ドーナツ・ホール(葉月)米・英・普伊仏越


 猛暑が続いたり、一転して冷え込んだりと好き放題やらかした夏もやっと去り、〈小料理屋菊〉のメニューにも湯気がたつものが多くなってきた。日本の夏に慣れたはずの面々も今年は体調を崩しがちで、いわんやアーサーなど夏ばてに夏風邪が重なって大抵カウンターの端でぐったり俯せていた。
「そこまでして来なくてもさー」
 呆れて言うと、死んだ目をあげて「アパートよりここが涼しかったし」などという。
 今日はまだましらしい。寝不足らしい目の隈はあるけど、少なくともカウンターに垂直に上体を保てるらしい。さっきまで生けていたコスモスも実を付けた野薔薇の枝を背負って、空間を華やがせている。
「スープとかヌードルとか出してくれるから冷えすぎもしないし」
 そういえば、暑い日でも毎日温かいものが何かしら用意されていたなと思う。蒸し茄子の茗荷だれとか、根菜の味噌ポトフとか。目を向けると、菊はにこりと笑った。
「アーサーさんに限らず、疲れたご様子の方が多かったですからね。耀さんに教えて貰って、薬膳もどきの料理を色々試してみました」
「……ああ、ヤサイ、多かったね」
 菊は「ヤサイ」の響きにだろう、笑った。
「精進料理じゃ無いんですから、別にベジタリアニズムという訳ではないですよ。むしろ肉類は温熱性食品ですから結構使いました。賄いに肉ものが少なかったのは、ささやかなダイエットサポートです」
「えっ!」
 すまし顔の菊に絶句する。と、アーサーが噴き出した。
「そう言えばお前、去年はもう少したぷっとしてたよな?いつの間にか随分絞ったみたいだが、キープできてんなら感謝しなきゃ」
「そ、そうかもしれないけど」
 ひどい、気がする。その場では何とも思わなかったのだけど。
 にっぱちなんて言葉は辞書に載っていないかのようにお店はいつもフル回転だった。皿洗いだけだった頃に比べれば任される範囲も増えたから、バイトの時はいつも動き回っていた。だから休憩でほかほかのご飯が出てきたら――その上に濃い味のとろみあんで色鮮やかな八宝菜なんかのせてあったら、そりゃもう夢中で頬張って――あ、と回想を一時停止して、手の中にフォーカスして、思う。ほんとだ、肉入ってない。
「ひどいんだぞ……!」
「いやいやいやいや」
 二人して顔の前で手を振る。
「その場で不満がなかった上に健康にもプラスなんだから、文句言うところじゃねーよむしろ逆」
「代用食品を使ったり他で嵩増ししたりして、縁の下で努力したんですよ」
「人間の体も植物と同じ、栄養やり過ぎると駄目になるからな!」
「……」
 水でも多すぎれば根腐れするしな、と続けたアーサーは、ん? とこちらを見た。
「どした、黙って」
「うん。やっぱ、そうだよな」
「なにが」
「えっちゃんが、国語が苦手だったって言ってたんだ」
 ぽかん、という言葉が見えるくらいに、二人はきょとんとした顔をした。仕方が無いので、数日前に話を戻す。

 

 

