ほしは、すばる

APHその他(非CP)

ほしは、すばる。【3】

 多分絶対間違いなく。
 退屈なさるでしょうから、と言葉を尽くして断ろうとした菊の努力を、「俺は気にしないんだぞ!」と一発ホームランで明るく吹き飛ばし、アルフレッドも映画鑑賞会に加わることになった。だったらいっそアルフレッドさんのお宅で……となった理由の一つは、退屈! と言い出した場合に好き勝手するだろうという諦めだ。他にも、置き酒があるとか、ホームシアターといっても差し支えの無い大型テレビが導入されたとか、それでしばしばホラー映画に付き合わされた菊が泊まるのに慣れたとか、だったら帰りを気にせずがっつり飲めるとか、正当な理由は色々あるのだけど、「二人だけの鑑賞会」がふいになったことに不満なようなほっとしたような複雑な気持ちになる。
 「カメヤマ……」と呟きつつ薄く涙ぐんでテレビのロゴマークを撫でている菊を横目に、アルフレッドは小声で「ずるいんだぞ」とつついてきた。
「な、なにが」
「仲間はずれにするなんてさ」
「いや、本当に! 本当にお前には合わねえだろうなって二人とも思ったから声掛けなかっただけで」
「本当とか絶対とかそういう刺激の強い言葉を乱発する奴は信用できないね」
 や、それ、超ブーメランじゃね? 突っ込みたいのは山々だったが効かないのは分かっている。そして二回言った自分の心理も透けて見える気もするので話を進める。
 机の上に用意されたのは、昨年公開された日本映画。前近代に、日本に合わせた暦を作った人の物語だという。
「菊が言うには、アクションも無い、ラブロマンスもちょっとしかない、地味ーな話らしいぞ」
「じゃあなんで君見るんだい」
「俺はカレンダーに興味あんだよ」
「なんでさ」
 その説明はちょっとばかり面倒くさい。

 ◆

 まだ去年の年末のことだ。日本漫画かぶれの事務員が菊に聞いた。
「ココココココココココココって何?」
「は?」
 とうとうこいつも脳がいかれたか、と哀れみの目線を送っていたら、フランシスは肩をすくめた。
「何か、日本の謎々なんだって」
「えー?」
 皆目見当がつかない、という顔だったのに、数日後、菊は「分かった!」と叫んだ。
「フランシスさん、もしかしてこれですか!?」
 手招きをしていたのでどさくさに紛れて近寄った。一応部外者であるので遠慮して、二人の背中から「これ」と指さされている画面を覗く。
「あ、そう! これ!」
 画面に表示された画像は、浮世絵調で、座った男二人が床に敷いた長い紙を見ながら話している絵だった。その紙に「子子子子子子子子子子子子」と書いてある。
 フランシスに「部外者はおよびでないよ」という顔をされながら「この字、『コ』って読むのか」と聞くと、「はい」とこっくりする。
「けれども、日本では一つの漢字に複数の読み方を当てることがよくあります。この字も、『コ』の他に『シ』や『ネ』という読み方があります」
「あ、子午線のシでしょ。そんで、ねずみ年のネ」
「ええ」
 フランシスが振り向きざまドヤ顔をするので腹パンを入れると、菊が「子午線はmeridianで、ねずみの方角・北からうまの方角・南へ引くという意味なんですね」と取りなした。
「そういうわけで、これは『ねこ(の)子(の)子猫、しし(の)子(の)子獅子』と読む、というわけです。……文に意味はないですよ、ただそう読めるねってだけで。有名な陰陽師――呪術者? の伝説なんです」
「いやいや、面白かった。日本人ってこういう言葉遊び好きだよねー」
 お褒めにあずかりどうも、と菊が頭を下げたのでフランシスは戻っていったが、俺にはまだ腑に落ちないところがあった。
「それだけか?」
「え?」
「この絵の右側の男は、左側の若い男に、紙に書かれたことを解説しているように見える」
「はい、そうです。先生と弟子、と詞書きにあります」
 菊は嬉しそうな顔で頷いた。詞書きとは絵の中に書き込まれたへにょへにょした文字で、活字体でも読めない俺にはルーン文字レベルに分からない。
「さっきの読み方は、確かに頭を捻るものだろうが、それにしてもこの構図は大仰だ」
「流石アーサーさん。では、書かれた字について、何か気づくところあります?」
「ん?」
 菊が画像を拡大する。
「そう言われれば……ちょっと、粒が不揃いか?」

