パン屋で、一つだけ残っていたパンをさっと脇からとられたとき「ああっ」という気になる――かどうか。
そんな話題になったのは、アルフレッドがたいそう美味しそうに賄い飯を食べていたからだ。
その日の箸休めはゴーヤの蜂蜜漬けなるものだった。ゴーヤは丁寧にわたを取り水に晒してあって、ほどよい苦みだけが残っていた。それに蜂蜜の甘さ、さらにレモンの酸味が加わり、しゃっきりした食感を引き立てていた。箸休めとの言葉にふさわしく小鉢に少しだけ供されていたのは、独特の苦みを嫌う者もいるのではとの配慮らしかった。
対してアルフレッドの前の丼には、炊きたてのご飯の上に湯がかれたゴーヤ、そしてトースターでぱりっと焼かれた一口大の鰻の蒲焼き、そしてプチトマトが贅沢に、いや豪快にのせられて、イタリア風ドレッシングが回しがけられている。満面の笑みでぱくっと頬張るアルフレッドを何となしに見ていたら、「あげないぞ」と言われてしまった。
「む、いや俺は」
物欲しそうな顔をしていただろうかと手を振ると、「いや、アーサーに言ったんだけど」と目を瞬かれた。振り返ると、確かにアーサーは「食べたい」を顔に大書している。
「食べたければ自分で作ればいいじゃないか。材料は君んちにあるんだから」
アルフレッドが言うように、このゴーヤはアーサーが持ち込んだものだという。
殺人的な、という言葉が洒落にならない日本の夏、ここに暮らすヨーロッパ出身者の多くがへばる。かくいう自分も、バカンスにはさっさとイタリアに逃げ出していたベルリンの夏がいっそ懐かしい。温度はともかくあの湿度が――と思っていたが、西向きアパートだというアーサーに「いやいや」と手を振られた。輻射熱で部屋があたたまり、ドアノブに触れないほどになるという。花屋で働き、自分で育てもするアーサーは、グリーンカーテンでしのごうとしたという。その目論見は若干ながら成功したものの、収穫する気も無かったのにとれてしまった袋一杯のゴーヤをもてあまし、「なんとか使ってくれ」と本田に頼み込んだらしい。
「本当に見事なゴーヤですね。アーサーさんは緑の指をお持ちです」
もいだままの一つを手にとって本田がしみじみという。
「確かに、立派だな。余技とは思えない」
「いや、そんなに難しい植物じゃないし。褒められるほどじゃない」
と顔を赤くし、脇を向く。
「そういうなら、また次のが採れたら持ってきてやってもいいけど」
いつのまにか「てやる」と「てくれる」が逆転している。本田はそれをも鷹揚に受け止めて、「是非」と微笑んだ。
「そりゃいいね、材料費は浮くし売り上げは伸びる。毎日来たらいいよ」
金よこせ、というジェスチャーをしてみせて、アルフレッドはにやりと笑った。その理屈ではgive&giveになるアーサーは、それなのに「毎日来い」の言葉が嬉しかったのか――それに本田がこくんと頷いたのが嬉しかったのか、「お前らがそういうなら…」と複雑な照れを見せた。
「そしたら、明日でもいいけど、あれ作ってくれないか」
とアーサーが言うのに便乗して、フェリシアーノが「俺もー!」と手を挙げた。「お兄さんも食べたーい」と肘をついた手をひらひらさせたのはフランシスだ。本田は「あらら」と困り顔で手を頬にあてた。
「鰻が、手に入りますかね…。今年は特にお高いのですよ」
「ヴェー、そうなの?」
「ええ、漁獲高が減ってますからね。確かに、保護を考えるべきレベルではあるのですが」
ちらり、と恨みがましくアルフレッドを見て。
「今日は、知人のお店から、焼き色にむらができてしまったなどの訳ありものを分けて頂いたので、賄い用には使ったのですけどね。お出しするならきちんとしたものを仕入れなければいけませんし」
「訳あり品でいいよー、菊ちゃんが作るなら味は保証されてんだし」
「うん、俺も全然オッケー!」
「むしろ、日本の訳あり品はその『訳』が分からないことが多いな。農産物の規格はちょっと度が過ぎて合理性を欠いているように思われる」
