蝉時雨の中、一人の男が公園のベンチに腰を下ろし、物思いにふけっていた。
7月の太陽は、そう生やさしいものではない。じりじりと炙られるように空気や地面は熱され、どう考えても快適とは程遠いだろうに、男はまるで堪えた様子もなく、額にうっすらと滲んだ汗を拭うこともせずに直射日光に照らされたままでいる。
「…………」
先ほどから、男はぶつぶつと何か呟き続けている。その眼差しは前に向けられてはいたが、どこかぼんやりとしていて、現実ではない光景を映すかのようだった。
辺りはそれこそ白昼夢のように、およそ人気がない。あまりに明るく照らし出されていて、むしろ目に映る景色はどこか歪んで見える。足元にはぎょっとするほどくっきりとした影が落ちていた。
「……違う、…そうじゃなかった」
ほとんど唇の動きだけでそう呟き、男は菫色の目を眇める。その眼差しの先には、背の高い向日葵ばかりがずらりと並んだ花壇がある。もう長いこと風がそよりとも吹かないので、向日葵もぴくりとも揺るがない。その像をぺたりと貼り付けたように、風景の中に静止していた。
「……あのときは、……」
じっとそれを見つめている内に、視界が少しずつ白さを増していく。ふと眩暈を感じ、男は初めて小さく身じろぐと、目元に手をあてた。
暑さと気怠さは依然としてまざまざと感じられたものの、気が付けば辺りは水の中にいるのかと思われるほど奇妙に音を失っていた。
そのとき、一際澄んで涼しげな音がリンと辺りに響いたようだった。
(……?)
風のように棚引いて耳に触れたそれに、男はぼんやりと目を瞬かせた。音がどこからやってくるのかと、僅かに首を巡らす。すると、全く思いがけず、すぐ近くに人影があることに気が付いて、男は小さく目を見開いた。
一人の、幾分小柄な男がすぐ近くに立って、ベンチに腰かけたこちらを覗き込んでいる。涼しげな双眸が男の姿を映し、真っ直ぐに向けられていた。その瞳に湛えられた光は、澄明な水を思わせる。ふわりと、曖昧に微笑んだ。
彼は唇を動かし、こちらに向けて何か言ったようだった。だが、その声音は男の耳には入らない。反応らしい反応を返さない男に、相手が小さく首を傾げた。さらり、と黒髪が肩に流れ、またどこからともなく、リン…と澄んだ音の気配があった。
他の音は何も聞こえないのに、その音だけは真っ直ぐに響いて届くのがどうにも不思議だった。
ぼんやりと見つめた先で、相手は言われずとも何かを察したように、手を伸ばす。その表情は穏やかで物静かといってもいいくらいだったが、きっぱりと迷いのない仕草でぐいと腕を掴まれ、案外しっかりとした力で引かれる。
抗う理由はなかったので、促されるがままに男はベンチから立ち上がり、一歩二歩と足を前に踏み出していた。相変わらず白く霞がかった景色の中、踏みしめている筈の地面は妙にふわふわとしている。どこに向かっているとも知らずに、腕を引かれるがまま、機械的にもくもくと前に進んだ。
不意に、記憶の中で一人の女が囁いた。
『――イヴァンちゃん、こっちよ。いらっしゃい』
(……!)