 ◆

 そこでアルフレッドがもどかしそうな顔をしたので、紙に書いてやる。
――子子子子子
「えー?」
 名探偵のように推理をやってみせたかったらしいが、お手上げのポーズだ。それはそうだ。俺たち欧米人に分かるわけがない。いや、菊だって知識のない時点で問題として突き出されたら分かったかどうか。何せ、今の俺たちには、そのことを書き記しておくという発想がない。
 字の大小には当然気づいたようで、トンタンタントンタンタンと指でリズムをとっているが、顔には「さっぱり」と書いてある。
 いつのまにか菊は泡盛グラス片手にソファでによによしている。
「お弟子さんはですね、『これがカレンダーですか?』みたいなことを聞いているんですよ」
「んー、んー?」
 腕を組んで、すぐに解いて、アルフレッドは人差し指を額にあてた。
「……その言い方は、暦には見えませんけども、ってことだよね。オーケー。つまり、見えないけど暦だってことだ。てことは、365個の数字が書いていなくても……」
 とん、と人差し指で額を叩く。
「なんてこった。話の前提を忘れてた。もしかして、この頃の日本は一年が365日じゃなかったりするかい?」
 思わず口笛を吹く。勘がいい。菊もにっと笑った。
「太陰太陽暦を使ってます。月の満ち欠けを基本にして、一年を365日に調整するために数年に一度閏月を入れる方式ですね。なので、本当はこの絵のタイトルにある寛政四年は、これじゃ表せなかったはずなんです。閏二月があったはずですからね」
 ははーん、と人差し指をゆっくり回して、
「『閏二月を入れたから』『表せなかったはず』ということは……閏二月を入れたら13になるからだね? つまり、この12の文字は月を表す!」
ぴっと菊を指す。
「ご明察」
 菊はぱちぱちと小さな拍手をした。
「いや、全然分かってないよ。2、3、5、6、8、10、12月、が、何?」
「もうかなりいいとこまで来てるぞ。今読み上げたのはだいたい十二ヶ月の半分くらい、そして、当時の暦は現在のグレゴリオ暦とずれている」
「半分くらい、七つ……」
「因みにグレゴリオ暦の前はユリウス暦だ」
「知ってるよ」
「なんでユリウス暦って言うんだ」
「え、ジュリアス・シーザーが作ったからだろ。ついでに誕生月の七月をジュリウスに改名した」
「その義理の息子のアウグストゥスが、」
「自分の誕生月である八月をAugustusに改名しついでに31日に……ああっ!」
 腕ごと人差し指を俺に向けて、
「月の大小か!」
「正解」
 また菊は胸の前でぱちぱちと手を叩いた。ちんまりとした仕草は、少し酔っているせいかもしれない。
「先ほど申しましたように太陰太陽暦なので、大の月が30日、小の月が29日なんですけどね」
「そっか、一、二、閏二、三……の順だとトンタントンタントンタンタンってなるのか」
「はい。そうすると今の大小の並びに近いですよね。当時は月自体固定でないので、大小が年によって変わるんです。一方、七曜制は明治維新で導入するので、この頃のカレンダーに曜日は必要ない。ですから、今年はどの月が大の月なのかだけを書いた大小暦というのが広く出回ったのですね。でも、それだけ書いたものを掲げておくのも味気ない。それで、こんな風に謎かけしたものがたくさん作られたんです」
 俺は頷いたが、アルフレッドは納得できなさそうな顔だ。
「でもさ。そうやってちゃんと調整してたんなら、それこそ話の前提がひっくり返らないかい? カレンダーそのものを日本にあわせて作る必要がどうしてあったんだい?」
「それはですね」
 菊は、にこりと笑った。
「黒い太陽を人知の世界に服せしめるためです」