ぼそりと呟くと一同頷く。本田は苦笑した。
「画一化されているからこそ流通しやすい、だから広く行き渡り安い、よって日本のどこでも同じようなものが手に入るというある種の平等はもたらしていると思いますけども。この店のような小商いなら良いところだけ選って使えますが、ファミリーレストランでは規格外の野菜は使いにくいでしょう。お客さんも写真見本と同じようなものを食べられることを当然と思っていますからね。制度と需要と供給が相互作用で状態を定着させているのでしょう」
と、難しい話を打ち切るように、菊は笑って「それはともかく」と言った。
「こちらのゴーヤは、大きさといい味といい供給量といい、お店で出せるレベルですけれども、鰻の方はちょっと分からないです」
「今日の残りももうないんだ?」
「ええ」
すみません、と小さく頭を下げる。ヴェー、と素直に残念そうな声を上げて、フェリシアーノが言った。
「食べられないとなると、余計に食べたかった気になっちゃうよ」
「分かる分かる」
フランシスが指をさした。その指をぐるっと回して、丼を手に持ったアルフレッドに向ける。
「しかもあいつがまた美味そうに食うからさー!」
「CMに出られるレベルだよな」
アーサーもぼやく。多分、カロリー摂取を抑えるサプリメントのやつだろう。同じCMを思い出していたので、うんと頷く。
「ああいう風に食べてもらったら、作った側も嬉しいだろう」
「そうですね」と本田は緩く笑った。「直接な表現は、やっぱり心にまっすぐ来ますね」
「「「美味い」よ」」
即座に唱和となった。言葉が重なった面々はちょっと首をすくめ、本田は照れ混じりに頭を下げた。ばつの悪さを誤魔化すように、フランシスが口を開いた。
「実際美味いんだろうけどね、あいつは食べてて俺が食べられないってのでまた残念なんだよな」
「『他人のパンはおいしい』だな」
ん? と本田がこちらを向いた。
「それドイツ語の諺ですか? 日本の『他人の飯は白い』とそっくりですね」
「フランスにも似たのあるぜ。『隣の葡萄は我が家の葡萄より甘そう』って」
「イギリスでも『塀の向こうの林檎が一番うまい』って言うな」
なんとなく皆でフェリシアーノを見たからだろうか、うーん、と考えて、
「『友達の奥さんの方が美人に見える』……?」
流石イタリア、と皆で笑った。
と、仕事の電話が入ったので断って中座する。眉間をもみながら戻るとお絞りを渡された。ありがたく受け取り、手を拭いているとフェリシアーノが「そういえば」と言った。
「この前兄ちゃんのお店に行ったときにさ。一緒に行った日本人の同僚が、店に入るまでサンドイッチサンドイッチ言ってたのに、目の前で他の客が最後のベーグルとったとたん『えええ』って顔になって、帰り道でもあれ食べたかったーってこぼしたんだよね」
看板商品だったからな、と挟んだフランシスに軽く頷いて、続ける。
「俺はそういう風に『食べたいもの』がぶれたこと無かったから『日本人ってそうなんだー』って思ってたんだけど、こう考えると案外普遍的なのかな」
「ふむ?」
俺は首を捻った。
「健康の面から言えばベーグルの方がより低カロリーだから選択すべきだと考えたのではないか」
「そーうかなあ。二十代の男がそんなこと考える? 単につられただけに見えたよ」
フランシスは「うーん」と顎をなでた。
「俺の場合は、『あっちが食べたかった』とはならないけど、『あっちも食べたかった』にはなるかもな。美味そうなものは食べてみたいじゃん?」
「そんなに食いもんに執着ねーな。紅茶とスコーンは別にしてだけど。食えりゃ何だっていいだろ」
ラテンコンビは可哀想なものを見る眼でアーサーを見た。
「鰻のゼリー寄せを食べ続ける国だもんね……」
「な……」
「……?」
首を傾げて黙っていると、本田がiPadを取り出し検索結果を見せてくれた。
「…………壮絶だな」
「人んちの伝統料理に文句つけんな、ばかぁ!」
「いやしかし、これは見た目が」