 台風が過ぎ去るやいなや冷えた夜風が吹いた。その日、昼間は先週と変わらず暑かったから、夜になったからといって気温が落ちるほどではなく、けれどもやっぱり空気は違っていた。
「目にはさやかに見えねども、だねえ」
 しみじみ呟いたフランシスに、ぱち、ぱちと瞬きを返して、えっちゃんは「あー」と曖昧な音を出した。
「学校で習った、気がする」
「ああ、うん、有名な歌だよね。こういう季節についての鋭敏な感覚っていうのは、共感する人間にとってはたまらないね」
 自分はそうだと言いたいのだろう、フランシスは目をつぶって顎を撫でた。
「通ぶってんじゃねーよ」
 横からギルベルトがどつくが、フランシスのドヤ顔は消えない。
 それに構わず、首を捻りながらえっちゃんは聞いた。
「秋が来て風が変わった、って歌……で合ってる?」
「……うんまあ、大まかに言えば。感動の中心消えちゃってるけど……」
「あー」、えっちゃんは頭を抱える。
「昔から、国語は苦手なんだ。特に韻文。それがどうした? と思ってしまう」
 ああ……という空気が漂う。日頃話していても、リリシズムから遠そうな、もとい、論理的思考が勝っている印象はある。
「比喩も、どうしてそれを引き合いに出すのか、しょっちゅう、謎」
「あ、それは分かるよー」
 会話に入ってきたのはフェリシアーノだ。
「俺も、イギリスの詩とか読んでてヴェー? て思うことあるもん。蚤に血を吸われて、恋人の血も吸われて、血が混ざり合った、すなわちエロ! とか、発想が謎過ぎるよ」
「まあそりゃあの国はな……」
 したり顔をするフランシスは、アーサーを国民あるあるネタでからかうのが大好きだ。その日も居合わせていたらつついていたに違いない。
「比喩って、人類普遍の部分もあるけど、結構文化的なところもあるんじゃないかなー。その人が持ってる背景が言わせるっていうか。例えば、俺が『人はキャンバスだ』って言ったら、なんとなく分かるでしょ」
「ああ。それぞれ人生という絵を描いていくってことだな」
 ほっとしたような顔のえっちゃんに、フランシスがによっと笑いかける。
「だったら、俺はパン生地に喩えるね」
 なるほど、という顔でまたえっちゃんは頷いた。
「可塑性があるってことかな。未来は膨らむ、とか」
 ちちち、とフランシスは指を振る。悪い顔だ。
「やわらかくってあったかくって、ずっと揉んでい……」
 その言葉をぶった切るように、ご、と脳天に拳を落として、ギルベルトは「セクハラすんな」と言った。
「ギルベルトは?」
 何も無かったように、フェリシアーノが聞く。
「んん? 人を何に喩えるか、か?」
 しばらく考えて、ギルベルトは、こちらも少し意地の悪そうな笑顔で、言った。
「ロールプレイングゲームの世界、かな」
「んん? ……どういうところが共通するんだ?」
 真剣に眉を寄せたえっちゃんに、ギルベルトは厳かに言った。
「内部が常に外部を抱えている、とこ」

 

 