 ◆

 映画は当然ながら全て日本語だったので、菊の解説を挟みながら見た。アルフレッドが容赦なく一時停止して「今のどういうこと?」と聞くので、最初感じていた罪悪感もそのうち薄れて、「映画をベースに菊の話を聞く会」に変貌していった。
 珍しかったのは、解説が終わる毎にアルフレッドが「サンキュー」と、菊のグラスに注ぎ足していたことだ。いつもの飲み会では当然手酌なのだが、「日本のしきたりなんだろ?」と瓶を捧げ持つ。「いえ、『ありがとう』のタイミングでつぐわけでは……」と不思議な顔をしていた菊も、「ま、いっか」の気分になっていたのか、または話して喉が渇いていたのか、つがれるのを断らず、故に早い頃から顔を赤くしていた。映画が終わり、映画と菊とに軽い拍手を送ると、「ははは」と笑いながら鷹揚に手を挙げて応えている。
「随分ご機嫌だな」
「ははは」
 しかし、アルフレッドは頬を膨らませた。
「もっと酔うかと思ったのに、この人強すぎるよ」
「ん?」
「だっていつもこれくらい飲むな、って量の一・五倍くらい注いだのに」
「はは、は?」
「何、お前、計算して飲ませたのか?」
 二人して首を傾げると、アルフレッドは悪びれずに頷いた。
「反抗されると面倒かなと思ってね。仕方ない」
 よっと、と立ち上がり、ディスクを取り出して――いや、入れ替えて、アルフレッドは菊の隣に移ってきてどすんと腰を下ろし、菊の肩に手を回した。
「「ん?」」
 また二人して首を傾げる。
「アーサーも早くきて。そっち側おさえて」
「「?」」
 訳が分からないながら、言われるままに席を移し、逆側の肩に手を掛ける。それを見て、アルフレッドはリモコンの再生ボタンを押した。
「何か見るのか」
 流れ始めたのは日本のテレビらしく、呪文文字があちこちに散らばっている。CMのような短いプログラムがいくつか流れる。
「うん。フランシスの友達が送ってくれたんだって。字幕までつけてくれてる」
「じまく?」
 ぼんやりと聞き返した菊だったが、オープニングの音楽が流れ始めるにつれ正気に戻っていったらしく、「ぎゃー!」と立ち上がろうとした、が、両肩を押さえられているので動けない。
「ちょ、アルフレッドさん、やめ、ストーップ!」
「……ええと、菊が関係しているのか?」
「出てるんだよ」
「え」
「やめえええええ」
 じたばた、と足を動かすが、それで再生はとまらない。若干申し訳ない気もするが、画面が気になるので肩の手はかけたままにしておく。
 タイトルが表示された後、菊が教室らしきところに入っていく様子が映され、整然と並んだ子供たちが一斉に頭を下げる。挨拶らしき言葉の字幕とテロップが部分的に重なってしまっているが、読めなくは無い。テロップは菊の肩書きなんかをうつしているのだろう。
「その道の専門家がかつて自分の通った小学校に出張授業するって番組らしいんだぞ」
「これ、去年の秋か? そういえば帰国してたな」
「……普通は、講師役は著名人なのに……穴埋めに……かり出されて……関係者に義理があって……」
 うう、と菊は項垂れる。抵抗するのにも疲れたらしい。
 著名人、というのは、テレビ慣れしている人ということだろう。菊もそれなりの発表会見をこなしているが、科学部記者への応答とは話が違う。黒板の前に立つ菊の笑顔は微妙に強ばっている。
「えー、皆さんに宿題を出していました」
 そう言って、菊は黒板に「宇宙には何があるか?」と書いた。そしてフリップの束をとり出す。
「いろんな答えがありました。まずは、星。星。…」
次々とめくっていく。子供たちの回答を拡大コピーしたものらしい。大抵は一文字だが、中には☆マークが飛んでいるような絵を書き足したものもある。
「具体的に星の名前を書いてくれた人も多かったです」
 めくった紙には、惑星の名前が書き連ねてあった。冥王星には?マークがつけてある。「冥王星は準惑星となりましたが、宇宙に存在しているのは間違いないですね」と菊は付言した。
 太陽・月と書かれた紙を出し、
「天体の中でも馴染みの深いものですね。各国の国旗にもよく使われるモチーフです。日本の国旗は?」
 目線で問いかけられた子供が「日の丸」と答える。
「使われている色は?」
「え、赤。……と、白、です」
「そうですね、赤が太陽を表します。同じ赤と白を使って、三日月と星を描くトルコの国旗では、白の方が天体を表しますね。星を国旗に描く場合、白や黄色で表現されることが多いです。さて次。これ、分かりますか」
 次の紙には、「いぬ くま うし へび ライオン」と書いてある。「分かった!」と子どもが手を挙げ、「星座!」と叫ぶ。
「そうですね。獅子じゃなくてライオンと書いてあるあたり、なかなか狙ってますね」
 菊はリモコンを操作し、カーテンを引いた。暗くなった部屋に星座が浮かび上がる。簡易投影機が用意されていたことで予測はしていただろう子供たちも、「うわあ」と歓声を上げる。
「今の時期の夜空です。これがキリンの、くびー、これが白鳥のは、ね」
 ポインタでなぞりながらいくつか説明している。
「そしてこの明るく光る恒星が」
「デネブ!」
「その隣がベガで、下のアルタイルと夏の大三角!」
 習ったらしいことを子供たちは次々に口にしていく。暗くされたからか、雰囲気がくだけたようだ。
「そうですね、だから宇宙には丸も三角も十字も星も、と、記号もたくさんあるんですね」
 動物つながりで言えば、と、菊はリモコン操作でプロジェクタを前面に向けた。用意されていたスクリーンに画像が映し出される。
「ラッコもいます」

