気温が乱高下しながら夏に向かっていく、その「高」の日だった。店構えといい客層といい「しっとり」という言葉が似合う店だというのに、その日の客はほとんど「とりあえずビール」だったのは、エアコンが突然壊れ、修理が間に合わなかったからだ。持ち込まれたサーキュレーターで店内の空気はほどよく攪拌されていたし、もともと空調弱めの店だから不満は出ない。けれどもその分というべきか、冷えたビールはよく出た。
ビールサーバーを扱うのは主に俺で、黄金比7:3を数分増減させながらサーブしていたが許容された。国籍は関係ない、とにかく今の時期日本列島の上に生きる者ならすべからく、ビールに求めるのは爽快感だ。
一応温かいものも作れるよう食材は準備していたらしいけど、実際に菊がおすすめして出したのは冷菜ばかりだった。グリーン野菜を塩昆布でしならせた、サラダとお浸しの中間のようなもの。キャベツと豚肉をロールキャベツ上に巻いて蒸し、ごまダレを掛けたもの。それから「スムッシー」の更に応用です、と炙ったバゲットにカルパッチョやツナペーストをのせたもの…。
冷やしたおしぼりとサービス兼お詫びの小鉢を差し出しながら頭を下げる菊にいいよいいよと手を振りながら「とりあえずビール」、が幾度となく繰り返され、この店ではちょっとないくらいにみんなが酔いのレベルをあげていた。
多分始まりは、カルパッチョと刺身はどっちが美味いかとかそんな話だったのだと思う。味の話題なんだから身をひけば良いのに、ローストビーフがどうのこうのとアーサーが蘊蓄を語り出し、いつか店中で「一番美味しいものは何か」の審議会となった。
ギルベルトがヴルストに決まってると断言し、ヨンスがユッケの方が美味いっすと手を振り回し(ここで菊がなまにく…と寂しそうに呟いた)、フェリシアーノがどっちが入っていたって良いからパスタだよヴェー!と言った。
後はもう好き勝手、喧噪の世界。おっさんメンツが世界三大料理合戦を始めたところで、誰かが俺に振った。
「アルフレッドは?」
「ん?『世界で一番美味しいもの』?」
「そうそう。やっぱりハンバーガー?」
その言葉に揶揄を感じてかちんときた、わけではない。声が呆れた調子だったのは、心底意外だったからだ。
「何言ってんだい。『菊の料理』に決まってるじゃないか」
一瞬、皆が黙り、次の瞬間全員から突っ込まれた。おま、それはずるい!
アメリカ人に向かってnot fairとは、言うにことかいて。頬を膨らませて菊を見ると、ふんわりと微笑まれた。
「……刷り込みって偉大ですね」
そういうことじゃないよ、と思ったけど、そういうことにした方が丸く収まるのはわかる。肩をひょいとすくめると、仕切り直しとでもいうように、今度は菊に話題が振られた。
「そうですねえ」
菊はちょっと小首を傾げて目を細め、すっと手を伸ばした。
「あれですかね」
「?」
全員が指の先、入り口の方を振り返る。けれども当然ながらそこに料理は無い。あるのはいつもの花瓶とレジテーブル。
「二次元が美味しい……とか?」
アーサーが訳の分からないことを呟いたが誰も突っ込めない。と、菊が「それですよ、テーブルの上に」と言った。
いつものように綺麗に掃除されたテーブルの上には、レジと、小銭受けのトレイと、名刺の束と、飾りの……
「鉱石――だよね?」
にこり、と微笑って、菊は頷いた。
「ええ、塩の。ザルツブルグ岩塩です」
「えっ、そうなんですか?」
いち早く近づいた女性客――エリザと呼ばれていた――がしげしげと顔を寄せる。
「でもなんで塩なんだ?あれを舐めてうまいと思う訳でもないんだろ?」
「あんたの国は慢性的にシオタランでしょうが」
エリザはざっぱりとアーサーに返した。自国の言葉で「塩味が薄い」という意味なのだという。フランシスがぷすりと笑い、「分かる分かる」と言った。