「へー……」
 アーサーはまずはそう言って、思い出したように「ジョン・ダン馬鹿にすんな」と指を突きつけた。それから腕を組む。
「ロールプレイングゲーム、か……」
「あんまりゲーマーのイメージ無かったから、え? て思った」
「確かに、文脈的に言っても、もっと『らしい』の出してよさそうな場面だな」
 その場は、みんなが「ちゅうにだ」「ちゅうにだね」と納得しておざなりになった。
「確かにああいう騎士とかドラゴンとか呪文とか好きそうな感じもあるけど……どういえばいいんだろ、冒険ものの主役の目線で何時間も画面に向き合ってる姿があんまり想像できないんだ。格闘とかシューティングとかは普通に上手そうだけど」
「確かに、徹夜でコンピューターゲームやってたって言われたら意外に思うかもな」
 菊は口を挟まず、いつものように静かに微笑んで皿を拭いている。
 こんぴゅーたーげーむ。そのアナクロな言い方自体にちょっと引く。
「アーサー、ロールプレイングゲームは分かるのかい?」
「わ、分かるに決まってんだろ! ……やったことはないけど、知識はある」
「ふーん」
 ま、一応と断って、携帯を取り出した。スマホ向けにリメイクされた有名シリーズ旧作を入れてある。菊は最初見た時「画面が縦長……!」と動揺していたが、アルフレッドにとっては、据え置き機・横長画面での発売は生まれる前だ。
 世界地図を表示させ、二人で眺める。
「……小学六年生くらいが描いた世界地図みたいだな」
「ああ、確かに実際の五大陸っぽくはあるよね」
 小学生が描いたよう、というのは、形の歪みのことだろう。確かにフォルムは現実の大陸とは違うけれども、位置や大きさがいかにもそれらしい。
 そこでアーサーはちょっと意地悪く笑った。
「小六っていっても、アメリカの六年生は北アメリカ大陸描いて終わりにしそうだけどな」
 無言で肩をすくめる。さもありなんと思う部分もあるが、実際に見たことでもないのにそうだともそうでないとも言えない。と、菊が柔らかく言葉を挟んだ。
「小学校で教えているお客様によるとですね、日本の小学生でも似たような子は一定数いるそうですよ」
「え? 日本を描いて終わりって?」
「ええ。既に世界地図を使った授業が行われていて、いくつかの国名も知っているけれども、『地図』に落とし込めるレベルでは形を把握できていない。だからとりあえず分かっている日本を真ん中に描いて、後は手が止まってしまう……とか。描いたとしても、周りの大陸の太平洋側の海岸線をなんとなく描いて、でも大西洋側の輪郭は分からないから描かない、とか」
「へえ……」
 だから最近は、中学地理の教科書に簡易世界地図を描いてみようというページがあるんだそうです、と菊は続けた。
「地面と平行に視線を投げることに慣れていると、鳥瞰図は次元を越えるようで戸惑うんだと思いますよ。言ってみれば、神の視座ですから」
「なるほど。確かに日常とは目線の方向性が違うんだな」
 そういえば、と思ってゲーム画面に入る。空飛ぶ絨毯方式で、このゲームでは鳥にのって世界を移動できる。大洋をまたぎ、大陸を越しながら鳥はスワイプに従って飛んでいく。
「……あれ、またオーストラリアもどきがでてきた」
「うん?」
「さっきもあった気がする」
「ああ、一周したのかな」
 そう言うと、一瞬遅れてぽんと手を叩く。
「端と端はつながってるのか。……ちゃんと作ってあるんだな」
 今更何を言う、と、縦横無尽に飛んで見せる。
「……ギルベルト君は」
 言葉を水滴のように零して、ことん、と菊は小鉢を置いた。本日のお薦め、豆乳豆腐・海胆乗せとろみ餡がけだ。馴染みの豆腐屋から豆乳を大量に買ったからと、二日続けて自家製豆腐を出している。作りたての豆腐は塩だけでも美味しいけれども、そこはやはり菊のこと、餡と海胆の黄金色と散らした浅葱が豆腐の優しい白を背景に引き立てあう、目でも味合わせる一品になっている。
「アーサーさんと同じで、知識があるだけだったのではないかと思います」
「ええと……ロールプレイングゲームのこと?」
「はい。そう考えればとても『らしい』お答えですから」