 思わず二人して吹き出した。
「「ほんっとに菊はコレ好きだな!」」
「うっさいです」
 抵抗を諦め、菊はふて腐れたように泡盛を飲む。

 画面の中の菊は、もちろん素面で、イトカワの解説を続けている。はやぶさ探査機のことは子供たちにも広く知られているらしい。発言が相次ぎ、それを拾う形で菊は日本の宇宙探査事業について説明した。
「そして、ぶたもいるんです」
 スクリーンに映し出される、ぶたのしっぽ。

「え、秋だろ?」
「放映は初冬です。撮影には間に合ったので、急遽挟みこんだんです」
 慶應義塾大学の研究チームが電波望遠鏡で特異な螺旋構造の分子雲を発見、pigtailと名付け、天文専門誌に発表したのは2012年の9月のことだ。天の川銀河の中心部に存在する約60光年×60光年という大規模な螺旋は棒状構造の電波源の根元で巨大な分子雲が衝突したことを示している。画面の菊は、ろうそくのようなものを教卓に立ててそれを説明しようとしている。

 一旦プロジェクタを切ってカーテンを開けた教室はまた昼光を迎えていた。室内の撮影だから天気は関係ないかもしれないが、晴れて良かった、となんとなく思う。窓のすぐ向こうには住宅らしきものが並び、その屋根屋根が秋晴れのなか、光を反射している。
「さて、この机に対して垂直にたった紐は、銀河にしばしばあらわれる、棒のような形の磁力線の束のつもりです」
 そしてお盆を取り出した。子供二人を前にこさせ、その二人にそれぞれお盆を渡し、その手を掴んで動きを誘導する。二つのお盆は、ぶつかって、紐の先端を挟む。その状態のまま、菊の指示に従って、二人の子供は教卓を巡るように歩く。すると、数回まわったところで、捻りの入ったせいで紐がくにゃりとよれ、ぶたのしっぽ状を作った。

「おお」
 上手くいったもんだ、と声をあげると、ばつの悪そうな声をあげる。
「中に形状記憶の金属を仕込んでいたんです」
「……そりゃかえって器用だな」
「立体造形なら任せてください」
 アルフレッドがまじまじと菊を見た。
「用意がいいっていうか……小物多いね!」
 う、と菊はつまる。
「だって、数時間も説明することないですもん……小手先で誤魔化したいんですもん……」
 アルフレッドさんみたいに注目を浴びることに慣れてないんです、できるだけこっちに目線を集めたくないんです分かってくださいすっとこどっこい!
 わああ、と泣く真似して肩に額を押しつけてくるから、よしよしと頭を撫でる。酔っ払いは甘やかすに限る。