「じゃがいもぐちゃぐちゃにして食う奴に言われたかねえよ!」
「栄養価が高いじゃがいもを、消化によい形で食べているんだが」
「栄養価が高くて安い鰻を手軽に食べようとしてたんだよ!」
顔を赤くしてわめくアーサーを無視して、アルフレッドがぽつんと言った。
「そういえば、鰻を食べるエッセイがあったね。注文したのと違うのが来たけど、そのまま食べる話」
「ああ、向田邦子さんですね。『日本の女』でしたか」
「え、どういうこと」とフェリシアーノが口を出す。
「外国の女性はきっぱりと自分の好みを主張して、注文と違う時にはクレームもつける。それを素晴らしいと思うけれども、そういうのを憚る日本の女性をいとおしく思う――というような話ですね」
「ヤマトナデシコってこと?」
本田は斜め四十五度に首を傾けて曖昧に微笑んだ。
「あれは『日本人ってそうなんだー』って思ったな。俺は絶対取り替えて貰うからね」
「そうでしょうね。まあ、日本人でも今はその方が主流だと思いますよ」
困惑から口を挟んだ。
「というか、筆者が何を『素晴らしい』といい、そうでない何と対置させているのかほとんど分からない」
鰻丼を注文したのに鰻のゼリー寄せが来たら、当然取り替えて貰うのではないか? 自分なら断固そうする。
「……俺は、長く日本に住んでるから理解できるけど共感はしないってとこかな。日本語だとどっちも『わかる』になっちゃうからちょっと不便だな」
フランシスが言い、フェリシアーノが頷いた。
「さっきフェリシアーノ君が『ぶれない』って言ってましたけど、どこがぶれないかが違うってことでしょうね。どれそれを食べたい自分、というのを譲らないか、それにこだわらない紳士、というところを譲らないか――」
流石にうまくまとめるなと感心してみていたら、本田はちょっと悪戯っぽい顔で笑った。
「そしてルートヴィッヒさんは、ぶれようがないというか、きちんとしてますよね。発想にしても何にしても」
「固いって言えばいいのに」
フランシスが笑い、フェリシアーノも笑った。
うまく笑えているか分からないまま酒を飲み、ああ、この態度はそのエッセイに書かれた日本の女性に近いのかもしれないと少しだけ考えた。
帰り際、本田はレジに隠れるようにしてそっと「すみません、お気に障りましたか」と尋ねた。相変わらず聡い、と感嘆し、それでつい口を滑らせた。
「ジャガイモをぶつければ、卵は割れる」
「え? ええ、はい――?」
「殻なんてそんな脆いものなのにな。いや、実は脆いものだからなのか、なかなか割れないものだな」
「え――」
「いや、こちらの話だ、すまない」
釣りの出ないよう硬貨を揃えてトレイに置き、足早に店を出た。
数日後、思いがけないところでアルフレッドに会った。
いや、それは向こうの台詞だったのだろう、ぽかんと口を開けてこちらを見、「――ルートヴィッヒ!?」と指をさす。きまりが悪くて頭を掻いた。その前髪は全部おりているし、顎には薄く無精髭が生えている。確かに「菊」では見せたことの無い姿だ。しかもいる場所が深夜のファーストフード店ともなれば歩をとめたまま奇声をあげるのも仕方ない、のかもしれない。
「今、仕事がすごく立て込んでいるんだ」と言い訳をするが、アルフレッドは口をあけたままだ。仕方なく袖を引いて前の席に座らせる。こちらを見たままシェークを一口すすって、「ああ、びっくりした」とアルフレッドは言った。そしてこちらの手の中のハンバーガーを覗き込んで「あ、それ俺も買った。今日からだからさ、楽しみにしてたんだ」という。
新商品だったのか。何も考えず先頭のを指さした。先日の会話では無いが、何を食べるかなどどうでもよかった。アルフレッドはわくわくした様子で紙をはがし、一口かぶりついて「美味い!」と叫び、それから言った。
「君との取り合わせがすごく意外」
「悪かったな」
「いや、悪いことなんて全然ないけど。なんか、こういうところで食べるイメージが無かったから」
「滅多に利用しないが、嫌いではないぞ」
