時を渉る舟

APHその他(非CP)

アルフレッド+ギルベルト+菊 (修復士パラレル)

 人生は決断とその結果で成り立っている。したいことをする。勝負したいからする。そして勝つ。負けたら悔しいけど、そうだろうからと勝負を放棄するなんてことはしない、ただ次勝てるようにするだけ。そんな風に生きてきた。
 だから運命とか偶然とかそんなものが割り込んできて人生の道筋を変えてしまうなんて面白くない。他人の思惑とか気分とかを考えてしまう自分のことも面白くない。だから、そのドアはぶっきらぼうに開けた。
「――――」
「――――」
 教卓(という言い方は適当でないのかもしれない、ここは学校ではなく区民ホールの会議室だから)の前にいた男と目が合った。ラフな格好だけれども立ち位置的に講師だろうその男は、受講生を迎えた先生がするものとは種類の違う表情をした。具体的には、一瞬驚いたように目を見張り、次いで獲物を見つけた狼の目になり、部屋の隅をびっと指した。
「ホンダ!」
「はい」
 返事のあった方向に顔を振ったらそこには人がいた。そして先の男から彼まで、狭い会議室の端から端まで目線を動かす間、誰も目に入らなかった。がらんとした教室の端にひっそり佇んでいた体の薄い男はすっと立ち上がった。ピンストライプの半袖シャツを着ているけれども、袖の辺り布が余っているのがここからでも見て取れる。
「逃がすな、おもてなせ!」
「はいはい」
 本田と呼ばれた男は、従順……というよりは色々諦めているような返事をして近寄ってきた。目の前にきて、こちらを見上げながら笑顔を作る。
「こんにちは、受講希望の方でしたらどうぞこちらへ」
 そう言って、机の寄せられた部屋中央へ掌を向けた。日本にやってきて一年半、まだ言葉はあまり分からないけど、今のくらいなら返事は出来る。
「コンニチハ」
 そう言うと、男は講師と顔を合わせ、少し困ったような顔で「英語話者、ですか?」といかにも日本人らしい発音で聞いてきた。頷くと、今度は講師の方が声を掛けてきた。
「俺も英語はあんまり流暢じゃねえけど、問題ないか?」
「もちろん。いやー、良かった。この国の市民講座で英語が使えるなんて期待してなかったよ。作業なんだから見て真似すればいいんだろうと思ったから申し込んだんだ」
 ふんふん、と男は頷いた。日本人の方もなるほどという顔をしている。ヒアリングはいけるらしい。それを講師も見て、もう一度頷く。
「これっくらい意思疎通とれてりゃ問題ねえだろな。ようこそ、俺様の講座へ。俺はギルベルト・バイルシュミット。こっちは助手の本田菊」
「助手じゃないです、受講生です、師匠」
 その言葉にギルベルトは思いっきり顔を顰めた。その呼び名に何か曰くがあるのかもしれないが、こちらのあずかり知らないところだ。構わず、手を差し出した。
「俺は、アルフレッド・F・ジョーンズ。一ヶ月宜しく」
 と、その手は思った以上に強く握り返された。
「宜しく! ……つか、まじ宜しく。この講座、最少催行人数が二人でさ、なのにお前の前に申し込んできた奴みんなして扉開けてはそのまま閉じて帰ってしまいやがった。このままじゃ俺クビだわ」
「え」
 思わず手を引こうとしたが、しっかり捕まれていて離れない。
「君、腕が悪いのかい?」
「ざけんな、ベルリン博物館仕込みのコンサバターだぜ。ま、一身上の都合で今は仕事やめてっけど」
「仕事してるじゃないか」
「これは知り合いからの緊急頼まれ仕事で、代役だ。もとの講師役は本職の司書で、講座ももう何回めってほど人気あるのに、このままじゃ『顔見て逃げられました』が俺様の実績になっちまう」
「師匠が赤ずきんちゃんを食べそうな顔してるからですよ」
「どんな顔だよ、そりゃ」
 唇を尖らせるギルベルトを余所に、首を傾げた。
「君は、彼の顔を見て逃げなかったんだ? 怖くなかったのかい?」
 まだ子供なのに、という気持ちが顔に表れていたのだろう、そしてそれを読み取ったのだろう、ひくりと顔を引きつらせて、それでも笑顔の範囲で答えた。
「私、以前この人の講座受けてるんです。それで最初から分かっててこの講座申し込んだんです」
「ふうん?」
 辻褄が合わない気がするが、英語だから単語の選択が変なのかもしれない。いずれにしても、気にするようなことではない。
「ま、いいや、腕が確かならそれで。俺は本が直せればいいんだ。君も宜しく、ホンダ……キク?」
 手を握ると、「ああ、はい」と菊は愛想笑いを浮かべた。やっぱり欧米人に比べて日本人は握手が弱いなあと思いながら手を上下に振っていたら、扉が開いた。勢いよく振り返るとドアに手をかけたままの女の子がびくりと肩を震わせた。
「Hi! Are you a member of a class, too? Thank you for coming!」
 笑顔でもう片方の手を振ったら、東京でよく見る「可愛らしい顔」に整えたその女の子は弱々しく手を振り返し、同時並行でドアを閉めた。
「自動ドア!」
 それくらい綺麗にすーっと閉まっていったので感動したから言ったのに、ギルベルトに噛みつかれた。
「んなこと言ってる場合じゃねえ! 受講生様を追い返すな!」
「なんでさ、俺、歓迎するって言ったじゃないか」
「わざと早口で言っただろが! 日本人のガイジン苦手感を増幅させやがって!」
 ばれたか。別に来るなと言った訳じゃない。ただ、この言語空間に入って来るかい? ほんとに? と聞いただけだ。入ってくるなら本当に大歓迎。折角手に入れかけた快適コミュニケーションを手放したくないだけで、寂しいよりは賑やかな方がいいに決まっている。
「元気で物怖じしないキュートな子が来てくれるといいな」
「陰気で引きこもりのじじいですみませんね」
 菊がぼそっと呟いた。思わずによっとしてしまう。内容はともかく、当意即妙の遣り取りができる日本人は貴重だ。
「何言ってんだい! 君みたいなちっちゃくてキュートなボーイ……」
「わー!!」
 ギルベルトが手をじたばたと振り回した。
「ばか、ばか! こいつの童顔のことは触れるな! 根に持たれっぞ!」