「発見は、この図を分析していた研究者がここの螺旋に気づいたことから始まりました」
 菊は大きな紙を黒板に貼った。印刷されていたのは一酸化炭素分子の放つ115GHz回転スペクトル線の積分強度分布図。イメージ図では明瞭にぶたのしっぽ状をなす分子雲だが、この分布図ではただの小さなゆがみでしかない。ここ、と指されなければ螺旋だと思わないほどの小ささだ。
「ですから、確かに宇宙には」
めくったフリップには「謎」。
「が、ありますが、その謎は、素知らぬふりで隠れています。漫然と見ていれば何が不思議なのかも分かりません。知識によって組み立てた理解とのずれや微かな違和感が、そこに謎があることを知らせてくれるのです。研究は常に事実から出発しますが、その事実の意味を変えてさえしまうのが研究です」
 ところで、と菊はフリップをめくる。そこには「何も無い」と書いてある。
「皆さん、この答えをどう考えますか? ……ああ、口にはしなくていいです。もし可能なら、当人には、どう考えてこう答えたのか知りたいですが……この答えの人、教えてくれますか?」
 返事は無かった。
「なら、いいです。さて、皆さん。この答えはいくつかの階層で感想を引き出します。まずは、間違いだ、というもの。だって、先ほど見て貰ったように、色んな星がありますから。けれども『そうですね』という感想もあり得ます。実は、宇宙には『何も無い』があるんです」
 カメラは子供たちを映す。行儀良く黙ってはいるけれども「はい?」という顔だ。
「銀河の渦巻きを見たことがありますか? あのように、銀河は時速八十六万四千キロほどで回転しています。およそ一分で本州縦断するくらいの高速回転ですね。このように回転運動しているものは、その遠心力などから重さを計測できます。ところが、見えている星やガスなどを全部足しても、その重さにならないんです」
 菊は白墨で円グラフを書いた。陽子・中性子など普通の物質はわずか四パーセントしかない。次に大きい四分の一ほどを占める部分を指して、続ける。
「そこで、見えない何かがある、とする仮説が立てられました。X線でも電磁波でも確認できない、私達にはまだ何なのか分からない何かです。見えないので、暗黒物質(ダークマター)と名付けています」
 菊はそこでちょっと笑った。傍目にはそうは見えなかったかもしれないが、あれは「によ」とした顔だ。この辺の単語について「中二病をくすぐるんですよねー」と言っていたからそのせいかもしれない。

「ところが、それを計算に入れても、まだおかしい。モノではない何かがあると考えないと、足りなくなってしまうんです。そこで、残りについて、何らかの反発する力があると考えてみる、というのが、現在最も支持されている見方です。その力をダークエネルギーと言います。このように、現在の私達には何が何だか分からない、光も色も電荷も電磁相互作用も持たない何かが、ある。つまり、『何も無い』がある、んです」
 納得したような顔をしている子もいれば、狐に摘まれたような、いや、騙されている気になったような顔の子もいる。
「言葉遊びみたいになってしまいましたね。しかし、それを更に進めると、哲学の観点から別の感想も出るでしょう。『この人にとって、『ある』とは、また、『ない』とは何なのか』、と。胡蝶の夢という故事成語を知っていますか?」
 子供たちが頷いたので、菊は話を進めた。
「今のこの現実は本当に存在しているのだろうか?私自身さえ誰かの夢まぼろしに過ぎないのではないか? 明日全てが無くなってしまい、百年後誰も覚えていなかった時、今『ある』という事実さえ無かったことになるのではないか。そういう問いかけです。――現実が儚く思えたとき、また、酷く残酷に思えたとき、こういう疑念が刺さってくることがあります」
 菊は少し黙って、窓の外を見た。秋の日ざしはやはりあちこちに輝きを作っている。
「耐えがたい今を生きるとき、人の心は過去に向かいます。大きな変化を経験するとき、人は先細りの未来を予感します。『昔は良かった』と、古代ギリシャの頃から言われていたのです。」
 菊はプリントを配った。

