
「よーし。じゃあ、あの新しいベルリン・フィルハーモニーをあけて待っててやるぜ」
ヨーロッパ屈指のホールの名に、菊は困った顔を見せた。
「……聞く気ないですね?」
「なに弱気になってんだよ、すぐ乗り込んで公演してやりますくらい言え」
「楽団がないのにできるわけないじゃないですか。気長に待っていて下さい」
ないのか!そこまでとは思わなかったため一瞬固まったが、思い直す。「思うに任せないこと」は今でも多い、未来にもたくさんある。色んなことを諦めてきた、未来にだって大した期待はしていない。だけど、菊が俺に僅かながら賭けてくれたように、俺が菊のその「いつか」を信じるなら―――そんな風に俺たちはつながっていけるかもしれない。いつか菊は、俺の欲しい言葉を音楽で伝えてくれるかもしれない。……そんな期待くらい、してもいいだろ。

「ところで、一応横浜のホテルもおさえてはあるのですが、…このままここでお泊まりになります?」
「おう。今から移動なんてばかばかしいだろ」
「それでは、かなり違和感がおありだろうと思いますがこれも『私の流儀』と思ってこらえてくださいね」
そう言って菊は床に布団をしいた。
確かに「床かよ!」と思いはしたのだが、それよりも「こらえなければいけな」かったのは、「他に部屋がないのですみません」と菊が隣に布団を並べた後の長い長い夜だった。

2009.11.22発行普日アンソロジー『PJ』寄稿