「え」
 言ってしまった後で「童顔」とはっきり口にしたことに気づいたらしいギルベルトはがばっと口を押さえ、そろそろと斜め下を見た。そこでは菊がいっそにこにこと笑っていた。
「あー…」
 つまり君は、と思わず指さすと、菊はこちらに向き直りにこりと笑った。
「頭のいい子供は好きですよ。私はこの中で一番年上です。お国柄期待はしませんが年長者への敬意は払って頂きたいですね」
 そのずけずけとした物言いに思わず口笛を吹いてしまい、不敬と受け取ったらしい菊が憮然とする。慌てて手を胸の前で広げ、敵意がないことを示した。
「希望をはっきり言う人が好きなんだよ。日本人はみんな優しいけど何とか言う京都のお菓子に包んだような言い方でしか文句を言わないからさ」
 思い当たるところがあるのか、菊は肩をすくめた。
「この国に暮らすならそれが思いやりだという文法を受け入れて頂きたいです。……関西には長いこといたんですが、英語になると私の八つ橋もまだまだですねえ」
 へえ、と思ったところでギルベルトが手を打ち合わせた。
「さて! そろそろ始めっか。とりあえず講座取りやめにはなんねえし、作業してたら遅刻したって奴が来るかもしんねえしな」
 そうだった。最少催行人数と言っていたから、菊を怒らせて帰られてしまったら、ギルベルトにも教えて貰えなくなる。それは得策ではない。
 菊はドアを開けたら正面に見える席に腰を下ろした。ということは、と、その正面、つまりドアに背を向けた席につく。お前は顔を見せるなということだろうが、振り返って手を振るくらいのウェルカムは許されるだろう。
 ギルベルトは数冊の本を取り出した。区立図書館の廃棄本だという。次いで持ってきた大きめのトレイには工作用具らしきものが色々乗せられている。はさみにカッター、竹串にボンドなんかは分かるが、糸のこぎりなんてものもある。
「何に使うんだい」
 まさか裁断処分にというわけでもあるまいと取り上げて聞いたら、ギルベルトはにやりと笑った。
「ナゼ・ナニに脳を使うのは若者の嗜みだ」
 自分で推理しろということだろう。肩をすくめる。
「とはいえその前に基礎知識入れとかないとな。本の修理っていうのは、目的にもよるが、できるだけ単純なやり方でまた読めるようにするのが基本だ。破れてるならテープを貼る、頁が外れてるなら糊で貼る。但し!」
「但し?」
「セロテープは! 絶・対・厳・禁!!」
「えーっ!?」
 セロテープは一番身近な素材だから、破れた教科書なんかにはぴっと貼っていた。ギルベルトの形相にそれを言えずにいると、菊が口を挟んできた。
「セロテープは劣化するので、本を傷めてしまうのですよ。けれどこれも目的次第ですから、一年もせずに捨てるようなものならそれで補修するのもアリといえばアリです」
「だが長く保たせたいならセロテープはだめだ。つまり、『本には貼るな』!」
 人差し指をたててギルベルトはずいと顔を寄せた。やばい、この人にとって教科書は本であって数年で捨てるものではなさそうだ。この件は黙っていようと決意する。
「でもさ、図書館にもセロテープ貼ってる本あったんだぞ」
「んなわけねーよ、どこの図書館だよ」
 口を尖らせるギルベルトをまあまあと手で制して、菊は道具箱の中から何かをつまみ出した。
「多分この補修用テープのことですよ。紙製のものもありますが、文字にかかる部分が破れた時にはそれが隠れないようにこちらのプラスチック製をはるのでしょう」
 なるほど、と頷いたらギルベルトと同調した。思わず胡乱な目になってしまう。
「……ギルベルト、君、本当に講師かい? 菊の方が詳しいじゃないか」
「ちっ、ちげえし! 俺もちゃんと基本技能はマスターしてっし! ちょっと専門じゃねえだけだし!!」
「専門はなんなんだい」
 ギルベルトは僅かに横を向いて目線を逸らした。
「……絵画修復」
 呆れた。
「全然違うじゃないか!」
「大きく言えば似たようなもんだろ! それに今回講座でやる内容は全部復習して確認してんだからな」
 全然違う。けれども「全部復習」は本当らしく、整然と並べられラベリングされた道具箱はギルベルトのお手製だという。しかし、博物館仕込みというならそっちをやればいいのにと思う。日本人は「本場」に弱いし。そういうと菊が苦笑した。
「絵画修復の市民講座は開講しにくいでしょうね。実用的でないというか、習った技術を発揮できる場面が少ないでしょうから」
「講習時点で結構な設備も要るしな」
「一定年代を経て適度に壊れた教材を用意するのも大変ですしね」
 仕方がない、と二人で頷き合っている。
「ふうん。でも面白そうだけどな。セピア色に古ぼけてた絵が元の色になったりするんだろ。最近記録映像に彩色したやつとかあるじゃないか。これまでモノクロで認識していた歴史の光景が一気にリアリティ出てきて驚いたんだ」
 ギルベルトと菊は同時ににっと笑った。あ、と思う。
「もしかして菊も修復士なのかい?」
 菊は頷いた。なるほど、その驚きと喜びを知っている人の顔だと思った。
「じゃ、なんで初心者みたいな顔をして講座受けに来たのさ」
 今度はギルベルトの方が割り込んできた。わざとらしく唇を突き出している。
「だから言ったろ、根に持たれるって。こいつは俺の慣れないセンセイっぷりをによによ眺めるために来てんだ」
「いやですねえ、違いますよシショー」
 ギルベルトはその呼称にだろう、けっと言って横を向いた。菊は意に介さずにこりとする。
「私はペーパーコンサバターなんですけどね。本の修復は専門でないので、本当に学びに来たんですよ。ま、たまたま空いた時間と講座が重なったというのもありますが」
 そう言いながらも菊はなんだか楽しそうだ。菊の言うように動機も偶然もあったのだろうが、からかいという目的もちらっとはあったのかもしれない。
 こほんとギルベルトは空咳をした。
「んじゃ、始めるぞ。まずは簡易修理、頁が破れたやつを直す。おら」
 破れた紙を渡された。こんなもの、紙を渡してその場で破けと言えばいいだけなのにと笑いたくなる。生真面目な性格なのだろう。続けて道具箱から抜き取った筆とボンド、水差しに絵の具皿も用意してくれた。机上がいかにも工作という雰囲気になる。