それは思いがけない一撃で、食らわされた拍子にだらりと身体の脇にぶら下がっている自分の手が痙攣したように一瞬震えるのがわかった。消えろ、とぽっかりと空ろな胸の内で念じる。意識の底で湧いたその声は、すぐに白くぼやけた中に溶けて失せた。
その間、現実でどの道をどう進んだのか、あるいはどれほどの距離を歩かされたのかも判然としない。気付いたときにはガラリと戸を引く音があって、ふわりと前から冷気を帯びた空気が流れてきて頬を打った。
「――おかえり、菊。…あれ、その人どうしたの」
近付いてくる声があって、それで自分が音を取り戻していることに気が付く。
「この暑さで、ご気分を悪くされたみたいで。ちょっと日陰で休んで頂こうと思って、連れてきちゃいました」
すぐ近くで、透明な声が言った。身をよじり、その声がする方に向き直ってもう一度その顔を見ようとしたのだが、そのときずるりと足元が覚束なくなった。椅子に座らされ、瞼がゆるゆると重くなるのを感じた。
ふう、と胸の深いところから込み上げた溜息をこぼし、男は全身の力を抜いた。すぐに意識が、ひんやりとした薄い暗闇に包まれるのがわかった。
***
どれほどの時間が経ったのだろう。
ふと、すっきりと澄んだ意識を取り戻し、男はごくゆっくりと突っ伏していた顔を上げた。その拍子に、首の辺りから何か湿ってやわらかいものが落ちる。見れば、冷たく濡らしたタオルだった。
「おや、気が付かれましたか。ご気分はいかがです?」
ふわり、と穏やかな声が投げ掛けられ、男はそちらに目線をやった。
正面のカウンターの中に、小柄な人影がある。明かりを灯していない室内は、ぎらぎらと眩いばかりだった外と比べると薄暗く翳っていたが、その中に半ば溶け込むように佇んだ姿はひどく目に優しい。じっと目を凝らせば、エプロンをつけたその人物が瑞々しい水蜜桃を剥いているところなのがわかった。
「…ここは…?」
ゆるゆると目を擦りながら、体を起こすと、ことりと目の前にグラスが置かれる。中には、なみなみと透き通った水が注がれ、氷を浮かべていたる。
「外の公園でずいぶん長いこと日に当たられていたでしょう。熱中症を起こしかけていたところに、偶々通りかかったので、ご同行願いました」
その口調は淡白で、素っ気ないといってもいいくらいで、微塵も押しつけがましさがない。
「ご自分で歩いてくださったので助かりました。もしあの場で倒れたりされても、私の力じゃここまで連れてくるのは到底無理でしたからね」
確かに、そう言う相手は小柄で線の細い体つきをしている。弱々しくはなかったが、屈強さとは程遠かった。対する自分は、優に一回り以上は大きい。
「…ちょっと考え事をしていたら、だんだん半分夢を見ているみたいな、ぼんやりした心地になっていて。具合が悪くなってるなんて、気付かなかったな」
「夏の日差しは怖いんですよ。ご注意なさらないといけません」
窘めるように男は言い、グラスの水を勧める。一口含むと清涼感がさっと広がり、身体の内側に沁みるようだった。仄かにライムが香る。グラスを置くと、氷が触れ合ってカラリと鳴った。
「ただでさえ、今年は例年より気温が高い傾向にありますからね。梅雨が明けるのも、少々早かったですし」
「問題なのはさ、気温じゃなくて湿度だよ。この、じめーっとして皮膚に張り付くみたいな空気、ホントすごい。こわい」
新たな声がそう言った。声の主は数席ほど向こうの、カウンターの端の椅子に腰かけていた。レポート用紙と思しきものを前に広げ、肘をついてこちらを眺めている。袖を捲くったTシャツといい、その姿はいかにも慣れてくつろいだものだったが、意外なことにその人物は明るい金色の髪をしていて、どう見てもこの国の人間ではなかった。
眼鏡越しに見開かれた青い瞳が、少しも遠慮せずじろじろとこちらをあからさまに検分していた。自分の縄張りに、迷い込んできたよそ者を見る目付きが、ああこれはまだ子供だなと思わせるもので、男は口元にひっそりと笑みを浮かべる。
「日本の夏は初めて? てか、この辺で見たことない顔だよね」
今度は面と向かって訊ねられ、男は素直に頷いた。
「うん、この時期の日本に来るのは初めて」
「ご旅行ですか?」
カウンターの中で、小さく切った水蜜桃を白い皿に載せながら、店の人間と思しき人物が訊ねる。