「フランス料理でも味の決め手は塩だもんな。塩がない料理なんて、まさに味気ないものさ」
「――回答としては剽窃ですけどね」
首をすくめた菊に、
「ほのかにピンク色で、こんなに大きくて――塩だなんて、それもオーストリアのだなんて」
感心したように戻ってきながら、彼女は「でも、なんでこんなところに?」と首を傾げた。
「盛り塩の代わりです。土地柄、あまりに和風なのもどうかと思いまして」
それこそ土地柄で、客のほとんどが盛り塩を理解できずまた首を傾げた。
「小料理屋の慣習ですよ。お客様がたくさん来て下さるようにという、いわばおまじないです」と菊が説明する。と、「あ!」とえっちゃんが叫んだ。
「スケベですね!」
客の大半は男だったから、みなぎょっとしてえっちゃんを見た。
「え、いえ、皆さんがというわけではなく……ベトナム語で山羊といえばスケベって意味なんです」
いやいや。説明になってないから。突っ込まれて、えっちゃんは頭を掻いた。
「王さんとかの方が詳しいと思うんだが……昔中国の皇帝で、たくさんの側室を持った人がいたっていう話……晋だったか秦だったか」
「どっちでもいいけど」
「たくさんいすぎて、順番がなかなか回ってこないので、ある側室が策を講じる。皇帝が載ってくる山羊が自分の部屋の前で足を止めるよう塩を持っておいた、という……」
「ああ、確かにその故事が由来ではないかとする説があります」
菊はにこりと笑った。
「とすると、スケベなのは私なんですかね。皆様に来て戴きたいという下心があるという意味で」
「どうでしょう、本田さんのお料理に引き寄せられるという意味では私の方かも。惹かれるという字にも下心がありますから」
国語は苦手だったと言っていたえっちゃんは、そう言ってぱちりと俺に向けてウィンクした。
なかなかの賑わいだったせいで、賄いは閉店後ということになった。用意していた料理が全てはけてしまったという菊に、ご飯炊いてと頼むと流石に微妙な顔をされた。
「もう零時回りますよ」
「だって、食べてないんだぞ」
「……」
数秒、おなか辺りに目線をやって、仕方なさそうに菊は圧力釜を用意した。
「当然覚えてらっしゃると思いますが」
「なんだい」
「明日は、おごちそう用意しますよ?」
「うん」
ありがとう。そう言うと、明日一日でどれだけ食べる気かと言うように首を振った。
「あ」
時計に目をやって。
「――お誕生日おめでとうございます」
「ありがとう」
「さっきも言いましたけど」
「うん」
「明晩――というか今晩と言うか、アーサーさんたちが祝って下さることになってるでしょう」
「うん」
スコーンを作ってやる、とアーサーが言いかけ、菊を見て、いや……と口を濁した。菊がなぜか笑って、私がご用意しましょう、と胸を叩き、アーサーが紅茶を、フランシスがケーキを持ってきてくれることになっている。料理は菊でお代は俺。欧米式に、誕生日を迎える者が招くタイプのお誕生会だ。
「……結構前から、あれこれお料理考えて、食材も準備してるんですよ……?」
「うん」
「それなのに、お誕生日最初に振る舞うのがただの白飯だなんて……!」
料理人の自負心を刺激したらしい。
分かってないなあ、菊。
明日の料理は、もちろん俺のために作ってくれるんだろう。でも、俺だけのためじゃない。俺だけが食べるわけじゃない。
世界で一番美味しい料理。それはお世辞なんかじゃない。
「それはずるい」ってことは、みんなもそう思ってる。独占したいと思ってもいる。でもそれは叶わない。
凝った料理は、商売用だから。
ただの白いご飯でいいから、君が俺だけのために作ったものを食べたい。
「ああもう、鮭のほぐし身も何もなくて…!」
嘆く菊に、譲歩するふりで強請る。
「塩むすびでいいよ」
「ええー…」
君が世界一美味しいと思うお米と塩を、君の手で。
それが何よりのバースデイプレゼント。