「紙ってのは厚さがあるから、刃物で切ったんじゃなけりゃ薄く削がれたような破れ目ができる。その部分を水で薄めたボンドで貼る」
 渡された筆をその液にどっぷり浸して破れ目辺りをべっと塗ると同時に突っ込みが来た。
「いやいやいや!」
「おま、何のための筆だよ!」
「知らないよ!」
 思わず口が尖る。説明されていない。そう言うと、ギルベルトはそりゃそうかという顔になった。
「破れ目からボンドがはみ出さないように、重なる部分だけに塗るんだ。さっきも言ったように『できるだけ手を加える部分を少なく』がモットーだからな」
 菊は「言わなくても分かるだろう」という顔のままだ。プロの常識を一般人に求めないでほしい。
 頬を膨らませているうちにボンドが乾いた。
「そしたら両側から補修用テープを貼る。片面だけだとひっかかりが残っちまうからな」
「なるほど」
 今度は先に言われたので、台紙からテープを外して貼るのではなく、先端だけを貼って向きを確認してから剥離した。空気も入らず綺麗に貼れたので得意になると苦笑混じりながら菊も褒めるように頷いた。
 菊の真似をして紙の縁にそってテープを切る。なかなか綺麗にできた。
「んじゃ、今度は本のページが外れた時な。これも筆で薄めたボンドを塗って貼り付ける。紙が厚ければ断面に、薄い奴はとじる側の端二ミリくらいにボンドつける」
 渡されたのは少し古い単行本で、一枚挟まれていた黄ばみの出た紙が外れた頁だった。
「あれ? これ、端がぼこぼこしてる」
「ああ、網代綴じだな」
「あじ?」
「背にミシン目を入れてあるんだ。そうすると接着剤がしみこみやすくなる。基本、外れにくいやり方なんだけど、その前に紙を整えるのに失敗してたり、紙が薄すぎたりするとかえって接着剤が浸透しなくて外れてくることもある」
「ああ、そういう作り方ってことか。……あ!もしかしてノコギリはこのミシン目を入れるのに使うんじゃないかい? こう、紙を置いて、」
 置いたつもりにして、手に取ったノコギリをだん! と机の上に叩きつける――フリをしたら、見事な二重唱で悲鳴が上がった。
「やらないよ?」
「びびびびっくりした! 机にミシン目状の穴ができるかと思ったぜ」
「力強そうですもんね。はあ、腰を抜かしました」
「じゃあ合ってるのかい」
 ギルベルトに聞いたら思いっきり顔をしかめられた。
「んな訳あるか。そんな非効率なやり方しねえよ。でも――」
 ギルベルトは顎に手を当てた。
「一パーセントくらいはあってるかもしんねえ。使い方も綴じ方も全然違うけど」
 ま、それは後で種明かしだなと言って、ギルベルトはノコギリを取り上げた。
 菊の方は文庫本で、これは切れ目をいれず断面に接着剤をつけた無線綴じだという。頁の端に作る糊代は細く長いが、菊は迷いなくすっと線を引くように筆を動かした。なるほど、慣れというのは美しさなのだなと思う。
「そしたら、上下をあわせて、奥までしっかり差し込む。ちなみに、日本語でいうと『上・下・奥』じゃなくて『天・地・のど』な。そしたら、直した頁に軽くクッキングペーパーを挟みこんで、綴じ部分を固定する。大クリップとか輪ゴムとかで」
 クッキングペーパーはボンドがしみ出して余計なところまでくっつくのを避けるためだという。ボンドをつけすぎていると頁が開かなくなると言われ、内心冷や汗をかいたがボンドが乾いた頃におそるおそるクリップを外したら綺麗にくっついた。
「できた!」
 ギルベルトはにっと笑った。
「まあ、最近の接着剤は性能上がってるから、一枚ぺらっと外れるってのは少なくなってるけどな。んじゃ、後は背が剥がれた時」
 これも基本はボンドで貼るのだという。その上からコーティング用フィルムという透明のフィルムをかぶせるように貼り、はみ出た部分を表紙の裏側に折り込む。先ほどまでは廃棄物寸前オーラを出していたよれよれの本が生き返ったように見えた。
「図書館なんかでは配架前にこのフィルムを表紙前面にかけることが多いな。これもさっきの要領で、大きめに用意して、角を切り取ってくるむように裏側に折り込む」
「なるほど、最初にやっとけば壊れにくくなるんだろうなー。……」
 ギルベルトは少し黙ったあと、肩をすくめた。
「個人蔵書でそこまではできないだろ。ずっととっておくし何度も読み返す、と分かってなきゃ。さっきも本田が言ったけど、目的にあわせてやりゃいいんだ」
 よし、今日は終わり! とギルベルトは宣言した。驚いて時計を見ると、確かに終了時間が迫っていた。筆をあらったりゴミを捨てたりして、解散となった。
「また来週!」
「おう、宜しくな!」
 結局三人のままだったと項垂れるギルベルトに、菊も「では」と声を掛けた。そのまま部屋を出ていく。大股で続いたらエレベーター前で追いついた。
「……帰るのかい?」
「ええ。何か?」
「いや」
 ぽん、と柔らかい音がして一階についた。この階だけ天井の高いガラス壁になっている。外は小雨が降り出していた。窓ガラスに付きだした水滴を見て、菊はため息をついた。その顔を見て、喉のところでとめていた言葉が零れた。
「ギルベルトとお茶でもするのかと思った」
「ああ、そうですねえ。久しぶりでしたし、誘ったら来てくれたかもしれません」
「そうなのかい?」
「二年ぶり……? くらいですかね。事前に何も言わず、しれっとした顔で教室に行ったら、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてくれて、胸がすっとしました」
 その顔を思い出したのだろう、菊はくつくつ笑う。
「とても仲よさそうだったけど」
「ギルベルト君の人柄でしょうね、間の二年なんてなかったかのような空気で接してくれて」
「ああ、なんか分かるんだぞ」
 今日初めて会ったのにまるでそんな気がしない。そう言うと菊はにこりとした。
「貴方も、今日会った者同士とは思えない距離感で話してきますけどね」
「そうかい?」