「ううん、仕事…かな。人と会って今後のビジネスの話をする予定だったんだけど、言われた時間より随分早く着いちゃって。それで、ちょっと外で時間を潰そうと思ったんだけど…」
思いがけず、その結果がこうだ。
「あらあら、それはお疲れ様です」
「ひどい話だなぁ。こんな季節の日本に呼び出しかけるなんてさ。これからどんどん暑くなるっていうのに」
二人とも、いかにも同情したような口ぶりでそんなことを言う。
言葉を交わしている内に、頭の中が晴れ、まともに物を考える力を取り戻していった。痺れたようだった頭の芯からはまとわりつくような気怠さもほとんど抜け落ち、棒のように感じていた手足にも力が戻った。
「日本のビジネスマンは真面目だし頭固いんだぞ。だから平気で人を呼び出しもするし、バカンスにかこつけてさっさと過ごしやすいところに退避することもしない。夏はからっとしたビーチでのんびり遊ぶためのシーズンなのに」
金髪の青年がどこか愚痴っぽい口調で呟く。それに、カウンターの中の人物はどこかいさめる様な声と表情を返す。
「ほらほら、アルフレッドさんはぶつぶつ文句言ってないでレポート終わらせて下さい。集中して取り組めないなら他所でやってもらう約束ですよ」
「ちゃんとやってるよ! こんな日に、隙を見て追い出そうとするなんて、菊は鬼なんだぞ…」
レポート用紙の上で頭を抱えたアルフレッドを、いかにも年長者らしい眼差しで見やる人物(――とは言っても、彼は見るからに年齢不詳なのだが)に、声を掛けてみた。
「ここは、君の店?」
にこり、と笑みを浮かべて、菊と呼ばれた男が向き直る。
「はい、お酒とちょっとした料理の店をやっております。今後縁があったら是非ご利用ください。今日のところは有無も言わせずお連れしてしまって何ですが、とりあえずお体をお休めくださいね」
「へえ」
改めて、店内の様子を見回す。こじんまりとした店らしく、スペースはそう広くはない。L字のカウンターの他には、奥にテーブル席がほんのいくつかあるだけだ。けれども、カウンター奥の棚に並べられた酒類の品揃えはそうそうたるものがあった。気の利いた小料理に合わせて様々な酒を提供する、そんな店のようだ。
「そして、こちらはときどきアルバイトで店を手伝ってくださるアルフレッドさん。普段は大学生で、今現在は期末のレポートラッシュに苦しんでおられます」
冗談めかしたように菊が示すと、アルフレッドは顔を上げずにかりかりとペンを走らせながら、うぅと唸ってみせた。
その流れでイヴァン・ブラギンスキ、と自らも名乗ると、菊は耳慣れない音に戸惑う様子もなく、
「どちらからいらっしゃったんですか?」
などと訊ねる。アルフレッドをはじめ、外国人の客が多く出入りする地域なのだろう。
ロシアだと答えると菊は頷いて、「それなら、尚更この暑さは堪えたのではないですか?」と小さく言う。
イヴァンは一瞬考え込み、それから首を振った。
「あんまり気にならなかった。夏ってそんなに嫌いじゃないからだと思う。たぶん」
ぽつり、とこぼれ落ちた言葉に、グラスを磨いていた菊は目を上げた。黒水晶を思わせる瞳が微かにきらめいて、イヴァンを見る。
「公園で、花壇の向日葵を眺めていらっしゃったのを見て、きっとお好きなんだろうと思いました」
そう言われた瞬間、イヴァンの目の前には、つい先刻までまじまじと見つめていた、鮮やかな花弁の色が浮かんだ。強烈な太陽の光に真っ直ぐに照らされて、眩い光を放つようだった黄色。
イヴァンは一瞬瞑目した。
「うん、好き…だったんだよね。それを、思い出していた」
その、どこか含みを残した物言いに、菊は小さく首を傾げる。しかし、何を思ってか「そうですか」と静かに言うだけで、さらに踏み込んで聞こうとはしなかった。
しばらくの間、アルフレッドが何事かぶつぶつ呟きながらペンを走らせる音だけが響く。
「何かお出ししましょうか?」
菊がことりと首を傾げて訊ねたが、イヴァンは首を横に振った。
「ううん、いらない。お構い、なく」
「わかりました。でも、出来るだけお水は摂って下さいね。ちゃんと水分補給しないとまたすぐ具合を悪くされてしまいます。それに塩分も。お茶はいかがですか?」
途端に、ペンを放り投げて声を上げたのはアルフレッドだ。
「俺にはコーヒーのカフェインが必要! ていうかI'm hungry!」