「まず最初に黄金の種族の人間をオリュンポスに住む不死なる神々は作った。この人達はクロノスの時代に、すなわち彼が天上の王であった時代に生きた。そして神々のように憂いを知らぬ心を持ち、骨折りも悲しみもなしに生きていた。… この後に、第二の遙かに劣った銀の種族をオリュンポスに住む神々は作った。これは黄金の種族には体も心も似ていなかった。…そこでクロノスの子ゼウスは怒り、彼らを覆ってしまった。 … さてゼウスは、第三の青銅の種族の人間を造った。これは銀の種族にも及ばないもの。…彼らはおたがい同士の手にかかって滅び、冷たい冥府の陰湿な館へ下った。 … 今や鉄の種族の時代なのだ。昼は労働と悲惨の止むことなく、また夜にも滅亡に脅かされている。…誓いを守る人や正しく善なる人に対して行為が示されず、むしろ悪行を為す者や乱暴者を人々は賞賛するであろう。正義は腕力の中にあり、羞恥心は失われよう。」

「誰だっけ」
 アルフレッドが言うので、答えてやる。
「ヘシオドスだろ。『仕事の日々』」
「あー…、えっと、小惑星8550」
「の、名前の由来の詩人ですね。紀元前八世紀頃」

「この文の黄金時代とは、今から八千年前から六千年前頃のことではないか、と考えた学者がいます。ドイツ人ですが、アメリカのマサチューセッツ工科大学で古典学を教えていたハーラルト・ライヒェという人です。この人がどうしてそう考えたかは後回しにして、今から八千年前という時代のことを考えてみましょう。まだどこにも、金属を使う文明にまで達しているところはありません。けれども、当然人類は誕生し、あちこちで活動しています。日本も縄文時代に入っています。その頃のことが、ギリシャ文明の頃まで口伝えで伝わっていた、と考えるのはそんなに変ではありません」
 さて、暗くしますよ、と菊は言った。またカーテンをしめ、投影機をつける。
 天井に夏の大三角が浮かび上がる、秋の夜空だ。
「ところで、今日生まれた人がいたらその人は乙女座ですね。乙女座の人、いますか?」
 はい、はいと手が上がる。
「一時的に、星座名を表示させますよ。乙女座はどこにありますか?」
 子供たちはしばらくあちこちに首を回して探していたが、やがてざわざわし始めた。
「ええ、ないんです」
 ささやかなブーイングに「恐れ入ります」と頭を下げて、菊は続けた。
「誕生日の星座というのは、その日、太陽の向こうに何の星座があるか、という考え方ですから、太陽が沈んだ後の夜空には出てないんです。だから、夜明け直前にしてみましょう。……ほら、東の空、水平線近くに薄く見えていますね」
 ほんとだ、そういうことなんだ、とまたざわめきが起こる。
「時刻をそのままに、季節を反対にします。春分の日に合わせますね。さて、先ほど乙女座があった場所にあるのは何座でしょう」
 カーテンに映った薄いそれに注目が集まる。形を読み取ろうと多くが目をこらす中、女の子が「はい」と手を挙げた。
「私、三月生まれで魚座です。だから魚座」
「そうです、そういう理屈です。そして乙女座は反対側にあります」
 廊下側の暗幕に、地平線に頭から落ちていく乙女座が映し出されている。魚座から乙女座まで、菊はぐるっとポインティングした。
「このラインを黄道と言います。太陽が回っていくラインでもあります。乙女座が先頭です。次に、天秤座、蠍座、射手座、山羊座、水瓶座。これを今から魚座が追いかけていきます」
 首をぐるんと回して、子供たちはこくこく頷いた。
「今度は時刻を反対にします。今は夜明けですが、日暮れ時に。そうすると、魚座が西に沈みかけていて、それを追いかけるのが牡羊座、そして牡牛座、双子座、蟹座、獅子座、乙女座です」
 女の子の方が反応がいい。天体少年らしい男の子も嬉しそうに頷いている。
「星は、何十億年という寿命をもって輝きます。だから、ずっとそこにあったように見える。けれども、大昔の人……さっき言った黄金時代の人が見ていた夜空は、これとは違うのです」
 え、と声が上がる。
「地球は、太陽に垂直、からはちょっと傾いた線を軸にしてコマのようにくるくる回っていますね。ところが、ずっと綺麗に回転しているのでは無くて、回転しながら、全体がゆらりと傾いでいます」
 ぱっとスクリーンにコマが映される。地面に垂直に回っていたコマが、やがてゆらんとぶれ、大きく体を回すように揺れて、とまる。今度は地軸付きの地球模式図が映され、同じように回転しながらゆらぐ。地軸が形作るその軌跡は小さな環を作る。
「この環、一周に26000年かかります。ということは、四分の一周するのに何年かかりますか?」
「はい! 6500年!」
「そうですね。だから、さっきの黄金時代の人々は、四分の一周、つまり、九十度ずれた空を見ていたはずなんです。つまり、真横が、真上です」
 菊の指につられて、みな上を向く。そこには双子座がある。
「……」
「先生、じゃあ……黄金、銀、青銅、鉄と進んでいくと、春分の日の朝、東に見えるのが双子座から、牡牛座、牡羊座と変わってきて、今、魚座ってことですか」
「そう考えることが可能です。では、黄金の時代の日暮れから夜明けまでを再現してみましょう」
 投影機は東の空に射手座を映し出し、それを天高く昇らせていく。
 あ……というため息にも似た声が漏れた。菊がポインティングによって強調したラインを射手座が進んでいくと、まるで光の粒子を散らすように黄道が照らされていく。天の川だ。新体操のリボンのように煌めきながら弧を描く天の川が空の明るみによって消えていく、その残像がまだ見える東の空に、それを受け継ぐかのように太陽が昇っていく。
「光の、環みたい……」
 菊はこくりと頷いた。
「整然とした空の秩序に感動を覚えていた人が、それを子供に孫に伝えていても不思議はないでしょう。けれども、二千年ちょっとたち、もうその時代の人はみんないなくなった頃、あれ、と気づく人が出たかもしれません。伝説と違う、今見えているのは牡牛座だ、いや今はもう牡牛座でさえない、と」
 不変のものと信じていた空が、いつの間にか変わってしまっている。それは信仰にも似た気持ちで空を見ていた古代人にどれだけの不安を与えただろうか。その気持ちを表情に示し、菊はしばらく天井の黄道を見つめた。
「ギリシャ文明の前に栄えたトロイア文明はだいたい今から4600年前、ミノア文明は4000年前頃です。それらは3400年前頃に滅ぼされました。その頃春分の日の太陽を導いていたのは、和名で言えば『すばる』、プレアデス星団です。ハーラルトさんは、すばるさえ春分点から没落していったことを神話的に表現したのが白銀時代の終わりだと考えています。その頃、現実の歴史も青銅器時代に入り、より硬質な武器を得て人の殺傷能力は増大し、『おたがい同士の手にかかって滅』ぶことも起こったのだと」
 それでは、6500年の変化を早回しで見てみましょう。そう言ってリモコンを操作すると、天の半球はゆっくりと回り始めた。