「ええ。もともとアメリカ人に対しては偏見があっったのですが、その想像通り、強引で自分勝手で大雑把で」
「えー!」
 菊はその抗議にさえくすくすと笑った。入り口脇の傘立てからビニール傘を取り出してはぱさりと振る。
「でも、意外なことに、それが不快ではなかったです」
 自動ドアがすっと開いた。世界は水滴で包まれる。その中にぱっと透明な円を作って、菊は「では来週」と去って行った。
「…………」
 ぼんやりと消えていく小さな後ろ姿を眺めて、それが消えてからやっと、自分は傘を持っていないことに気づいた。

「くしゅん!!」
 よう、と手を挙げたギルベルトは小さく目を見張った。
「風邪か?」
「うん。大したことないんだけど、くしゃみだけ残っちゃってさ。もう一週間」
「へえ。お前って風邪引かなさそうなのに」
 どういう意味だい、と口を曲げると菊がぷすっと笑った。
「Booooo!」
 話を変えるように、ギルベルトは紙を配った。
「今日はまず、お勉強な。本格的な修理をするためには本の構造を理解しておく必要がある」
 『勉強』の言葉にまた頬を膨らませかけたが、なるほど、それは必要かもしれない。
 指示されたとおり、紙を二枚重ねて二つに折る。折ったところを手で持つと、薄いパンフレットのようになる。
「このセットを折丁という。四枚とか、場合によっては十六枚とかでセットを作ることもある。折丁を複数まとめて本文を作る。……さて、ここにホチキスがある」
 ギルベルトは道具箱から取り出したそれを手渡してきた。
「うん?」
「今手に持っているところを綴じたいわけだ。どうする?」
「え。ここを留めればいいんじゃないかい」
 折り目の近くで、上下二つぱちぱちととめると、ちゃんとパンフレット状になった。ギルベルトが頷く。
「それが平綴じの原理。教科書なんかに使う。何でかわかるか?」
「うーん、教科書は毎日使うし、子供が使うんだからやっぱり丈夫が一番なんじゃないかな」
 ギルベルトは人差し指でさしながらビンゴ! と笑った。
「但し、このやり方は綴じたところから先が全部のどに飲み込まれてしまう。見開きで写真載せていたら見えない部分が出るわけだ。それで、同じホチキスでも、こう――」
 ギルベルトはホチキスを開いて、カッティングマットの上で開いた紙の真ん中にぶすっと押しつけた。そして突き出た針をホチキスの尻でつぶす。
「綴じるやり方もある。パンフレットではよく見るだろ。これが一折中綴じってやり方だ。本なら糸でかがるから丈夫だし、ノドまで全開するから――?」
「あ、分かった、絵本とか。見開きで絵が描いてあるのが全部見える」
「そうそう!」
 ギルベルトは機嫌のいい顔で更に紙の束をよこしてきた。
「でもこのやり方には限界がある。百枚からの紙を真ん中縫ったって本にならねえよな? まず縫うのが大変だし、厚みの分で紙の幅変わってきちまう。さてどうする?」
 ん。どうすればいいだろう。顎を捻ると菊が目に入った。にこりと微笑みかけてくる。
「ギルベルト君が言ったことを全部思い返してみたらいいですよ。用語とか」
 用語なら――折丁、というのが出てきた。それに通じるのが、一折中綴じ。一つの折丁を中綴じ……。
「分かったぞ、『折丁を複数まとめて』ってやつだな! まず四頁のセットを作って、それをつないで……ってどうやって?」
「や、大丈夫、それで合ってる。折丁と折丁を糸でかがり合わせていくんだ。昔はこの方法がメインで、今でも図鑑とか子供向けの本なんかはこれだな」
「今でもってことは、最近は違うんだ? ……あ、分かったぞ、先週言ってた網代綴じだ!」
 ギルベルトはにっと笑った。正解らしい
「あれなら隣と繋がってる分、強いからな。ひとつひとつ糸で綴じるより接着剤でぎゅっとつけてしまう方が手間もかからないし」
 言いながら折丁を二つ作る。折り目をつけた紙を開いて、ギルベルトはその真ん中にいきなり錐を突き立てた。
「わお! いきなり何するんだい!」
「ミシン目、つけんだ、よ! 勿論本当のやり方はこうじゃねえぞ、今は分かりやすくするために穴開けてる」
 言いながらどどどっと直線上に穴を開けていく。それを折直し、束を重ねて、こちらを見る。
「どうすんだった?」
「そこに接着剤をつけるんだ! そしたら穴から浸透していって、背に四枚全部くっついてって……」
 あれ、本当かな? とギルベルトが手に持っている折丁を指でめくってみる。
「これさ、外側の紙と内側の紙じゃ接着剤のつく面積がどうしたって違うんじゃないかい」
 そこで菊が「ああ!」と手を打った。
「先週言っていた、『かえって外れやすくなることもある』ってそういうことですね。折り目にきちんと重なって、内側の紙が外の紙にぴったりくっついた折丁ばかりじゃないと接着剤が染み入らない。一方、無線綴じの方は折り目部分を断ち切ってしまうから、必ず断面が糊に触れる」
 ギルベルトは満足そうに頷いた。
「お前ら優秀で俺は嬉しいぜー!」
 というより、誘導がうまい。講師が本職ではないようだが、それがもったいないくらいだ。
 今日の実習は平綴じだった。簡易補修と本格補修の間くらい、そこまで痛みがない本なら本の体裁を保ったままかがることで補強にできるという。
「つっても見返しと本文は外さないといけねえけどな」
 背の部分はつけたまま、バンザイをさせるように表紙と見返しを向こうに返して、本文だけの束をつくり、クリップでとめる。そのまま、糊の部分から五ミリほどのところで上下中三カ所に穴をあけた。さっきギルベルトはなんちゃって網代綴じの時は無造作に開けていたが、今度はきちんと位置を確認した上で目打ちをあてて木槌で叩く。この穴に針で糸を通していって縫うのだという。
「最後に糸を結ぶってのを真ん中でやりたいわけだ。だから、真ん中の穴をスタートにして、一筆書きで眼鏡を描くようにして糸を通していく。左目側のリムを描くように上から下、そして地側で上に戻して……そのまま天側まで持っていって、右目側のリム」
「オーケー」
 糸は麻糸だったが、同じくらいの太さならミシン糸でもいいという。針は先がやすりをかけて丸めてあって、本を傷つけないようになっている。