菊は呆れた顔をする。
「アルフレッドさん」
「だって、もう何時間もこれやってるんだぞ。いつまで経っても全然終わんないし」
「ちょっとの間でもまともに集中できたら、思ってたよりずっと手早く簡単に終わるものですよ、そういうのは」
「簡単に言ってくれるよねー」
二人がやいのやいのと、いかにも気心が知れた様子で気軽な言葉を交わす様子を、イヴァンは見るともなしに眺めていた。
結局、アルフレッドがせがむようにコーヒーを淹れるために菊が奥のキッチンへ姿を消し、それを目で追ったアルフレッドとイヴァンの視線がかちりと合った。
「……君たちは仲が良いんだね。じゃれあってて、本当の兄弟みたい」
「そう見える?」
頷くと、喉の奥でアルフレッドは笑い声を立てた。
「うん、でもまあ、菊が俺の大切な人っていうのは確かかな」
どこか得意げにそんな風に言われるのを聞いて、イヴァンが何事か考え込む。すると、菊がキッチンから顔だけ覗かせた。
「アルフレッドさん、おなか減ってるんですよね。軽くパスタでも茹でましょうか」
「Yes, please!!」
ぱっと表情を明るくして、アルフレッドが声高に答える。
「先日作った干し茄子のオイル漬けでペペロンチーノが出来ますよ。ちょっと待っててくださいね」
嬉しそうにしているアルフレッドに、イヴァンは訊ねた。
「菊君って料理上手なの?」
まあ店をやっているのだから下手なわけがあるまいと思っての質問に、そりゃあもう、と青年は答える。
「見事なもんだよ。菊は新しいレシピを手に入れたら、魔法みたいに自分好みに改造しちゃってそれがどれも絶品なものだから、ここの料理は本当に特別なんだ」
「へえ」
と、イヴァンは答える。キッチンからはカチャカチャと、食器や調理器具の触れ合う音が微かに聞こえていた。
しばらくすると黒塗りの盆の上に料理の皿を載せた菊が戻ってくる。待ちきれない、といった様子でアルフレッドがそれを受け取る。いかにも食欲をそそりそうなニンニクの匂いが辺りを漂った。
「わー、おいしそうだ」
「おいしいものでパワーつけないと、すぐに暑さ負けしてしまいますからね。干し野菜はうまみが凝縮されるだけでなく、栄養価もアップです」
それから菊はイヴァンに笑いかける。
「多めに作ったので、イヴァンさんもよろしかったら言ってください。すぐにお持ち出来ますから」
けれども、イヴァンはふるふると首を横に振った。
「ううん、ホントにいい。ごめんね、君のつくる料理は、きっと僕は口にしない方がいいと思う」
淡々と紡がれたものの、それは穏やかではない言葉に聞こえた。すぐに、あからさまに気分を害したらしいアルフレッドが、フォークを置いてじろりと視線を寄越す。
「はあ? 何それ、どういう意味?」
「いいんですよ、アルフレッドさん」
対して菊の方は、白い顔に剣呑な表情を浮かべるでもなく、静かに年下の友人を窘める声を上げる。
「だって、菊。気にしないようにしてたけどさ、こいつ結構ずっと失礼なんだぞ。」
「アルフレッドさん」
「そもそも、菊に助けてもらっておいて、ちゃんとお礼のひとつを言うでもないしさ」
まだ年若い大学生の彼がイヴァンに向ける感情は、驚くほど真っ直ぐでエネルギーに満ちていて、イヴァンはほとんど感動しそうになった。
(ホント…、まだ何も知らないって感じなんだなぁ)
「いいんです、アルフレッドさん」
菊がいさめる声音を少し大きくした。
「でも……」
「彼をお連れしたのは、誰にとやかく言われたわけでもなく、勝手に私がそうしたかったらしただけです。同様に、もちろんイヴァンさんは、誰にとやかく言われることなく、ご自由に過ごされていいんです」
そう言われ、アルフレッドは不満げに口を尖らせたが、それでももうそれ以上の言葉は引っ込めたらしかった。はあ、と溜息をつきながらフォークを取り、幾分イヴァンに背を向けるような姿勢で再び自分の前の料理に向き直る。
「――でも実際、」
菊はカウンター越しにイヴァンの前に立った。
「純粋にお聞きしたくはあります。なぜ、そのようにお考えになられたのか、障りがなければ教えていただけませんか」
言葉通り、菊の両目にイヴァンを咎めるような色が欠片もない。それどころか、黒水晶の瞳には、興味深そうな光と思わせる煌きすらあった。
「だって、菊君の料理、すごくおいしいんだろうなって思ったから。味の感覚って鮮烈に記憶に残るでしょ」