 一瞬、沈黙が落ちた。
「……それは」
「何か、『答え』があるってことかい?」
「ええ。ヒントがついていますからね」
 どういうことだいと聞こうとしたら、アーサーに遮られた。
「待て。少し考えさせろ」
 うーん。拳を顎にあてて考え込んでいる。ま、どうぞと勧められ木匙を手に取ったが、考え事に気を取られているのが丸わかりだ。きちんと見ないまま匙を口に運んで、ん! と眉を上げる。
「うっまあ!」
「アーサー」
 思わずため息が出る。
「料理に謝ろうか」
「ん、いや、悪い菊、これすごい美味いな!」
「ありがとうございます」
 にっこりと菊は微笑んだ。
「豆腐って、つるつるして箸で掴みにくいにくい味噌汁の具、くらいしかイメージなかった」
「つるつる……充填豆腐でしょうか。豆腐はメーカーによってもかなり味が違いますが、専門店のものを食べると認識が変わりますよ」
「この前来たとき出した和え物も豆腐だったんだぞ」
「えっ」
「豆腐干ですけどね。中国などでよく食べられている食材で、堅めに作って水を抜くので、食感も食味も随分違います」
「ささみかなんかの肉入ってると思ってた……」
 菊は小首を傾げた。それは割と味違うような……と思ったけど黙っているのが丸わかりだ。
 改めて匙の中を眺めたあと、アーサーははぐはぐと皿の中のものを口に運ぶのに集中した。とろみ餡は熱めだけど豆腐は常温だから、口の中が火事ということでもないだろう。でも試食したから分かる、あれは言葉に口を使うのがもったいないくらい、美味しい。
 最後の一匙まで食べきって、アーサーはふうと息をついた。その満足げな顔にはもう謎などかけらも残っていない。
「……答、聞いていいかい?」
「えっ。待て、待て待て」
 慌てるアーサーに、菊が笑って次の皿を出す。
「では、おつまみになるものを。葡萄とオリーブのマリネです」
 紫に黄緑、添えられたミントと、対比的な色が鮮やかだ。
「ていうか、お前もこういうの考えるの好きだろ。なんで白旗揚げてんだ」
「俺はもう数日前から考えてて降参なんだぞ」
「諦めんなよ! ……ヒントって、外部がどうとかというやつか?」
「はい。外部と内部があるということは、形があるということでしょう」
「形……さっきの世界地図もどきか?」
「正確に言えば、先ほどの操作ですね。アルフレッド君、もう一度動かしてみてくれますか」
「OK」
 ロックを解除してゲーム画面に戻る。鳥の上から、前後左右に流れていく画面を眺めるが、特に何も思いつくことはない。
「もう一度上から下に動かしてしてください。長めに」
「うん?」
 日本もどきからオーストリアもどきに変わっていった景色は、海を越えてまた変わる。現実世界で言えばシベリアあたりだ。
「現実世界では、経線に沿って移動した時、そうはならないでしょう?」
「え」
 模式図の地球を思い浮かべて、その周りに飛行機を飛ばさせてみる。
「あ。……言われてみれば。オーストラリアから南に行ったら、南極大陸を通過して、大西洋に出るね」
「世界地図の左右の両端は、普通同じ経線を表しますが、上下の端は両極点をそれぞれ表していますからね」
「え、てことは……ゲームの方は、南極まで行ったら北極にワープしてるってことかい?」
「いえ。今はたまたま地図の真ん中を南下しましたが、アフリカもどきから南下すればヨーロッパの真上に出るでしょう。地図は平面に繋がっているように見えますから、両端をテープで貼り合わせたようにくっついていると考えられます」
 菊は、雲呑の皮を一枚取り出し、上下を水であわせて筒を作って見せた。
「なるほど! ……いや待て、だとすると、左右の両端はどうなるんだ?」
「こちらも両端同士繋がっている、だとしたら、こう」
 そういって、今度は円筒の端と端を持ってぐっとたわませる。
「ドーナツ型か……!」
「ええ。ヒントにも合致します」
「あ! 『内部が常に外部を抱えている』……!」
 ドーナツの中には穴がある。それは外と繋がっている。それはドーナツと認識される空間の中にありながら、ドーナツではない。覗けば奥が見えるし、指を通して動かせる。
「ドーナツ型のことを幾何学で平坦トーラスというのですが、その説明としてロールプレイングゲーム世界地図が有名なのではないかと思いますよ。日本では、そう説明されればゲームの経験を思い返してなるほどと思える人がたくさんいますからね」
「ああ、それで聞き知ってたってことか」
「ええ。ギルベルト君が来日して以降なら、マシンの処理能力が上がっていますから、球形世界と思われるものも数多くあります。それを知っていれば無条件に『ロールプレイングゲームの地図』とは仰らないと思います」
 なるほど、と納得しかけたアーサーに「待ってくれよ」と声を掛ける。
「話の大元は、人の比喩だよ。今の話が人間と共通しないと意味ないんだよ」
 釘を刺したつもりだったのに、菊は嬉しそうに頷いた。
「はい、そこが、ギルベルト君の『らしさ』です。ギルベルト君は、トポロジー専攻でしょう」
「へ? そう……だったっけ」
 数学科だとは聞いたことがあったけれども、だからそれ以上は聞かなかった。今言われてもそれが数学のどの辺りか分からない。
 アーサーはそうではないらしい。ぱち、ぱちと瞬きをして、「……ああ」と掠れた声を出した。
「なるほど、人……というか、人体と、同じだな」
「ええ」

