「既視感って、いつの間にマイナス評価の言葉になったんだろ」
アルフレッドの言葉に首を傾げながら、前に座る。深夜のファミレス、もう「菊」も閉まっているだろう時間だ。つまりバイトあけなのだろうが、だからこそここにいるのは意外で、案内されるまま席に向かう途中で「おまっ」と指をさして固まっていたら「座りなよ」と袖を引かれた。
「何の話だ?」
「いや。昔はフラットに『デジャ・ブ』の訳語だったのが、サブカルで使う『どっかで見たよねコレ』的な評語になったよねーって――君には縁の無い世界だったね」
「野暮で悪かったな」
「そうは言ってないけど」
ずず。アルフレッドが啜ろうとしているのは、シェークにも見えるが、多分このファミレスのドリンクバーのウリのソフトクリームだ。もう一つこのチェーン店のいいところは、「勉強目的禁止」の張り紙がないこと。もっとも、学生街からは離れているためかそんな不埒な学生は、このテーブル以外にはいないようだ。電子辞書型ネット端末をテーブルに置くと、「あー」とアルフレッドは鼻にかかった声を出した。
「君もかい、アーサー」
「おう」
日本の大学生が自分探しだかで旅に出たり郷里で友情を確かめたりしている今こそ、大学の教育資源を活用したい。情報センターや図書館も頻繁に行って、語学教材を借りてきたりもしている。が、いかんせんアパートが暑い。今日のような熱帯夜は、まるでオーブンの中にいるような気になってしまう。体力温存・気力回復と呪文のように唱えて寝ようと努力したが、輾転反側の後諦め、本を持って部屋を出た。湿度はあるものの外気温は室温より低く、思わず息をつく。すっと苛つきが滑り落ちて、その気分のまま自転車を走らせてやってきたら――先客がいたというわけだ。
アルフレッドの方は、専攻の参考書だろうものを脇において、休憩タイムのペーパーバックらしい。時々ずずと音を立てつつ、ぱらりぱらりとめくっていく。
紅茶は後で飲もうと、ひとまず炭酸飲料をとってきて、しばし読解に取り組む。有名な華道家の著作で、ちょいちょい古典を引用してくるものだから、関連知識を拾うためにネット検索も必要になる。やっぱりiPadいいな買おうかな、などとぼんやり考えていたら、「ね」と声を掛けられた。
「あ?」
顔を上げると、声を掛けてきたくせに、アルフレッドは横を向いている。何かあるのかとそちらを見たが、そういうことでもないらしい。相変わらず自由な奴だ。そういえば「自由」というのも随分語用論的に変化したと本田が言っていたなあと思い出し、その時食べたものとかその日生けた花とかそれが本田の和服に似合っていたなあ渋いのもいいけど女物かという艶やかなやつもいけるんだよなあとか考えていたら「なんだい君、気持ち悪いな!」などと顰めた顔で言う。このやろう。
「日本人の恋人ができたとして、君なら何を贈る?」
「へ?」
一瞬、脳裏に浮かんだ顔を、いやいやと打ち消す。高嶺の花ってやつだ。制御できず表情に出ただろう何かを、アルフレッドはじっと見ていた。
「彼女でもできたのか?」
そんなわけはない、と思う。見ていれば分かる。それでも、そういう方向性の話だと仮定する方が話しやすい。わざと、によっと顔を崩す。
「なんだよ、初心でどうしたら分からないっていうんならオニイサンが相談にのってやるぜ」
アルフレッドは心底嫌そうな顔をした。
「フランシスならともかく、さあ」
「なんであいつならともかくなんだよ!」
「いや、恋愛ごとに慣れてそうだから」
「あ、そっち……って、だったら余計に、お前は俺をどう思ってんだばかぁ!」
「漫才はいいからさ」
自由すぎる。何を言っても許される、許された経験のある弟属性ってやつだろう。仕方なく当初の問いに答える。
「まあ、無難に薔薇じゃね?」
「うーん」
聞いておきながら、倒れ込んでソファに背を預ける。
「なんだよ」
「それが無難って思うくらいに、君は日本ナイズされてなくて、俺は『君ってそうなんだな』って考えるくらいにはされてんだ」
回り回った言い方だが、要するに、それは日本では難ありだと言いたいらしい。
「でも、周りの女子とかも、花束貰ったら嬉しいって言ってるぞ?」
ゼミの後の雑談、『俺なら野菜を貰った方が嬉しい』と言った学生には『これだからダンシは』とみんなやれやれ顔だった。呆れる前に『野菜>花』の理由が分からず、『なんで?綺麗なもん貰ったら嬉しいし、飾ればずっといい気分になれるし』と言ったら女子たちは『だ・よ・ねー!』と手を握りしめんばかりに詰め寄ってきた。
「でもそれ、君はダンシとしては少数派ってことだろ」
確かに、だからこその女子の反応だったのだろう。仕方なく頷く。
「花屋やってる男は多いのに、花やってるって男がいうと驚かれるんだよなー」
「なんていうか、社会学や比較文化学とまでいかないそういう感性の違いって、多分中にいたら気づかないし、外にいたら獲得できないんだろうなー」
ぱたぱた、とペーパーバックを振って。
「アメリカでの流行は追いかけるようにしてるけどさ。時々つっまんないのもあって、これは俺が日本育ちだからかな?と思う」
「つまんねえのに読むのか」
「『アメリカ人のくせに読んでないのか』って言われたくないからね――もし、帰国した時に」