最初からその意を汲み取ってもらうつもりがなかったために、滔々としたものではあったがイヴァンの言葉は十分伝わりにくかったに違いない。菊はふむと眉を寄せ、考え込むような仕草で片手を頬に宛がう。
アルフレッドが何か言いたげにこちらをちらりと見やったが、目が合うとぷいとそっぽを向かれた。
「記憶に留めたくないと、そういうことですか」
「少し違う。好きになりたくないんだ。好きになってから、それを忘れるのはしんどいから」
好きになりたくない。さらりと言われたにしては、あまりに奇妙な聞き逃しづらいその響きに、菊は(そしておそらく視界の外でアルフレッドも)目を瞬かせる。
「…なぜです?」
そこでイヴァンは初めて一瞬、言葉に迷ったように返答を躊躇った。
「僕はね、忘れちゃうのがとっても得意だから」
菊は、よくわからないといった雰囲気を微かに漂わせる。
「逆に言うと、ものを大事にするのが苦手なんだよね。好きだっていう気持ちも、すぐに薄れて忘れてしまって、思い出せなくなっちゃうんだよ」
「それは――…誰にとっても、多かれ少なかれ同じ心の働きではないですか? 何ひとつ忘れずに生きていける人なんて、きっといません」
少し考え込んでから、菊はそう言う。
「他の人はどうなのかな。僕は、家族と過ごした時間ですらもうはっきりとは覚えてないくらいなんだけど」
イヴァンがこともなげにそう返すと、何を思ってか菊は小さくちらりと目を伏せる。
「大事に思っていた筈の物語や歌も、誰かの言葉や、いつか見た景色なんかも。失ったことすら、なかなか気付けない。ふとした瞬間に、自分の中でそれがごっそりなくなっているのがわかる」
小さな溜息をこぼし、イヴァンは続ける。
「たぶん何が悪いわけでもなく、僕がこういう冷たい人間に生まれついたってだけだと思うけど。それでも、好きだったもののことを覚えているべき部分が、ぽっかりした空洞になっているのを知るのは結構つらい。かつて記憶に強く働きかけたものであるほど、それが根こそぎ失われた後には大きな穴が残るんだ」
その口調は全くの無表情というわけではなかったが、およそ感情の揺れ動きなどを感じさせず、何か現実ではない話をしているようだった。
「時間が経つにつれて、僕の中はどんどん空洞と化していく」
じっとイヴァンを見返す菊の眼差しは深々と透徹で、それこそ内側にも届きそうだった。
「その穴は、いつまでも穴のまま放っておかれてしまうのですか? 埋めることは出来ない、と?」
「努力はしてるよ」
イヴァンは小説家だ。誰に求められるわけでもなく、ただ気の向くままに物語を書いて暮らしている。まだそれほど名前も売れてはいなかったが、そうすることは一種自分に必要なのだと思っていた。テーマから作風から、あまりにばらばらで統一性がないと言われることもあったが、イヴァンにとってのそれは、失われたものを手探りで引き寄せて確かめるという意味では一貫していた。
けれどもそれは同時に、喪失を喪失として受け止め、孤独を深める作業でもあったのだが。
「でもまあ、そういうことでさ。ここで菊君のつくったご飯を食べて時間を過ごして、単純に満たされたようには思いたくないんだ。たった一度きりのそれが、後でなかなか塞ぎようのない穴になるのを知ってるから」
「…ふむ、どのようにお考えなのかはよくわかりました」
と菊はカウンターの内側で腰を下ろし、何やら考え込んだ。
「――俺にはよくわからないんだぞ。ホントは忘れたくないんだろ? だったら何とかして、ずっと覚えておく努力をすればいいだけじゃないか。大事なものだったらがっちり握って、手放さないようにするべきだよ」
それまで黙って話を聞いていたアルフレッドが、パスタの皿を綺麗に空にして、カウンターの上にフォークを置いてイヴァンに向き直る。その口調は別段イヴァンに喧嘩を売りたいわけでもないようだったが、理解しがたいという色がはっきりと表れ出ていた。
「簡単なことじゃないんだよ、アルフレッド君」
イヴァンは淡々と返した。じっと揺るがないその目線の先で、アルフレッドと菊の二人を交互に見た。よそ者の彼の目にも二人の近しさ、仲睦まじさは明らかだ。けれどもイヴァンは無感動に、その様子を穿つように胡乱に見やる。
