菊×湾(漫画家パラレル)
「はい、どーぞっ」
フランシスは菊の前の応接机にどんと段ボールを置いた。
「はい?」
「全部、本田菊様宛て。……じゃないな、キャラ宛てが8割だけど、まあ結局菊ちゃん宛て」
こわごわと段ボールを開いた菊は「あー」と気の抜けた相づちをうった。
「バレンタイン、ですか。でしたか」
「でしたよー。今月はもう各作家さん宛の段ボールが会議室に山積み。他の作家さんには郵送したんだけど、菊ちゃんは今日来る約束だったから」
「…持って帰らせようと?」
「いやいや!腰痛めちゃうよ、後で送るって。そうじゃなくて、ま、おめでとうと言いたかったわけです」
「…はあ」
不得要領顔の菊に、フランシスはにこ、と目を細めた。
「ほんっとに、人気作家の仲間入りだねー」
あ、と菊は思った。そうか、こういうのもバロメーターなのか。
「おかげさまで」
「いやいや、実力でしょう」
「その芽生えもないうちから、本当にフランシスさんにはお世話になって」
アシスタント、カット描き、学習漫画、ゲーム下絵―――漫画だけでは食べていけない時代、どれだけ仕事を回して貰ったか。エロゲの下絵が散らばる作業場に大の字になり、諦めようかと思った日もあった。このままでも食っては、いける…。そんな中でも飴と鞭を巧妙に使い分けながら漫画を書かせ続けてきたのがこの編集者だ。
「俺、ファン一号だもん」
そう言って笑ってくれるが、アンケートもぱっとしない菊に紙面を与えるために相当の労力を払ってくれたことは想像に難くない。数年前から少しずつ固定ファン層ができつつあったが、去年テレビにとりあげられ、いきなり売れた。パブリシティによる売り上げは浮動的だからと最初は斜に構えていた編集部だったが、その後も順調に人気を伸ばしているので最近はあれこれとメディアミックスを提案してくる。「描く」という形でしか表現ができない菊は、商標権に関わる話し合いには頭が痛くなり、フランシスに丸投げ状態だ。本当に、何もできない自分。「なぜ漫画家になろうと思ったのですか」なんて質問が、作家アンケートなどで時々出るが、決まっている、他になれなかったからだ。だから、どうしても、なりたかった。
「そう言えば、アンケート葉書、はじめくんからも来てたよ」
「そうですか」
どれどれと目をやる菊に、フランシスは脇に置いていた葉書の束から一枚を抜き出す。
「一」との署名以外は全てワープロ印字のそのはがきは、毎回裏面に菊のキャラクターを描いてくる。ほかのファンは、どのキャラが好きだのどのエピソードがよかっただの小さな文字で思いの丈を連ねてくれるものだが、編集部にとっては文字数は関係がない。一通は一通。その数だけが人気をはかる指標となり、紙面を与えるべきかどうかの判断材料となる。だから、というのではなく、菊はもう一年ほど続けて送られ続けているその葉書が楽しみだった。最初は「…だれの絵?」とフランシスが眉を寄せたほどそのイラストは児戯に等しかったが、目に見えてその技量はあがり、菊が描いたことのない構図や服装でキャラが笑いかけてくるようになった。フランシスが勝手に呼び方を決めつけて以来、その送り主は「はじめくん」ということになっているが、何処の誰なのか全然分からない(消印で都内だとは分かる)。ただはがきから推測するに、彼の好みはヒロインではなく、脇役の女の子にあるらしい。そのさっぱりした気性の、天真爛漫な笑顔を見せるその彼女は、実はどうみても
「王ちゃんだよねー」
脳の中を見ていたかのようにフランシスが言った。
「…どうせ、描き分けできていませんよ」
「うん、もうちょっと、無機物にかける愛情を、有機物に注いでくれるとおにいさんとしては有り難いんだけど」
「そんな、おたくみたいに」
「そうじゃないとは言わせないから!…まあ、いいけどね。あの話、もう結構前だし。あ、でも一巻、再版かかったよ」
「そうなんですか?」
今の連載のいくつ前だったか、初めてメジャー誌に取り上げられた作品だった。ネットで「薄っぺらい」だの「人間が書けていない」だの散々に言われ、「ただ、絵は抜ける」と道具扱いで買われていた菊の漫画は、初めてその作品で評価をされた。そのヒロインが王である。
「あれ、完結編描かないの?」