「そうなんだ? ていうか、君、そうしてるとすごく若く見えるんだな!」
「いや、実際お前とそう変わらないんじゃないか? いくらかスキップしたからな」
「えっ」
年齢を言うとまた絶句された。
「……君、いっぺんそういう格好で店に来たら? 殻なんてあっという間に破れるだろ」
「――」
熱すぎるコーヒーを啜ろうかどうしようか迷っていた、その手をテーブルに戻す。
「本田が、何か言っていたか」
「うん、ちょっと気にしてた。でも君の言葉は菊がしゃべったんじゃないよ。聞こえたんだ」
「そうか。いや、客のことをしゃべって、と責めるようなつもりじゃない。個人的な話なんだから流してくれてよかったのに、と思っただけだ」
ここ最近、色んな場面で何度も言われていたからつい口を滑らせた。その場面は「菊」ではなかったのだから、八つ当たりに近い。
技術職だと思って就いた仕事が、思った以上に創造性を求められるものだった。技術の方が高まってくればくるほど言われてしまう――「固い」と。「ひと皮破ってみたら」。「殻を破ってほしい」。言われていることは分かるが、具体的に何をどうすればいいのか分からない。期待値が低ければかけられない台詞だと思うから、有り難い分やるせない。
そのくせ、独創性も要求される。変われと言われながら自分らしさを出せと言われてもどうしようもない。そもそも個性ってなんだ。日本人の中で暮らしていて感じる「違い」はあるけれども、それは自分の「ドイツ人らしさ」ではあっても「自分らしさ」ではない気がする。まして「固い」というのは、人に誇れる個性とは言いがたい。
ついでに、これは仕事では無いけれども――心に届くまっすぐな言葉――美味い、をスマートに言えない自分が、少し、辛い。
「ま、色々なことが気になっちゃうのは菊の性分だから。愚痴吐きたければ吐けばいいし、言いたくなければ言わなきゃいい。なんだったかな、前に菊が言ってた――そうだ、この店は土の中のようなものだって。みんなここに来て暖まりもするし、頭を冷ましもする。穴を掘ってロバの耳と叫ぶ人もいる。そしてまた社会に戻っていくんだって」
「――そうか」
「その元気のいくらかを、お料理であげられたらいいって。ま、みんな料理食べに来てんだか菊に会いに来てんだか分かんないけどね!」
「そうか――」
最初は何となしに聞いていたのに、熱いコーヒーを吸えずにいる間に少しずつ心がざわついてきた。アルフレッドは、まるで自分のことのように、店のこと、本田のことを話す。
「お前は働きに行ってるのに、元気も貰えるわけか。特等席だな」
「――うん、そうなんだぞ」
小さく瞬きして、それから、いかにもあっさりとアルフレッドは言った。後で考えればわざとらしいその「あっさり」に、かちんと来た。
「子供の頃はご飯を作ってもらって、学生の頃は家庭教師してもらって」
「うん。今も、お薦めの本を教えて貰ったりね。菊は俺が日本文学読むのをすごく喜ぶから」
そうそうこれ、とポケットから文庫本を取り出して振ってみせる。
俺が仕事上の行き詰まりで悩んで、髭を剃る暇もなくしているのに、ほとんど年の変わらないこいつは――
「お幸せだな」
プラス価値の単語にプラス価値の接頭辞をつけるとマイナス価値になる。そんな日本語の玄妙さを知らなかったわけじゃない。そのように言いたかったのだ。
その言い回しを正しく理解しているアルフレッドは、シェークをすする姿のまま一瞬固まった。やがて口を離し、にっこりと笑う。ひどく、低温の笑みだった。
「――幸せだよ。羨ましい?」
「――っ!」
その言葉を使われて、初めて分かった。そうだ。羨ましかった。誰よりも本田の近くにいるアルフレッドが。
「どう思われようと、この立ち位置はかわれないんだぞ」
笑った顔のまま、くしゃりと紙をにぎりつぶし、じゃあねとアルフレッドは手を振って立ち去った。