「時間を止めることは誰にも出来ないからね。指の隙間から、砂が一粒だって零れ落ちないようにすることもね」
いつかそのときが来て、彼らがこうして過ごした時間から少しずつ離れていくときがきたとしたら、それに伴って心が少しずつ死んでいくように感じるのに、アルフレッドはどのように対処するのだろうかとイヴァンは考えていた。
***
「――レポート出してくる」
しばらくすると、げんなりと疲れた顔つきでアルフレッドがぼそりと菊に言った。
「おや、ようやく完成ですか。おつかれさまです」
「うん。ちゃんと大学提出するまでまだ気は抜けないけどね。菊、店開けてくれてありがとう」
どういたしまして、と労わるように答える菊は、イヴァンに向けて説明する口調で言う。
「普段は店は夕方からなんですけどね。今日は特別に早くから開けたんです。アルフレッドさんが迷える子羊というか、さまよえるゾンビと化していたので」
「だって俺の部屋、日当たりいい上にエアコンないから電子レンジみたくなってたんだぞ。あんなとこでちまちまレポートなんて無理だよ」
言いながらアルフレッドは椅子から滑り降り、手早く支度を整えた。
「じゃあ菊、ご馳走さまでした。いってきます、なんだぞ。また後でね」
いかにも軽快な靴音を残し、金髪の青年は店を後にした。それを何気なく見送り、イヴァンはふと気が付いた。
「……でも、そういえばここ、冷房ついてないよね?」
翳った室内は適度な気温を保ち、まぎれもなく快適ではあったが、辺りの空気は空調で機械的にきんきんにまで冷やされたものではなかった。菊は、冷たく透き通った麦茶をグラスに注ぎながら肯定する。
「ああ、そうです。設備はあるので、真夏の猛暑日なんかで、よほど我慢できなくなったときにはつけることもありますが。暑さ対策の設計が割とちゃんとなされているので、案外過ごしやすいんです。工夫もしてますしね」
「工夫?」
「玄関先で打ち水をしたり、それに――」
そのとき、二人の間にふわりと小さな風が通り過ぎた。と、どこからともなくリン、と澄んだ優しい鈴の音が響く。
何かを楽しむように、菊は微笑んだ。
「暑気払いに風鈴を吊るして、風の通り道を彩ったり、ですね」
「……この音、」
不意に魅せられたような心地で、イヴァンはぼんやりと呟く。
それは、あの公園で熱中症になりかけたイヴァンが、色も音も失って、はっきりとは意識しないままに途方に暮れていたとき、確かに何度も導かれるように耳にした唯一の音色だった。
「気に入って特別に取り寄せをお願いしていたのが、今日届いたんです。イヴァンさんと会ったのは、これを受け取りに行った帰り道だったんですよ。いい音色でしょう?」
菊がそう言う間にも、何度か風鈴は揺れ、音を立てる。掌に収まってしまいそうなサイズの透明な球状のガラスの上に、可憐な赤い金魚が泳いでいる柄が描かれている。
その音色に心惹かれているのがわかったのか、菊は軒先に吊るしていた風鈴を外して持ってきた。それには礼を言ったものの、迂闊に触れれば壊してしまいそうだから、と言ってイヴァンは手に取ろうとはしなかった。
菊の手の中で鈴の音がリン、とまた一つ転がる。
「わが国の文化には、こういうのが多いのです」
「…こういうのって?」
「音で楽しむ、とでも言いましょうか」
言いながら、菊は麦茶のグラスを目の高さに持ち上げ、揺らして見せる。グラスの中に浮かんでいた氷がカラリと音を立てた。それは、風鈴の音色と風を通すために小さく開かれたままの入り口からは、外の蝉の鳴き声を微かに伝わる。
それらは、さっきからずっとそこにあったのだ。イヴァンのその目に映る景色、全ての場面を、縁取るかのように。それと意識したとき、何かが自分の内側に触れて、刻み付けられたのがイヴァンには感じられた。
菊の唇に、ひっそりと悪戯っぽい笑みが浮かんだようだった。彼がはじめて見せる表情だった。
「手遅れです、イヴァンさん。記憶に強く働きかけるのは、何も味覚だけではないですよね」
返すのに適切な言葉を見失って、黙ったまま目を瞬かせたイヴァンを前に、菊は言う。
「せっかく縁あってお立ち寄り頂いたのですから、それだけの痕跡を残していって頂きたいと思うのですよ」
そのときはじめて、イヴァンは、繊細な糸を丁寧に巡らせたかようなこの不思議な空間に、自分が迷い込むべきして迷い込んだことを知ったのだった。