「システマティックだなあ」
「ん?」
「やり方が確立してるんだなって」
「そりゃそうだ、図書館では日々大量にこれをやってるんだから」
「ああ、そうだよなあ」
 公共財産なのだからできるだけ長く利用されるべきだ。そのためには補修は欠かせない。破れ窓理論と同じで、傷んだ本は加速度的にぼろぼろになっていく。直すのが当たり前という世界もある。
 ふと気づくと、菊がじっとこちらを見ていた。
「なんだい?」
「いえ……」
 しばらく口ごもって、やがて菊は口を開いた。
「例のステレオタイプで、アメリカ人の方はあまり本の補修をするイメージがありませんでした。特に貴方のような若い方はもう皆さん電子書籍なのかと」
「ああ……」
 確かに、端末を買って以降買うのはたいてい電子書籍だ。直接書き込んだ方が早い教科書なんかは別だけれども、一回読めばいい本なら捨てる手間もないからすごく便利だ。嵩張らないし、栞もつけられるし、知らない単語はその場でドラッグして辞書をひくこともできる。何より、ネットでみて気になった、その瞬間に買えるというのが嬉しい。
「だから、具体的に何か直したい本があるんじゃねえかなと思ってた」
 ギルベルトの言葉に菊も頷く。
「あー」
 見抜かれていたか。出所は『偏見』なのかもしれないが、流石だと思う。
「何せお前らだけだから、持ってきてもいいぞ。一番いいやり方教えられると思うし、道具も使えるし」
 菊もまた頷いた。
「ありがとう、でも……自分でやるよ。恥ずかしいくらいぼろぼろなんだ」
 そうか、とギルベルトは頷き、さらりと糸の結び方に話をつなげた。

 その日の帰り、菊をお茶に誘った。あれ? という顔で彼は立ち止まった。
「先週言いませんでしたっけ。お茶自体は構わないのですが、この後の予定があるのです」
「ああ、そうだったのかい……」
 あまりにしょんぼりした顔をしたからだろうか、菊は苦笑してホールを見渡した。
「じゃあ、そこの自販機のコーヒーくらいなら」
 二人で自販機前に並んでいると、部屋を片付けたらしいギルベルトもやってきた。
「おう! お疲れ様コーヒーか、俺様にも飲ませろ」
「じゃあ年長者が奢りますよ」
 そういって菊がカップ式の自販機にコインをいれてどうぞと掌を出す。喜んでコーラを押すと、ギルベルトも少し肩をすくめて礼を言いながらコーヒーを選んだ。菊は、この六月にホットのカフェオレだ。暑くないのかと思う。
 ホールのソファに並んで腰掛けて、カップを口に運ぶ。傾けられたせいで氷が小さく鳴った。正面のガラス壁は水滴を貼り付けて続けている。うんざりするような雨だ。しとしとと、けれどもいつまでも降る。
「――俺さ、来月四日に誕生日なんだ」
 菊は「おお」と小さく言う。
「おめでとうございま……いて」
 ギルベルトにはたかれた頭をおさえている。
「フライングすんじゃねえよ!」
 手の方はともかく顔は冗談でもなさそうだったので首を傾げてしまう。
「なんでだい?」
「そうですよ、なんでです?」
 二人に揃って首を傾げられ、ギルベルトは慌てたように言った。
「え? あ、ん? もしかしてドイツだけか? 前祝いされると早死にするっての」
「知らないよ、そんなローカルルール!」
「聞いたことなかったです」
「う、あ、わりい」
 はたいたところをよしよしと撫でて誤魔化そうとしている。菊は苦笑して、こちらに向き直った。
「それでは、当日にメールでも打ちましょう。それにしても、リアル『七月四日に生まれて』ですね」
「なんだいそれ」
 えええ……と菊は眉をハの字にした。
「映画ですよ。原題も同じだったと思いますけど」
「あとでぐぐっとくよ……それでさ。去年の七月四日、俺は家出して日本に来たんだ」
 不穏な言葉に、二人は口を閉じた。
「俺を育ててくれた人は多分俺のことをすごく愛してくれたんだけど、俺は彼の望むように生きられなかった。もうずっと、心の中が風船みたいになってたんだ。彼のことは好きだという気持ちと、それでも束縛が辛くてもう顔も見たくないという気持ちとで。俺は、自分に生まれ直すために、その日に家を出た。――彼は時間をかけて誕生日の準備をしてくれていた。美味しくもない料理をたくさん作ってさ。プレゼントも買っていたのを知ってる。多分、それは全部ゴミになった」
「……」
「今年になって、人づてに俺の荷物をごっそり送ってきたんだけど、その中に本があった。彼が好きで、俺が子供の頃しょっちゅう読み聞かせしてくれた本だ。……それがびりびりになってた」
 ギルベルトは唸るような声を出して目を閉じた。
「手紙なんかは無かったけど、それが言いたいことなんだって分かった。だから、俺は――あの本を直したいのか直したくないのか、よく分からないんだ」
 今度は菊が「ああ……」と呟いた。
「その方の『傷』を安易に修理してはいけないのではと思ったのですね」
「うん」
 しばらく黙っていたギルベルトが、やがて立ち上がり、こんとカップの底で頭を叩いてきた。
「それでも、直し方を知りたいと思ったんだろ」
「……うん」
 ギルベルトはてをひらひらと振って、立ち去っていった。
「私もお手伝いできることがあればしますよ。……さて、そろそろ行かないと」
「ああ、ごめん。予定があるんだっけ」
 ええ、とカップを手から投げ出すように捨てて、菊は言った。
「兄のような親のような人の、介護なんです」
「Oh……」
「私の方も、若干の軋轢があった関係なんですけどね。それでも私しかする人はいないんですから、仕方ない。デイサービスから帰ってくる前に家に帰らないと」
 菊はため息のような顔で笑った。
「それはいいんですけど――喧嘩もできない、そもそも私を私と分かってくれないというのは、堪えます」
 年をとるというのは、切ないことですね。そう言って菊は雨の中に消えていった。

 次の週、菊は休んだ。
「家族の看病だと」
「ああ、介護してるっていう」
 そう返すと、ギルベルトはそこまでは聞いていなかったようで、小さく目を見張った。
「――そういうことか」