行動が時計代わりになるとまで言われる。「菊」にも、決まった曜日、決まった時刻にしか行かない――ようにしていた。ちらりと腕時計を見る。いつもの曜日ではあるけれども、時間は随分と早い――まだ目印のランプがつかない、どころか、まだ日が落ちていない。当然開店前なので、入れはしない。それでももう十分近く入り口の前で呻吟していた。やはり出直そうと踵を返したところでドアが開き、「あれえ、ルートヴィッヒだ」との声が背後からかかった。
「――いらっしゃいませ?」
なんだよね? と語尾が聞いている。そうと言えばそう、違うといえば違うようで、斜めに頷いた。
「開店準備は終わってるんだけど、菊は出かけちゃったんだ。例の知人の店に鰻を仕入れに行くって」
「あ、ああ。そうなのか」
「だから簡単なものしか出せないけど、とりあえず入ってよ。ていうか、夕方外で立ち尽くすなんて無謀だよ。熱中症になっちゃうんだぞ」
だからだろう、いつも来店直後出されるのは熱いものなのに、冷たいお絞りを出してくれる。顔に当てると、その感じる冷たさでどれだけ皮膚が熱を持っていたか分かる。そうして顔を覆っていたら、ぽつりと声がかけられた。
「この前は、悪かったよ」
「――」
慌ててお絞りを外すと、アルフレッドがお浸しの小鉢をことんと前に置いた。
「いや、それは俺の方がっ」
そう思って、謝りに来たのだ。八つ当たりパート2だった。パート1を反省していた筈なのに、己の未熟さが恥ずかしい。
「うん、まあ、あの言い回しにむっとはしたけどさ。君は明らかにオーバーワークで疲れていたんだから、そういうこと配慮しない子供っぽいことした。それと、……誤解覚悟で言うけど、俺と君は別に友達じゃないんだから、あの場では『馴染み客』への対応をすべきだった」
「……まあ、友達じゃ、ないな」
「誤解覚悟ってのはそこじゃなくてね。『君たちは客だ、俺は店の側だ』ってのはあの日聞こえただろうことと変わらないからさ」
なんとなくずっと手を拭いていたお絞りをようやく卓に戻す。
「それは――事実だ」
本田が気を遣ってくれるのは常連客だから。そして、俺たち客は、アーサーだろうが誰だろうが一線ひかれた立場から抜け出せない。アルフレッドは別格なのだ。
「でも俺は、優越感でそう言ったわけじゃない」
「ん?」
「替われないっていったんじゃないんだ。変われないんだよ」
なんか飲むなら出すよ、と唐突に言われたので、ビールを頼む。いつもより慎重にやってくれたのか、黄金比に注ぎ分けられた生ビールを受け取り、口をしめらせた。
「何か食べるかい? といっても、最後の仕上げ前でとめてある料理ばっかりだから、冷菜しか無いけど――あ」
顎に手を当て、しばらく何かを復習するような顔をしていたアルフレッドは、やがて笑顔で振り向いた。
「ゆでたまご、食べる?」
「は?」
「後は茹でるだけっていう状態で菊が用意してたからね。これなら調理ってほどじゃないから俺でも心配ないだろ?」
「あ、ああ――」
本田が用意していたということは、ちゃんとしたメニューなのだろう。しかし、「小料理屋菊」で、ゆでたまご? 何か特別なソースでもかけるのだろうか。いずれにしてもアルフレッドに任せても心配ないのは間違いない。曖昧に頷くと、ボウルから取りあげた卵を鍋に入れ、かちりと火を付ける。本当に卵が準備されていたらしい。
「今日は君が来る曜日だからね」
「……そう、なのか……?」
そのために、という口ぶりだが、特にゆでたまごが好きだとか話した覚えはない。ああ、そういえば先週の帰り際、卵という言葉を口にはした。
「『It goes across the sea by the husk of the egg.』って、聞いたことあるかい?」
「卵の殻で海を渡る――?」
「そりゃ難しいよね。すぐ割れちゃう」
不可能事のたとえだよと笑いながら、鍋をかき混ぜている。温度計まで準備して、入念なことだ。
「あ、そういえば、ちょっとだけ誤解してないか気になってたんだけど。前言ってた『注文と違うのが出てきた』って話、あれ、正確に言うと『鰻丼を頼んだのに鰻重が出てきた』なんだ」