「……」
 しばらく考えていたアルフレッドが、画面に目を向けたままでぽつりと言った。
「ハーラルト・ライヒェは、その『牡牛座の水没』がアトランティス大陸の伝説を造ったんだと言ってたんじゃなかったっけ」
「……そうです。むしろそれが『古代天文学の言語』の主眼ですね」
「アトランティスといえば、ミノア噴火……」
 アトランティスとは、ポセイドンの子孫を王に擁して大いに栄え、地中海を支配しようとし、神の怒りに触れ一晩で水没したとされる大陸だ。この神話は、サントリーニ島の大噴火を指すのではないか、というのが有力な説である。紀元前1400年頃と推定されるその噴火は、クレタ文明に壊滅的な打撃を与えたと考えられている。
「言えなかったんだね」
「……ええ」
 菊は俯いた。その頭に、アルフレッドはそっと掌を乗せた。いつもなら「子供扱いするな」と拗ねる菊が、されるに任せている。
「……?」
 プラトンの『ティマイオス』を思い返す。

「しかし後に、異常な大地震と大洪水が度重なって起こったとき、苛酷な日がやって来て、その一昼夜の間に、あなた方の国の戦士はすべて、一挙にして大地に呑み込まれ、またアトランティス島も同じようにして、海中に没して姿を消してしまったのであった。そのためにいまもあの外洋は、渡航もできず探検もできないものになってしまっているのだ。」