「ん?」
 今日は一折中綴じの練習をやっている。四枚の紙を重ねてクリップで留め、目打ちで穴を開けて縫い止めていく。最初に端から端まで長く糸を渡して、そこからスタート地点に戻るように一つずつ紙と糸をぐるっととめるように針を通していく。
「あいつは京都の国立博物館で働いてた筈なんだ」
「そうなのかい?」
 そういえば関西に長くいたと言っていた。
「日本語だとなんつったかな、とにかく古文書とかの文化財を修復する仕事で、国宝も手がけてる結構なエリートだ」
「へえ!」
「なんで東京にいるんだと思ってたけど、そうか、介護退職だか休職だかしたんだな」
 頷いている。
 ペーパーコンサバターだとは言っていた。その前にギルベルトが絵画修復だと言ったから、油絵に乗った埃や汚れを落とすように読めなくなった古い紙を直すのだろうとだけ思っていたけど――考えて見れば、この国の「古い紙」は千年以上前のものが現存している。何となく思っていた「よみがえり」のスケールが一気に十倍になって、一瞬くらりとした。
 そこではたと気づく。
「君は?」
「あ?」
「君は、なんで菊と知り合いだったのさ。菊が以前受けた講座って、こういう市民講座じゃないんだろ」
 ギルベルトは「あー…」と少し濁った声を出した。
「あのな。日本の古文書修復ってのは昔は表具師つってふすま作ったりするのと同じ枠だったんだけど、最近はそういう伝統的なやり方だけじゃなくて、科学的な方法も取り入れようとしてるんだ。光学顕微鏡も使うし、繊維を研究して補修紙を手作りもする。そんで、絵画修復っつうのも、美術っつうよりほとんど化学なんだ。油煙は何と反応して溶けるか、カンバスの材質は何か、枠はいつの時代の何の木でできているか。道具も、ピンセットだの注射器だので作業場は実験室みたいになってる。んで、俺がその繊維研究が専門だったんで、世界中の学芸員招いてワークショップやったんだ。あいつはそれに来たってわけだ」
 エーゴ死にものぐるいで覚えてきたって言ってたな、とギルベルトは笑った。
「あ、じゃあ本当に『先生』だったんだ」
 というより、君こそエリートじゃないか。そんな顔で見つめると、ギルベルトは決まり悪そうに肩をすくめた。
「俺は……まあ、あれだ。俺がここにいない方が万事うまく回るなって思ったことがあって、ちょっと旅に出ることにしたんだ」
「旅?」
「そう。まだ人生の旅の途中、ってな」
 格好いいポーズ――のつもりなんだろうこれは、という手ぶりをしてみせて、ギルベルトはウィンクをした。もう一度言う、格好いいつもりなんだろうけれども、噴き出してしまった。何だよ笑うなよと言いながらギルベルトも笑った。「話は終わり」ということなんだろう。だから口にはせず、心の中で思った。
 それぞれ、自分のホームから遠く離れて、この東京という大きな街でたった三人顔を合わせた。ホームに留まることもできたかもしれないけど、やむにやまれず、それを捨ててきた。この時この状況に無ければ一生出会うことはなかっただろうと思うと、その巡り合わせは奇跡的に思える。
 偶然なんて、それに左右されるのはごめんだと思って生きてきた。今でも、人生の道を作っていくのは荒野を歩く自分の足でしかないと思うけれども――
「同じ舟に乗ったみたいだ」
 それくらいの、講座が終わればそのまま散っていく関係なんだろうけれども。乗れたのがこの舟で良かったと思った。

 その日は、かがった折丁に表紙をつけるまでやった。補強のために寒冷紗というざらりとした布を背に貼り付け、その布の羽を見返しの中に潜り込ませるようにして表紙に貼っていく。ギルベルトはほんの少しのずれも見逃さず鋭い声でびしびしと指導した。鬼教官みたいだと思ったけれども、こうしたミリ単位の作業については不得意な方だから素直に従った。その甲斐あって、ボンドが乾いた後ぱらぱらと頁をめくったりのどまで開いたりしていたギルベルトはやがて「ん!」と頷いた。
「OKかい?」
「おう、上出来だ」
「やったー!」
 にっと笑った後、ギルベルトはもう一度できあがった本もどきをめくった。
「今回は練習ってことで白紙でやったけど、これって製本の手順だよな」
「ん?ああ、そうだね」
「本だと、直すって、ほとんど作るってことなんだなあ」
 そうか、いつもやっている修復はもっと『原状回復』という感じがあるのだろう。絵なら作品は唯一無二で、それが作られた直後を百パーセントとしてそこに『戻して』いく。けれども本なら『読める状態』に『して』いく。
「ぶっちゃけた話、まだ売ってる本なら買った方が早いし、表紙なんかもとれたなら新しいの作ってつけちゃう手もある。図書館がやってるそういう処置と、俺たちがやってるような文化財修復の間に結構なグラデーションがあるんだろ」
 いずれにしても、とギルベルトは立ち上がりながら言った。
「直そうって考えてる時点で、その本はもうかけがえのないものなんだろうな」

 最終日は本格的に本を修理することになった。いい感じにぼろぼろになった廃棄図書をそれぞれ渡された。
「今日は、解体をして、閉じ直す。その前に、全体を確認してどんな修理が必要か、どんな段取りで進めるかを考える。見返しの紙など同じ色・材質の紙が必要なら用意しておく」
 まずは表紙を外す。見返しと本文の境目を広げるようにそれぞれひっぱりながら慎重に外していく。背もへらを使って丁寧に剥がし、本文だけにしたら、折丁ごとに外していく。菊の方は無線綴じ、こちらは網代綴じで、かがり糸は無い。あれば切って外すのだという。最後にそれぞれのゴミをとって綺麗にする。古いボンドの固まりには手こずったが、カッターの刃でこそぎとるようにしてなんとか剥がした。
 折丁を綺麗に並べて天地ともにクリップで固定した。ここのそろい具合が重要なのだと分かっているから慎重につき揃える。
 すると、ギルベルトが糸ノコギリを取り出した。
「やっと登場だな!」
「おう。どう使うか思いついたか?」
「うーん……。この背の部分をがりがりやったら網代綴じみたいな凸凹つけられるとは思うけど、それって二枚続きっていう網代綴じの良さがないしなあ」