「あ、――そうなのか」
全く違う種類の食物が出てきたのだろう、だったら食べないだろうと思っていた。いや、しかし。
「結局注文とは違うわけだろう。食べたい鰻とは違うのじゃないか」
「君、鰻丼と鰻重の違いって知ってる?」
「それは、高価な鰻重の方が鰻が高級なのではないか?」
「店によってはそういうところもあるけど。大抵は、鰻の品質は丼と重では変わらない、松竹梅のランクで変わる。もりそばとざるそばみたいにトッピングが変わるわけでもない。基本的には器の違いだけなんだぞ」
「そ、そうなのか?」
「まーそれじゃ納得しないってんで、吸い物つけたりするところもあるけどね。重箱の方が高級感があって冷めにくい。でも、言っちゃえばそれだけだ。それだけだから、高い方が出てきて家計上痛いってだけ、けど、純粋に値段の問題だからこそ文句付けるのは憚られたんだよ。考えてみたら、アーサーも同じ思考回路でそのままにしそうだよね」
「確かに、イギリス紳士というのは金銭的損という些事に拘泥すべきでないという倫理観を持っていそうだ」
「うん。そしてエッセイの頃の日本女性は、女は黙ってろっていうジェンダーと、いや言うべきだっていうウーマンリブの板挟みだった。後者のべき論を理解はする、だから、『素晴らしい』、でも前者の圧力の中で感性を形成した古風な女性に共感する――。君は『素晴らしい』と思う理由が分からないくらい、前者の圧力がなくて後者が当然の社会に育ったってことだよ」
話ながらも、タイマーを睨みつつアルフレッドは鍋の卵を転がしている。完熟か半熟かで随分ゆで時間も違う。これだけの長さなら完熟だろう。ビールを飲みつつ考えていると、ぴぴっと小さな電子音が鳴り、「よしっ」とアルフレッドは卵を引き上げた。氷水に晒す。
「えっちゃんは、今ベトナム語を勉強してる」
突然の話題転換に驚いたが、頷く。そういえば時々教科書らしきものを読んでいる。
「もしかしたら黙って鰻重を食べるかもしれないえっちゃんは、日本国民だけど、そうでなくなることもできる」
「あ? ああ――国籍離脱の自由、か」
「経緯的にベトナム国民にはなれないかもしれないけどね。そんな風に、変われるものと変われないものがある」
「ああ」
その『経緯』は知らないが、所属先に選べるところも選べないところもあるだろう。
「俺が、小さい頃から菊と知り合いだってことは、変えられないことだ。――変われないんだよ」
「……」
「それの利点だって分かってる。メリットは手放さない、最大限利用するけどさ、だからこそっていう制約もある。菊自身は縛りかけたつもりないんだろうけど、まー、あんな風に言われちゃー踏み出せないよね」
「……」
ころん、と音がする。卵が氷水の中で転がったらしい。
「もう、それを考えて考えて、ちょっと滅入ってたところだったからさ。俺も、八つ当たりだったんだ」
ごめんね、ときれいにウィンクしてみせて、はい、と卵を差し出す。
「あ、ああ……」
受け取ったそれは、ひんやりと冷たい。冷たい。つまり――
「おい。殻、は」
「ああ、剥いたのはこの皿に入れてくれよ」
いや、剥いて出さないか普通。いくらアルバイトでも……と思いながら、気圧されて、黙ってこんこんと割る。よく冷やされていたからだろう、つるりと剥けて。
「えっ」
黄色い。まるでプラスチックのような薄黄色だ。思わず顔を上げると、アルフレッドはにんまりと笑った。
「これ、卵、か?」
「もちろん」
これと同じやつだよ、とカウンター奥から卵パックを持ち上げて、その中の一つを皿に割って見せた。色味が濃く盛り上がりの高い、いい卵だ。
「いや、しかし」
黄色いのだ。
「食べてみたら?」
その言葉に背中を押されて、殻を大きく剥き、かぶりつく。と、黄身がある筈の真ん中に、真っ白い円が現れた。
「――――?」
わくわく顔のアルフレッドに断面を見せると、「ワオ!」と口笛を吹いた。
「だーいせいこーう!」
「や、やっぱり何か細工したのか?」