 菊は微笑んで、奥に引っ込んだ。Q.E.Dということらしい。え、ちょっと! と思ったところでテーブル席から声が掛かり、まだ宙を見ているアーサーを置き去りに、数分仕事に追われることになってしまった。
 やっと完遂と思ったら、アーサーにもビールを要求された。「常温の、エールな」。相変わらず妙な注文だ。滅多にないアーサーのリクエストに応えるために、ちゃんと用意はしてあるけれども。
 それをゆっくり飲みながら、アーサーは説明を始めた。
「それこそ喩えると、トポロジーでの図形の把握ってのは、陶器を陶土状態で考えると分かりやすい。おおまかな作り方が同じなら同じって見なすんだ。皿と碗は同じ、椀と壺も同じ」
 大丈夫か、ついてこれるかと目線を向けられる。
「ん、んん……確かにろくろで考えれば、ちょこっと力を加えて伸ばしただけ、と思えなくはないかな」
「うん。じゃあなんだったら違うと考えるかというと、穴だ。穴の数は決定的な違いとする。だから、皿と碗は同じだけど、椀と漏斗は同じじゃない」
「ああ、漏斗は穴が一つ開いているから」
「そう。コーヒーカップはどっち側になるかというと?」
「え……カップ部分は椀と同じで……あ、でも、取っ手部分に穴が一つあるから漏斗と同じ?」
 アーサーは拍手を贈る真似をした。
「正解。これが所謂、『コーヒーカップとドーナツは同じ』の話だ。で……」
 で。話の出所は、人とドーナツ型だ。ドーナツ……トポロジーでは、フラフープとドーナツは同じ、ストローも同じ……。
「ああ! 人間の体も食道から内臓まで一本の管に見なせるから、同じになるのか」
「鼻とか耳とかも穴だけど、目をつぶって考えるってことだろうな」
 上手いこといったつもりらしい。鼻で笑ってやる。
 奥でぱちぱち音をさせていた菊がバット片手に戻ってきて、そこからよそった角皿をアーサーの前に置いた。
「雲呑包み揚げ三種です。左から、茹で枝豆、ハムとチーズ、カレー風味ポテトサラダが入っています。」
 それぞれ二本ずつの棒が、中をうっすら透かして綺麗に並んでいる。
「お、これ、俺大好き」
「俺も!」
 勢い込んだが、揚げ物のいい匂いにつられたお客さんが「本田さん、それください」「私も」と次々手を挙げ、てきぱき配っている間に無くなってしまった。しょんぼりしていると、菊が慰めるように言った。
「フィリングは少しずつありますから、後でベーグルサンドにしてあげますね」
「うん、ありがとう……」
 確かに中身も美味しいけど、この料理のポイントは外側にある気がする。ぱりぱりの皮、香ばしい匂い……はたと気づく。
「菊、まさか、揚げ物を俺に食べさせないために量を計算して作ったなんてことないよね?」
菊はわざとらしく横を向く。
「ひ、ひどいんだぞ!」
「いや、管理栄養士に感謝しろよ、そこは」
 そう言いながら、アーサーは一本つまんでさくさく食べる。文字通り「おつまみ」に向いた料理とはいえ、行儀作法にうるさいアーサーが手づかみで食べるなんて、見せつける意図があからさまだ。それにしても菊は、アーサーが珍しくビールを飲み出すことまで予想できたのだろうか。実に美味そうに食べ、美味そうに飲んでいる。
 渡したお絞りで手を拭いて、アーサーは改めて思い至ったというように呟いた。
「……トポロジーで考えれば、体の中はドーナツの穴と同じ、外部なんだな」
 菊は、はいと微笑んだ。
「胃の中は、世界と繋がっているのですね」

 

 