「そう。但し、『背をがりがりやって凸凹つける』は合ってる。三ミリくらいの深さで刻みを五つ、六つ作って、そこに凧糸を通して縛るんだ」
 この作業は菊だけがやった。
 糸はざく縫いのようにボンドをつけておいた溝に沈みながら上へ、隣の穴へ、下へと行き来する。端の穴から戻るときには往き道で通らなかった側を通るようにしてスタート地点に戻していく。最後は糸を固く結んで、溝に埋めた。
 こんな風に補強するんですねと言いながら、手つきに迷いや不安はない。器用な指の動きに目を奪われてしまう。
 その後は共通作業、背固めといって、本文を厚紙に挟んで揃え、背にボンドの原液を塗る。へらでこすって平らにならし、重しをのせた状態で乾かす。更に寒冷紗をつけて、背と本文をボンドでつける。
「できた!」
 先週の予習があったから手間取ることもなく無事本の形に落ち着いた。実際にはゴムバンドで固定して一晩おいてから寒冷紗を貼り付けていくらしいのだけど、そこはちょっと誤魔化す。
 だから本屋に並んでいる形には後一歩だけれども、やろうと思えばそこまで自分で持って行ける。その実感がじんわりとこみ上げてくる。
「結構時間余ったな。もう一冊リンクステッチでもやるか?」
 ギルベルトが水を向けてきたので、一つ大きく息をして、言った。
「あのさ。前に言っていた本、持ってきたんだけど」
「ああ!」
「おお、いいぞ。出せ出せ」
「ありがとう」
 勇気を貰って、紙袋から出したそれをどんと机の上に置いたら、絶叫された。
「ぎゃーーーーーーーーーーーーー!!」
「ちょ! なんで『ばん!』ってするんですかあぁぁ!!」
 慌てて椅子から立ち上がり、そこらの本をがさっと胸に抱えて、それから菊は首を傾げた。
「あでも、これ全部廃棄なんでしたっけ」
「あ、うん、そう、だけど心臓とまった」
 こっちがびっくりするくらいの過剰反応に思わず頬が膨れる。
「なんだい! そんなに驚くほどの音は立ててないだろ?」
「そういうことじゃねえよ、それ、黴だらけじゃねえか!」
 今度は口が尖る。
「だから、ぼろぼろだって言ったじゃないか。それでも直そうとするの応援してくれたと思ったら、まるで病原菌みたいにどん引きしてさ」
 ぶー! と頬を膨らませたら、いやいやとギルベルトが手を振る。
「ちげえよ、その本に引いたんじゃなくて、黴がまき散らかされたことにぎょっとしたんだ」
「黴は胞子をまき散らすんですよ。ほうきで掃くのはもちろん掃除機をかけただけでも舞い上がるんです。そしてゆっくり降っていって他のものを黴びさせるので、紙の世界ではまさしく病原菌なんです」
「つうか、黴が肺に入って病気になることもあるんだから、甘く見んじゃねえぞ。特に日本ではあいつら最強だからな」
 大人二人にがんがん説教されて思わず涙目になってしまう。
「アメリカじゃ洗剤かければ消えるんだよ……」
 声音に落ち着きを取り戻したのか、二人は椅子に座り直した。
「いや、まあ、日本の黴だって消毒すれば落ちますけどね。いやしかし、結構巻き散らかされちゃいましたかね……」
 心配そうに道具箱を眺める菊に、ギルベルトは「大丈夫、言っとく」と請け負って、それから腕組みをして考えた。
「……よし。お前は今から書くものを隣のドラッグストアで買ってこい。その間に俺はこの部屋延長できるか聞いてくる。本田は本しらべといてくれ」
 GO! と扉を指さされ、勢いに飲まれて駆けだした。メモ用紙に書いてあったのは、エタノールに脱脂綿、マスクと手袋。大容量のゴミ袋まで揃えて駆け戻ると、二人で本をめくっては何やら話していた。
「買ってきたよ!」
「あ、お帰りなさい。……」
「おう、早かったな。……」
 何か考え込むような二人を余所に、買ってきたものを広げる。本も道具箱も端にどけられていたので、そこに言われたとおりゴミ袋を切り開いて広げる。そこにギルベルトがそっと本を置いた。
 マスクと手袋をつけて、指示されたとおり脱脂綿に消毒用エタノールを含ませ、慎重に表紙を拭き取る。
「ちょっと脱色してしまいます。折角のクロス製本がもったいないですが」
「いや、もう褪せちゃってるしさ」
 確か緑色の布に金文字が押されていた。そのどちらも元の色とはほど遠い。
 ところどころは練り消しゴムを押しつけて固まった黴びも除いていく。使った脱脂綿や消しゴムはすべてゴミ袋に放り込んで、毎回口もとじる。目に見えないもの相手だから面倒に感じるけれども、二人にとっては当たり前のことらしい。
「ほんとは空気清浄機とか掃除機とかで空気吸わせながらやった方がいいんだよな」
 天地や小口も念のため拭き取った。乾くのを待っている時、菊が独り言のように言った。
「シルヴァスタインの『おおきな木』ですか……」
「うん」
 少年とリンゴの木の話だ。二人は友達だった。けれども少年は大人になっていき、その木の傍で恋人と寄り添い、その果実を金に換える。木は全てを許す。少年が家が欲しいと言えば枝を渡し、遠くへ行きたいと言えば幹を渡して舟を作らせる。そうして最後切り株だけになった木は、「疲れた」という男に安らぎの場所を与える。
 子供の頃はよく物語が分かっていなかった。木って色々作れてすごいなあなんて思っていた。分からないままに暗記していた一言一句が、今となっては胸の中で渦を巻く。葉を与え実を与え、それで男が幸せになるのを見て木はいつも幸せを感じていたのだけど、男が舟を出して去って行った時はこうなのだ。「And tree was happy…. but not really.」。
 菊が言った。
「私もこの本、ちょっと苦手です。――読んでいて辛い」
「……」
 ギルベルトは考えるように唇を撫でた。その顔を見ていると、「あ、いや」と手を離した。
「そういうところはお前ら似てんだろうな、と思ってた」
「そういうところ?」
「デフォルトで自分は少年だって思うあたり」
 思わず菊と顔を見合わせてしまった。何せ木を表す代名詞は「彼女」、だからあまり考えずに自分は少年だと思っていた。