フランシスの何気ない言葉に菊は顔をあげた。一般的には、終わっていると思われている漫画である。
「俺には途絶としか見えないんだけど。前後編100Pくらいなら…今なら出せると思うよ」
「……」
確かに、あの漫画は終わっていない。菊は、あの物語を終わらせることができないでいる。
数年前、菊は漫画とバイトと雑仕事を全部停止させ、貯金も下ろして旅に出た。
菊の漫画家人生はそれまで常に低調ではあったが、その中でも小さな浮き沈みはあった。もういっそ止めてしまおうか、いやそんなわけにはいかない、描きたい、でもかけない。そうした波の、わずかな浮きの時期。ネットで検索すれば書評系ブログがひっかかる程度にはなっていた。その前の短編はアンケート票がそこそこ確保できた。これはチャンスだよ菊ちゃん。そう言ったフランシスに強く頷き返したのだが、そこで菊は固まってしまった。描けない。思いつかない。今こそと思うのに。今でなければと思うのに。焦る菊を見ていたフランシスは、気分転換を提案してきた。世界を、広げよう。
短期とはいえ海外滞在など初めてのことで、パスポートをとる、それだけのことにさえまごついた。わたわたする菊を見ていたフランシスは現地ガイドを雇うことを厳命し、嫌も応もなく手配までしてしまった。そうして、台湾桃園国際空港で、彼女と、出会った。
「本田さん、ですか?」
花飾りのついたクリップで横髪をとめていた。その華やかなピンクが眩しかった。
「……こちらは、皆さん色鮮やかですね……」
自己紹介の前にそんなことを言う菊に、彼女はぱっと笑顔を見せた。
「だって、その方が似合うでしょう。この空に」
言われて見た空はくっきりと澄んだ青空で、その下にある何もかもが照り映えていた。なるほど、気候が違うのだ。いつも靄にけぶったような日本ではこの色はこうも輝くまい。……この人がこんなにも魅力的に見えるのも旅先のこの空の下だからに違いない。
そう、分かっていたのに。
二日目には互いに意識し始めた。
三日目には接触が増えた。
そして五日目には、全身で触れあった。
完全に真っ暗にしたホテルの部屋で、菊は告白した。
「…初めてなんですよ」
顔は見えないが、赤くなっているだろう彼女の声がした。
「わ、私もですよう」
くすり、と笑い合って、ぎごちなく唇を重ねた。初めて触れる女性の胸はゴムボールのような弾力を見せ、揉めば香水瓶のスポイトのように甘い香りを醸し出した。女性の二の腕の柔らかさも、分身の全てが包まれる時の壮絶な快感も彼女で知った。
将来は日本の会社で働きたいと、目を輝かせて彼女は言った。そのために日本語学科を選んだのだと。そのくせ時々「あれ?」というような間違いをしてみせて、指摘すると真っ赤になった。こんな他愛のない会話を他人としたのはおそらく初めてだった。
「別腹」の威力を初めて見たのも彼女とのデートだったし、「女性の買い物に付き合わされる退屈」も初めて体感した。悩むときに手首を眉間に当てる癖が可愛くて、どちらにしようかと悩む彼女の横で「買ってあげようか」という言葉をしばらくとっておいたりした。
それを、全部、漫画に描いた。
最後の日、風呂からあがると、既に帰ったと思っていた彼女が床に座り込んでスケッチブックを見つめていた。下書きに近いほど書き込む菊のネームは、彼女のあられもない姿を克明に写し取っていた。彼女は声も無く涙を落とし、菊の脇をすり抜けて出て行った。
フランシスが手配したのだから、漫画家であることを知らなかった筈はない。滞在予定も伝えていたのだから、有限の関係であることはお互い承知していた筈だ。何一つ、騙したわけではない。
それでも菊の良心を刺すのは、「自分はこれを描くだろう」と最初から分かっていたという事実だった。可愛い、と思いながら、その横顔を観察した。痩せて見える彼女の脇腹が横座りの時に線を象れば、その肉感の表し方を考えた。二人のやりとりを、いつももう一人の自分が見ていて、記録していて、………あまつさえ、演技指導した。
どうしても、知りたかった。
自分には描けていないと言われている「人間」とは何なのか。「リアル」とは何なのか。
どうしても、描きたかった。
それ以外に、生きる道を知らなかった。