 新学期は始まっているけれども、翌日の午後は講義が無かった。
 今日はバイトもない。菊の知り合いがピアノリサイタルを開くそうで、臨時休業となったのだ。臨時と言ってもかなり前から店にチラシを置いて、常連には渡しながら休業の案内をしていたから、店の前で途方に暮れる訪問客もないだろう。何人かはじゃあこれに行こうかななどと言っていたが、生憎クラシックには興味が無い。
 逆に、と考える。逆にあの街には、今日は知り合いが少ないだろう。菊だって住む家は別だから会わないに違いない。
 広尾の駅から坂を上がり、都立図書館に直行する。急勾配に足を一歩一歩動かしながら、やらなければいけないこと、考えなければいけないことを噛みしめる。
 日本の大学のいいところは幾つも挙げられるし、何より楽しいけど、ぬるい。配られる参考文献リストは日本語ばかりで、最先端の研究動向を知るには心許ない。勿論大学によっても分野によっても違うのだろうけれども、少なくとも今行っている大学で受けられるレベルについては天井が見えてしまった。
 進学の際に大学を変えてもいい。けれども、だったらいっそ――そこまで考えて、いつも止まってしまう。
 けど、止まっている場合じゃない。同じ場所にいて、着実に「自分の道」を進んでいる人が、周りにはたくさんいる。ギルベルトだけのことじゃない、アーサーだって、もちろん菊だって。場所は言い訳にならない。そこで自分が何をするかだ。
 それは分かっているけれども、そして自分の専攻がたまたまそうなのだろうけれども、こうして欧米の学会誌を読んでいると、日本の中にいては吸収できないものがたくさんあるのが分かる。
 いくつか文献複写依頼をして、できあがりを待ちながら備え付けのパソコンであちこちのサイトを見て回っていたが、思った以上に早く済ませてくれたので、退館したときもまだ日は高いままだった。
 眩しい照り返しに目を細めつつ、公園内をゆっくりと歩く。まだ木々が色づくには早い。けれども風の感じ、空気の感じは確かに秋だなと思う。都内でも屈指の緑地だから、園内を歩くだけでも落ち着く気がする。最初はヘッドホンをかけて音楽を聴いていたが、じきに勿体なくなって、止めた。あの和歌じゃないけれども、目だけではなく、耳や肌でも季節を受け止めたい。
 もう学校が終わったのだろう、幼い子供たちが広場で遊んでいる。土地柄だろう、肌や髪の色が違う子も多い。
 育ったのはもっと都心よりの街で、それでもブロックに一人くらい外国人の子どもがいても不思議がられない程度だった。えっちゃんに「お前はどこにいてもお前だろう」と言われたことがあるけど、そもそも街や高校の方に受け容れる素地があったのだろう。どこにいる自分が一番自分らしいか、なんて――
「考えたこと無かったな……」
「まあ!」
 麦わら帽子を被って木の根元にしゃがみ込んでいた人が声に驚いたように振り返った。菊だった。
「びっくりしたな! ……園内掃除の人かと思ってた」
 Tシャツにカーゴパンツのようなものを着ている。大掃除の時くらいしかこんなラフな格好は見ない。菊はぱんぱんと服をはたいて立ち上がり、地面に置いていた籠を持ち上げた。
「飾りに使えそうな葉が無いかなと探しに来たんですが、やっぱりまだ紅葉には早かったです」
 それでも数枚拾えたらしい葉を揃えて、菊は続けた。
「私もびっくりですよ、今日はこちらに来ないと思っていたので」
「君こそ」
 ん? と瞬きをして、ああそうかという顔になる。
「家から直行しても良かったのですけど、アーサーさんとこの花屋さんで花束を作って貰っているので、ついでにこっちで日頃やれない雑用でもこなそうかと。冷蔵庫も整頓したかったですし」
 ちゃんと着替えは持ってきていますよ、と慌てて指を立てる。だれもその格好でコンサートに行くなんて思ってない。
「……ああ、そうだ。アル、お腹すいていませんか」
「ん? すいてはいないけど入るよ。何?」
「ひどいひどいと言われたので、お詫びにドーナツでもご馳走しようかと」