 ギルベルトの言葉が脳裏に蘇る。「俺がここにいない方が万事うまく回るなって思ったことがあって、ちょっと旅に出ることにしたんだ」。詳しいことは分からないけど、ホームを離れたとき、ギルベルトは木だったのかもしれない。キャリアという自分の幹にあたるものまで明け渡して、それでもギルベルトは「but not really.」と付けないような気がする。
「……ま、木にとっての幸せはともかくとしてだ。この本にとっては、お前が直しているのはhappyだと思うぜ。ゴミ寸前から『本』に戻った。こうして長く読まれる本は、文字だけじゃなくて、読んだ時の思い出も含めて、記憶の舟だ」

 エタノールが乾いたところで表紙にかかる。
 破れの酷いところは補修用テープで貼り付け、破れ目がちぎれてしまったものは補修紙をその形に切って貼り付ける。外れかけていた頁は両面から補修用テープをはった。表紙の欠損については、どうしようもないと思っていたら、菊が「忍法『障子の穴ふさぎ』でいきましょう!」と中の絵を写し取った厚紙を破れ目に置いて繕ってくれた。その上から全体にコーティングシートをかける。
「できた……」
「おう、お疲れ!」
「お疲れさまでした」
 ふうと息をつく暇もなく、菊は立ち上がった。そういえばいつもの時間より三十分は遅い。
「わあ! 予定あるんだろ、大丈夫かい?」
 菊はにこりと笑った。
「大丈夫です、駅から走ります。……あの」
 一度ドアの方に振った顔をまた戻す。
「先週お休み頂いた時――ちょっと、本当に危なかったんですけど――……、……その時に、もう散々罵倒して、胸ぐら掴んで三途の川から引きずり出す勢いで思いつく限りの文句言ったんですけど」
「え、え、え」
 なんだかすごい話をしている、その割には穏やかな顔で微笑んでいる。
「意識が戻った後、それの文句を言われました。もう、ぐっちぐち、延々と、片言隻句まで」
「……え」
 確か、菊を菊と認識できないと言っていた。ということは、意識だけじゃなくて認識も回復したんだろうか。目で問うと、菊は頷いた。
「やっぱりね、喧嘩できるのって有り難いことだと思いました。――それで踏ん切りがつきました。東京に来て家族と暮らすことを選んだんですから、もうこちらで仕事探します」
「あ……」
 そこでギルベルトの方を向いて、わざとらしく二本指で敬礼をした。
「絵画修復の講座やるときは教えてください。また勉強させて頂きます」
 ギルベルトは開けていた口をゆっくり閉じ、そのままにっと横に広げた。
「楽しようとすんな、助手で働け」
 菊は笑って、駆けていった。
「あー……」
 ギルベルトはこきっと首を鳴らして、天井を見た。
「俺もこの街で職探すかなー」
「……旅はどうするんだい?」
 そう聞くと、振り返ってにやっと笑う。
「この街で、人生の旅を続けるんだよ」
「君らしいや」
 けれども、みんなそうなのかもしれない。と、ギルベルトが「あ?」と言って、尻ポケットから携帯を取り出した。
「……ああ。おい、本田がメールアドレス聞き忘れたって」
「メアド?」
 聞き忘れるも何も、教え合う関係ではないと思っていた。
「『おたおめーる』する約束だからってよ」
「ああ!」
「んじゃ、まずここでアドレス交換しようぜ。そしたらこのメールを転送する」
「あ、うん。うん……」
 赤い光が二つの端末の間を行き来する。期せずしてギルベルトのメールアドレスも手に入れてしまった。
「……絵画修復講座やるときは教えてくれるかい?」
 ギルベルトは顔をくしゃっとさせて笑い、親指を立てた。そして、「あ」と急に真面目な顔になった。
「さっきの本田じゃないけど、喧嘩は、ちゃんとやった方がいい。でもその前に会話した方がいい」
「あー、うーん……」
 そういう正論は分かっているんだ。その気持ちが声に表れていたらしい。ギルベルトは違う違うと手を振った。
「ま、でもいいや。取りあえず直したんだって連絡してみろよ」
「うん。それは、そのつもりだった」
 年長者らしく頷いて、その後ギルベルトはによっとした。
「ま、俺と本田は、お前が誤解してる方にベットするけどな」

 賭だとしたら、俺の完敗だった。
 誕生日の前夜、勇気を総動員して電話したのに、彼の声は案外平静だった。そして本を修理したんだと告げるとのんきな声が返ってきた。
「ああ、あの本、お前気に入ってたもんな」
「え? あの本を好きだったのは君の方だろ?」
「いや、お前だって。他の本持ってってもお前が必ずあれを強請るから、もう何回も読んで覚えちまった」
「ええええ……なんで、俺あれ好きだったのかな」
「木登りしたかったんだろ? そんで森の中に大木見つけて毎日枝にぶら下がってたじゃないか」
 全然覚えていない。
「そんで、本を抱えたまま枝の先までいって、そのまま落ちた弾みで転がって川の中に突っ込んで、村中大騒ぎだったの――覚えてないのか?」
「……全然」
「本もぼろぼろになるしさ、お前はそれ見てぎゃん泣きするしで」
「…………あああああ! もしかして、あのびりびりぼろぼろって、その時?」
 電話の向こうから呆れたような声がした。
「当たり前だろ、その時お前が泣きながらお道具箱の底にしまいこんで以来、ずっと出してなかったんだから」

 電話を切った後、頭を抱えてしまった。
 あの二人は傷の具合や黴の具合から、それが最近のものじゃないことに気づいたんだろう。プロの目には及ばないといっても、自分だって気づいて良かったはずだ。思い込みでちゃんと観察もできていなかったのだろう。
「まだまだオコサマってことだなあ」
 ベッドにばったりと倒れ込むと、日本のドミトリーの低い天井が目に入った。これはシミなんだろうか、模様なんだろうか、微妙な柄が地図に見える。
「人生の旅、か」
 日本とアメリカの間にも、ヨーロッパとの間にも、海がある。舟は小さくても、漕いでいけばいつかは着く。ありがとう、と、これからもよろしく、を文字にするかどうか迷っていると、手の中が相次いで震えた。時計を見ると、0時ちょうど。一つ大人になった瞬間だった。

2015.7.5 擬人化王国10発行