「漫画を描いて生きる」という「居場所」が欲しかった。悪魔に魂を売ってでも。
発表に当たって大幅に変えたから、自分と彼女以外は読んでもそれとは分からないに違いない。事実、私小説漫画だと評した人はいなかった。甘酸っぱい青春漫画としてその連載は受け入れられ、固定ファンを作った。単行本も出た。連載は順調に進み、けれども、菊は、その筆を擱いた。
作業場は自分だけの城。そこから出たがらず夏でも真っ白のままの菊を心配して、フランシスは、「先生」と呼ばれるようになった菊のことも社まで呼びつける。この出版社に来ればそれだけで本田にはちょっとした運動だし、帰りに本屋を覗いたりもするのも楽しいので、素直に言いつけに従っている。それでもやはり家に戻れば安堵のため息が出る。あのフランシスであっても、人と会うと、気疲れする。
ぴんぽんと玄関のチャイムがなる。はいと応えて玄関に出れば、見覚えのある段ボールを制服の青年が抱えていた。先日編集部に行った際に見せられたバレンタインのチョコレートだろう。サインをして、よたよたとリビングまでそれを運ぶ。
正直、甘い物はそう得意ではない。この量をどう処分すればいいのかと真剣に悩む。それでもこうして目に見える、はっきりと分かる形で好意を示してくれるのは嬉しく、有り難い。
そういうのが、苦手だった。
嫌いなものを嫌いと言えず、人と違うものを好きと言えず、ただ流されるように生きてきた。人から嫌われるのが怖くて、人にまとわりつかれるのも嫌で、できるだけ周囲に埋没するよう心がけてきた。感情を出すなど怖くてできなかった。
ただ漫画だけが、菊の表現だった。
恋愛漫画として始まったかに見えたかの連載は、次第にその要素を薄くしていった。やがて主人公はヒロインを手ひどく裏切る。予想外の展開を見せた連載に、それでもファンはついてきてくれた。
菊が知った「人間」とは、「彼女」ではなく、「自分」だった。分かったのは、恋愛の甘さではなかった。我欲に執着する魂だった。
見苦しくもがき、あがき、愛しい人を傷つけて、それでも目標を達しようとする自分を、初めて知った。
愛ではなかったと、言い切ることは、今でもできない。
あの日のような激しい欲求は体を去ったが、叶うことならば再び向かい合い、許されたいと思う気持ちはある。
しかし、それこそが、我欲であると分かっている。
主人公が自分の醜さを引き受ける、そこで終わった連載は、それとしてまとまりを作っているが、叶うことならば、との思いが頁の裏ににじみ出て、フランシスに「続き」の語を言わせる。
続きがあるならば、それは和解にならざるを得ない。菊自身の願望をさておいて、物語がそれを要求する。
だが、菊にそれは描けない。
描く資格が菊にはない。
チョコレートって冷蔵庫でどれくらいもつものでしょう、と一瞬考えて、菊は首を振った。一人用の小さな2ドア冷蔵庫に収まる量じゃない。せめてカードや住所は控えておきましょう、そう思って5つ、6つ取り出したところで、菊は「おや」と呟いた。見慣れた署名、ただ一文字で「一」。
「彼が、ねえ」
興味を引かれ、その包装紙をとくと、中からはチョコレートの詰め合わせが現れ、数枚の紙がはらりと落ちた。なんでしょう、ととりあげた菊は思わず目を見張った。王だった。王の面影を持つ今の連載のキャラではなく、確実に、途絶前の回から数年を経たと思われる王の顔がそこにあった。
主人公が彼女に聞く。「私を恨んではいないのですか」
彼女は手首を眉間に当ててしばらくうつむき、やがて顔をあげ、真正面から主人公を見据える。
「全然ないなら、嘘です」
「でも」
王はあの台湾の空のような笑顔を見せる。
「今の貴方が好きだから」
菊が描きたかった、だけどどうしても菊には描けなかった最終回だった。
机の上にその数枚を並べて何度も見た。
そして、それに続けられた台詞に、菊は気づく。
「ちゃんと泣いたり笑ったりできるになっている貴方が好きだから」
流暢な日本語だったのに、修飾は時々間違えていた。
「おいしいのアイス」、「やさしいな人」、「愛しいの貴方」。
「…………貴方、なのですか………」
手首を眉間にあてて俯く。
いつの間にか落ちた水滴は、あの空の色を写し、やがて紙に吸い込まれて消えた。