「そりゃそうだ、自然になる筈ないだろ!」
「しかし、どうやって!?」
だって、殻は、今剥いたのだ。まごうことなき生卵を、目の前で茹でられたのに――。
によによ笑うアルフレッドと手の卵を見比べていると、「あー!!」と大声がした。
「ひどい、もうやってしまったんですね?」
勝手口から戻ってきたらしい菊が、卵を凝視している。
「うん。今日は珍しく早かったんだ」
「私、ルートヴィッヒさんのびっくりする顔、見たかったのに……!!」
「『さてと言い』以降は君にとっておいたよ。さ、種明かししてくれよ」
「ええー、それ、そんなに面白くないですよ……」
明らかに肩を落としながら、それでもボウルの卵を手に取り、解説してくれる。
「卵の構成は、卵黄対水溶性卵白対濃厚卵白が一対一対一です。殻を割らずに黄身の膜を破ると、卵黄は水溶性卵白と混ざるんです。そして外側の黄身混じり水溶性卵白の方が固まりやすいから、丁寧に回転させながら茹でれば真ん中に白身が集まります。これは黄身返し卵と言って、江戸時代の料理本に出てきます」
「へえ――」
「『卵百珍』とは違う方法でやりましたけどね。有精卵を激しく振り回せばできるので、ストッキングに入れて、ぶんぶんごまの要領で、遠心力を利用したんです」
「数個、試作品でだめにしたけどね! 真ん中に白身を寄せるのが結構難しくてさ」
「黄身の濃厚さは薄れ、白身のつるんとした食感は弱くなるので、味としては、まあ、あれなんですが。――ちょっとだけ『びっくり』を楽しんで戴ければいいなあと……」
言いながら、アルフレッドを片手ではたく。
「思って、楽しみにしてたのに!」
もう、と言いながら、棚の引き出しをあけて何かを取り出している。
「どうしたのさ」
「お財布忘れたんです!」
「またかい? そろそろ開店なんだから急がないと」
「分かってます! すぐ戻ってきますから、失礼の無いようにしてくださいねっ」
「――」
文字通り駆け去って行ったあとを呆然とみていると、「全くもう……」とアルフレッドがため息をついた。
「……どうかしたかい? 鳩が豆鉄砲を食った、って顔」
「いや――いつも冷静な本田が、ちょっと、意外で――」
「そうかい? 潜水選手の息継ぎ程度にはこういうことあったんだぞ」
それはどれくらいの頻度なんだ。いや、それはともかく。
「むっとするかもしれないが、やっぱり、羨ましい。そういう側面は、客には見せないからな」
「ああ――」
そっか。と頷いて、アルフレッドはにっと笑い、ピースサインをしてみせた。このやろう、と同じ指の形で突き返す。
そうやって指と指が繋がったまま、アルフレッドはちょっと笑みを深くした。
「分かってると思うけど、一応。殻を割らずに変わることだってできますよ、ってことなんだぞ」
「あ」
「君が、実は悩みながら『君』をやってることを、俺は共感できるし、菊は理解できる」
「――」
「そして、それを伝えるためにわざわざ有精卵だのなんだの調達しにいくくらいには、君は『ただのお客さん』じゃないってこと」
感動しかけた俺からぱっと指を離し、アルフレッドは意地悪げに笑った。
「ま、その位置の男は他にもたくさんいるけどね」
「……でも、さっきのような本田を見た者はそう多くはいないのだろう。俺は卵一個分くらい、得をしたな」
アルフレッドはきょとんとし、それからにやっと笑った。
「俺も一個分くらいかな。君のびっくり顔が見られたからね!」
「三方一両得……と言うには、本田の得が無いな」
「ゴーヤお代わりしてくれよ。アーサーがほんとばかみたいに持ってくるから、菊もレシピがつきそうなんだって。ゴーヤは片付くし、売り上げは伸びるし、二両得だよ」
「分かった分かった。じゃ、まずはビールをもう一杯頼む」
「アイアイサー」
軽く返事し、アルフレッドはサーバーに向かった。と、ドアが開き、「あの、また持ってきたんだけど――」とのアーサーの声が背後からし、俺とアルフレッドは顔を見合わせて一秒後、吹き出した。