 

 

「……確かにドーナツだけどさ」
 カウンターは、座ると料理人の手元が見えないように作ってある。けれども立っていれば見える。成形したのは確かに「平坦トーラス」、所謂ドーナツ型だ。
 けれども、取り出されたのはノンフライヤーだ。
「かなりよくできている機械だとは思うのですが、お店で出すにはやっぱり風味が落ちるところもあって、あまり使えずにいたのです。活躍の場ができてよかった」
 下揚げなどには使ってるのですけどと満足そうに菊は言った。
「ドーナツって、揚げている時のぱちぱちみちみちって音も、美味しさの一部だと思わないかい?」
 酷いよと口を尖らせる。
「しかも、豆腐入れてたよね?」
「健康的でしょう?」
 にっこり笑った菊だが、じっと見ていると、目力に負けたように告白した。
「お豆腐、結構余ったんですよね……」
 つまり、お詫びだと言いながら、残飯処理兼試食会に招かれたわけだ。全く、いいように使ってくれる。
 ため息をつきながらはぐりとかぶりついた。
「……うま」
 思わず漏れた言葉に、菊がわーいと手を挙げる。
「アメリカ舌に勝利です!」
「なんだい、それ」
 苦笑してしまう。
「想像した食感と違った。外はかりっとしてるけど、中はもちもちしてる。ベーグル……ともちょっと違うけど」
「白玉粉とベーキングパウダーを使っているんです。普通のふわふわした食べ心地がお好きならホットケーキミックスで十分ですけど、軽すぎてまた怒られそうだったので」
 私も一つ、と菊はドーナツを手に取った。
「……食は国境を越えると言いますけど、案外口は保守的で、特に食感については育った文化で好みが大きく分かれます。日本人は『ふわとろ』や『もちもち』が好きですけど、あまり好まない国もあります」
「そうかな? 俺はどっちも好きなんだぞ」
 菊はにこりと笑って、一口かじる。
「それもあり、に舌がなってるんだと思いますよ。餌付けして長いですからね」
 餌付けかあ。言い得て妙な言葉にまた苦笑する。
 幼い頃作って貰った焼きめしから、今日のドーナツまで、どれだけの食べ物が体の中を通っていっただろう。口が保守的だというなら、その口は既に菊の料理にカスタマイズされている。きっと、それが入ってこなくなったら、渇いてしまう。

「……さっき聞いてた歌の中に、ドーナツの穴って歌詞があってさ」
「はい?」
 新しい一個を手に取り、その穴から透かして菊を見る。菊はきょとんとした顔をしていた。
「穴を穴だけ切り取れないって」
「……」
「それと同じで、離れてしまったら、その胸の喪失感だけが、存在証明なんだって」
 はて、というように菊は拳を顎に当てた。
「何かあったんですか?」
 どうしようかな、一拍悩んで、けれども、言った。
「大学院は、アメリカに行こうかと思って」
「え」
「今日も資料とか大学案内とかコピーしてきたんだ」
「そうだったんですか」
 帰国は、進学を考えた時から選択肢にはあった。少しずつ現実味を帯びて考え出してもいた。親に話せば一も二も無く賛成するだろう。阻害要因はあまりなく、けれども、――けれども、この場を離れがたい。
「もっと勉強したくなりましたか」
「うん」
「じゃあ、応援するしかないですね。寂しくなりますけど」
「うん……」