「……!」
 そうだ、この番組は、著名人が自分の通った小学校に行くのだった。菊のふるさと。そこは。

 プログラムが終わったのだろう、画面の中はまた明るさを取り戻していた。カーテンが開けられる。
 思えば、やけに住宅が近くに見えると思っていた。あのてらてら光る屋根は、校庭に造られた仮設住宅だったのだ。
 宇宙にも(どこにも)「何も無い」と書いた子。なぜそう書いたのか追及しなかった菊。

――明日全てが無くなってしまい、百年後誰も覚えていなかった時、今『ある』という事実さえ無かったことになるのではないか。そういう問いかけです。――現実が儚く思えたとき、また、酷く残酷に思えたとき、こういう疑念が刺さってくることがあります――

「人は百年そこらで死にます。けれども空は変わらない、太陽はずっとそこにある……そう考えて、人々は安心を捕まえてきました。けれども、天文を学べばすぐに分かることですが、太陽もいずれ死に絶えます。変わらないものなどない、という事実を受け止めるには勇気が要ります。それでも、だから知らない方がいい、とは、思わない。私達が発見したヒミコは、ビッグバン理論さえ揺らがすものですが、だから無視しようとは思わないのです」
 だって、と、菊は息を吸った。
「既存の概念を壊してまでして作り上げた世界の像は、きっと、その苦悩の分、美しい。五十億年後に寿命が尽きるとしても、今の太陽の美しさは損なわれないと信じます。そして……地球という小さな星の、小さな町で、しっかりした足場がないところでも生きようとする姿は、それ自体が美しい、と思うのです。だって、今夜見てみてください。あの光の輪が無くても、やはり夜空は素晴らしい。今の日光だって、輝いています」

 肩に置いた手に力を込めると、わずかに振り返って、菊は微笑んだ。ありがとうございます、と目線で語り、また前を向く。

「授業の最初の方で、日の丸の話をしました。あの国旗のように、日本では太陽を赤く塗るのが一般的です。けれども、台湾では青天白日旗と言って、白で太陽を示します。アルゼンチンの国旗では黄色ですね。太陽の色というのも、『私達の当たり前』が『唯一の正解』ではありません」

 前近代の改暦事業の意味を問われて、菊は「黒い太陽を人知の世界に服せしめる」と言った。黒い太陽、即ち日蝕が天禍としか思えなかった時代。そしてその異常をすら明察しうる中国の皇帝が、唯一世界を統べるものと思われた時代。そうした「知」の独占状態を打破し、国家の精神的独立を目指した時代。
 そして今、「人知」は国境を越えて競われながら共有され、正義がその中にあることを目指されている。

「私は、緑色の太陽を見たことがあります」

 それはグリーンフラッシュと呼ばれる現象だ。日没の寸前、太陽が緑色に輝く。空気の屈折により短い波長さえ届く空気の澄んだところでも稀にしか見られない。
 すばる望遠鏡での観測を始める日だった。マウナケアの山頂で、散歩がてら三人ならんで夕日を見ていたら、ふっと太陽が緑色に変じた。
 一瞬息をのんでいるうちに、もうそれは地平線に消えていた。アルフレッドが歓声を上げ、菊も少し興奮した様子で「この土地の伝説では、これを見た人は幸せになれるそうですよ」と言った。
「そりゃ幸先が良いな」
「うん。観測、上手くいきそうだな!」
「おや、珍しいですね。アルフレッドさんが迷信に頼るなんて」
 腰に手を当て、ちちち、と指をふる。
「頼みにするのはいつだって自分たちさ。それでも幸運に恵まれなければ見つけられないことだってある。俺たちが相手にしているのは、絶えず変わっている宇宙なんだからね!」

「常識に安座しない。変わっていく絶望、世界が揺らぐ不安に負けない。……胆力のいる生き方かもしれません。けれども、宇宙を研究する姿勢とはそのようなものです。試行錯誤の中に見つける、」
 とん、と菊はフリップを見せた。
「『きらめき』を、皆さんにも共有して貰えたら、嬉しいです」
 ありがとうございました、と菊は頭を下げた。

「「……」」
 一拍おいて、両側から菊を抱きしめた。頭をぐしゃぐしゃにかき回された菊は、「もう、子供扱いしないでください!」と言いながら、自分も背中に腕を回して俺たちの頭をがりがりかき回した。

2013.1.17 擬人化王国6発行