「……帰国、すんのか」
びっくりした。なんとなく、ずっとこいつは日本に、あの店にいるんだろうと思っていた。そんな筈は無い。普通バイトなんて大学生の間しかできない。
「いや、可能性を残してるだけ。親は当然のようにそれを期待しているけど、俺は日本での就職をメインで考えてる」
知っている、それは、あまり簡単なことではない。
「こちらに収集意欲さえあれば情報にはそれなりに追いつける。けど、感覚はね……。一人暮らししてると、たとえば復活祭なんかは完全に日常から消える」
「ああ、日本じゃ全然やんないもんな。本田が、行事にセットになる食べ物がないと……って笑ってたっけ」
「ゆで卵じゃーね。チョコレートはバレンタインだし、ウサギはお月見だし。感覚って、存外カスタマイズされちゃうから、向こう行ったら行ったで戸惑うことあるだろうなー」
アルフレッドは大きくため息をついた。
「菊が教えてくれた漫画にあったけどさ――『自由意志は、自由石だね』」
「――」
「どうしたっていいんだけど、それを選ぶことの重さを考えちゃうよ。まして……」
ずずず。もうストローが見えるほど中身のなくなったコップを両手で持って、アルフレッドは続けた。
「菊がさー、なんか熱心に検索してると思ったら、ストッキングを見ててね」
「えっ」
「それも、お高めの、それこそプレゼントにできるようなやつで――」
「ほ、本田が履くのか!?」
「――――」
両手を、すとん、とテーブルに落として、アルフレッドはしばらく瞬きをし、やがて口を開けた。
「……君は、ほんっっとうに、馬鹿だな!」
「なんだとっ」
「馬鹿すぎて――ちょっと気が抜けた」
「いやだって、あいつ女物の着物とか着るじゃねーかってこら、聞けっ」
コーヒーとってくる、と立ち上がったアルフレッドは軽い笑みを浮かべていた。
あいつはその辺に無頓着だから気づいていないだろうけれども、着物といい帯といい、女性ものに多い襲の色目を本田はよくやっている。出入り業者は分かっていてすすめていて、本田も分かって着ているのだろう、そう、原義的な意味で、確信犯的に。それこそ今読んでいる本にも出てくる、そういう性的越境はいわば日本の伝統芸なのだ。
戻ってきたアルフレッドは、テーブルの甘味料に手を伸ばしかけて、やめた。そのまますする。
「誰か、そういうプレゼントをあげるような女性でもいるのかと思ったんだ」
「ああ、そういう話か!」
「俺が見てるのに気づいて、慌ててごまかしてたしね。どれくらいの値段なのか調べてるうちに深入りした、とか」
そういえば「プレゼント」が文脈だった。「自由」じゃない。
「でも、日本では下着の類いをプレゼントするのって、いまいち一般的じゃないからね。推論の根拠にする価値があるかどうか迷っていたんだ」
「え、恋人同士でもか?」
「多分ね。貰う側も戸惑うみたいだし、あげる方は売り場に行きたがらない感じ」
「へー」
うろうろとさせた手を、結局テーブルの端に伸ばし、ミルクもどきをコーヒーに入れている。
「諸行無常っていうけど、そうやって色んなことが変わっていった時、変わらないでいるために日本に残ったら、俺は何を思うのかなって考えてたんだ」
「うーん……とりあえず、キャラ違ぇなとは思う」
「なんだい。君までそんなこと言うのかい」
ぶう、と思いっきり頬を膨らませて。
「俺だって、色々、…!」
「いや、違うって!!」
あわてて手を振った。
「本田が、誰かにプレゼントってなったとき、下着ってのはすごい合わねえ気がする」
「ああ――そっちか」
「ぶっちゃけ、自分で履くって言われた方が納得できる――」
力強く言い切ろうとしたが、どん引いた目を前にして、言葉が尻すぼみになる。
「とにかく!本田が誰かにプレゼントしようと思ったら」
「うん?」
「料理作ってやるんじゃね?」
「ああ――」
こく、とアルフレッドは頷いた。子供のような動きだった。やっぱり弟っぽい。ちょっと郷愁にかられ、いやいやと打ち消す。
「それでいうとさ、お前なんか、この世で一番プレゼント貰ってんじゃん」
「――アーサー」
「石くらい軽々と持ち上げろよ、それこそキャラ的に」
しばらく口をつぐんで、やがてアルフレッドはゆっくり親指をたてた拳を突き出した。軽く拳をあててやると、にっと笑った。
数日後、また採れたゴーヤを手に「菊」に行くと、珍しくルートヴィッヒが先に来て飲んでいた。「早いな」と言うと、ちょっと首をすくめて、「ま、時にはらしくないことをするのもいいだろう」などと言う。その口調は随分軽く、できあがってるのが見て取れる。そういえば、こいつもなかなか弟属性だ。しっかりしてはいるけれども、ふとしたときに甘えを見せる。
それで思い出し、ちょいちょいとアルフレッドを呼ぶ。
「なんだい」
「結局あれ、どうだったんだ。――ストッキング」
「ああ!」
アルフレッドはにっと笑った。
「買って、使った」
「え」
「俺が」
「え!!」
「日本製の優秀さを実感したねー」
「はあ!?」
「ところで君ゆで卵食べるかい?」
そういってアルフレッドは卵の殻に、やつ曰く「キュートなアメリカンポップアート」でイースターバニーの絵を描いてぽいとよこした。煙に巻かれた俺を余所に、ウサギは軽くはずんで見えた。