「行ってらっしゃい」

「う、ん……?」

 あれ、と顔を上げると、菊は瞬きした。
「え……アメリカに『行く』と言ったから」
 から、行ってらっしゃい。そして、帰ってらっしゃい。
 すとん、と肩がおちた。そういう発想はなかった。けれども、そうであっても構わないのだ。全然、構わない。
「うん」
 ふわっと、頬が柔らかくあがるのが分かった。
「うん、MBAとって帰ってくる」
「体には気をつけて。特に食べ物には」
「肥満に、って言えば」
「いやいやいや」
 笑って、ああそうだ、と菊は言った。
「先ほどの歌、ネットのコピペがもとだと思いますよ」
「ん?」
「ドーナツを穴だけ残して食べる方法、というネタがあるんです」
「え。……だって、不可能だろ?」
「どうでしょう。定義によるんじゃないですか?」
「いや、無理だよ」
 穴は、外縁があるからこそ穴だ。マグカップだって、取っ手がとれたらもう漏斗と同じ形じゃない。
「例えば、こう定義するんです。穴の真ん中で親指と人差し指を付けるようにしてドーナツを持って下さい」
「こうかい?」
「ええ。こうして『指を通している』ことを『穴』の定義だとします」
 かなり作為的な定義だと思うけれども、穴だから通せるのだから、間違いでは無い……かもしれない。
「OK」
「ところで話は変わりますが」
 菊はカウンターの上に、笹の葉を一枚置き、その横に野薔薇の実を置いた。
「野薔薇君は、笹の葉を飛び越せますか」
「え? そりゃ……こうすれば」
 つまんで、ひょいと越してやると菊はにこりと笑った。
「じゃあ、これを図象化して、野薔薇を点、笹の葉を線で紙に書いたとします。飛び越せますか」
「紙に書いてあるなら、つまめないよ」
「ええ。つまり、私が最初に示した構図は三次元だったのに、紙に書いたと言われた瞬間二次元のものと認識されました。そうでしょう」
「ああ……そういうことか」
「そして、二次元ではできない飛躍が、三次元ではできます。越せないと思われる壁も越えられるんです」
 だから、そう言って菊はいきなり手に口を寄せ、ドーナツの一片を噛みちぎって残りを引き抜いた。
「四次元世界なら、通している指を飛び越してドーナツはこちらに飛んで来られます」
 そう言い切って、菊は満足げに残りも全部胃に収めた。
「……」

 いやいやいや。今いるのは三次元なのだから、ドーナツは飛べていない。強引に奪われただけだ。
 けれども、うっすらドヤ顔の菊を見ているうちにおかしくなってきて、こらえられず噴き出した。
 考えてみれば、正反合の弁証法も、二次元から三次元への飛躍のようなものだ。こっちかあっちか、行くか行かないか、隣にいるかいないかは、どちらかだけでなくてもいい。どうせ体の中は世界に繋がっているのだから。
「……太平洋だって飛行機で飛んでいくんですから、アメリカなんて隣ですよ」
 考えていることを見通したように菊が言う。
「そうだね」

 大人になるというのは、それまでとは違う地図がかけるようになることなのかもしれない。自分を空から見下ろし、その形を知る。他者との距離も、繋がりも知る。

 ぶん、と携帯のアラームらしき震動音が聞こえ、時計を見るともう夕方だった。
「菊、そろそろ準備しなくていいの」
「あ!」
「奥で着替えてきなよ。洗い物しとく。ドーナツは貰っていいんだろ?」
「はい、ありがとうございます」
 ぱたぱた、と菊は奥のスペースに駆け込んでいった。布巾の洗濯まで終わった頃に出てきた菊は落ち着いた色のスーツ姿で、いつもとは随分見た目が違う。アーサーも、そのピアニストとやらもびっくりするだろう。
「どうせなら髪あげれば?」
「……やりかけたんですが、残念なくらい似合わなくて」
 どれどれと前髪をたくしあげると、確かに、スーツでも若干存在する「着慣れていない感」が倍増して、七五三のようで噴き出してしまった。
「こ、この…っ!」
 ぽこぽこ、と殴ってくる菊から逃げるように、店を出る。菊が施錠して、そこで別れる。俺は駅に、菊は花屋に。では、と歩き始めた菊に、そっと声を掛ける。
「行ってらっしゃい」
 少し目を見張った菊は、ふわりとそれを細くした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

――お帰りなさい。

 

 

 

 

 


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